古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

いわゆるヒミコについてのまとめ  その5.  大和姫  その1 

2021年05月17日 15時57分10秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

5.大和姫 その1

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ヤマトの大王となったイクメ大王(後の贈り名を垂仁)は 魏との関係を断とうと思いました。

豊玉姫女王の使節団として 自らも魏に行ったことのあるイクメ大王ですが(幼名のイサチ五十狭茅、伊佐地の名前で行った)

いざ自分がヤマトの磯城王朝を倒し和国の大王になってみると 和国が魏の属国になっていることを 潔しとしない考えが

でてきたのでしょうか。

 

記紀の編集を指示した持統女帝や編集責任者の不比等、および編集者たちは いわゆるヒミコを

徹底して隠します。ヒミコに触れることは つまり魏との関係に触れざるを得ず 和国が魏の属国に

なっていたことに 触れなければならないからでしょう。

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和国の戦乱が納まった ということにして魏の和国駐在武官の張政を魏に送り返すことにしました。

そこで和国の使節団が張政(伊都国に駐在している魏の武官)を送っていくことになりました。使節団の団長は 

イクメ大王の異母弟の八坂入彦がなりました。彼は243年の使節団に続いて 2度目の使節です。

「三国志 魏書 東夷伝 和人条」には次のように書かれています。

※魏志倭人伝なる書物は存在しません。

 

「台与(とよー豊玉姫の後任として魏に承認された豊来入姫)は率善中朗将ヤサク(八坂入り彦の事ですが

字があまりにも軽蔑の汚い字なので書けません)ら20人を遣わして張政らを送って来た。

男女奴隷30人や青い大勾玉2個、珍しい模様の和錦鯉20匹などを貢物として差し出した。」

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丹波攻略を終えて大和に帰ったイクメ大王は 旧都和邇の地付近を直轄地としました。

そしてそこに石上神宮を建て それまで物部族が崇めていた 建布都大神社のご神体の剣が

石上神宮(いそのかみじんぐうー現奈良県天理市)に移されて祀りが行われました。

その新しい社が和邇の地に建ったことは 旧王朝を倒した物部王家が新しい王家になったことを天下に

知らしめました。 

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稲葉国造となった彦多都彦(元彦美知宇斯大王)の没後 遺体の一部は娘たちの一部が住んでいた丹後半島の

網野に運ばれて 地方には珍しい大きな古墳が作られたといわれています。

そしてヒバス姫は晩年になり 父である彦美知牛大王の古墳造りを始めました。

それが和邇の地の東大寺山古墳と言われています。

東大寺山古墳は管理できていないから 竹藪で覆われています。堀はほとんど埋められて酷いことになっています。

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古墳全体が現在は公園になっています。

記紀は磯城王朝最後の彦美知宇斯大王を隠しています。磯城王朝から物部王朝への政権交代は

なかったことにしているので 磯城王朝最後の彦美知宇斯大王そのものを隠したのです。

したがって天皇家の詳細を記紀に全面的に頼っている宮内庁はこの古墳を 天皇陵として管理できないのです。

しかし その割には 九州を一歩も出ずに日向で無くなったイニエ王をヤマトの大王に格上げして

登美家の古墳を崇神陵としてでっち上げたり、息長姫の部下で 物部王朝になんの貢献もせずに

豊後で戦死した 豊前中津彦も登美家の古墳を横取りして 仲哀陵としてでっち上げたり

やることがでたらめですね。独自のポリシーも考察もないので 記紀の小説内容を丸のみなのです。

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和邇の地を歩いていると あちこちに「和邇坐赤坂彦神社」への標識が建っているので

この神社はひょっとすると彦美知宇斯大王を祀っているのかなあと期待して歩いて行きました。

もしそうなら記紀で隠せなかった神社がまた一つ発見できるからです。

記紀で隠せなかった一つ目の神社は熊野古道小辺路の浜街道に立っている浜王子神社で

物部稲飯と三毛入りの兄弟を祀っていました。ウマシマジとか磐余彦のモデルの兄弟で

第一次東征で 紀国で戦死した物部五瀬の弟たちです。この二人が実際に登美家の先導で大和入りしたのですが

記紀には書かれていません。神武なる架空の大王がでっち上げられたのです。

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和邇の集落は複雑で道行く人に片端から聞いて回って ようやく神社にたどり着けました。

