古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

武内宿禰の武内神社、多岐津姫の阿太加夜神社、味鋤高彦の阿須岐神社 2014年4月10日11日

2014年04月16日 10時13分12秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

1.武内神社 松江市八幡町

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武内神社は武内宿禰(たけしうちのすくね)を祀る神社である。

神社の由緒書きでは長寿の神様と書いてあるので笑ってしまう。

(※後ほど理由を述べます。)

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広い駐車場からこの鳥居を潜って参拝する。

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境内の八重桜は満開だった。

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神門を潜り進むと広い境内に出る。

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右が八幡社で左が武内神社だ。八幡社は応神天皇などを祀っている。

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こちらが八幡宮で応神天皇を祀っている。しかし神功皇后が生んだ応神天皇は5世紀の人で 武内宿禰とは時代が合わない。記紀で武内宿禰が仕えたとされた応神天皇の時代より150年以上前に 武内宿禰はあの世へ旅立っていたのだ。

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その隣が武内神社である。

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武内神社を横から見る。「大社造」ではないようだ。武内宿禰が徐福の血を引いている ので、まあ当然といえば当然といえるのかもしれない。

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武内宿禰は紀の国造の祖 高倉下(たかくらじ)の子孫である。

石見の五十猛海岸に上陸した秦国人徐福(記紀では素戔嗚と書かれた)は和名を火明かり(ほあかり)と名乗り、出雲王家第七代の主王(大名持ち)天之冬衣の娘 高照姫と結婚し長男五十猛(いそたけ 後の香語山)をもうける。

五十猛は出雲王朝の大屋姫と結婚し、高倉下が誕生するのである。ちなみに 大屋姫は第八代主王八千矛(記紀では大国主と書かれた)の孫娘であり、八千矛の長男 味鋤高彦(あじすきたかひこー後に大和葛城へ移住する。なおかつこの項の3番目の阿須岐神社の主祭神 でもある)の娘である。

一旦秦国へ引き返した徐福は秦の始皇帝に資金と若者(海童)を大量にもらい再び和国の九州築後に上陸し、ニギハヤヒと名乗る。そして宗像三姉妹の市杵島姫 と結婚しホホデミ(穂穂出見)をもうける。

ホホデミは物部家を起こしその子孫 ウマシマジたちが第一次東征を行い熊野から大和入りを果たす。その150年後の子孫の大和大王がミチウシ大王のときに九州物部はイクメ大王が第二次東征を行い大和で激しい戦を起こす。

武内宿禰ははじめ九州物部王朝のイニエ大王(イクメの父親)に仕えていたが、東征戦争ではミチウシ大王側につき、結果敗れて敗走し、出雲王家を頼りこの地に逃げてきて余生を終える。

武内宿禰はイニエ大王、宇佐豊玉姫(いわゆるヒミコ)連合国の使者として魏領帯方郡へ行き 魏書にも名前が載り活躍が書かれている。 

しかし記紀編集責任者の藤原不比等は、当然魏書の内容を把握していたが、

1和国が魏の属国だったことを隠したい。

2なおかつ魏書に書かれたヒミコを神功皇后(息長たらし姫ーオキナガタラシヒメ)と思わせたい。

以上二点から 3世紀の人武内宿禰を5世紀まで生きさせたのである。そのために武内宿禰は150年近くも生きたことになり、5人の大王に仕えたことにしたのである。

武内宿禰が長生きの人で長寿の神様だとかかれたので思わず笑ってしまったのだ。

不比等が作らせた記紀は、歴史の勝者である自分たちこそ、天から降りてきた神の子孫だと書いたのだ。古代出雲王朝なんてあったら困るのである。だから出雲王国を抹消したのだ。

そんなもの(出雲王国)があったら、自分たちこそ侵略者の末裔(大和朝廷が渡来侵略者の徐福の子孫であること)、そして出雲王朝を倒した征服王朝であるのがばれてしまうからである。

それは不比等よりも 持統女帝が一番気にしていたことらしい。だから「王朝万世一系」なる奇妙な作り事もこのときにできたのだ。

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2.阿太加夜神社 松江市東出雲町

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阿太加夜神社の森。

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阿太加夜神社由緒書き

※神社の由緒書きには大きな間違いがある。主祭神 についてであるが後ほど説明します。

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阿太加夜神社の神門。この中に代わった狛犬が陳列されていた。

