古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

九州北部を回り 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねる その1 宇佐神宮 2022年4月1日

2022年04月09日 23時28分25秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

今年2022年の春は 九州北部を回ってきました。

各地の桜を訪ねるのと 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねるためです。

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その1 まず宇佐神宮を訪ねました。

親魏和王に認定された和国の女王こと 宇佐王家の豊玉姫のふるさと宇佐神宮を訪ねる

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出雲王国民の末裔の私としては 宇佐はあまり好きではありません。

というか はっきり言って嫌いです。

なぜならば九州物部王家のイクメ王の第二次東征に従い、イクメ王の別動隊として渡来朝鮮人卑ボコの子孫の

田道間守(たじまもり)が日本海を東進し、東出雲王家を攻めて神聖な田和山神殿を破壊して、大きな損害を

出雲王朝東王家に与えました。

その昔、辰韓の王子卑ボコは 父親の王に嫌われたのか 家来と財宝を与えられて 国を追われました。

出雲王国に上陸しようとしたときに 出雲の王に「出雲の法律を守り、出雲の民と仲良くできるか」と聞かれましたが

卑ボコは心が荒れていたらしく、それを拒否したために上陸を拒否されました。

そのため卑ボコたちは但馬の丸山川上流湿地帯で 人の住めない場所に上陸して 苦労して開拓開墾して住んだと伝わります。

そのため卑ボコは終生出雲王国を恨んでいたということです。

卑ボコ子孫の朝鮮系の田道間守は その恨みを晴らしたかったのです。まさに逆恨みというやつですね。

田道間守の襲撃の後 続く物部軍の東出雲王家領への侵入時に 徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)の子孫の矛卑家の 

韓比佐とその息子ウカツヌクに出雲王国軍の手薄な場所を手引きされた物部軍は 激戦の挙句に東出雲王家を降伏させました。

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一方 日本海を進んだ物部軍率いる曙立王(あけたつおう)と豊国軍を率いる宇佐家の菟上王(うのかみおう)は 

西出雲王家を責め立てて 多くの犠牲者を払いながら西出雲王家の神門臣家を降伏させさせました。

この時も矛卑家の韓比佐たちが 出雲軍の手薄な場所を熟知していて 物部軍を手引きしました。

つまり出雲王国民にとって 渡来朝鮮人卑ボコの子孫田道間守や渡来秦国人 矛卑(ほひ)の子孫矛卑家の人間や宇佐王家は

憎き存在なのです。

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ちなみに 田道間守はヤマトへ一番乗りして、遅れて大和入りした物部軍の総大将イクメ王のいうことを聞かなくなり、

自分がヤマトの王のように振る舞いだしたのです。

困り果てたイクメ王は旧出雲王家の富家の 富太田彦に ヤマトへ進軍して田道間守を追い払うように秘密裏に

要請したのです。

旧東出雲王家の富(とび)太田彦は 憎き物部軍は大嫌いでしたが 出雲の神聖な田和山神殿を破壊して たくさんの出雲兵を

殺した田道間守をもっと憎んでいました。

 

そこで太田彦は イクメ王の要請を聞き入れて 野見太田彦と名前を変えて出陣して大和へ出雲軍を率いて入り、憎き田道間守

を見事蹴散らしました。

記紀はこの時の戦争を隠して 當麻蹴速(たいまのけはや)と野見の宿祢(のみのすくね)の相撲勝負のおとぎ話に書き換えて

います。

持統女帝の記紀編集方針で 自分たちは天から降りてきた神の子の子孫であり、血で血を洗うような政権交代など

なかったことにしたのです。

また田道間守亡き後の子孫が 息長家(おきながけ)であり、息長帯比売(おきながたらしひめ)が神功皇后となられるのです。

そして矛卑家の子孫が今の出雲大社の宮司家です。出雲大社の由緒書きを読むと祖先は矛卑だと書かれています。

このブログのヒミコのまとめの章でそこのあたりを詳しく書いていますのでお読みくだされませ。

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宇佐神宮上宮境内です。広くて立派です。

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神社の由緒書きです。

三棟の本殿の真ん中は比賣大神としか書かれていませんが 神社の公式ホームページを見ると 比賣大神とは

なんと宗像三姉妹の名前がはっきりと書かれています。つまり宇佐家の姫は書いて無く 他家の宗像家の

有名な三姉妹が書かれていて びっくりです。

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ちなみに宗像三姉妹の長女の田心姫(たごりひめ)は出雲王家第七代主王(役職名 大名持)の天之冬衣(あめのふゆぎぬ)

に嫁がれて 高照姫をお産みになりました。高照姫は徐福が第一回目に石見の五十猛海岸に上陸した後に 徐福に

嫁がれました。 

また田心姫は 第八代副王(役職名 少彦)の八重波津身をもお産みになりました。

東出雲王家の富家と 西出雲王家の神門臣家は 主王と副王をそれぞれ 交代で出していました。

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次女の多岐津姫(たぎつひめ)は出雲王朝第八代主王の八千矛(徐福や矛卑に殺されて記紀では大国主と書かれた)

に嫁がれて味鋤高彦をお産みになり 味鋤高彦の姫の大屋姫が徐福の長男五十猛(香語山)との間に高倉下をお産みになり

その子孫から武内太田根(武内の宿祢)が出てその子孫から平群王朝の幾多の大王が排出されました。

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宗像三姉妹の末娘の市杵嶋姫は二度目に和国に上陸した徐福に嫁がれて 穂穂出見や穂屋姫を

