古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

櫻井市「登美の霊畤」と田原本町の多神社、鏡作り神社 2015年12月26日

2015年12月31日 18時58分48秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
奈良県櫻井市の等彌神社と鳥見山霊畤
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大和盆地は古代史の舞台であり、遺跡の宝庫です。

秦国人徐福が出雲に渡来して、連れて来た部下の穂日親子や海童達により 出雲王国の主王副王が
相次いで殺害され、その皇子たちは秦国人との共生を嫌い 大和葛城地方に移住します。

大国主の皇子、味鋤高彦(西出雲神門臣家)は南葛城へ、事代主の皇子奇日方(東出雲向家)は
中葛城へ、そして徐福の息子五十猛(移住後は香語山と名乗ります)までも 遅れて葛城北部(笛吹)
にやってきます。

そして徐福子孫と出雲王家子孫たちで 初期大和政権が誕生します。

初代大和大王「天の村雲」に始まる磯城王朝は次第に東進して櫻井市付近にいたります。
大和の神社や史跡などを丹念に見ていくと、とんでもなく面白い発見があります。

今回もその一つ、桜井市の「等彌(とみ)神社」と「鳥見山霊畤(とみやまれいじ)」です。
奇日方の子孫は「登美家(とびけ)」と呼ばれます。出雲王家の向家は富家(とびけ)とも呼ばれました。
その登美(とび)の名前が今も櫻井市のあちこちに残っています。

鳥見山(とみやま)ももともとは登美山と呼ばれていました。また付近の地名は今も櫻井市 外山(とび)です。
またこの地の宗像神社は「登美に坐(います)宗像神社」が正式名称です。

その登美の霊畤とは 太陽の女神を祀る三輪山を 登美の霊畤から遥拝し、祭りごとを行う祭政一致の
政治行事を行う広場の事です。その登美の霊畤が 今日まで保存されているとは 思いもしませんでした。

※ちなみに宗像家は出雲王国第六代臣津野(おみつぬ)王(別名国引き王)の皇子吾田片隅(あたかたす)
が北九州へ移住して作った分家です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
魏書に「その女王が立つと和国の戦乱が納まり、平和が訪れた」と書かれたヒミコはモモソ姫です。
そのモモソ姫が祭祀を執り行った場所が「登美の霊畤」つまり今の鳥見山(とみやま)山頂なのです。

磯城王朝第八代クニクル大王と磯城家クニアレ姫との間に生まれたモモソ姫は 母に似て信仰心深く
三輪山の太陽の女神を祀る姫巫女となります。三輪山の姫巫女は磯城家か登美家の姫しかなれないのでした。

九州物部王家の東進で ヤマトに出雲系豪族と物部系豪族の対立抗争、戦乱が続いていましたが
モモソ姫が姫巫女となり、太陽女神の崇拝行事をするようになると、戦乱が納まったといわれます。

モモソ姫の兄の第九代オオヒビ大王よりも モモソ姫は人々の大きな尊敬心を集めたという。登美家第九代当主
太田田根子(おおたたねこ)の庇護の下、春と秋の大祭には 大和はおろか出雲、越、尾張からも豪族が集まったと言う。

太田田根子の地盤の巻向に多くの宿舎が立てられて大いに栄えたと言われます。そのためその地は櫻井市「太田」
の地名がのこっています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

等彌神社入口だ。この「とみ」という発音ももともとは登美だったのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こちらの道路側の鳥居は伊勢神宮の「お下がり」らしい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

石段の参道を進むと 石の鳥居があり、更に参道を進む。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

その奥に上ッ尾社がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

綺麗に磨き上げられた上ッ尾社拝殿の中。主祭神 はどこにも書いてないが どうせ出雲の神さんだろうと
軽く考えたが、後日ネットで調べたら「大ヒルメムチ」と書いてあり、びっくりだ。後で述べます。
お参りを済ませてから霊畤へ向う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この鳥居を潜ると 鳥見山霊畤への道が始まる。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

すぐに「黒竜社」がある。さすが出雲の神さんの神社だ。出雲族は幸の神三神の 国教のほかに太陽の女神や
竜蛇神の信仰もしていたという。この社は竜を祭っている神社だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

山道を歩いて登る。左手には高校があり、女生徒のテニスの掛け声が響いていた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

