古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

日光上州の出雲王家ゆかりの地を尋ねて 2015年9月13~15日

2015年09月24日 10時15分20秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

日光上州の各地に残る 古代出雲王家ゆかりの地を訪ね歩いた。
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日光白根山二荒山神社
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日光白根山への登山口の一つ、丸沼高原ロープウエーの山頂駅を降りてしばらく歩くと
日光白根山二荒山神社がある。
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標高1900メートルの高地で鳥居を潜る。
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大己貴乃命(おおなむちのみこと)を祀っていると書いてある。

大己貴とは 古代出雲王家の主王の役職名「大名持ち」の事である。紀元前2世紀末に秦国から渡来した
徐福やその手下穂日(今の出雲大社宮司の祖先)たちに幽閉殺害された 主王大名持ちの八千矛王と
副王(役職名は少彦)は徐福の子孫の物部王朝はじめ大和王朝に その大国主や事代主の祟りを恐れられて
全国に「大国主」(八千矛王)、「事代主」(八重波津身副王)として祀られた。

そしていつしかそれお二人が 「大黒さん」、「恵比寿さん」として祀られるようになる。

上州(上毛野国)はイクメ大王に大和を追い出された豊来入彦(記紀では豊鍬入彦)が
最終的に 落ち着いた場所として知られている。豊来入彦は 宇佐王家豊玉姫とイ二エ王(記紀では崇神)
の長男なので、ご両親共に出雲王家の血を引くお方である。

神社の由来書には 日光二荒山神社より勧請したとしてある。
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標高2580メートルの白根山山頂にも二荒山神社奥宮があった。青空が突然黒い雲に覆われて噴出した突風の中で
お参りした。
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日光二荒山神社
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中禅寺湖に面した神社の駐車場から この石段を登っていく。
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立派な山門を潜る。
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長い廊下を進んで 拝殿に向う。
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これが本殿だ。一風変わっていて、なにかおかしい。
まず神社建築特有の「千木鰹木」が無い。そして出雲の王を祀るにしては 大社造りとは縁遠い造りだ。

つまり古代出雲王家の関係者が建てたものではないことが分かる。
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神社の由緒書きを見て驚いた。八千矛王とその皇后、皇子を祀っているのは分かるが
皇后の名前が間違っているのだ。田心姫(たごりひめ)と書いてある。

古代出雲王家第六代の主王 臣津野(おみつぬ)の皇子吾田片隅(あたかたす)が九州宇佐の地に移住して
宗像家を起こした。彼には三人の姫君が居て 俗に言う「宗像三姉妹」だ。

一姫が田心姫で古代出雲王家第七代主王(大名持ち)の「天の冬衣」に嫁がれた。
そして八重波津身(事代主、いわゆる恵比寿さん)や、徐福に嫁いだ高照姫をお生みになった。

二姫が多岐津姫(たぎつひめ)で今の出雲市田儀町に住まわれた。そして第八代主王の八千矛王(大国主と記紀で書かれた)
の皇后となられたのである。そして味鋤高彦や美良姫(八重波津身の皇子奇日方に嫁がれる)を
お生みになったのであり、決して田心姫ではないのである。

そして和国に二度目の渡来時に築紫で「饒速日(にぎはやひ)」と名乗った秦国人徐福に嫁がれたのか 宗像三姉妹の末姫で
あの有名な「市杵島姫(いちきしまひめ) 」なのである。そして彼女がお生みになった穂穂出見が九州物部家をおこすのである。

つまり 日光二荒山神社の御祭神は 八千矛王(大国主)、多岐津姫、そして皇子の味鋤高彦の三柱とすべきなのである。
イズモ族と関係の無い奴らが 後の世に創り上げたから ヘンテコな建物や 間違いの主祭神 を祀り平気なのだ。
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境内には 恵比寿さん つまり八重波津身も祀ってある。
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境内には 黄金の龍が置いてあり、これまたびっくりした。

