古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

熊野三山と熊野古道、そして神武東征の道  2019年11月19日

2019年11月15日 22時50分00秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

熊野三山と熊野古道、そして神武東征の道
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北陸に住む友人が 最近ツアー旅行で 熊野三山を巡ったそうです。

私もかつて 世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の参詣道はすべて歩きました。特に熊野古道小辺路(こへち)、
中辺路(なかへち)、伊勢路(いせじ)はすべて熊野三山が絡みます。そして大峯奥駈道は熊野本宮大社がゴールでもあり
(逆峯)スタートでもあります(順峯)。

熊野三山とは 今回友人が巡った 熊野那智大社、熊野速玉大社、熊野本宮大社の3つの神社ですが そのいずれも
紀元前3世紀末に我が国に渡来した秦国人徐福を祀っています。

いずれの神社の主祭神も熊野速玉の命(はやたまのみこと)といいますが、和名を饒速日(にぎはやひ)もしくは火明かり
(ほあかり)と名乗った秦国人徐福のことです。記紀では素戔嗚(すさのお)とも書いていますが。

徐福の子孫たちは 饒速日の速を採り 速玉の命と呼びました。
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世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の地図です。
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紀元前三世紀末、徐福は大勢の海童たちを引き連れて 最初島根県の太田市五十猛海岸に上陸し 和名を「火明かり(ほあかり)」
と名乗ります。事前に忠実な部下の「矛卑ホヒ」を出雲王朝に使わして 上陸の許可を取り付けるという周到な悪巧みをしてからです。

ちなみにホヒの子孫が今の出雲大社宮司です。上陸した徐福は出雲に住み、出雲王家の高照姫を娶り 長男が生まれ 五十猛(いそたけ)」
と名付けます。徐福の父の名が徐猛と言ったので 「猛」を付けたのでしょう。

自分が出雲王国の王 つまり和国の王となるつもりでやってきた徐福は 当時の出雲王国の主王と副王を亡き者にしようとします。

当時の出雲の 主王八千矛(役職名は大名持で 記紀では大国主とか大黒とか大名持、大汝と書かれた)と副王の八重波津身
(役職名は少彦で記紀では事代主とか少名彦名と書かれた)をホヒや海童たちに命じて誘拐幽閉して殺害し
自分が出雲の王になろうとしますが 王国の組織がしっかりとしていて それが果たせずに いったん秦国へ帰国します。

※大名持が幽閉殺害された猪目洞窟と少彦が幽閉殺害された志津の岩屋の訪問記事はこのブログの2013年3月18日の記事です。

※徐福が上陸した石見五十猛海岸訪問記事は 2014年4月24日の記事に載せています。
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帰国した徐福は 秦の始皇帝に 更なる資金と海童たちを貰い 不老不死の薬を求めるふりをして和国(蓬莱島)へ二度目の出航をします。
そして今度は九州佐賀県の浮杯に上陸します。

今度は 和名を饒速日(にぎはやひ)と名乗り 出雲王家の九州分家、宗像家の三姉妹の末娘市杵島姫(いちきしまひめ)を娶り
次男穂穂出見(ほほでみ)をもうけます。ちなみにこのあと長女の穂屋姫が生まれ、出雲で生まれ丹後へ移住し、そして大和に移住した
徐福の長男五十猛(後に香語山と改名)と穂屋姫は結婚します。

二人のの間に生まれた「天の村雲」が 出雲王家の大和分家の登美家や賀茂家の協力で 初代大和の大王(おおきみ)になります。

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一方 徐福の次男穂穂出見は 九州物部王家を起こして その子孫が東征を実施するのです。つまり東征とは 徐福の長男五十猛の子で
徐福の孫の天の村雲が大和の登美家や賀茂家の助けを受けて成立した 大和の磯城王朝を 次男の子孫の九州物部家が倒す兄弟喧嘩です。

