古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

甲斐の国を訪ねて 河口湖町、笛吹市  その2  2023年11月20日 

2023年12月19日 23時33分14秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

甲斐の国を訪ねて   その2    笛吹市

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甲斐、相模山旅の帰路 笛吹市の 「一宮浅間神社」に立ち寄りました。

凄い門構えで 沢山の人が出入りしていたからです。

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広い境内には 沢山の参拝者がいました。

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拝殿の前には 沢山の着飾った子供たちがいました。

そうか 今日は 天気も良いので 七五三に沢山の家族が来ていたのでした。

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境内の大きな銀杏の木は 黄色く輝いていました。

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神社の由緒を読むと 主祭神は 此花咲くや比賣だと書いてあります。

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「三国志、呉書」に次のように書かれているそうです。

「黄龍2年-西暦230年ーに呉王孫権は自国軍を大幅に増強するために 二人の

将軍に1万の兵士をつけて夷洲(沖縄)と亶洲(九州)に行き 兵士を大量に連れて

帰るように指示した。しかし将軍らは亶洲を探し当てることができず 夷洲から

住民数千人を連れ帰るのみであった。孫権はこれに激怒して 将軍らは誅殺され

た」

この話が 沖縄人か呉人から 九州物部王家のイニエ王にもたらされたらしい。

当時物部王家は筑後平野にいたから イニエ王は呉軍の再来を恐れたのかも知れ

ません。

またイニエ王は 物部第一次東征軍が大和入りしたあと 磯城王家に

完全に飲み込まれてしまったことも知っていました。

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イニエ王は232年に 第二次東征を決意します。そして有明海を南下し 

薩摩の国 笠沙の地に到達し そこで美しい姫に会います。

彼女は阿多(南さつま市)の豪族竹屋守の娘で阿多津姫といいました。

イニエ王は彼女を妃に迎えます。

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記紀はこの史実を神話に変えました。

邇邇芸命(ニニギノミコト)は大山津身神に対して 娘の「木の花咲くや姫」を妃に

迎えたいと申し出た。大山津身神は 「姉の岩永姫も一緒に迎えてください」と

言いました。「もし岩永姫を返すならば あなたは短命になるであろう」と警告し

た。岩永姫は非常に醜女だったので 邇邇芸命は姉の岩永姫を返した。

それで邇邇芸命は短命となった。

 

また記紀は イニエ王(のちの贈り名を崇神)を大君として扱い 「御真城入彦(み

まきいりひこ)」と名前を変えている。いかにも任那からやってきた王としている

が イニエ王は筑後平野から薩摩と日向へやってきた 地方の王で

決して大和の大君ではないのである。

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イニエ王は薩摩から阿多津姫と共に日向へ回り 大淀川を遡り生目(いくめ)の地に

着いてそこで暮らした。阿多津姫はそこで王子を生み その王子は土地にちなんで

イクメと名付けられた。

そのイクメ王子が 後のイクメ大君(のちの贈り名を垂仁)である。

生目の地にはイクメ大君を祀る生目神社が建てられている。

※生目神社は このブログ 33薩摩日向を訪ねて に載せています。

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阿多津姫は短命で イクメ王子を生んだ後に亡くなります。

イニエ王はその後豊王国から 月神を祀り人気のあった宇佐豊玉姫を妃として迎え

 ここに物部豊連合王国が誕生します。

イニエ王は 宇佐豊玉姫の姫巫女としての人気を味方にして 大和入りしようと

計画したのです。

しかし記紀の神話に書かれた通り イニエ王も短命に終わります。

その後の豊玉姫と生目王子の活躍は このブログに書いた通りです。 

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ということで浅間神社でなぜ 此花咲くや姫が主祭神としてまつられるように

なったのでしょうか。

神話では此花咲くや姫は邇邇芸命との一夜の契りで妊娠したとされています。

たった一夜で 妊娠したことに疑いを持つ邇邇芸命に対し 此花咲くや姫は 

「天津神の御子なら焼け死ぬことは無いでしよう」と言い 産屋に篭り火を放った

という。燃え盛る産屋の中で 無事生まれたのが 海彦、山彦ともうひと柱の

三人です。

燃え盛る火の中で出産したということで、たびたび荒れ狂う富士山を鎮めるべく

火の神として 浅間神社の大神として祀られたのでしょうか。

また いつのころから浅間神社の主祭神とされたのか 色々調べましたが

詳細は分かりませんでした。

此花咲くや姫の御子が山彦で 山彦(ホホデミ)と乙姫(豊玉姫)の御子が

鵜萱葺き合えず(ウガヤフキアエズ)でその御子が神武。

これらの神話の作者、太安万侶たちは 史実と実在の人物を熟知したうえで

ストーリーの組み立てをしたとしか思えませんね。

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邇邇芸命(ににぎのみこと)という名前は 饒速日(にぎはやひ)と似ていますね。

また神話には 火明り(ほあかり)という御子も登場します。

紀元前三世紀末に 石見の国五十猛海岸に上陸した徐福は 和名を火明り

(ほあかり)と名乗ります。またいったん秦へ帰国して徐福は皇帝から

さらなる資金と海童たちをもらい 二度目に佐賀の浮杯(ぶばい)に上陸します。

その時は 饒速日(にぎはやひ)と名乗ります。記紀の執筆者の太安万侶は

そのあたりのことをよく知っていたから そんな名前を作ったのだと思います。

饒速日(にぎはやひ)と宗像三姉妹の末娘、市杵島姫(いちきしまひめ)との間の御子

が ホホデミなのです。

 

初代ヤマト大王「天の村雲」は磯城家のタタラ五十鈴姫(事代主と活玉依り姫の

姫)と結婚し、その皇子「沼川耳(ぬなかわみみ)(のちの贈り名を綏靖すいぜ

い)」が二代目大王となります。

沼川耳はタタラ五十鈴姫の妹「五十鈴依り姫」と結婚し玉手看(たまてみ)と

八井耳の皇子が生まれます。

王位を継いだのは 弟の玉手看(たまてみ)(のちの贈り名を安寧あんねい
)で 

八井耳は「多臣家(おおのおみけ)」の始祖となり、その家系が連綿と続き記紀

製作者の太安万侶は 多家(おおけ)の子孫です。

つまり太安万侶は出雲王家の子孫でもあるのです。もともと臣は出雲王族を現す

家系です。

だから太安万侶はそのあたりの史実をよく知っていたのだと思います。

※多神社(おおじんじゃ)の訪探記は2015年12月26日の記事に載せています。

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終わり

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