古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

出雲王家、富家の富神社と出雲に攻め入った大和大王「フトニ大王」を祀る高杉神社 11月20日、22日

2016年11月29日 11時23分31秒 | 古代史の舞台を訪ねて
古代出雲王朝は 東出雲王家の富家と西出雲王家の神門臣家のニ家が
それぞれ主王(役職名は大名持ち)と副王(役職名は少彦)を交互に出し合って 維持されて来ました。
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この記事の直前の「物部神社」の項で 述べたように 九州物部軍の第二次東征の別同部隊の日本海東征
作戦で 猛攻を受けた西出雲王家「神門臣家」、東出雲王家「富家」とも降伏しました。

その後 出雲王国は物部軍侵入の手引きをした 穂日(徐福と共に渡来した徐福部下の)の子孫たちと、
物部進駐軍物部十千根などが管理する地域になります。
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富家は向家(むかい)と名前を変え 「熊野大社」に移り住みます。それまでの東王家の宮殿は物部十千根に
明け渡されて、後の神魂(かもす)神社となります。

その後716年に杵築大社(今の出雲大社)創建の話が出ると 旧王家の富家と神門臣家が財力を出したり
資金を集めて 大国主(徐福や穂日たちに殺されて 記紀で大国主と書換えられた第八代大名持ちの八千矛王)
を祀る 和国最大の杵築大社が完成するのです。
※当時のわらべ歌で 雲太、和二、京三(出雲の野しろが一番大きくて 大和の大仏殿が二番目、京都の
大極殿が三番目)と童に謡われたそうです。

そこで 富家は簸川郡簸川村にも別邸を構えます。それが 富村(とびむら)です。富家からは後に
有力大名家が沢山出て尼子家や毛利家から領地を貰い富村はひろがりました。

富家は熊野大社から 先祖神の一部を富村へ移して 「富神社」を創建しました。

ご祭神は稲田姫(初代大名持ち、菅の八井耳のお后)、八重波津身(第八代少彦で 八千矛と同時に
徐福や穂日らに志都の岩屋に幽閉殺害されて 記紀では事代主と書換えられた)、
鳥鳴海(事代主の長男で第九代大名持ち)、国押富(第十代大名持ち)などである。
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※ちなみに稲田姫は初代大名持ち「菅の八井耳」のお后であるが 記紀では素戔嗚(徐福)の
ヤマタノオロチ退治の話に利用されて 徐福と 松江市の須賀神社で新婚生活を送ったと書かれたが
稲田姫と徐福とは時代も数百年かけ離れていて、出鱈目ぶりもいいところで滑稽です。

やはり 記紀は歴史を題材にした小説です。神武やヤマトタケルなど架空の人物も沢山登場します。

また徐福の第一回渡来時は 出雲王家の高照姫と結婚し、二回目の渡来時は宇佐王家の市杵島姫と
結婚しています。数百年前の人、稲田姫ではございません。
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国道9号線の「富村」交差点を南へ入ります。
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すぐに鳥居が見えます。
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広い境内には 今は拝殿と本殿が残されて居ます。
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神社の由緒ですが、千数百年もたつと 記紀の話も随分入ってきたようです。
八束水臣津野王は第六代大名持ちで 「出雲王国の領土を飛躍的に広げた国引き王」として有名です。

しかしこの方は 富家(向家)の方ではなくて、西王家の神門臣家の方です。後から誰かが付け加えたのでしょう。
天の冬衣は 第五代大名持ちで富家の方です。

アシナヅチ、テナヅチとは 記紀の作り話のヤマタノオロチ退治の話の中で 稲田姫の両親として登場したはずですが、
松江市の須賀神社(物部進駐軍の物部十千根屋敷跡)にも 祀られて居ます。物部軍に協力した穂日の子孫たち
(韓日差や果安など 今の出雲大社宮司の祖先)が 時の最高権力者 不比等らに ゴマをすった
結果でしょう。