すぐに「霊畤遥拝所」があった。もともと霊畤とは 三輪山に祀られている「太陽の女神」を鳥見山山頂で
遥拝する為の施設なのに、その鳥見山山頂をここからさらに遥拝するのだという。「ハテナ?」である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

山道には沢山の標識が立ててあり、迷う事はない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「庭殿」に立つ石碑と説明看板。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここは 祭りのときなど 沢山の人(もちろん各地の豪族たちです)が宴会をしたところだという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鳥見山山頂の霊畤に着いた。入口の鳥居から2キロ、ゆっくり歩いて30分弱だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

周りの雑木林のために良く見えないが、真北の山が三輪山のはずだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

下山途中に 別の社へ寄る。下ッ尾社だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大きな赤い玉が吊り下げられている。太陽のようだ。三輪山に祀られていた「太陽の女神」を現しているのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

下ッ尾社の本殿は二社あった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

下ッ尾社のすぐ近くには「サルタ彦」が祭られていた。さすが 出雲の神の社だ。
サルタ彦は出雲族国教幸の神三神のうち、クナト大神(父神)、佐毘売の尊(母神)、そしてサルタ彦(皇子神)
である。サルタとは古代インドのドラビダ語でいう 「鼻の長い」と言う意味でつまりヒンドゥーのガネーシャの事だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この神社は広く大きな神社だった。この鳥居の下が社務所と駐車場だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

三輪山と鳥見山の位置関係である。真南から三輪山を遥拝していたのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

等彌神社から鳥見山霊畤までゆっくり往復した50分ほどだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「太陽の女神信仰」について
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
太陽神は出雲族により 崇拝されていました。渡来人の徐福の子孫である物部族は「星」、「月」、「狐」を信仰
尊敬していて 七夕祭りや「月読みの神」、「稲荷信仰」はその名残です。

等彌神社のご祭神「大ヒルメムチ」とはモモソ姫ではなく、元来「サホ姫」のことです。

磯城王朝第十代彦坐大王の姫のサホ姫は、大和に進攻してきた九州物部王国のイクメ王と一度は結婚し
三輪山の太陽神を祭り 「大ヒルメムチ(大日霊女貴)」と呼ばれて 人気を集めますが、遅れて大和入りしてきた
豊国軍の豊来入彦に追われて 皇子のホムツワケを連れて兄のサホ彦の元に逃げます。

そして豊国軍は イクメ王に呼び出された出雲郡の野見の宿禰 に追い出されるまで「登美の霊畤」を占領します。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この神社の祭神の「大ヒルメムチ」はモモソ姫とかサホ姫とかいう 個人名ではなくて、太陽の女神を
司祭する 磯城家、登美家代々の姫巫女一般のことをいうのではないのでしょうか。

それとも太陽の女神そのものを言うのかもしれません。

いずれにしても 現代まで古代出雲王国のゆかりの施設が保存されていて 驚きでした。
やはりヤマトは凄い。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
奈良県田原本町の多(おお)神社
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
多家は日本有数の由緒ある家系です。

初代ヤマト大王「天の村雲」は磯城家のタタラ五十鈴姫(事代主と玉依り姫の姫)と結婚し、その皇子
「沼川耳(ぬなかわみみ)」が二代目大王となります。沼川耳はタタラ五十鈴姫の妹「五十鈴依り姫」と結婚し
玉手看(たまてみ)と八井耳の皇子が生まれます。

王位を継いだのは 弟の玉手看(たまてみ)で 八井耳は「多臣家」の始祖となり、その家系が連綿と続き
記紀製作者の太安万侶は 多家の子孫です。

つまり太安万侶は出雲王家の子孫でもあるのです。もともと臣は出雲王族を現す家系です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

多神社へ向う道には大きな鳥居が立っています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

駐車場からこの鳥居を潜って 境内に向います。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

正面に立派な拝殿が見えます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿は四連の作りで 私は始めてみました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この神社の説明看板です。正式には「多坐弥志理都比古(おおにいますみしりつひこ)神社」です。
この付近の地名は「多」となっています。