この史実は記紀には書けないため 御伽噺の海幸彦と山幸彦の兄弟喧嘩の話になりました。

なぜなら持統女帝は 血で血を洗う無政権交代など なかったことにして自分たちの祖先は天上から高千穂の峰に降臨したことにして
自分たちの祖先が 渡来人の征服王朝だということを徹底して隠したのです。出雲王朝なんてなかったことにしたのです。
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西暦165年頃に 九州物部王家の「彦渚武」王の皇子 物部の五瀬(いつせ)、その弟稲飯(いないい)、三毛入り(みけいり)が
第一次東征を開始、紀ノ川河口から大和入りしようとしました。

しかし紀の国は 初代大和大王 天の村雲の 腹違いの弟高倉下(たかくらじ)の地盤で、高倉下の子孫たちに
手強い反撃、迎撃を受けて 五瀬は戦死、竈山神社に葬られます。和歌山市の籠山神社も古くて大きく立派な神社です。
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竈山神社の立派な神門です。
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籠山神社の由緒書きには「神武天皇の兄が主祭神 」とかかれていますが あながち嘘ではありませんね。
弟たちが後に大和入りして架空の大君神武のモデルとなるのですから。

※竈山神社訪問記は2015年9月8日に載せています。
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生き残った稲飯と三毛入たちは一旦紀ノ川から退却し、熊野へ回り熊野川を遡ろうとします。
しかしそこでも大和の磯城王朝配下の武人たちに攻められて 動きが取れずやむなく安全な熊野川の中洲に留まります。

その地が 後に熊野本宮大社となりますが、明治の大洪水で十津川村が壊滅的な被害を受けたときに 熊野本宮大社も流されて無くなり
その後今の場所に再建されました。元宮の跡地には巨大な鳥居が立ち 「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれて今も聖地です。

このときの大洪水で 壊滅的な被害を受けた 沢山の十津川村の村人が 故郷を捨てて 熊野古道小辺路を歩き 高野山から大阪へ出て
北海道に移住しました。北海道新十津川村です。
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大斎原には今は巨大な鳥居がたっています。
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ここで熊野古道の写真です。まず小辺路(こへち)から
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小辺路は高野山から熊野本宮へ向かいます。しかし残念ながら和歌山県、奈良県の職員の程度が低く 世界遺産の参詣道は
ほとんど壊されてしまいました。文化遺産に対する認識が低いのですね。

小辺路も他の参詣道と同様 ほとんどがアスファルトの林道か国道で 中でも高野龍神スカイラインも歩かせます。
実際にアスファルトの道路を歩いていると 左右の山の中に いくらでも歩道を作ることができます。現に踏み後もあります。

しかしやる気がないので 林道は作っても 熊野古道の歩道、巻道はつくろうとしません。馬鹿ですね。

伯母子峠はかろうじて残っています。腰までの雪の中を歩きました。
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伯母子峠です。ここから右へ分岐すると伯母子岳へ行けますが この日は雪が深くて一人ラッセルに疲れて途中で引き返しました。
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十津川から果無峠を超えて本宮へ向かいます。果無峠付近も昔の道がわずかに残されています。
果無集落はまさに天空の集落です。
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果無集落の中を小辺路が通り、ここでは民家の縁側で休憩できます。ここで1時間くらい座って思いを昔に馳せました。
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この家のバーちゃんです。テレビやポスターに引っ張りだこの売れっ子ばーちゃんです。この写真もポスターです。
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熊野本宮大社に着きました。キレイどころがお出迎えしてくださいました。
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神社入り口です。はためく大旗には八咫烏(やたがらす)がいます。後で述べますが 立往生した物部軍を無事に大和の登尾家の地盤の
磐余(いわれ)に導いた 登美家の当主加茂建津之身に感謝した物部軍が 支那の神話にでてくる八咫烏として加茂建津之身を祭ったものです。
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拝殿には八咫烏の石像もあります。
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中辺路(なかへち)
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中辺路は紀伊田辺から始まりますがその大半が壊されていますので 途中の滝尻王子から歩き始めました。
本宮付近の湯の峰温泉は外人観光客であふれています。