古代出雲王国では クナト三神(クナト大神、佐毘売の命、それと皇子神のサルタ彦)であるが
竜蛇神信仰も盛んであったという。

松江市内の古い神社には 今でも藁で編んだ龍が ご神木に巻きつけてある。また山代の国へ移住した出雲王家
が建てた 上賀茂神社(古代出雲では神の事をカモと発音したので、大和葛城地方へ移住した奇日方などは
カモ家、カモ族と呼ばれた)境内の砂の三角錐は この龍がトグロを巻いた姿だといわれる。

ちなみに戦場ヶ原の由来の昔話の この神社の龍と赤城山の大きなムカデが戦場ヶ原で戦ったという民話は 
この地に移住して来た出雲族(豊来入彦や大彦たち)と 土着の豪族との戦いの話だろう。
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男体山は 日光二荒山神社のご神体である。神社へ手続きをして山頂へ登拝すると 標高約2400m
の山頂に 奥宮がある。
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奥宮には 剣を持った大国主ー八千矛王がいらっしゃる。堂々とした風貌で威厳がある。
旧古代出雲王国国民としては、うれしい限りである。
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赤城神社
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国定忠治の像が建っている大洞地区から大沼を北へ歩くと 赤い橋が見えてくる。
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橋を渡ると 赤城神社の広い境内だ。
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立派な拝殿だ。
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裏へ回ると 本殿が見える。千木を良く見ると 九州物部家の横削ぎではなく、出雲方式の
たて削ぎ方式だ。もちろん妻入り形式ではない。つまり大社造りとは違うのだ。
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神社の由緒書きまたは縁起がどこにも無いので たまたま通りかかった巫女さんに尋ねると
神社のパンフレットを持ってきてくださった。それを見てびっくり仰天した。豊来入彦なのである。

九州物部家の第二次東征で イクメ王(垂仁)と共に 宇佐豊玉姫の皇子たちの
豊来入彦(記紀では豊鍬入彦とかウガヤフキアエズ)と豊来入姫(記紀では豊鍬入姫)は戦って来た。

しかしイクメ王が大和を旧出雲王家の野見太田彦などの協力で平定するに連れて、異母兄妹の彼等が邪魔になりだして
旧出雲王家の助けを借りながら 彼等を大和から 追い出した。

追われた豊来入彦は この地まで逃げてきてこの地の開拓発展に大いに貢献したという。それで祀られているのだ。

しかしこの神社の由緒書きには 「崇神大王が東国に豊来入彦将軍を派遣して平定した」「この豊来入彦を祀っている」
などと、記紀の御伽噺をそのまま載せているので 困ったもんだ。
追放された豊来入彦が 大王に派遣された将軍になっている。

記紀の内容は 史実ではなく、時の権力者が(持統女帝、藤原不比等など)が自分たちが渡来人の征服王朝と言うことを隠し
今の立場を正当化するためにでっち上げた 歴史小説なのに 千年以上立った今でも史実だと思い込んでいる人が多く、困ったものだ。
一般人ならともかく、歴史学者(たとえば梅原先生)なども 記紀の呪縛から未だ解き放たれていらっしゃらない。

渡来人の征服者なんて 和国人は誰も尊敬しないし 馬鹿にして言うことを聞きませんからねえ。
それで自分達は 天の国から下りてきたのだなんて 馬鹿馬鹿しいことをつくりだしたのですから。

宇佐豊玉姫(魏書に書かれた二番目のヒミコ)は出雲王家の血を引くお方なので 当然豊来入彦も豊来入姫
(大和入りした当初は檜原神社で祭りごとを行い 若ヒルメムチと呼ばれた)も当然出雲王家の血を引くお方だ。

ちなみに我が家には 神棚に豊来入姫のお札が安置してあるので、早速この神社でもお守りを購入した。

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榛名富士山神社
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榛名山は その姿が富士山に似ているところから 昔から榛名富士と呼ばれて来たそうだ。
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山頂には「富士山神社」があり、昔からこのあたりの人々が 祭礼時には数珠繋ぎになり登ったそうだ。
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鉄筋コンクリート造の社は 標高1400mの厳しい気候で劣化が激しい。
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神社の縁起が山頂に設置してあるが 劣化、風化が激しくて読みづらい。
主祭神 は「この花咲くや姫」と書いてある。
 つまり九州物部家の第二次東征でイ二エ王(崇神)が筑後平野から南下して薩摩の地に来たとき
美しい阿多津姫を見そめて后とし 生まれたのが イクメ王(垂仁)なのだ。

