古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

九州宗像家の祭祀の場 沖ノ島 (実際には行けませんがテレビ番組を見て仰天しました)2017年11月1日

2017年11月09日 10時17分03秒 | 古代史の舞台を訪ねて
沖ノ島が 宗像大社と共に世界遺産に登録されました。先日NHKテレビでその特集をしていました。

沖ノ島は 一般人は行きたくても上陸できませんので テレビでみるしかありません。
そこで先日NHKの番組で紹介しているのを見ていたら、とんでもない放送内容なので
びっくり仰天しました。


沖ノ島の映像です。
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1.宗像家は海の民である。

2.第二次学術調査で三角縁神獣鏡が発掘された。その三角縁神獣鏡は大和政権がシナから貰ったものなので 
 大和政権がこの島で 国家的な祭祀を行った

3また学術調査で 同時に鉄の板が発見された。宗像氏は鉄を求めて 朝鮮半島へ出かけた海の民である。

以上三つが番組で堂々と言っていた とんでもない事の代表です。他にもありましたがここでは省略します。
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1.宗像氏について
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平安時代(815年)に出来た「新撰姓氏録」には「宗形の君は大国主六世孫吾田片隅の子孫である」と書かれています。
つまり古代出雲王家第六代主王(役職名大名持ち)臣津野(出雲では国引き王と呼ばれる)の孫の吾田片隅(あたかたす)
が九州へ行き 起こしたのが宗像家です。

つまり宗像氏は当時和国最初の王朝出雲王家の由緒正しい王族なのである。決して海の民などではありません。

紀元前3世紀末に石見の五十猛海岸に大勢の秦国人海童を連れて上陸し、その後一旦秦に帰国して始皇帝から
更なる資金と海童を貰い 佐賀の浮杯の地に二度目の上陸した秦国人の道教師の徐福。

彼が連れてきた大勢の秦国人たちは 広範囲に広がり 漁民や船乗りとなりました。

一般的に 海の民とは 徐福が連れてきた秦国人海童の末裔達であり、宗像家は出雲王家の血を引く王族なのです。
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宗像家の始まりと 出雲王家の系図です。「新撰姓氏録」に書かれたのとは少し違い 正確には
大国主六世の孫ではなく、第六代大名持ち(主王のことで 記紀でいう大国主とは第八代大名持ちの八千矛のことです。)
臣津野の皇子(次男)なのです。

そして宗像家の三姉妹とその皇子、皇女たちが 古代史を大きく動かすのです。
※表は斎木雲集著の「古事記の編集室」、「イズモとヤマトの曙」他の本より私が作成しました。
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2.三角縁神獣鏡
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これが出土した三角縁神獣鏡だそうです。
NHKの番組では 歴史学者のじーちゃんが「三角縁神獣鏡は 和国が支那から貰ったものなので この島で 
大和政権が海上交通の安全を願い 祭祀を行った」と とんでもない事を言い出した。

あたかも 三角縁神獣鏡は 大和政権が直接支那から貰い、大和政権しか所持していなかったかのように聞こえました。
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確かに和国は魏から神獣鏡を貰っています。

当時和国には いくつかの国が乱立していて それぞれが魏に朝献していました。当時の和の大国は 出雲王国、
大和の磯城王朝、そして日向の都萬国つまり物部宇佐連合王国です。

魏書に登場する一番目の姫皇女(ヒミコと書かれた)はヤマトのモモソ姫で「その女王が立つと和国に平和が訪れた」
と書かれました。二番目の姫皇女は都萬国のイ二エ王亡き後女王となった「宇佐豊玉姫」です。

西暦240年に魏への朝献使節団が帰国するときに 魏領帯方郡から役人テイシュンが伊都に付いてきました。
ヤマト国の女王と言うヒミコに親魏和王の金印と詔書、錦帯、下賜品目録を直接手渡す為です。

自称ヤマト国の女王だという豊玉姫は大和から来たふりをして都萬国から出かけていき、テイシュンから直接肩に
紫錦帯をかけてもらいました。盛装したヒミコは左右に 使節団の田道間守(辰韓王子ヒボコの子孫)や物部十千根
に青錦帯を肩にかけさせて 大いに威厳があったと書かれました。二人とも魏の官位「中朗将」を与えられて
青錦帯を持っていたからです。この時点ではイクメ王はまだこの官位を持っていませんでした。後に使節団として
和の大君が直接魏に出かけて 中朗将の官位を貰いました。

魏書では イクメ王をイサチ(幼名)と書いています。
記紀ではイクメ王を活目入彦五十狭茅命(いくめいりひこいさちのみこと)と書いていますが和国の大王が直接魏へ朝献
に行ったとは書いていません。