本宮大社から那智大社への道で 小雲取超えや大雲取超えが人気のコースで歩くのはほとんど外人でびっくりです。
途中の小口集落に廃校を改造した宿泊施設があり 半数近くが白人の若いカップルでした。部屋は和室でトイレ風呂は共同で
食事はみんなでセルフサービスで食べます。
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大雲取り越えや小雲取超はたくさんの外国人観光客であふれていてびっくりしました。ちなみにこの日は日本人には
ほとんど会いませんでした。
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熊野那智大社本殿です。なぜか千木は物部式の横削ぎではなく出雲式の盾削ぎです。
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八咫烏がいます。
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こんな大きな八咫烏もいます。
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絵葉書でよく見る写真です。那智の滝と青岸渡寺の塔です。
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那智駅にはこんなポスターもありました。
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中辺路は熊野灘の浜も歩きます。浜の道です。潮騒を聞きながらのんびりと心和ませて歩きました。
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浜の道を歩いて新宮市内に入ると浜王子神社がありました。立ち寄って参拝しました。
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何気なく主祭神を見るとなんとびっくり 和歌山で戦死した五瀬の弟たちの 稲飯と三毛入りです。記紀には絶対に出てこない名前ですね。
記紀作者(太安万侶)にはどちらが兄なのかわからないので 物部ウマシマジという名前にして磐余入りさせ、磐余彦としています。
記紀からこぼれ落ちた真実がこんなところに転がっていて感動し しばし立ち尽くしました。
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一方新宮市内には 徐福公園なるものがあり、徐福の上陸を記念したと書いてあります。上陸したのは徐福ではなく 徐福から
8代か9代たった子孫たちです。
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中辺路最終章熊野速玉大社です。速玉の命とはもちろん饒速日と名乗った徐福のことです。
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伊勢路
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伊勢路も大半が壊されています。馬超(まごせ)峠周辺を歩くつもりで尾鷲市の観光案内書に地図をもらいに行くと係員の女性が
気の毒そうに「このあたりの熊野古道はほとんど国道に変わっています。」とおっしゃって 唯一残っている馬超峠の
コースの地図をくれました。こんな石畳の道はほんの少しです。
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馬超峠から分岐して天狗倉山へ上りました。山頂にはなんと高倉下(初代大和大王天の村雲の腹違いの弟)が祭られていました。
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山頂からは 熊野灘が眺められてしばし見とれました。
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たまたま居合わせた地元の方としばらくお話して時間を過ごしました。気が付くと2時間近くお話していました。
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この山頂の景色が気に入って お正月にもう一回尋ねました。熊野灘も光っていましたが 大台ケ原日の出ヶ岳も雪を被って輝いていました。
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磯城王朝側の兵士たちにゲリラ戦をしかけられて 身動きとれず 熊野川河口近くの中洲に陣取ったまま動けずにいて困った稲飯と三毛入たちは
ひそかに大和の登美家(出雲王家の大和分家)へ密使を送り 大和入りの道案内を願い出ました。

当時大和は 磯城王家が弱まり、豪族たちが割拠していたので この状態を物部家と共に平定しようと考えた 登美家当主の 加茂建津之身は
熊野川から 吉野川、高見川の川沿いの山岳地帯を案内し、物部王家を登美家地盤の磐余(いわれ)の地に引き入れました。
今のJR櫻井市駅周辺で 富家の地盤でした。
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※大台ケ原山中や高見山山中には大きな「神武」の像があり「神武天皇はこの地を通り大和入りされた。」と書かれています。
まあどのみち作り話なので どの道を通らせようが 勝手なのですが その169号線沿いの道は 一昔前まで妖怪や魔物がすむという 
伯母峰峠や大台辻の険峻な峠を越える難路でした。 

比較的楽に大和入りできる 168号線沿いの道ではありがたみがなかったのでしょうね。


これは大台ケ原の牛石ヶ原の神武像です。
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神武は高見山も通ったそうです。高見山にわざわざ上らなくても 磐余にはもっと簡単に行けるのになあ。
しかも登美家の当主が同行して ついているのだから。
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これが第一次東征ですが 物部家は磯城家(出雲系の登美家や賀茂家)にたちまち飲み込まれて 同化してしまいます。