阿多津姫は 出雲王家の血を引いていないが、イ二エ王やイクメ皇子(後の垂仁大王)は出雲王家の血を引く
お方だ。

記紀では 短命に終わった阿多津姫を「この花咲くや姫」と書き 、ついでに短命に終わった物部王朝を隠すため
九州を一度も出た事の無い イ二エ王を大和の大王としたり(崇神)、架空の皇子ヤマトタケルを作ったり、
オキナガ姫の部下の豊前中津彦を「仲哀大王」として格上げしたり さまざまな苦労をして王朝を引き伸ばしている。

ちなみにイ二エ王も 後妻の宇佐豊玉姫も短命に終わっている。
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新しい由緒書きもあった。やはり主祭神 は「この花咲くや姫」と書いてある。
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山頂付近に面白い標識があったので行ってみることにした。
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石碑が四本立っている。
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説明が紀があるが これらは完全に記紀がでっち上げた作り話が世に出回った後に作られたものだというのがよく分かる。
初代大和大王の「天の村雲」が記紀により書き換えられて「神武」とされたり、「咲くやこの花姫」の醜女の姉
として造られた姫などがかかれている。

しかし二度目に和国に渡来した徐福が 筑後で名乗った和名「饒速日(にぎはやひ)」もかいてある。

ちなみに一回目に徐福が上陸した石見の五十猛海岸では その後 和名を「火明かり(ほあかり)」と名乗っている。
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ちなみにその後榛名神社へ行ったけど その頃にはすっかり このあたりの神社に興味がなくなってしまい
ざっと通りすがりに見ただけだ。
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明治政府の無学な田舎侍太刀が出した神仏分離令のせいで 沢山のお寺が 壊されたり神社にされました。
この神社も作りはお寺そのものですね。
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あとでとってつけたような由緒書きがあり、秦国人徐福の和名「火明かり」ににた名前の神さんも祀られていました。
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ということで 出雲王家のゆかりの地、今回の上毛野国、下野の国の訪問を終える事にした。
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紀の国に移住した出雲王家の人々 和歌山市を尋ねて 2015年9月8日 その1

2015年09月09日 14時28分22秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
紀州といえば 高倉下の命(たかくらじのみこと)である。

今回は高倉下が父の五十猛(徐福の長男で後の名を天の香語山)と母親の大屋姫とともに 
紀の国へ移住した痕跡を訪ねる。

大屋姫は出雲王朝第八代主王ー大名持の八千矛王の孫娘である。

また彼女は八千矛王(記紀では大国主と書き換えられた)が徐福らに拉致監禁され殺された後 大和へ移住した八千矛王の長男
味鋤高彦の娘姫でもある。

もっとも大屋姫は晩年を大和葛城に大勢で移住した出雲族とともに過ごし その地には「大屋」の地名が残る。

それと記紀の中のおとぎ話 「神武東征」のモデルの一人にされた 九州物部家「彦渚武王」の長男
物部五瀬(もののべのいつせ)が紀の国に上陸した後 高倉下の一族に毒矢で戦死させられ 
家臣たちにこの地に葬られた墓地とその地に建てられた竈山神社(かまやまじんじゃ)を訪ねる事である。

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その1 伊達神社(いたて)、射矢止神社(いやと)、大屋津姫神社(おおやつひめ)
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伊達神社(いたてじんじゃ) 和歌山市園部 1580
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伊達神社は地図の通り 有功(いさお)小学校に隣接していた。
ただこの小学校の案内標識がなくてあちこちで聞いて回った。(東有功小学校の看板はあります)
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道路に面して鳥居がありそこを潜る。
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長い参道を歩く。
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広い境内に出た。
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立派な参集殿がある。
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拝殿に行ってみる。
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拝殿に 由緒が貼ってあった。
五十猛を「いたける」と書いてあるが「徐福の長男 いそたけ」の事である。