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広い境内に ポツンと拝殿がこじんまりと立っています。
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拝殿はこじんまりとしていますが、注連縄はさすがに大きくて立派です。
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本殿は 大社造とは かなり違うような。創建後に何回も建替えされているようです。
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境内にはいくつかの摂社がありますが、その一つに「歳神様」がありました。

事代主が殺害された後、皇子の奇日方たちは 大和葛城へ大勢の出雲族をつれて移住しましたが
事代主を祀る鴨津波神社とともに この歳神様を祭る 御歳神社(みとし)も創建しました。
(現在の奈良県御所市にあります)
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富神社の紋章です。「二重亀甲違い丁字」と言う紋です。出雲王家の関係した神社はこの二重亀甲紋
(ふたえきっこうもん)が多いようです。
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この紋は「二重亀甲剣花菱」紋で 味鋤高彦を祀る出雲市の阿須岐神社の紋です。
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富神社境内の藁蛇神様です。古代出雲族に信仰された幸の神三神と共に 龍蛇神信仰で沢山の藁蛇、藁龍
が各地で奉納されました。松江市の阿太加夜神社にも 大きな藁龍神様が今も奉納されて居ます。
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参考写真 松江市阿太加夜神社(大国主「古代出雲第八代主王 八千矛王」の皇后の多岐津姫を祀る神社)
     の藁龍神様の写真
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御神木に巻きついた藁龍神様
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大きく口を開けた藁龍神様
境内には 二匹の竜神様がいらっしゃるので 女夫神なのでしょうか
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高杉神社 鳥取県大山町
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高杉神社は大和の大王、つまり和国の王のフトニ大王(贈り名は孝霊)を祀っている神社です。
何故 和国の大王が ここに祀られているのかは、少し説明が長くなります。
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前々項の物部神社の項で述べたように、九州物部軍の第一次東征は 最初紀ノ川河口で高倉下の子孫に破れ
転進した熊野でもゲリラ戦で 身動きが取れなくなっていた。そこで大和へ密使を送り登美家に救援を求めた。

収拾の付かない内紛状態の大和を物部軍との強力で納めようと考えた、登美家の加茂建津之身の導きで 
無事に険しい伯母峰峠を越えて大和の磐余の地に落ち着いた物部軍は 次第に強大になって行き、
当時の磯城王朝と戦争が激化していきました。

次第に強力になる物部軍を恐れて、フトニ大王は皇子の大吉備津彦、若吉備津彦と細姫(くわしひめ)
を連れて西へ逃れて吉備に住み 吉備王国を造りました。

一方大和に残った別の皇子クニクルは第8代大王となり、磯城家のクニアレ姫を后とするも物部家からも
后を迎え入れて、物部と融和の姿勢を見せました。クニクル大王とクニアレ姫の皇子が大彦とモモソ姫です。

大彦は徹底した物部嫌いで 物部に抵抗して戦を続けたが、終には物部に大和から追い出されて北へ逃れた。
記紀にナガスネ彦と書かれて賊扱いされたのが大彦であり れっきとした大和の王子様で出雲王家の血を引き
渡来人の子孫と 格式が違うのに 負けた為族扱いです。

一方物部の血を引く大日日(オオヒビ)が第10代大王となり(贈り名は開化)次第に物部との争いは納まりつつあった。
オオヒビの妹皇女モモソ姫は母(クニアレ姫)に似て信仰心深く、磯城家第9代当主の太田タネコの保護を受けて 
三輪山に「富の霊畤」(祭祀場所)を設けて 太陽の女神(日霊女貴ひるめむち)を祭り人々の人気を得た。