そこで西暦248年から九州物部イ二エ王(崇神)により 第二次東征が始まります。

イ二エ王の皇子イクメ王(垂仁 母親は阿多津姫 記紀では咲くや此花姫)はイコマ山(イクメ王が長らくとどまったことから
その山名がきています)を越えて 幾多のドラマの末に大和入りします。

記紀は100年近く離れた この二回の東征をまとめて 「神武天皇(天皇という呼び名がつかわれるのはもっと後の時代で 天武からです。)が東征して
大和に住む蛮族を平定した」と書きました。

が 出雲族の私に言わせれば 「おまえら物部が 蛮族であり、和国最初の国家で由緒ある出雲王家を倒したのだ。」と思っています。

大和の物部王朝が渡来人の末裔の 征服王朝だなんて 絶対に書けませんよね。そんなやつらの言うことなんか誰も従いませんよね。

だから自分たちは天から高千穂に降りてきた神だ なんて言い訳しているのです。
天上世界から見送る役目の神様の中に 徐福のおかんの 高木千々姫がいるのが 笑えますよね。
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※イクメ王が苦労の末に生駒山を超えて大和入りし、大和の大王となられた詳しいいきさつはこのブログの2016年1月11日の
往馬神社(いこま神社)に載せています。

またこの時の記事には事代主の姫皇女の美保津姫を祭る村屋神社や 徐福の長男で五十猛改め香語山と改名した香語山を祀る
岐多志太神社も載せています。

また物部稲飯や三毛入りが加茂建津之身の先導で大和入りした時に通ったであろう 宇陀市榛原の八咫烏神社の訪問記も載せています。
この地まで来たら 登美家の地盤の磐余はすぐそこなので 物部軍はようやく安心し、加茂建津之身に感謝して この神社を立てたのでしょう。
加茂建津之身(かもたてつのみ)の名前が鳥のように聞こえ、それで支那の神話に出てくる八咫烏を連想したのでしょう。
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磐余入りした物部家の王が 稲飯か三毛入か分からないので 記紀製作者は「物部ウマシマジ」なる架空の人物を創り上げ、
これを磐余彦(いわれひこ)と名づけました。後の贈り名が神武です。

それゆえ記紀では稲飯とか三毛入と言う名前は絶対に出て来ません。
神武大王のことを記紀は「神大和磐余日子(かむやまといわれびこ)」と書いてますね。

※大王の名前を それまでの実名から 漢字二文字にして すべて変えてしまったのは 天皇制度を利用して 千年以上に渡り徹底して私服を肥やした 藤原家の始祖不比等が
大友の皇子の曾孫の近江淡海に命じて変えさせたものです。記紀を書かせて 徹底して日本の歴史を変えてしまったのも不比等です。

そして道案内をしてくれた登美家の加茂建津之身に感謝して 秦国の神話に出てくる「ヤタガラス」と称して長く熊野本宮大社はじめ各地の物部系神社に祭るのです。
熊野三山を歩いたときには私、出雲王国民の末裔としては 本殿の徐福にお参りせず 末社のヤタガラス神社にだけお参りしました。
出雲王家の血を引く 加茂建津之身が祀られていますから。
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話は変わりますが 和歌山県、奈良県、三重県の県庁の馬鹿役人たちは 世界遺産の参詣道の価値と歴史的意義が分からず ほとんどの参詣道を破壊してしまいました。
今は ほとんどの熊野古道がアスファルト舗装の林道か国道です。テレビで良く放映している 石畳の道はほんの一部分です。
大峰奥駈道は比較的保存されていますがそれでも3分の1が林道で潰れています。

世界文化遺産高野町石道(空海の母上の眠る慈尊院から空海の眠る奥の院までの表参道)などは、 ゴルフ場の中を通していて看板に
「ゴルフボールが飛んできて当たっても知らんけんね」と書いてあり 唖然とします。この道を歩くたくさんの外国人たちに恥ずかしい思いです。