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代わった狛犬だがなんとなくユーモラスだ。

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神木に巻き付けられた藁で出来た龍は古代出雲王朝で信仰された龍蛇神だ。境内の2本の神木に2頭巻きついている。

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まきついた龍

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口をあけた龍

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境内にはホーランエンヤで神様が乗る船が保管展示されていた。ホーランエンヤは松江市で12年後とに行われる船神事で日本3台神事のひとつとされている。

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本殿は もちろん高床式、妻入りの「大社造」だ。

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この意宇の森は第八代大名持ち臣津野(おみつぬ)が国引きを完成させてこの森で「おう」と言ったと伝えられている。

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この神社の主祭神 「多岐喜姫」 は 大国主の娘ではなく、大国主の奥方「多岐津姫」のことだ。神社の由緒書きにもあるように、多岐津姫は出雲の多岐町 にも祀られている。

 

多岐津姫は九州宗像三姉妹の一人だが、いずも出雲王家の血を引く人で第六代の大名持ち「臣津野」(おみつぬ)の孫娘でもある。

 

多岐津姫の祀られた神社の森に祖父の臣津野の記念碑があるのは偶然ではあるまい。  ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー また阿太加夜神社は 記紀を書いた太安万侶 ゆかりの地でもあります。 太安万侶は 記紀を書き上げたあと、記紀の秘密を守るため 人麻呂と共に不比等により幽閉されます。 太安万侶は 幸運(?)にもご先祖の地 出雲王家東王家の向家の領地に幽閉されます。 太安万侶は 幽閉されながらも 秘密裏に向井家と連絡を取り「自分は出雲王家の血を引く 多臣家の末裔で 山部赤人の名前で 幽閉されながら記紀を書かされた」と伝えたと言われます。 そして「古代出雲王十七代の王の名前を古事記に書き入れた」と伝え、それに対して向家は出雲王家を代表して お礼を述べたと伝わっているそうです。 太安万侶が幽閉されて 余生を送った場所は 島根県松江市の「意宇の森(おうのもり)」で阿太加夜神社 (あだかやじんじゃ)が建てられています。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

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3.阿須岐神社 

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国道から阿須岐神社へ入っていく。途中分岐があり右が神社、左がいずも北山弥山登山口。

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鳥居を潜り参道を歩く。

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神社に着いた。小さな社だなあと少しがっかり。

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立派な道標が建っている。

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ところが横へ回ってみてびっくりした。正面に見えたのは拝殿で、奥に大社造の立派なお社があったのだ。相当身分の高い祭神だろう。

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由緒書きを呼んでまたまたびっくりした。なんと阿須岐神社の祭神は「味鋤高彦」なのだ。

徐福(素戔嗚すさのお)とその部下穂日たちに連れ出されて出雲の日本海に面した稲目洞窟に幽閉され殺害された 古代出雲王朝第八代主王(大名持ち)八千矛(記紀では大国主と書かれた)のご長男が味鋤高彦なのである。

彼は父親の死後出雲の地で秦国人との共存を嫌い、大和葛城南部へ移住した。そこで「高鴨神社」を建てた。

※「高鴨神社」の写真はこの項の最後に載せます。

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その他のご祭神を見てまたまたびっくり。大国主を殺害した徐福(素戔嗚)と、その息子五十猛(いそたけー後の香語山)、そして徐福の部下で直接八千矛(大国主)や事代主(出雲王朝第八代副王少彦の八重波津身)を殺害した穂日が祭神となっている。

殺された大国主、事代主とその家族味鋤高彦とその異母妹の下照姫とそのご主人の天の雅彦などが祭られていて、同時に殺した側の徐福とその部下穂日そして穂日の息子夷鳥(ひなどり)たちが同時に祀られている。これは後世に大国主たちを殺した手柄で 物部王朝から「出雲国造」にしてもらった穂日の子孫がねじこんだものと容易に想像できる。

ちなみに穂日の子孫が今の出雲大社宮司の家系なのだ。

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本殿はやはり大社造だ。

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神紋が表示してある。二重亀甲剣花菱だ。たしか出雲大社の神紋と同じはずだ。

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味鋤高彦とその子孫たちが造った高鴨神社 奈良県御所市

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高鴨神社は大きな池のほとりにあり、手水や舞楽舞台も池に張り出している。

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拝殿と本殿。しかし大社造ではない。たぶん後世に建て替えられたものだろう。

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ご祭神はやはり味鋤高彦だ。しかしここには殺した側の秦国人は無い。

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