その次の八井耳で少し驚いた。高倉下の父は五十猛であるが、母違いの兄がいる。

徐福が2度目の和国上陸後 九州宗像家ー出雲王家の九州分家ーの市杵島姫との間に生まれた「穂屋姫」と
五十猛との間に生まれた 天の村雲が初代大和大王となるのである。

大和大王二代目は沼川耳、三代目は玉手看であるが玉手看の弟が八井耳で多臣家の始祖であり
その子孫に記紀を不比等に書かされた太安万侶がいる。

高倉下と同じ徐福や出雲王家の血が流れているとはいえ なぜ天の村雲や沼川耳、玉手看ではないのか 分からない。
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境内にはご神木があった。
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拝殿から本殿へ続く廊下があるが 中の様子は分からない。
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境内にはさまざまな末社がある。
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こちらの末社を見ていて驚いた。
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なんと「粟島神社」と書いてある。
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粟島とは 出雲王家第八代副王で東出雲王家の八重波津身(記紀では事代主と書き換えられた)
が徐福の部下穂日(今の出雲大社宮司の祖先)や海童たちに誘拐、幽閉、殺害された場所が
「粟島」なのだ。

紀元前200年頃の出来事だが、奈良時代にはまだ人々の記憶に残っていて
万葉集にも 粟島の事が詠われている。

高倉下の子孫たちは、ご先祖様の幽閉された場所を祭ったのだろうか。

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射矢止神社(いやとじんじゃ) 和歌山市六十谷381
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すぐ近くの射矢止神社に言ってみる。
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この神社は現在工事中であった。
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裏に沢山の末社がある。
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ひととおり見て回ったが 昔からの近在の神社を合祀したのだろう。
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本殿の様子も見えない。
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この神社が気になったのは 神社の名前である。

射矢止神社の射るという字は五十猛の「い」に通じているからだ。
先ほどの神社は 五十猛を「いたけ」と読み、伊達(いたて)神社とした。
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先日は奈良県櫻井市で 穴師坐射楯神社(あなしにいますいたてじんじゃ)に行ったが 
穴師とは金属精錬技術者の事で射楯(いたて)とは五十猛の事である。

由緒書きがないので ネットで調べると祭神は ホムタ大王(応神)、オキナガタラシ姫(神功皇后)とこれは全国どこでも
あとからついでに祭られているもので 特に関心は無いが、天の香山、一言主 と書いてあった。

天の香山とは「天の香語山」つまり五十猛が丹波へ移住した後に名乗った名前なのだ。

それと一事主は 事代主の事で 関西では一言主とか「いちごんさん」と呼ばれる事が多い
出雲王家第八大副王、少彦の八重波津身のことなのだ。
と言うことでここでも香語山、つまり五十猛を祀っていたのだ。


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大屋津姫神社 和歌山市宇田森59
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宇田森集落の真ん中にこんもりとした森が見える。そこへ近づくのが難しかった。
この小さな橋を渡る。
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参道を歩いていくと 子供たちの元気な声が響いて来た。
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大きな保育園だった。東洋保育園とかいてあり、沢山の小さな子供たちが遊びまわっていた。
丁度私の孫たちと同年齢なのでしばらく微笑みながら 眺めていた。
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鳥居を潜る。
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こじんまりとした拝殿があった。
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由緒書きが貼ってあった。

大屋津姫とは大屋姫のことで 高倉下の母君なのだが、五十猛と結婚した出雲王家のこの姫君をなんと
五十猛の妹姫と書いてある。なんのこっちゃ。

高倉下が母君の大屋姫を祀るために立てたこの神社で ご両親を祀ったのに いつのまにか夫婦が兄妹にされてしまった。

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写真右側の本殿は一応「妻入り」であるが大社造りかどうか 見えなかった。
保育園入口の塀越しに写真を撮らせてもらった。
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五十猛も祀ってある。
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こちらが五十猛神社だ。
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次は その2 竈山神社、伊太祁曽神社、そしてついでに近くの 和歌山電鉄貴志川線貴志駅の駅長タマを拝見