お産みになりました。穂屋姫は徐福の長男香語山との間に 初代大和大王となった天の村雲や

九州物部王家を立ち上げた穂穂出見をお産みになりました。

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つまり宗像三姉妹は出雲王家の九州分家である宗像家の姫であり、宇佐王家の姫ではございません。

和国の女王として 魏の和国駐在武官張政から直接肩に錦糸のタスキを掛けられて 和国の女王として

魏に認められた 宇佐王家の豊玉姫の名前はどこにもありません。完全に豊玉姫の存在が消されています。

 

記紀がその存在を完全に消した宇佐王家の女王を 堂々と描くわけにはいかなかったのでしょう。

なんせ記紀作成を指揮した不比等は 時の右大臣で、政権の最高権力者ですから その意に反することはできないのです。

ちなみに記紀は魏書に登場するヒミコをも完全に無視しています。

和国が魏の属国だった事実を隠したかったのでしょう。

またヒミコを神功皇后と思わせたかったのでしょう、神功皇后の活躍をことさら大きくしていますね。

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朝鮮の三韓征伐で息長姫が頼った 日向襲津彦の大きな力で 大成功した息長姫は 襲津彦の子供の皇子を

6歳で夭折させます。辰韓の血筋が途絶えると 三韓からの税収が途絶えることを恐れた息長姫皇后は 当時親交のあった

上毛野国造家(かみつけのくにのみやつこけ)の竹葉瀬の君(たけはせのきみ)が同じ6歳だったので 彼を秘密裏に

息長姫の養子として育てます。

上毛野国造家は 宇佐王家の豊玉姫の長男豊彦の子孫なのです。

長じて誉田別(ほむたわけ)皇子は誉田別大王(のちの贈り名を応神)として即位されたのです。

宇佐家から出た初めての大王誕生に非常に喜んだ宇佐家が 本殿を追加して誉田別大王を祀ったのです。

それと世間的にその生母とされる 息長帯比売の御本殿も追加して 本殿が計三棟となったのです。

そこのあたりもヒミコのまとめに書いていますので このブログの二番目のヒミコ豊玉姫の項をお読みくださいませ。

 

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勅使門(南中楼門)です。この前で女王の豊玉姫は宇佐の兵士を集めて 出陣の激励をしたといわれます。

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一之御殿です。

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三之御殿です。

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一之御殿と三之御殿は同じ造りに見えました。

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真ん中の門からは中の本殿は全く見えませんでした。

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この窓から見える山は御許山(おもとやま)と呼ばれていて 宇佐王家の始まりとなる神聖な場所だそうです。

この場所はその遥拝所です。

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若宮には 大鷦鷯(おおさざき)大王(のちの贈り名を仁徳)が祀られています。

しかしなぜ宇佐神宮で大鷦鷯なのでしょうか。よくわかりません。

最も大鷦鷯は誉田別の皇子とされていますから それでついでに祀ったのかもしれません。。

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この橋を渡り 下宮へ参ります。

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下宮の拝殿です。

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ここも上宮と同じく左から 一之御殿、二之御殿、三之御殿となっています。

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扉の格子から本殿を見たところです。

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少し離れてみると 本殿が三棟あるのが分かります。

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この八坂神社にはなんとあの素戔嗚が祀られています。つまり徐福です。

徐福は素戔嗚と記紀に書かれてからは あちこちの神社で祀られています。

京都の松尾大社や京都祇園の八坂神社でも祀られています。

しかしなぜ宇佐神宮で素戔嗚なのでしょうか。よくわかりません。

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宇佐神宮の前に 神武大王の顕彰碑なるものがありました。

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なにげなく碑文を読むとなんと 神武大王の東征の折、神武が宇佐に立ち寄りこの地に「足一つ上がりの宮」を立てて

宇佐王家から接待を受けたと書いてあります。

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西暦165年頃に九州物部王家の彦渚武王の三人の皇子 物部の五瀬、稲飯、三毛入りが熊野へ上陸して

ヤマトの磐余入りしたのが第一次東征です。

西暦246年頃に 物部宇佐王国連合軍を率いて 豊玉姫女王が 宇佐に立ち寄り宇佐兵を集めたといわれています。

この時宇佐に滞在したのが 駅館川(やっかんがわ)の川岸の「足一つ上がりの宮」と言われています。

つまり記紀制作者は このことを知ったうえで 前後2回の東征を一つにまとめて物語にしました。

総大将を架空の神武として 豊玉姫女王の足跡をぱちったのです。

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足一つ上がりの宮を訪ねてあちこち歩きました。市役所裏手の河川敷あたりかと思いきや

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神武顕彰碑の碑文によればこの橋の右側に足一つ上がりの宮があったそうです。

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駅館川河口も観ました。この辺りまで来ると 駅館川も大河の雰囲気ですね。

戦艦が多数入ってこれる感じです。

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安芸の宮島で病になり 病気療養中に亡くなった宇佐豊玉姫女王は 宮島に仮安置された後 宇佐に帰り

院内町の奥山という 宇佐神宮が見える山に埋葬されたと伝わります。その奥山をマピオン地図で探したのですが

分かりませんでした。奥山はいずこ。あの山並みの内の一つでしょうか。

 

大阪に帰宅してしばらくして気づいたのですが ひょっとすると宇佐神宮から見える あの遥拝所の

御許山に葬られたのではないかという気がしました。機会があれば次回は あの御許山に登ってみたいものです。

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宇佐神宮はこれで終わりです。

次は その2 宗像大社です。

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