※富の霊畤を訪ねた記録は 2015年12月25日の記事に載っています。

その祭祀には各地から大勢の豪族が訪れて 巻向には大きな街が出来、長かった内乱もようやく納まり
平和が訪れました。魏書に「その女王が立つと 和国の内乱は納まり 平和が訪れた」と書かれた 一番目の
ヒミコがモモソ姫です。
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ここでヒミコについて  支那人が卑字でヒミコと書いた女王は日本語で姫皇女(ひめみこ)で
何人も いらっしゃいます。
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※ちなみに2番目のヒミコは宇佐豊玉姫でこのお方はイ二エ王が日向西都原で亡くなられた後当時和国で尤も強大な王国
である物部宇佐連合王国の名実共に女王(皇后)で、魏の和国駐在武官テイシュンから直接和国印をもらい 
肩に直接錦帯を架けてもらいました。

魏の役人が直接会った唯一のお方(ヒメミコ)です。その他のヒメミコ方の話はすべて伝聞と書簡のはなしです。

3番目のヒミコは大日霊女貴(おおひるめむち)と呼ばれたサホ姫(第10代大王彦坐の皇女)で
このお方は最初大和入りしたイクメ王と組み 三輪山で日霊女貴(太陽の女神ひるめむち)を崇拝し人気を得ますが、
遅れて大和入りした豊国軍に追われ 兄皇子のサホ彦と共に敗走されます。近江から尾張へ さらに
日下部の連と名を変えて甲斐の国に隠れ住んだといわれます。


4番目が豊玉姫の娘豊姫(魏書では台与トヨと書かれ、記紀では豊来入姫とか豊鍬入り比売と書かれた)で、
イクメ王の侵入で大和が 戦乱状態に陥ったときに 当時伊都国に駐在していた魏の駐在武官 張政により
豊玉姫の後継者に指名されて 大和入りし 一時的に戦乱が納まりました。

豊来入姫は大和笠縫村檜原神社で月読みの神を奉じて 若日霊女貴とよばれました。しかし豊国軍の強大化と豊来入姫の
人気に 自分が追い出されるのを恐れたイクメ王が出雲系の加茂田田彦に 助けを求め、田田彦は三輪山や 
豊国軍に奪われた領地を回復すべく 出雲から援軍を得て 豊国軍を追い出すのに成功します。

豊国勢は大和を追われ、尾張方面へ闘争します。愛知県に数ある豊のつく地名はその名残です。
豊来入姫は 丹波、伊根と逃れて最終的に伊勢の出雲系の椿大神社(サルタ彦を祀る)
で保護されて 余生を送ったがイクメ大王が放った刺客に倒されて亡くなり遺体は大和へ運ばれて
ホケノ山古墳に葬られました。姫は最初宇佐から来られたので 「宇佐女の命」と呼ばれましたが
織ってを避けるため 「ウズメの命」と呼ばれるようになりました。現在 椿岸神社では
「ウズメノ命」として祀られて居ます。

※椿大神社(つばきおおかみやしろ)、椿岸神社訪問記は2015年10月7日です。

5番目のヒミコはヒバス姫です。イクメ大王に終に倒された約300年続いた磯城王朝最後の大王、道主大王の
娘皇女がヒバス姫です。

イクメ王に丹波まで追い詰められて降伏した道主大王は彦タツヒコと名前を幼名に戻して 因幡国造として
因幡に住みます。

ヒバス姫は一時因幡にも住んだので 中国山地の比婆山にほうむられたとか 神話が多く作られましたが
彼女の御陵は奈良市山稜町にあります。

また 彼女は西暦265年に晋へ使者を送り献朝し ヒミコとして記録が残されています。

6番目のヒミコがヒバス姫とイクメ大王との娘皇女 大和姫です。彼女は丹波の竹野郡で生まれ、宇良神社で
月読みの神とともに 太陽の女神の日霊女貴も奉じました。

そしてさらに志摩の国へ行き、そこで出雲系の井澤登美の命の保護を受け五十鈴川のほとりに内宮を建て
最初の伊勢斎宮として太陽の女神を祀ります。
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一方吉備王国のフトニ王は 中国山地を越えて 怒涛のように出雲王国に攻め込みました。
出雲の鉄が欲しかったらしい。出雲王朝は 磯城王家を親戚と考えていたが 突然の侵入に
大慌てだったという。次第に攻め込まれたが 反撃に移り、双方に大量の戦死者を出したという。

