古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

徐福(素戔嗚すさのお)が上陸した五十猛海岸(島根県大田市)

2014年04月24日 22時43分03秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

秦の始皇帝に言い付かり、和国へ(秦国人は蓬莱島と書いた)不老不死の薬草を求めてやってきた徐福は、事前に古代出雲王朝に許可を求めに部下を使わした。

出雲王朝第八代の主王(役職名は大名持ち)八千矛(記紀では大国主と書かれた)と副王(役職名は少彦すくなひこ)の八重波都身(やえなみつみ記紀では事代主ことしろぬし と書かれた)のもとに、徐福は忠実な部下の「穂日(ほひ)」を遣わし、多数の貢物と共に上陸と住居の許可を得たという。

ちなみに穂日の子孫が今の出雲大社宮司の家系だそうである。

徐福は先進技術を携えた 多数の工人(技術者)と若者(海童と呼ばれた)を伴い

BC219年に河北省秦皇島を出航し、石見の国の五十猛海岸に上陸しました。

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現在の五十猛海岸は海岸線に多数の風車が回る美しい砂浜だ。

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このビーチの前の交差点の名前は「五十猛(いそたけ)」だ。

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この海岸の近くの小学校は「五十猛小学校」だ。

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JR山陰本線の五十猛駅。

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駅は無人駅で、出入り自由だ。

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出番が終わったラッセル車の横で、満開を過ぎた山桜の花びらがしきりに舞い散っていた。

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この海岸に「和田珍味本店」の建物がある。広い駐車場があり、徐福上陸地の「神島」のビューポイントがある。また館内にも無料休憩スペースがあり、「神島」の眺められるコーナーもあり、誰でも休憩して、神島を眺められる。

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神島ビュースポットに立っている「神島説明看板」には、「記紀」に寄れば 徐福が息子をつれて二人で新羅からやってきたと書いてある。

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しかし徐福の息子五十猛は その時まだここには いなかったのである。

 

上陸した徐福は「火明かり」と名乗り、出雲王朝の高照姫(第七代大名持ちの天の冬衣と宗像三姉妹の田心姫との間に生まれた姫君)を奥方に向かえ、高照姫が生まれた息子が「五十猛いそたけ」なのである。

 

おそらく五十猛の地名はあとから出来たと思われる。理由は徐福の父親は「徐猛じょもう」と言うので、その一字「猛」を息子につけたと言われている。

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ここは「トルパ」ポイントでもあるらしい。(トルパとは写真を撮るパーキングの意味なのか)

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このポイントから見た神島。

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神島をよく見ると、ここに上陸してもそのあと どうしようもないと思える。普通に考えたら砂浜に上陸しそうなものだが。

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「和田珍味本店」内部の無料休憩所にはお茶のサーバーもあり、神島がここからでも良く見える。

無料休憩所とはいっても、石見特産珍味の販売店の中である。一旦店内に入れば海の幸の良い香りが充満していて、珍味を買わずにはおれない。商売上手である。

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休憩コーナーに置かれた「神島案内看板」

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紀元前219年に 秦の始皇帝からたくさんの資金と工人たち、およびたくさんの若者(海童)を

もらい受けて 徐福は 河北省秦皇島を出航して この石見の国五十猛海岸に上陸した。

この徐福上陸により、日本の歴史は激動するのである。 

徐福の部下の穂日とその息子夷鳥(ひなどり)たちは、連れてきた海童たちと共に出雲王朝の大名持ち

(主王ー当時は八千矛)と少彦(副王ー当時は八重波都身)を相次いで 誘い出して幽閉し殺害する。

しかし徐福は結局和国の王ー出雲王国の国王になれなかった。  

 

五十猛を高照姫に託して一時帰国した徐福は、秦の始皇帝に更なる資金と海童たちをもらい BC

210年に今度は 浙江省寧波(にんぽー)から 二度目に和国に船出して、佐賀の浮杯に上陸。饒速日(にぎはやひ)と名乗る。 

そして宗像三姉妹の「市杵島姫」を奥方にもらい、次男「穂穂出見 ほほでみ」をもうける。穂穂出見は九州物部王家を起こすのです。

長男の五十猛は成長後丹波へ移住し、更に大和(奈良県葛城市)へ移住し、その息子「天の村雲」が初代

大和大王となる。

一方次男の穂穂出見が起こした物部王家は その子孫が2度にわたる東征を行い、長男の打ち立てた磯城王朝を倒して 大和に物部朝廷を樹立し、名実共に和国の王となるのである。