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紀の国に移住した出雲王家の人々 和歌山市を尋ねて 2015年9月8日 その2

2015年09月09日 09時48分16秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
紀の国に移住した出雲王家の人々

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その2 竈山(かまやま)神社、伊太祁曽(いたきそ)神社、それとスーパー駅長たま
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竈山神社 和歌山市和田438
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広く大きな駐車場だ。この神社は和歌山電鉄貴志川線竈山駅を降りてすぐだ。
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広く長い参道を歩いていく。
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立派な楼門だ。今までの神社とは雰囲気が違うなあ。
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広く綺麗な境内だ。
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立派な社務所は無人で 由緒書きが置いてあった。それも大人用と子供用もあり、驚いた。

物部五瀬が この地で戦死したので お供の人々が五瀬をこの地に葬り、その墓を守るためにこの地に
住み着いて その御子孫が今も住んでいらっしゃると書いてある。
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拝殿に向う。
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大きくて立派な拝殿だ。
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内部にカメラのレンズだけ入れさせてもらい 写した内部だ。立派な拝殿だ。
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本殿は九州物部家の様式なので もちろん妻入りの大社様式ではない。
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周りにはずらりと末社が並んでいた。
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私の読んだ本にも書いてあったが やはりこの地は五瀬の墓稜なのだ。
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墓稜は同じ敷地なのだが、一旦外に出る。
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名草と言う地名は面白い。記紀には 五瀬は紀の国の土俗の女酋長に殺されたと書いてあるそうだが、
毒矢を射掛けたのは「名草の戸部」という れっきとした高倉下の子孫の姫たちの軍勢なのだ。
五瀬と同じ血が流れていて(徐福と出雲王家の血) けっして土俗の首長ではない。

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この川にかかる 「雄たけび橋」とは 江戸時代にこの地を訪れた本居宣長が

「雄たけびの 神代の御声 思ほえて 嵐激しき 竈山の松」と読んだ事から名づけられたという。
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この橋の向こうが五瀬の墓稜だ。
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中には入れないので 望遠で門を写した。
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伊太祁曽神社 和歌山市伊太祁曽558
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この神社も和歌山電鉄貴志川線の伊太祁曽駅の近くだ。
この赤い橋を渡る。
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参拝者用駐車場脇の鳥居を潜って歩く。
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長い参道を歩く。
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この鳥居が入口だ。
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広い境内の正面奥に拝殿がある。
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神社の由緒書きだ。ここも 五十猛(香語山)と大屋姫を祀っている。津麻津姫とは誰なのだろう。調べてみよう。
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立派な拝殿だ。もちろん祭神は五十猛と書いてある。
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向って右が大屋姫の社だ。
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拝殿から覗いた大屋姫のお社。
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拝殿から本殿への廊下も立派だ。
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本殿も大きくて立派だ。
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近くによっては見えないが どうも大社造りに見える。
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千木も出雲大社方式の立て削ぎだ。

※俗説に言われる立て削ぎは男神で横削ぎは女神といわれるがあれは間違いだ。
出雲方式は立て削ぎで 九州物部家方式が横削ぎだ。
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ご神木は数年前の台風で折れたらしい。
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折れた部分の「胴潜り」は参集殿で今も出来る。
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広い境内は綺麗に掃き清められている。
大きな社務所では巫女さんたちが忙しそうに働いていた。
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改修費の募集もされていた。
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入口近くにこの神社の古墳があるという。
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登ってみた。この古墳は恐らく高倉下の子孫の紀の国王のものだろう。
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古墳からは神社の屋根が微かに見えた。
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と言うことで今回の予定の訪問はすべて終わった。
そこで 和歌山電鉄貴志川線の次の駅の貴志駅へ行く事にした。
名物駅長の「タマ駅長」にお会いして帰ろうと思う。
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貴志駅は 駅舎が猫の顔をしていた。沢山の観光客のほとんどは支那人だった。
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残念な事に駅長さんはお昼寝タイムだった。
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前任者の駅長さんだ。
お土産のタマグッズを買って 帰宅した。
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