是が出雲王家に伝えられている「第一次出雲戦争」です。

出雲兵が立てこもった山を 吉備兵たちは「鬼林山」と呼んで今も名が残っています。
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大和の内乱、そしてこの第一次出雲戦争を 支那の歴史書「梁書」では 「和国大乱」と記して居ます。
(後漢霊帝の時代 178~183)

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出雲兵の必死の反撃で 戦況は次第に膠着状態になり 自然に休戦状態となったらしい。
大吉備津彦と若吉備津彦たちは 兵を引き上げて 今の日南町に住み、その屋敷跡は東と西の楽楽福神社となっています。

一方 大神山の北側今の孝霊山のふもとに住んだフトニ王は 土地の若い美女との生活に溺れて 
後から追って来た細姫を見向きもしなかったといわれて居ます。

失意の細姫は息子のところに引き上げてさびしく余生を過ごしたらしい。その細姫の死後 フトニ王が
住んだ今の大山町宮内では 大飢饉が起こり 人々は「細姫の祟りだ」と恐れて 土地の後家さんたちを
棒で叩くと 飢饉が治まり、平和になったといわれます。

後家さんのことを「うわなり」といったので「うわなり打ち」という行事が定着してフトニ王の住居跡に
建てられた 高杉神社の 神事として 今も伝えられて居ます。

フトニ大王の贈り名が「孝霊」とつけられたので その屋敷裏の山は孝霊山と呼ばれるようになりました。
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高杉神社を探すのは困難でした。和国の王の九電後に建てられた神社なので 大きな社を想像していました。

しかし近くの人に聞いても ほとんどの人がご存知ありませんでした。
ようやく探し当てて 宮内集落のはずれに鳥居を見たときはほっとしました。
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鳥居から境内を見たところです。
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拝殿も注連縄も 和国大和の大王の社にしては 質素です。
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拝殿と本殿を横から見たところです。
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本殿は 出雲式とは 程遠い建物ですね。
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これがうわなり打ちに使われる 叩き棒のようです。
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神社にはパンフレットが置いてあり、一部頂きました。
「うわなり」の字は 男の両側に女が二人いるので 「後妻」の感じがでています。
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「うわなり打ち」神事の起源もかなり正確に伝えられているようです。
「細姫の愛人たちに対する恨み」と言うのが「二人の愛人たちの正妻に対する恨み」というふうに
逆になってはいますが。
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都から来られた「やんごとなきお方」とはフトニ大王と名前まで書いてあるのにはびっくりしました。

この付近を歩いて フトニ大王の御陵を探したけど 分かりませんでした。
当然大王の御陵なので 宮内庁の管理の大きなお墓があると思い込んでいましたが 外れました。

大和に一度も来た事の無い 九州の 物部宇佐王国連合軍のイ二エ王を 大和の大王にして 
ご丁寧にこの墓を 宮内庁管理にしてでっち上げたり(奈良県櫻井市崇神稜)、ヒミコで有名な 
モモソ姫と大和姫のお二方をまとめて 「ヤマトトトビモモソ姫」として お墓を宮内庁管理ででっち上げたり
(奈良県櫻井市)やる事が出鱈目な宮内庁も ちゃんとしたお墓を フトニ大王に作って差し上げようよ。

たまには まともな事をやらなあかんぜよ、宮内庁さん。
小説に基づいてお墓を造るのではなくて ちゃんと歴史を勉強しましょうね。
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孝霊山の登山記は 「アウトドア日記」に乗せます。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh-outdoor
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http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
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