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Name

出雲国と石見の地図

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五十猛海岸は、徐福(素戔嗚)の上陸により、以後の日本の歴史が大きく動くモニュメントなのである。 

 

日本の歴史にとり、大きな意味を持つ海岸だ。

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※斎木雲州著 大元出版 「出雲と大和のあけぼの」、「古事記の編集室」、「御伽噺とそのモデル」、「出雲と蘇我王国」、その他を参考にしました。

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京都嵐山の松尾大社は徐福(ニギハヤヒ)と市杵島姫を祀る 2014年4月17日

2014年04月21日 22時22分18秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

京都嵐山の松尾大社で「山吹祭り」中と言うニュースを聞いて出かけてみた。

松尾大社には過去二度ほど出かけたことがある。2月2日の節分の日に、島根県の「石見神楽」が上演されるので、それを見に出かけたのだ。

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大鳥居を潜る。鳥居には注連縄に榊のような枝が沢山挿してぶら下がっている。河内長野市の「流れ谷八幡神社」の大注連縄にも 同じ様な枝が沢山ぶら下がっていた。

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手水は亀の口から水が出ている。ここでは亀が神聖な神の使いなのだという。

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広い境内。左手前が舞い殿で右奥が本殿。本殿は「両流れ造り」という。

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由緒書きを呼んでびっくりした。なんと宗像三姉妹の「市杵島姫(いちきしまひめ)」が祀ってあるではないか。もう一方の「大山咋神(おおやまくいのかみ)」とは誰なのだろう。

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境内のあちこちには「山吹の花」が満開だ。山吹祭りが行われているだけはある。

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重森三鈴の作庭「上古の庭」の上に宝物殿があるので入ってみた。写真の右端である。

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市杵島姫の像である。

※館内は写真撮影禁止なので、宝物殿パンフレットの写真である。

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その隣には「大山咋神」(おおやまくいのかみ)が鎮座している。この方は恐らく市杵島姫の夫の徐福だと思われる。

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秦の始皇帝に言い付かり、東洋の島国(和国を蓬莱島といった)に不老長寿の薬を求めてやってきた徐福は、第一回目の来日時は「火明かり」と名乗った。

出雲王家の「高照姫」と結婚し「五十猛(いそたけ 後の香語山)」をもうけた後一旦帰国し、始皇帝に莫大なお金と沢山の青年男女(海童と呼ばれる)を貰い受け、二度目の来日は九州築後平野に上陸した。今度は饒速日(にぎはやひ)と名乗り、宗像家の三姉妹の二番目の「市杵島姫(いちきしまひめ)」と結婚し、穂穂出見(ほほでみ)をもうける。

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徐福の長男 五十猛は丹波へ移住して香語山と名乗り、その息子「天の村雲」が初代大和大王となる。

徐福の次男穂穂出見は九州物部家を起こし、その子孫が二度にわたり東征を行い、長男の子孫の大和の王朝(海部王朝)を倒して、大和朝廷を打ち立てる。

つまり兄が弟にやっつけられたのである。童話「山幸彦と海幸彦の物語」のモデルとなったのである。(※斎木雲州著大元出版 御伽噺とそのモデル)

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松尾大社は701年に秦忌寸都理(はたのいみき とり)が秦氏の氏神として建立されたと書いてある。藤原京時代のことだ。

また大山咋神の伝説を調べると、「丹波の開拓に尽力した」というのもある。つまりそれは丹波へ移住した五十猛 後の香語山の成果を言っているのだ。辰韓の王子ヒボコが丹波の円山川流域の開拓に尽力したというのはもっと後のことである。

と言うことは五十猛や海童の子孫たち秦国人が秦氏として、丹波から山代へ移住してきて、養蚕、醸造、精錬などの先進技術で太秦界隈に大きな力を持ち、松尾大社を建立したのであろう。

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徐福(素戔嗚)が五十猛海岸に上陸し、出雲王国で暴れ周り、大名持ちの八千矛(大国主)や、少彦(すくなひこー副王)の八重波都身(事代主)たちを幽閉殺害したことは、この万葉の時代になっても(徐福上陸から900年以上経っても)人々は記憶していた。だからその万葉歌にも事代主が「志都の岩屋」で幽閉殺害されたことが歌われているのである。

※志都の岩屋はこちらです。http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kodaiizumo/d/20130318

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秦忌寸都理たち、徐福と市杵島姫夫婦の子孫たちは、先祖の両親を祀るにあたり、徐福(素戔嗚、または火明かり、または饒速日)の名前を出すのをためらい、大山咋神の名前で祀ったのだろう。