祭神は「神武」これは「天の村雲」を記紀が神武と書き換えているので初代ヤマト大王天の村雲 つまり
多家始祖の八井耳の祖父です。それと八井耳の父親の二代目ヤマト大王沼川耳、それと太安万侶も祭られています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大きな社務所があり、たぶん社家だろうと思い表札を見に行きました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

やはり「多家」でした。凄いですねえ。2千年以上も続いている家系なのですねえ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

多神社の前に石碑がありました。新しくて取ってつけたような石碑でした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

その裏に「小社神社」があり、調べると太安万侶が祭られていました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
太安万侶は 記紀を書き上げたあと、記紀の秘密を守るため 人麻呂と共に不比等により幽閉されます。
太安万侶は 幸運(?)にもご先祖の地 出雲王家東王家の向家の領地に幽閉されます。

太安万侶は 幽閉されながらも 秘密裏に向井家と連絡を取り「自分は出雲王家の血を引く 多臣家の末裔で
山部赤人の名前で 幽閉されながら記紀を書かされた」と伝えたと言われます。

そして「古代出雲王十七代の王の名前を古事記に書き入れた」と伝え、それに対して向家は出雲族を代表して
お礼を述べたと伝わっているそうです。

太安万侶が幽閉されて 余生を送った場所は 島根県松江市の「意宇の森(おうのもり)」で阿太加夜神社
(あだかやじんじゃ)が建てられています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
奈良県田原本町 鏡作り神社
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
磯城王朝が第十一代彦道主大王の時、支那では魏と呉が対立していた。魏の遼東では公孫渕が独立の気配を見せていた。
呉は これを応援しようと金銀財宝を積んだ船で公孫渕を訪れて独立させて 燕王国とした。
その贈り物の中には 沢山の銅鏡の材料と工人もいた。

魏は是に驚き 何度も公孫渕に使者を送り 復帰を求めた。是に応えて公孫渕は後の使者を切り 魏に復帰した。

行き場を無くした工人たちは、遼東から逃げ出したが、一部は和国の都萬王国に逃げた。しかし都萬国は魏へ朝献使節
を送ろうとしているのを知り、あわててヤマトの磯城王家へ助けを求めたと言う。

その工人たちが住み、「鏡作り部」として暮らしたのがこの神社界隈だと言う。
この公人たちが作った鏡が「三角縁神獣鏡」など ヒミコが魏から貰う銅鏡よりも 古い銅鏡である。
前回訪れた武内宿禰墓稜から発掘された鏡もその一枚だろう。

ちなみに 武内宿禰も都萬国の使節として魏へ行った帰り、帯方郡で銅鏡の材料と工人を大量に仕入れて
磯城王家へ渡したと言われる。

そしてこられの材料と 工人たちで 磯城王朝が300枚以上、登美家の大加茂津身が100枚以上作らせて
各地の豪族たちに配ったという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この鳥居をくぐり、参道を進む。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

石の鳥居の先に 拝殿が見える。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

新しい看板で 神社の由緒を説明してある。それを見て仰天した。
なんと主祭神 は「彦火明」と書いてあるではないか。火明かり(ホアカリ)とは 徐福が石見の国五十猛海岸に
上陸した後、名乗った和名なのだ。

ちなみに 一旦秦国へ帰国した徐福が 九州北部浮杯の地へ再上陸した後は 饒速日(にぎはやひ)と名乗っている。
つまり この「鏡造り神社」の主祭神 は なんと徐福なのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

新しい看板に この地で作られた銅鏡の写真が張ってあった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この説明看板の背後の「鏡池」から掘り出された「鏡石」が展示してあった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

是が鏡石の現物で 鏡作り部たちは、まず 鏡池で身を清めたあと 石の中央の窪みに銅鏡をはめ込んで固定し、
金剛砂と水をかけながら 鏡面仕上げをしたと書いてある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鏡造り部太刀が鏡の研磨の前に身を清めた鏡池である。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

奥へ進むと拝殿がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

額には「鏡造り大明神と書いてあるが、それと徐福とどんな関係があるのだろうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿は 朱塗りの三連社だ。これも初めて見た。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿の近くに古い由緒書き看板があった。これにも主祭神 がホアカリ つまり秦国からの渡来人徐福だと書いてあった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
考えてみると神獣鏡の神獣は 道教に基づいている。後に日本で流行った稲荷信仰のお狐様も 
道教の「西王母」の眷属神の狐が元になっている。