※和国が魏の属国であった時代を記紀は一切触れていません。支那の歴史書に残っているのに。さすがに持統も不比等も
和国が魏の属国になっていたのを恥だと思ったのでしょう。 
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そして下賜品として神獣鏡が100枚下賜されました。しかし三角縁ではありません。
支那大陸で出土した銅鏡はすべて平縁の神獣鏡で、三角縁ではありません。

もともと支那では 道教の神仙思想に基づく神獣鏡が造られたのは平縁です。
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磯城王朝11代彦道主大王の頃 支那では 魏と呉が対立していた。魏の遼東方面には 公孫渕が太守として
大きな力を持っていた。公孫渕は独立しようと考えて呉の孫権に使者を送った。喜んだ孫権は公孫渕を独立させて
燕国王とした。そして235年(青竜3年)に大量の財宝を贈呈し、その中に沢山の銅鏡材料や工人がいた。

しかしそれを知った魏は公孫渕にたいして 強く復帰を求め いろいろ好条件を出したらしい。
寝返った公孫渕は 魏の使者の首をはねて魏に送ったという。

慌てふためいた呉の使節団の船は 逃げ出したもののあちこちで難破したという。逃げ遅れた工人達は和国に亡命して
最初は当時の大国都萬国に来たが、ヒミコ女王が魏と国交を開くと聞き あわてて今度はヤマトの磯城王朝へ行き
鏡を造った。それがヒミコが魏から銅鏡を貰う前のことです。

磯城王朝はそれらの銅鏡を支配下の豪族達に配りました。大阪府高槻市、京都府竹野郡、山梨県鳥居原などから出土した、
青竜3年や赤鳥元年の年号の入った銅鏡がそれらの和国製のものといわれます。

工人達が住んで鏡を造った場所に 「鏡作り部神社」が建てられました。
奈良県田原本市です。
※鏡作り部神社の訪問記は このブログ 45番2015年12月26日に載せています。
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一方何度も魏への使節団として行った、武内宿禰は自分より素性や育ちの悪い 田道間守や物部十千根が「中朗将」の
官位と青錦帯を持っているのに 自分には何ももらえ無いので不満に思い 都萬国を離れて磯城王朝に付く
ことを決めます。

武内宿禰の才能を恐れた女王ヒミコこと豊玉姫が 自分の息子(豊来入彦)やイクメ王より偉くならないように思い、
官位を授けるように魏に働きかけなかったからです。

以前から親しかった ヤマト磯城王朝の日子道主大君に秘密に頼まれていた武内宿禰は 魏の帰りに 大量の銅鏡材料と工人を
帯方郡で 仕入れて ヤマトへ送ります。

青銅をえた大和の大王は西軍(物部宇佐連合王国の都萬国軍)に対向する為 魏鏡より大きい鏡を大量に作り、
支配下の豪族達に配ります。大きい銅鏡は割れやすい為 三角縁にして強度を増したと言われています。

三角縁神獣鏡は300面以上作られました。また磯城王朝を支えた登美家の大賀茂津身も100面以上作りました。
それらは近畿や東海から400枚以上出土しています。

特に一つの古墳から大量の三角縁神獣鏡が出土した ヤマトの黒塚古墳、ヤマシロの椿井大塚山古墳はそれぞれ
彦道主大王の父親の日子坐大王と 登美家の大賀茂津身の墓だと考えられています。

また武内宿禰も100面以上作らせて、自分が魏へ施設団としていった記念として景初三年の年号を入れました。
武内宿禰が葬られた 雲南市神原神社古墳から出土した 景初三年の年号入り三角縁神獣鏡がそれです。
※神原神社古墳を尋ねた記事は このブログ「42番、2015年12月13日」の神原神社の記事に乗せています。
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中国社会科学院考古学研究所所長の王仲殊が1984年にわが国に招かれたシンポジウムで「三角縁神獣鏡は
和国製である。中国ではこの鏡は一面も出土しておらず この鏡の笠松幡模様は中国のものには無い」と断言して以来
この鏡がどこ製かという議論は 決着したはずなのに未だに支那製だとほざいている学者がいるなんて 驚きです。

ちなみに笠松幡とは ヤマト磯城王朝が西軍(九州物部軍)に対抗して造った軍旗の模様です。

つまり沖ノ島の三角縁神獣鏡は 磯城王朝側の登美家から 同じ出雲王家の親戚筋の宗像家が手に入れたものと
思われます。宗像家が都萬国のヒミコから貰った銅鏡でもなく、まして大和王朝の磯城家がこの島で祭祀を
行ったものでもありません。
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3.鉄器について
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和国の鉄の歴史は古い。

偽りだらけの日本書紀の中で 「事代主の比売の名を タタライスズ姫という」とかかれています。
たまには本当のことを書くこともあるようです。この場合の事代主とは 徐福たちに殺害されたイズモ王朝
第八代少彦(副王)の八重波津身のことです。