あるいは、もっと以前から秦氏集団は「徐福」の名を隠して「大山咋神(おおやまくいのかみ)」と名を変えて 徐福を祀っていたかもしれない。

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武内宿禰の武内神社、多岐津姫の阿太加夜神社、味鋤高彦の阿須岐神社 2014年4月10日11日

2014年04月16日 10時13分12秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

1.武内神社 松江市八幡町

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武内神社は武内宿禰(たけしうちのすくね)を祀る神社である。

神社の由緒書きでは長寿の神様と書いてあるので笑ってしまう。

(※後ほど理由を述べます。)

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広い駐車場からこの鳥居を潜って参拝する。

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境内の八重桜は満開だった。

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神門を潜り進むと広い境内に出る。

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右が八幡社で左が武内神社だ。八幡社は応神天皇などを祀っている。

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こちらが八幡宮で応神天皇を祀っている。しかし神功皇后が生んだ応神天皇は5世紀の人で 武内宿禰とは時代が合わない。記紀で武内宿禰が仕えたとされた応神天皇の時代より150年以上前に 武内宿禰はあの世へ旅立っていたのだ。

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その隣が武内神社である。

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武内神社を横から見る。「大社造」ではないようだ。武内宿禰が徐福の血を引いている ので、まあ当然といえば当然といえるのかもしれない。

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武内宿禰は紀の国造の祖 高倉下(たかくらじ)の子孫である。

石見の五十猛海岸に上陸した秦国人徐福(記紀では素戔嗚と書かれた)は和名を火明かり(ほあかり)と名乗り、出雲王家第七代の主王(大名持ち)天之冬衣の娘 高照姫と結婚し長男五十猛(いそたけ 後の香語山)をもうける。

五十猛は出雲王朝の大屋姫と結婚し、高倉下が誕生するのである。ちなみに 大屋姫は第八代主王八千矛(記紀では大国主と書かれた)の孫娘であり、八千矛の長男 味鋤高彦(あじすきたかひこー後に大和葛城へ移住する。なおかつこの項の3番目の阿須岐神社の主祭神 でもある)の娘である。

一旦秦国へ引き返した徐福は秦の始皇帝に資金と若者(海童)を大量にもらい再び和国の九州築後に上陸し、ニギハヤヒと名乗る。そして宗像三姉妹の市杵島姫 と結婚しホホデミ(穂穂出見)をもうける。

ホホデミは物部家を起こしその子孫 ウマシマジたちが第一次東征を行い熊野から大和入りを果たす。その150年後の子孫の大和大王がミチウシ大王のときに九州物部はイクメ大王が第二次東征を行い大和で激しい戦を起こす。

武内宿禰ははじめ九州物部王朝のイニエ大王(イクメの父親)に仕えていたが、東征戦争ではミチウシ大王側につき、結果敗れて敗走し、出雲王家を頼りこの地に逃げてきて余生を終える。

武内宿禰はイニエ大王、宇佐豊玉姫(いわゆるヒミコ)連合国の使者として魏領帯方郡へ行き 魏書にも名前が載り活躍が書かれている。 

しかし記紀編集責任者の藤原不比等は、当然魏書の内容を把握していたが、

1和国が魏の属国だったことを隠したい。

2なおかつ魏書に書かれたヒミコを神功皇后(息長たらし姫ーオキナガタラシヒメ)と思わせたい。

以上二点から 3世紀の人武内宿禰を5世紀まで生きさせたのである。そのために武内宿禰は150年近くも生きたことになり、5人の大王に仕えたことにしたのである。

武内宿禰が長生きの人で長寿の神様だとかかれたので思わず笑ってしまったのだ。

不比等が作らせた記紀は、歴史の勝者である自分たちこそ、天から降りてきた神の子孫だと書いたのだ。古代出雲王朝なんてあったら困るのである。だから出雲王国を抹消したのだ。

そんなもの(出雲王国)があったら、自分たちこそ侵略者の末裔(大和朝廷が渡来侵略者の徐福の子孫であること)、そして出雲王朝を倒した征服王朝であるのがばれてしまうからである。

それは不比等よりも 持統女帝が一番気にしていたことらしい。だから「王朝万世一系」なる奇妙な作り事もこのときにできたのだ。

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2.阿太加夜神社 松江市東出雲町

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阿太加夜神社の森。

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阿太加夜神社由緒書き

※神社の由緒書きには大きな間違いがある。主祭神 についてであるが後ほど説明します。

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阿太加夜神社の神門。この中に代わった狛犬が陳列されていた。