また 小辺路を歩いていたときに 宿場町でお昼ご飯を食 べたときには 店のオバちゃんが「小辺路を歩くなんてほとんどが 外国人や。日本人は観光バスでやってきて
メインの観光スポットを見て さっと立ち去っていく。あんたは歩くだけ偉い」とほめてもらいました。
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神武東征の始末記 その1

記紀は天の村雲の名前を消して、神武とし、しかもその存在期間を出雲王朝の初期の紀元前6世紀頃まで引き上げたのでいろいろと
無理が生じています。

まず大王の数が足りないので 大王でない人を大王にしています。九州を出たことのない物部家のイニエ王を大和の大王にしたり(崇神)、
息長帯比売(神功皇后)の部下の 豊前中津彦を大王にしたり(仲哀)、また100歳以上生きた人を大幅に増やしました。

特に神武127歳、イクメ(垂仁)139歳、オシロワケ(景行)149歳、オオサザキ(仁徳)143歳など その他実際よりも長命の大王をたくさん作り上げました。

神武の東征を出雲王朝の初期まで 数百年引き上げたので 大王の数が足りないくせに 磯城王朝2代の沼川耳(スイゼイ)から9代の大日々(開化)
まではそのまま採用していますが 10代日子坐、11代彦道主は消されています。なぜでしょうか。

ちょうど 磯城王朝と物部王朝との政権交代期なのでなにかまずいことでもあったのでしょう。

10代日子坐、11代彦道主は消されていますが 記紀は10代イニエ(崇神)と14代中津彦(仲哀)の二人を大王に仕立て上げて挟み込み
大王の数合わせはしています。大王の数は合わせているのです。巧みな作り話ですねえ。感心します。
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神武東征の始末記  その2

作り上げられた神武大王(神大和磐余彦)は ご丁寧に宮内庁によりお墓まで作られました。というより 登美家のお墓の中でも大きなものを
勝手に神武の墓だとしているのですから、宮内庁もすることが出鱈目ですね。

しかし宮内庁は 皇室の歴史はすべて 作り話の記紀に従わざるをえません。そうしないと今の皇室の存在もおかしなことになりますから。

ですから 神武以外の墓も 架空の皇子ヤマトタケルのお墓もありますし、魏書に登場する第一のヒミコ(姫皇女)のモモソ姫と
100年以上時代が経った晋書に登場する大和姫(5番目のヒミコです)とをごちゃまぜにして「大和トトビモモソ姫」のお墓もでっち上げています。

このお墓も登美家の王のお墓です。無茶苦茶ですね。一度嘘をつけばさらに嘘を重ねなくてはならなくなり 嘘のスパイラルになりますね。
そんな嘘で固めた皇室よりも、もっとちゃんとした歴史に基づいた史実をさらけ出したほうが 国民に親しまれやすいと思いますが。

出雲王家を徐福の血を持つ物部家が倒し、そこに渡来朝鮮人の辰韓の王子日矛(ひぼこ)の血をひく息長姫はじめ息長家の血が幾度となく入り
平群王朝の和の五王が続き、オシワカ、コウケイ、オケ、ワカサザキ(武烈)と続きいったん大和朝廷は途絶える。

旧出雲王家の若君オホドの君が 三国国造家の蘇我総本家(物部の宿祢武内彦から武内の臣太田根に改名の子孫)の振り姫に婿入りしたオホドノ君が
大和朝廷に迎えられ 男大迹(おほど)大王となられて 億計(オケ)大王の娘手白香姫(たしらかひめ)を迎えて広庭大王(欣明)が生まれて以来 
今の皇室が続いていると なぜちゃんと国民に知らせないのか ふしぎです。

戦前戦中の皇国史観は 明治になり天下を取った薩摩長州の無学な下級武士たちがつくりあげたものだからです。
そろそろ持統や不比等が作り上げた 記紀の呪縛から解き放たれたらいいと思いますが。
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