紀元前2世紀末、秦の始皇帝の命を受け不老不死の薬草を求めて石見の
五十猛海岸に上陸した徐福は、秦国人を大量に同行していて 和名を
「火明ほあかり」と名乗った。
その上陸に先立ち、徐福の命を受けて事前に上陸の許可を出雲王朝から
取り付けた部下の穂日親子はそのまま 出雲王朝で働いていたという。
そして徐福が連れてきた秦国の若者 海童たちと 出雲王朝第八代の主王
「大名持(おおなもち)の八千矛」と副王「少彦の八重波津身」を誘い出して
幽閉して殺害した。記紀では八千矛を大国主と表記し、八重波津身を言代主
と表記した。いわゆる大国さんと恵比寿さんである。
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徐福の息子「五十猛」(後に香語山と改名)は、秦国人たちとともに
丹波の国に移住してその息子とともに大和葛城地方に更に移住した。
そして徐福の孫「天の村雲」が初代大和の大王となるのである。
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秦国人たちはその後山城の国、近江の国へと移住し広がっていった。
近江の国には「秦の庄」という地名もあるほどだ。
その穂日と息子の武夷鳥(タケヒナドリ)を祀っているのが 近江の国
日野町の「馬見岡綿向神社」である。
その神社の春の祭り 「日野祭り」に出かけた。
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桟敷窓という独特の「祭り見物窓」が並ぶ日野の屋並み。
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桟敷窓の内側はこのようになっている。
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馬実岡綿向神社の表参道。
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神社境内には16基の曳山が並ぶ。
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各曳山の屋根には飾りつけがされて、沢山の見物客だ。
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曳山の更新の前に、このおっさんたちが青竹で地面を叩きながら
見物人をどかせていく。私も写真を撮っていたら足を叩かれた。
さすが秦国人の末裔達はやる事が荒い。
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そして神事が始まる。
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まず神輿が境内を出て、町内を練り歩く。
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その後引き山の巡行だ。
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次々に曳山が街中を引き回される。
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近江日野祭りの詳しい写真は
「季節の風景ー日野春祭り」に載せています。
http://blog.goo.ne.jp/yochanh1947-kisetsunofuukei/e/6dd85ca401c3b1f13788afa4c1a4b75e
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