鏡作り部たちは 道教の神獣たちを彫っているので 道教の導師である徐福を尊敬するのは当たり前なのかもしれない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
と言うことで今回の旅も 「登美の霊畤」が今でも保存されている事、多神社の社家として多家が今も
続いていらっしゃると言う事、鏡作り神社の主祭神 は なんとあの出雲王国で 主王副王を同時に
殺害し、出雲国内で大暴れした秦国からの渡来人徐福だということなど 沢山の発見がありとても面白い旅でした。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古代出雲王朝トップページへはここから戻れます。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

古代出雲王朝東王家向家王宮のあった松江市大庭(おおば)界隈の史跡 2015年12月13日

2015年12月17日 18時42分53秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

古代出雲王朝は 東出雲王家向家と西出雲王家神門家が交互に主王
(役職名を大名持)と副王(役職名は少彦)をだして統治していた。

松江市大庭町には東王家向家の王宮があったが、物部軍東征による第二次出雲戦争で出雲軍は敗れて
王宮を物部軍に明け渡した。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古代出雲王朝は 九州物部王家の第二次東征で 滅びます。西暦255年ごろです。

まず物部軍が瀬戸内海を東進し 吉備王国を攻めているときに 別働隊が日本海を北上し 
物部軍を率いるアケタツ王と宇佐王国軍を率いる兎の上王が 徐福の部下の穂日の子孫たちの引き入れで 
出雲軍の警備の手薄な場所から 怒涛のように侵入し出雲王家第十七代山崎タラシはついに降伏し 
西出雲王家は智伊宮の宮殿を明け渡します。

同じく物部軍の先鋒但馬守(1世紀末の朝鮮 辰韓の王子ヒボコの子孫)の日本海からの猛攻で 
松江市の田和山神殿を破壊され、続く物部十千根軍の日南町からの猛攻進入で 、東出雲王家も降伏し 
ここに十七代続いた 日本最古の王朝、出雲王朝は終わりを告げます。
物部十千根は魏にも朝献使節として行き、魏書に名前が出てくる物部族の一人です。

西出雲王家の王宮は進駐軍、宇佐軍の兎の上王の住居に提供され、西出雲王家神門の臣家は出雲市古志町の
久那子神社に移り住んだ。

東出雲王家の大庭の王宮は 物部占領軍に提供され、向井王家は八雲町熊野に移り熊野大社を建てて社家となった。

また旧王宮の建物は 物部進駐軍の入場とともに 千木が九州物部式の横削ぎとされた。
それまでの出雲王家や出雲豪族の建物は千木がすべて立て削ぎでした。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
しかし 苦労の末にやっと成立した征服王朝である物部王朝は イクメ(贈り名は垂仁)、オシロワケ(景行)、
ワカタラシ(成務)のたった三代で終わりとなりました。そして秋上家と名乗るようになった 
物部十千根の子孫の進駐軍は たちまち後ろ盾を失う。

そこで秋上家は 旧王宮を向井家に返却すると連絡したが、向井家は受け取らなかったという。

そこで秋上家は 建物を神魂(かもす)神社として 古代出雲王家の国教である 幸の神三神のうち親神である
クナト大神、佐毘売の命の代わりとして 名前を変えて イザナギ、イザナミの神を祀るのである。
ここにイザナギ、イザナミの名前が 初めて日本史に登場するのです。秋上家が作り出したそうです。

このときに 物部の神 フツノ御霊は秋上家により 神魂神社からオウ川の右岸の丘に移されて剣神社となった
(松江市八雲町日吉)。

このことを機に 向井家は 物部家つまり秋上家と協調するようになり、以後向家が資金を出した神社
(たとえば美保神社)などでは 複数の建物に出雲式立て削ぎ千木と 物部式横削ぎ千木を
併用するようになったそうです。出雲と物部の共存です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その大庭界隈の遺構を見て回った。

まず旧王家の墓である 「出雲大神社」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鳥居に掛かる額に「出雲大神」と書いてある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

鳥居を潜りすぐ右にある手水。きれいに清掃されている。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

よく整備された参道を進む。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

拝殿に到着。ここから墓石を拝むという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここから先は神域のため入れない。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

