古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

14.熊野大社と嵩山布自伎美神社 素戔嗚(徐福)とその息子

2013年02月21日 17時58分55秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

松江市 八雲町 熊野大社

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出雲の国 一ノ宮(一番権威ある神社)と言われる 熊野大社へ出かけた。

素戔嗚(スサノオー秦国からの渡来人で 古代出雲王朝で暴れた徐福)

を祀っている神社である。

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熊野大社大鳥居とそれに続く参道。

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大社前に流れる意宇川に架かる橋を渡る。

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隋神門の注連縄も立派だ。奥に本殿が見える。

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本殿の大注連縄は、参拝者を圧倒する大きさだ。

出雲大社の注連縄といい勝負だ。さすが一宮と自負するだけはある。

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鑽火殿は「火継ぎ式神事」を行う場所だとか。

出雲国造が新任のたびにここを訪れるのがしきたりだそうだ。

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加持祈祷をする、ハンサムな神官。

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熊野大社の言われの説明書き。

やはり祭神は「素戔嗚(スサノオ)」だ。

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3世紀末に秦国から渡来した徐福は、事前に部下の穂日(ホヒ)を

出雲王国に遣わして、徐福の上陸許可を得るという周到な準備を

したという。

その後徐福と穂日および穂日の息子タケヒナドリたちは、謀をして

出雲王国第八代の主王(オオナモチ)の八千矛(記紀では大国主と

書かれた)や副王(少彦)の八重波津身(記紀では言代主と書かれた)

を誘い出して、別々に幽閉し殺したという。(伯耆国風土記による

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徐福の息子五十猛は香語山と名前を替え、海部(アマベ)家となり、

母違いの次男 穂穂出見(ホホデミ)は九州物部家となり、その子孫が

東征して大和入りして大和王朝を打ち立てた。約150年の間をおいた

前後2回の物部の大和への移動を記紀では神武東征の神話

に作り変えられた。

徐福の忠実な部下だった穂日の子孫は、出雲の臣を名乗り

藤原不比等に取り入って、702年出雲臣果安は晴れて出雲国造となる。

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考えてみれば、穂日の子孫が 後々までも彼らの親分を

祀ってある熊野大社に 事あるごとに挨拶に訪れるのは

極めて当たり前のことなのだ。

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※資料は斎木雲州著作 「出雲と大和のあけぼの」

               「古事記の編集室」

               いずれも大元出版    

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とていうことで、熊野大社の帰りにお隣の「ほっとランドやくも」の

温泉に入ってから 帰った。

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松江市 嵩山山頂 布自伎美神社(ふじきみじんじゃ)

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松江で生活している時に、時間があればいつも嵩山に登る。

標高330mで30分ほどで登れて、散歩にちょうどいい。

山で知り合いの方もできた。

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松江市内から嵩山を見ると、涅槃佛に見えるそうだ。また旧制松江高校

の学生たちは、娘さんが寝ている姿に見えて メッチェン山と呼んだそうだ。

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嵩山山頂から雪に覆われた大山と米子市街。

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同じく山頂から大根島を望む。

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山頂から夕日に輝く松江市街。

いずれも2013年2月14日。

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嵩山山頂の布自伎美神社(ふじきみじんじゃ)

2011年10月13日

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同じく布自伎美神社

2012年1月28日

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ところがこの祭神が気になって調べてみたら 

都留支日子命(つるぎひこのみこと)となっていて、この方は

なんと、素戔嗚の息子だというから驚きだ。

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石見の五十猛海岸に上陸した徐福(素戔嗚)は 倭名を火明(ほあかり)

と名乗り、出雲王家からお嫁さんをもらう。第7代オオナモチ(主王)

天之冬衣と宗像三姉妹の一人田心姫との間に生まれた高照姫だ。

ホアカリと高照姫の間に生まれた息子が五十猛で後に丹波の国に

移住して 香語山(かごやま のちに香具山と書かれた)と名を替えた

息子である。

ちなみに香語山の息子がアメノムラクモで、大和葛城に移住して

初代大和大王になった人だ。

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つまり今まで何年間も 散歩していた嵩山山頂に徐福の息子

五十猛(いそたけ)が祀られていたなんて、驚きであった。

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10.大和葛城地方へ移住した出雲王朝の人々 その1 古代出雲王朝系図と移住地図

2013年02月13日 10時35分22秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

紀元前5世紀に 初代の王「菅の八つ耳」(すがのやつみみ)で始まる、

日本最古の出雲王朝は 主王(大名持オオナモチ)と副王(少彦スクナヒコ)

という二人の王で構成され、越の国から丹波、周防、四国まで領土とする

大帝国で繁栄していた。

ところが 紀元前3世紀末に大事件が起きる。徐福の来日である。

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秦の始皇帝の命で、東方に不老不死の薬を探しに出かけ出雲の五十猛海岸