紀元前3世紀末に石見の五十猛海岸に上陸した徐福とその忠実な部下の穂日(今の出雲大社宮司の祖先)や秦国
から連れてきた大勢の海童達により 拉致幽閉されて殺害された事代主(役職名は少彦、本名は八重波津身)
と三島(今の大阪府高槻市、三島郡島本町)から輿入れされた活玉依り姫との間の姫君の名前をタタラ五十鈴比売
と言います。

つまり当時既に出雲王国内で製鉄が タタラにより行われていたことをうかがわせます。ちなみに五十鈴(イスズ)
とは古代イズモでは 砂鉄を意味したといわれています。

また福岡県曲り田遺跡から出土した鉄器は 国立歴史民族博物館チームが 2003年5月に発表した報告書では
AMS方式による年代測定で、従来の弥生時代の始まりより約500年遡り 鉄器は紀元前10世紀のものと
発表されました。

一方支那大陸の最古の鉄器は 「西周」の終わりごろの遺跡から発掘された鉄器で紀元前9世紀とされています。

つまり鉄器は支那から伝わったのではなく、出雲王家に伝わるように インドからクナト王が連れてきた技術者により
イズモの砂鉄で造られた公算が大きいのです。
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古代インドのドラビダ人が アーリア人の侵入により押し出され 南へ逃れた集団が今のタミール人であり、
クナト王を中心に北へ逃れてサハラ砂漠を越えてシベリアのブリアートから黒竜江(アムール)を降り和国に
やってきたのがイズモ族と出雲王家では伝えられています。ブリヤートの細石器刃が樺太や北海道に伝わったルートです。

そのためタミール語と日本語には共通するものが多いといわれています。(日本語とタミール語 大野晋著)

タタラとは古代ドラビダ語で激しく燃える火を意味するそうです。金属を示す「カネ」も金属を意味するドラビダ語であり、
古代イズモ王国の国教の幸の神三神のうちのサルタ彦のサルタとは「鼻が長い」と言う意味でつまりヒンドゥーの象神、
ガネーシャのことで 出雲北山鼻高山(はなたかせん)に祀られました。

北海道から日本海伝いに南下したイズモ族は島根半島周辺に大量の砂鉄を発見して そこに落着いたといわれます。
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タタラに拠る製鉄の遺跡です。(日立金属ホームページより)

イズモでは砂鉄を野踏鞴(のだたら)で精錬されました。アナの底に溜まったケラ(鉧)からはウメガイと
呼ばれる両刃の小刀が作られたという。

野踏鞴の近くには 大鍛冶場が作られて踏鞴から出た鍛鉄を加熱脱炭、精錬され、その近くの小鍛冶場で更に脱炭
して鉄製品が造られました。

現在、中国山地の島根県奥出雲町で日刀保たたらが再建されていますが、それは現在の日本刀を作る原料としての
玉鋼を供給するためなのです。

つまり祭祀が沖ノ島で行われていた時期には 和国で鉄が造られていたということです。
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出土した鉄の板です。
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4.その他の出土品など
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出土した銅剣です。

イズモ族が祭祀に銅鐸を使用したように、九州物部家は銅剣をシンボルにしました。
渡来秦国人徐福の次男穂穂出見に始まる九州物部家は各地の豪族達にこの銅剣を配りました。
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出雲王家は親戚の宗像家を通じてこの銅剣を入手して それをヒントに「出雲式銅剣」を作り出したといわれています。
※写真は斎木雲州著「出雲と大和の曙」のカバー写真の「イズモ式銅剣」
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イズモ族の龍蛇神信仰
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沖ノ島から出土した金銅製竜の頭の飾りか置物です。

イズモ族は海の鮫(ワニと言った)を神として尊敬したが 同時に龍蛇神をも 信仰した。宗像家もイズモ王族
なので 当然龍蛇神信仰を持っていたと思われます。
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松江市揖夜神社の竜です。胴体は後の木にまきついています。
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松江市阿太加夜神社の竜です。これも胴体は後の木に巻きついています。
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巨岩信仰
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巨岩にササゲ物をしている宗像家の貴人の想像図だそうです。(NHKテレビより)
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巨岩に対する信仰もイズモ族の特徴です。このブログ「古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて」でも各地の巨岩が
御神体になっている神社へ出かけています。
島根県雲南市琴弾神社、和歌山県新宮市神倉神社、三重県熊野市花の窟 そのほかです。
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古代イズモトップページはここから戻れます。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
※このブログは大元出版の本すべてを参考にしています。ブログの訪問記の記事は この沖ノ島の記事以外は
すべて私が直接尋ねて調べました。
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