巨岩がごろごろしている。

ここは王家の拝み墓で、実際の埋葬墓は天狗山山中の「岩坐」だという。
王家末裔の「斉木雲洲先生」の本によれば 古代出雲王家は第十七代「山崎タラシ」王で滅んだので
拝み墓の巨岩は十七個あるという。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
※この出雲大神の祀られている一帯は立正大学付属淞南高等学校の敷地内にあります。
学校の事務所で所定の手続きをしたうえで参拝させていただきました。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
カラス天狗広場
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神魂神社背後の山を登ると「カラス天狗広場」がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

石碑には「大山大智明大権現」と読める。
ここは旧出雲王朝国教のサイの神三神のうちクナト大神が祭られている大神山(今の大山)を
遥拝した場所つまり東王家向家の霊畤(れいじ 政事を行う遥拝所でもある庭)だった可能性が高いと思う。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

カラス天狗は平安期以降に発展した山岳修験道の神で 役小角(えんのおづぬ)とともに修験道の守り神として崇拝されたシンボルだ。
その昔の向家遥拝所がそのまま修験道の遥拝所となったのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こちらは以前訪れた神魂神社本殿。現存する最古の大社造で国宝だ。
その記録はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/aa16ed0399a854fe21ff961e972b14f0
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
次は岩坂陵墓参考地
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この墓は国道432号線神納峠を下ったあたりにある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

宮内庁の管理らしい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

宮内庁や松江市教育委員会はイザナミの墓だといっているらしいが、ばかばかしいにもほどがある。
でっち上げの記紀に縛り付けられた挙句、架空の神イザナミのお墓ときたもんだ。

この墓は「出雲への征服進駐軍総師 物部十千根の墓だ。

たった三代で消えてしまった物部王朝のため 後ろ盾を失った物部十千根進駐軍の子孫、秋上家は 出雲の人々に快く思われていない
物部十千根の名前をいつまでも残しておくわけにも行かず、旧出雲王宮を「神魂神社」として「クナト大神、佐比売の命」
の代わりに「イザナギ、イザナミの命」を祀ったので十千根の墓をイザナミの墓と変えたという。

このでたらめな看板を見て 思わず絶句してしまった。 
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大庭の「風土記の丘」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大庭にある風土記の丘から 岡田山一号墳の向こうに「神奈備野(かんなびぬ)」の山が見える。
東出雲王家向家で崇拝された神奈備山だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

雨の中岡田山一号墳に行ってみた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ここに石室があったらしい。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

発掘されたものの展示室へ行ってみた。
これは子持ち壷と表示されているが、壷ではなく太鼓らしい。小さな突起に皮を張り 叩く音で死者を
慰めたという。古代インドで使われた楽器だという。古代出雲族のふるさとと言われるドラビダ族の風習と言われる。
※弥生文明と南インド 大野晋著 岩波書店
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こちらは「見返りの鹿」。大きいがかわいらしい顔だ。
出雲族の古墳増築技術が 大和の土師氏になったという。このあと訪れる菅原天満宮の菅原家や、学問の大江家は
土師家から分かれた 学問の家系だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この鉄剣に掘り込まれた銀象嵌の文字「額田部臣」が発見当時大きな話題になったらしい。

前回たずねた「神原遺跡」の古墳は 埋葬された武内宿祢の弟「ウマシウチの宿祢」が作ったといわれるが
彼は出雲王家から姫を嫁に向かえ、臣の性を名乗り その子孫は神原の地に住み続けて「額田部臣」を名乗ったという。

岡田山1号墳は 以前訪ねた「山代双子塚古墳」のすぐ近くに、しかもすぐ後に造られた。 
富家の伝承では 富家の王陵の隣に額田部の臣の王が葬られたという。

それは当時 都から赴任していた 額田部財王であります。出雲王家の太彦殿が分家の越前蘇我本家、振姫に養子に行かれ
家業を発展させて 人望を集められ 都に迎えられたのが オホド大王(継体)で その息子ヒロニワ大王(欽明)
の娘が 額田部大王(推古)です。

額田部大王の兄、豊日大王(用明)の息子が 上之宮太子(聖徳太子)でその息子が 額田部の臣財王です。
財王は 当時 弟の日置王と共に出雲の地に都から赴任していました。 出雲国意宇郡舎人郷の正倉役として
赴任されていて この地で生涯を終えられました。