に上陸したのである。事前に部下の穂日(ホヒ)を8代目オオナモチの八千矛

に遣わして上陸の許可を得るという周到な準備がなされた。

大勢の秦国人の技術者を連れてやってきた徐福は、出雲地方でかなり

暴れたらしい。記紀に書かれた「素戔嗚が天上世界で暴れまわる話」

はこの辺のことが脚色されたという。

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手を焼いたオオナモチ八千矛は徐福を出雲王国領の丹波国に住む許可

を与えたという。日本名を火明ホアカリと名乗った徐福は東出雲王家向家

の高照姫を嫁にしたが、出雲王家を乗っ取る下心があったのか、徐福、ホヒ

たちに依り、オオナモチ八千矛は謀られて洞窟に幽閉され、死に追いやられ

た。当時美保関の沼川姫の家にいた少彦(副王)の八重波津身(ヤエハツミ)

も知らせに来た穂日の息子タケヒナドリに誘い出され 中海の粟島の洞窟に

幽閉され 死に追いやられた。(伯耆の国風土記)

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徐福は記紀では素戔嗚スサノオと書かれた。

またオオナモチ八千矛は大国主オオクニヌシと書かれ、少彦の

八重波津身は 言代主コトシロヌシと書かれた(のちに一言主ヒトコトヌシ

ともいわれた)。大国主が俗に言う 大黒様で言代主が俗に言う

恵比寿さんである。そして大黒様は出雲大社に祀られた。

また 言代主を祀る全国恵比寿神社の総本社美保神社(松江市美保関町)

では、今でもその大事件を題材にした 「青芝垣神事」や「もろた舟神事」

が継承されている。

※このブログでも「もろた舟神事」を紹介しています。

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コトシロヌシの息子の鳥鳴海トリナルミが第9代のオオナモチに立ち

「後期出雲王朝」がスタートするが、秦国人達との共存を嫌った出雲族は

次々に出雲の地を去る。

コトシロヌシの奥方沼川姫ヌナカワヒメは息子の建御名方タテミナカタ

を連れて故郷の越の国へ帰る。その後タテミナカタは諏訪に移り信濃の

開発に功績があり、諏訪大社に祀られて 諏訪地方の守り神になった。

※しかし記紀では出雲王朝を無かった事にし、神話の世界に閉じ込めた。

しかもタテミナカタも 弱くて負けた者として書くために、国譲りの舞台から

逃げ出して諏訪に閉じ込められた  と書かれた。

歴史の勝者は 勿論渡来系の徐福の子孫達 ひいても物部族である。

諏訪大社の写真はこちらです。http://yochanh.blog.ocn.ne.jp/sinshuyamatabi2011/2011/08/5_d694.html

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古代出雲王朝系図

※斉木雲州著 「出雲と大和のあけぼの」 大元出版より

 これを見ると徐福一味の子孫 海部家や物部家も、繰り返し出雲王家の女性との結婚を繰り返し、出雲王家神門の臣家や向家の血を濃くしてきたのが分かる。

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Map

大和葛城地方の移住地図

葛城北部 渡来系徐福の子孫 丹波国から来た海部家

       「天の村雲」が初代大和大王となる。

       葛木坐火雷神社(かつらぎにいますひのいかずちじんじゃ)

       通称笛吹神社

葛城中部 東出雲王家の向家(むかいけ)

       言代主の息子 奇日方(くしひかた)

       鴨都波神社、一言主神社 

葛城南部 西出雲王家の神門臣家(かんどおみけ)

       大国主の息子アジスキタカヒコ

       高鴨神社、葛木御歳神社 

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弥生時代の出雲では 神はカモと発音されたらしい。

それゆえ、葛城地方に移住した出雲王家の人たちは

神家(かもけ)と呼ばれて、のちに鴨の字が当てられるようになった。

高鴨神社は上鴨神社、鴨都波神社は下鴨神社

御歳神社は中鴨神社ともいう。

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11.大和葛城へ移住した出雲族 その2 葛城北部へ移住した渡来系出雲族海部家

2013年02月13日 10時32分56秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

葛城北部には渡来系の海部(あまべ)家の人たちが、丹波の国から

遅れて移住してきた。

しかしその移住者の数の多さから 葛城地方の中心的存在になり、

先住の出雲族と政治共同体をつくり、天の村雲(海部家あまべけ)が

大和の初代大王となり 大和の海部王朝が始まる。

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葛木坐火雷神社(かつらぎにいます ひといかずちじんじゃ)

通称笛吹神社

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鳥居の前になにやらたくさんの人が集まっている。

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奈良大学通信学部の学生さん達だとか。

今日は野外勉強会であちこち回ってきたらしい。

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石段を登ると社がある。

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この建物は拝殿だ。

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この奥に本殿がある。

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神社の説明文は大正二年にかかれていて、読みづらい。

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この神社を作ったのは丹波の国から移住してきた徐福の子孫

海部家の「天の村雲」で大和の初代大王になった人だ。

祭神に書かれている「天の香語山」とは「天の村雲」の父で

徐福の息子 五十猛(いそたけ)のことだ。のちに香語山は

香具山と書かれるようになる。

また「火と雷のミコト」とは、タタラ(製鉄)の神のことだ。

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12.大和葛城地方へ移住した出雲王朝の人々 その3 葛城中部へ移住した東出雲王家向家