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代わった狛犬だがなんとなくユーモラスだ。

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神木に巻き付けられた藁で出来た龍は古代出雲王朝で信仰された龍蛇神だ。境内の2本の神木に2頭巻きついている。

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まきついた龍

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口をあけた龍

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境内にはホーランエンヤで神様が乗る船が保管展示されていた。ホーランエンヤは松江市で12年後とに行われる船神事で日本3台神事のひとつとされている。

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本殿は もちろん高床式、妻入りの「大社造」だ。

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この意宇の森は第八代大名持ち臣津野(おみつぬ)が国引きを完成させてこの森で「おう」と言ったと伝えられている。

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この神社の主祭神 「多岐喜姫」 は 大国主の娘ではなく、大国主の奥方「多岐津姫」のことだ。神社の由緒書きにもあるように、多岐津姫は出雲の多岐町 にも祀られている。

 

多岐津姫は九州宗像三姉妹の一人だが、いずも出雲王家の血を引く人で第六代の大名持ち「臣津野」(おみつぬ)の孫娘でもある。

 

多岐津姫の祀られた神社の森に祖父の臣津野の記念碑があるのは偶然ではあるまい。  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー また阿太加夜神社は 記紀を書いた太安万侶 ゆかりの地でもあります。 太安万侶は 記紀を書き上げたあと、記紀の秘密を守るため 人麻呂と共に不比等により幽閉されます。 太安万侶は 幸運(?)にもご先祖の地 出雲王家東王家の向家の領地に幽閉されます。 太安万侶は 幽閉されながらも 秘密裏に向井家と連絡を取り「自分は出雲王家の血を引く 多臣家の末裔で 山部赤人の名前で 幽閉されながら記紀を書かされた」と伝えたと言われます。 そして「古代出雲王十七代の王の名前を古事記に書き入れた」と伝え、それに対して向家は出雲王家を代表して お礼を述べたと伝わっているそうです。 太安万侶が幽閉されて 余生を送った場所は 島根県松江市の「意宇の森(おうのもり)」で阿太加夜神社 (あだかやじんじゃ)が建てられています。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

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3.阿須岐神社 

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国道から阿須岐神社へ入っていく。途中分岐があり右が神社、左がいずも北山弥山登山口。

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鳥居を潜り参道を歩く。

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神社に着いた。小さな社だなあと少しがっかり。

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立派な道標が建っている。

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ところが横へ回ってみてびっくりした。正面に見えたのは拝殿で、奥に大社造の立派なお社があったのだ。相当身分の高い祭神だろう。

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由緒書きを呼んでまたまたびっくりした。なんと阿須岐神社の祭神は「味鋤高彦」なのだ。

徐福(素戔嗚すさのお)とその部下穂日たちに連れ出されて出雲の日本海に面した稲目洞窟に幽閉され殺害された 古代出雲王朝第八代主王(大名持ち)八千矛(記紀では大国主と書かれた)のご長男が味鋤高彦なのである。

彼は父親の死後出雲の地で秦国人との共存を嫌い、大和葛城南部へ移住した。そこで「高鴨神社」を建てた。

※「高鴨神社」の写真はこの項の最後に載せます。

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その他のご祭神を見てまたまたびっくり。大国主を殺害した徐福(素戔嗚)と、その息子五十猛(いそたけー後の香語山)、そして徐福の部下で直接八千矛(大国主)や事代主(出雲王朝第八代副王少彦の八重波津身)を殺害した穂日が祭神となっている。

殺された大国主、事代主とその家族味鋤高彦とその異母妹の下照姫とそのご主人の天の雅彦などが祭られていて、同時に殺した側の徐福とその部下穂日そして穂日の息子夷鳥(ひなどり)たちが同時に祀られている。これは後世に大国主たちを殺した手柄で 物部王朝から「出雲国造」にしてもらった穂日の子孫がねじこんだものと容易に想像できる。

ちなみに穂日の子孫が今の出雲大社宮司の家系なのだ。

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本殿はやはり大社造だ。

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神紋が表示してある。二重亀甲剣花菱だ。たしか出雲大社の神紋と同じはずだ。

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味鋤高彦とその子孫たちが造った高鴨神社 奈良県御所市

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高鴨神社は大きな池のほとりにあり、手水や舞楽舞台も池に張り出している。

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拝殿と本殿。しかし大社造ではない。たぶん後世に建て替えられたものだろう。

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ご祭神はやはり味鋤高彦だ。しかしここには殺した側の秦国人は無い。

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