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現在の和邇の地(天理市和邇町)の集落のはずれに「和邇坐赤坂彦神社」にようやくたどり着けました。

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主祭神を見ると 不比等の祖先だとでっち上げた天の児屋根の命とか 出雲王家の分家宗像家を始めた吾田片隅や

その娘市杵嶋姫(徐福の二度目の来日で后となり 九州物部王家の始祖 穂穂出見を生んだ方)や誉田別(応神)など

ごちゃまぜの御祭神でした。登美家第八代当主の方も吾田片隅と言い、和邇の地を開発した人という事なのですが

どちらの吾田片隅なのか分かりません。いずれにしても 彦美知宇斯大王の名前はありませんでした。

奈良の都に近いこの場所で 記紀にないお方を主祭神にすれば 時の最高権力者の不比等ににらまれて

恐ろしいことになるので できなかったのでしょう。

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神社の隣には「富の森」という子供広場がありました。

桜井市には 出雲系豪族の登美家にちなむ とび、富、登美 外山(トビ)、鳥見山(とみやま)などの地名が

たくさん残されています。

この富の広場もそのうちのひとつかもしれません。

※登美家の加茂田田彦を追い出して一時豊国軍が三輪山周辺を占領していたので 桜井市には

「豊」の付く地名もあちこちにあります。

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こちらは石上神宮の立派な神門です。

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広い境内の正面が拝殿です。

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石上神宮境内には 出雲建雄神社があり いろいろと興味深い神が祀られています。

 

天の村雲の剣の御霊  これは初代大和大王、天の村雲(徐福の長男五十猛の皇子で記紀では神武と書き換えられた)

                                     の即位祝いに出雲王家が送った出雲型の銅剣と言われる「天村雲の剣」で 記紀では草薙剣と

           書き換えられました。天の村雲大王の実家の海部家から尾張家へ持ち出されて現在は

           熱田神宮に納められているといわれます。

 

ウマシマジの命    これはすでに述べましたが 物部の第一次東征で大和入りした稲飯と三毛入りの

           どちらが兄の大将か分からないのでこんな名前の架空の皇子を作りそれを磐余彦としました。

           いわゆる架空の大王の神武の別名です。というか神武は後から付けられた贈り名です。

 

イニシキの命     この方はイクメ大王の長男で 次男の忍代別(おしろわけ)が大王(景行)となりました。

           この方は和泉の国でタタラ製鉄をして鉄剣を千振り石上神宮に奉納したといわれています。

 

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新しくヤマトの大王となったイクメ大王はヤマトの旧支配者の彦美知宇斯大王の娘の

ヒバス姫を后に迎えました。それがヤマトを支配する効果的な方法でもありました。

大王ではなくなった 彦美知宇斯王は娘たちを連れて丹波北西部の網野に移り住みそこに網野神社

を建て、父の日子坐(ひこいます)大王を祀りました。

その後稲葉国造に任命された彦美知宇斯王は 幼名の彦多都彦を名乗り 武内宿祢と共に稲葉へ移り住みました。

 

※その後イクメ大王が武内宿祢に放った刺客の事をヒバス姫が父の彦多都彦に知らせ武内宿祢が

出雲王家へ逃げ込んで命を救われたことは 前述しました。

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イクメ大王の后となったヒバス姫はイクメ大王の娘、大和姫を丹波竹野郡で生みました。

大和姫は信仰心が篤く 自ら志願して丹波国竹野社に奉仕していました。

そののち竹野郡の奈具社に行き月読の神に加えて 太陽の女神日霊女貴(ひるめむち)も祀るようになりました。

その後宇良社に移り 日霊女貴を祀っていましたが 彼女は朝日信仰を大切にするようになりました。

そして朝日を拝むためには 東向きの海岸がいいと考えて 伊勢の国に移住して 信者を増やすために

伊勢の各地を転々としました。

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大和姫 その2へ続く

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