そのお墓が 岡田山1号墳で 財王は生前から古墳を築いて寿陵としていました。

古墳埋蔵品は 松江市大庭の風土記の丘に展示されています。
風土記の丘見学記は このブログの 2015年12月13日の記事に載せています。

※松江市教育委員会の説明では このあたりの古墳(岡田山古墳群、双子塚古墳群)は出雲大社宮司の祖先出雲国造家
のお墓だと書いていて、案内人の叔父さんもそういいました。


穂日の子孫は 九州物部王家の第二次東征時に東征軍の別動隊(朝鮮人ヒボコの子孫田道間守などの軍)
を 出雲軍の警備の手薄な場所を 案内して出雲王家の滅亡に活躍し、その功績で出雲国造家に
してもらいました。

松江市教育委員会は馬鹿ですねえ。徐福の忠実な部下の穂日の子孫が 穂日が殺した
出雲王家の富家(向家)のお墓の中に 自分達のお墓を作るわけがありませんよねえ。

その案内人の叔父さんには 斎木雲州先生の本を読んで もっと勉強しなさいといっておきました。きょとんとしていました。

ちなみに穂日の子孫が今の出雲大社の宮司です。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

風土記の丘展示室には 以前訪れた山代双子塚古墳の発掘物も展示されている。
この子持ち壷も古代インドのドラビダ族の使う子持ち太鼓と同じで 岡田山古墳の出土品と同じだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以前の山代双子塚古墳の記録はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/108c0ff4d9b310c0e997ad7d83dd51ed
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
山代神社
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以前から大庭を通るたびに気になっていた「山代神社」を尋ねた。
この場所も「山代双子塚古墳」のすぐそばなので、たぶん古墳に葬られている「向 山代彦」が祭られていると想像していた。
モミジの散る石段を登っていく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

立派な拝殿と注連縄だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

このアーチ型の渡り廊下を潜ると本殿があった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大社造の立派な本殿だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以前阿太加夜神社の境内でも見かけたが、石造や自然石に紙垂(しで)をお供えしたものが境内に沢山あった。
古代出雲王の17人と同じ17箇所かと探したがどう探しても13箇所しかなかった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

境内の末社に幸神社がある。これは古代出雲王朝の国教の幸の神三神を祀っているのだろう。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

由緒書きが掛けてある。古くて良く読めないが やはり「山代彦(日子)命、大国主命」と読める。
やはりそうだった。山代双子塚古墳に葬られた旧王家の向家当主「向 山代彦」を祭っているのだ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

神社入口には 宮自宅がある。こちらのお宅も由緒正しく見えるので表札を拝見すると「北」家であった。
てっきり 向家か富家と思ったが違っていた。このお宅も出雲王家の血を引くお方なのだろうか。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
古代出雲トップページへはここから戻れます。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


菅原道真の生家に建てられた菅原天満宮と彼の祖先の野見の宿禰 の御陵を訪ねる 2015年12月13日

2015年12月16日 22時43分36秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

菅原天満宮と野見の宿禰 御陵 島根県松江市来待町菅原

九州物部王家の東征で、イクメ王より一足先に日本海を北上し、出雲王国の田和山神殿を破壊したあと


魏から貰い受けた八本の錦の御旗(八幡の語源となる)をかざして大和入りした田道間守(朝鮮渡来人


ヒボコの子孫)は、自分がヤマトの王のように振舞う。

遅れてやってきたイクメ王は 田道間守に手を焼き、自分が倒したはずの「旧出雲王家」に助けを求める。

 

物部王家に倒された出雲王家の内 東出雲王家の富家(とびけ)は名前を向家に替えていた。イクメ王から

出雲進駐軍の司令官秋上十千根を通じて出兵を要請された向家当主の太田彦は 出雲王家を滅ぼした物部王家が

憎かった。しかし出雲王家の神聖な田和山神殿を破壊した朝鮮系の 田道間守はもっと憎かった。

 