2013年02月13日 10時28分47秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

葛城中部 その1.鴨都波神社(かもつはじんじゃ)

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葛城地方の中部 名柄付近には東出雲王家向家の人々が移住してきた。

徐福たちに殺された 第八代副王 八重波都身(言代主)の息子

奇日方を中心とする向家の王族達だ。

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鴨都波神社の参道。近鉄御所駅に近い。

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鴨都波神社境内。入れ替わりでお祈りする人が絶えない。

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鴨都波神社拝殿。この奥に本殿がある。

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神社の説明書き。

八重言代主とあるのは、八重波津身のことで所謂言代主

つまり恵比寿さんだ。息子の奇日方(くしひかた)がこの地に移住してきて

父親を祀った。

もうひとり下照姫とあるのは、八千矛(所謂 大国主大黒さん)

の娘さんだ。

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境内にはこのほか「猿田彦」も祀られていた。

猿田彦は古代出雲で信仰が厚かった神で 元はインドの

ガネーシャと言われる。サルタとは南インドのドラビダ語で

「鼻が長い」という意味だとか。

この地の西に「猿女」という地名があるが、代々の女性が「猿田彦」を

祀る家系が猿女家といわれ、それが地名になったという。

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葛城中部 その2.一言主神社

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この神社も言代主の家族が建てたといわれる。

長い参道の奥に石段があり、神社はその上だ。

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4

本殿とその額

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神社の説明文。もちろん祭神は一言主つまり言代主

俗に言う恵比寿さんだ。

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境内にある 有名なお乳が出るという「乳銀杏」は現在治療中だ。

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13.大和葛城地方へ移住した出雲王家の人々 その4 葛城南部へ移住した西出雲王家神門臣家

2013年02月11日 18時19分19秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

葛城南部の神社 1.高鴨神社

                 味鋤高彦(あじすきたかひこ)の建てた神社

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鳥居を潜るときれいな「宮池」がある。

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池の上に舞台も復旧された。

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御神木

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石段を登ると拝殿の奥に本殿が見える。

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祭神の説明

アジスキタカヒコ  もちろんこの社を建てた本人でオオクニヌシの息子

            母親は九州豊王国宗像三姉妹の多岐津姫 

コトシロヌシ     オオクニヌシが主王の時の副王で通称恵比寿さん

             この人も徐福一味に殺された。

シタテル姫     オオクニヌシとヤガミ姫(因幡の白兎神話に出てくる)

            の間に生まれた姫でアジスキタカヒコの母違いの妹

天の雅彦アメノワカヒコ  下照姫の旦那さん

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葛城南部の神社  2.御歳神社

 この社も味鋤高彦たち 西出雲王家

               神門臣家(かんどのおみけ)の人たちで建てられた。

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1

境内には明日行われる「湯たて神事」のために

青竹で竈が作られていた。

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2

ひっそりとした境内。

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3

拝殿から本殿を望む。

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4

本殿周りは明日の湯立て神事のためにきれいに整備されていた。

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5

祭神の説明には、「歳神」とともに「高照姫」が祀ってある。

高照姫は出雲王国第七代大名持「天の冬衣」と宇佐の宗像三姉妹の

田心姫との間に生まれた言代主の妹で、徐福に嫁いだ姫である。

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境内の末社には、言代主やこの神社を建てたアジスキタカヒコ、彼の

母違いの妹姫「シタテル姫」のだんなさんの天のワカ彦、それに

ワカヒルメムチが祀られている。ワカヒルメムチは宇佐の豊王国の

トヨタマヒメ(卑弥呼)の娘豊姫(台与)で、桜井市の桧原神社で月神を

祀っていたのだが、なぜここに祀られているのだろう。

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境内の参集殿に張ってあった 「湯立て神事」の写真。

一日違いで 明日2月11日に行われるという。残念。

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葛城南部の神社  3.高天彦神社

             西出雲王家と敵対していた渡来系の神社

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13

杉の木の並ぶ参道を行く

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この手水鉢の左を行く道が、金剛登山口(高天道)だ。

今日も沢山の車が停まっている。

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ひっそりとした境内。

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祭神の説明書きによると、アメノオシホにチヂヒメが嫁ぎ

ニニギノミコトが天から降臨したと書いてある。

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徐福の父親は徐猛といい、記紀では押穂根(オシホネ)とかかれて、母親は

千千姫(チヂヒメ)と書かれている。徐福は二回目の来日の時は

九州筑後川河口に上陸し、ニギハヤヒとかニニギネと名乗った。

つまりこの神社は徐福の両親を祀っていると思われる。

つまり西出雲王家の人たちが移り住んだこの地に、後世に

渡来系「天の村雲」一族の人たちが立てた神社らしいのが分かる。

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それと徐福は出雲の鳥上山(船通山)に降りてきたと記紀には

書いてあり、この地が「高天原」だとする説明は意味が分からない。

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