そこで向家当主の太田彦は 名前を富(とび)の名前を野見(のみ)と変えて 野見太田彦として 神聖な田和山神殿を

破壊した 渡来朝鮮人卑ボコの子孫の田道間守に復習する為に この助けを聞き入れて 出雲兵を

引き連れてヤマトへ進軍し、田道間守を打ち破る。



この戦争が 記紀では当麻蹶速(たいまのけはや   ※田道間守が領地にして君臨していた場所はタジマの名前が訛り

タイマと呼ばれて当麻の字が当てられた)と野見の宿祢(田道間守の敗走に喜んだイクメ王は野見太田彦に物部王家の

重鎮の称号である「宿祢(すくね)」を与えて太田彦は野見宿祢と呼ばれた) の相撲勝負のおとぎ話に替えられてから、

後世にはこれが大相撲の起源とされてしまったから記紀の作り話も恐ろしいことに発展したものである。



ヤマトに住み着いた 野見の宿禰 の子孫の出雲族は 古墳築造技術に優れていて イクメ王皇后のヒバス姫

御陵を築き、その後土師氏(はじし)と呼ばれ 土師家を名乗る。

 

そしてその子孫からは学問の家系の菅原家や大江家(平安時代の歌人大江匡房やその子孫軍学者 大江時親)が

生まれたと言う。ちなみに大江家が毛利元就の祖先とされている。

 

※田和山神殿跡については 2014年6月16日のこのブログの記事に載せています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

来待町「菅原」の地名がのこるこのあたりは山の中だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この鳥居を潜ると菅原天満宮の参道だ。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ここにはもともと向太田彦(野見の宿祢)のお墓があったという。


野見の宿禰 は大和で田道間守の軍勢を打ち破り、暫く大和に留まった後、イクメ王から拝領した土地を
息子らに任せて出雲へ凱旋する。その帰路に播磨の出雲系の豪族の家に招待されてご馳走が振舞われた。

しかしその家の使用人に 朝鮮人ヒボコの家来の子孫が働いていて 食事に毒を盛られて翌日にその地で
急死したと言われる。

野見彦の遺体はその地で埋葬され、大勢の出雲族が出雲からやってきて、野原に整列して 手渡しで石や土を運び 

墳墓を作ったという。それでその地は大勢の人が野原に立ち並んだ事から「立つ野」と言う地名になったという。


遺体の一部は 出雲に持ち帰られて この地に葬られた。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
時代が下がり、野見彦の子孫から土師家が出来て そこからさらに菅原家と大江家が出来た。


出雲国庁に 国司として滞在していた菅原是善(これよし)が、この地に自分の祖先の野見彦の墓に
参拝に来たとき、案内してくれた地元の女子が 利発なのに気に入り寵愛して 生まれたのが道真だという。

道真が6歳のときに都から迎えが来て 親子は都へ行き 道真は菅原家の子として育てられ、長ずるにおよび
天賦の才能が開花して頭角を現したらしい。

 

その後あの日本史の汚点である陰険な藤原一族(その子孫はしぶとくも千年以上皇室を食い物にして生きながらえて 

近衛文麿はじめ現代まで続いている)の陰謀に陥れられて無念の死を遂げられた事は 周知の事である。

 

その後宮中で起こった奇怪な物の怪事件の連続に藤原一族は 菅原道真の祟りだと恐れおののき

彼を学問の神様、天神様として全国に祀るのである。



彼の死後 この生地に建てられたのが 「菅原天満宮」で、歴代松江藩主により、守られ続けて来たという。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

長い石段をゆっくり登っていく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

石段を登ると正面に拝殿がある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

拝殿も立派な建物だ。松江藩の保護を受け続けていただけはある。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

本殿はなぜか大社造りにはなっていない。出雲王家の血を引くお方なのに何故だろう。

千木は出雲式の縦削ぎではあるけど。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

参集殿では丁度近所の方が集まって 25日の「秋の大祭」の準備をしている最中だった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「野見の宿禰」 の御陵
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

境内の脇に石段があり、それを登っていく。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こじんまりとした墳墓があり、野見の宿禰 つまり向太田彦の御陵だという。
雨も激しくなってきたので、御陵にお参りした後 立ち去った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
太田彦の古墳は 島根県飯南町野見野にもあります。
そこを訪ねた記録はこちらです。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/e/aa16ed0399a854fe21ff961e972b14f0
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー