古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

甲斐の国を訪ねて 河口湖町、笛吹市  その2  2023年11月20日 

2023年12月19日 23時33分14秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

甲斐の国を訪ねて   その2    笛吹市

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甲斐、相模山旅の帰路 笛吹市の 「一宮浅間神社」に立ち寄りました。

凄い門構えで 沢山の人が出入りしていたからです。

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広い境内には 沢山の参拝者がいました。

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拝殿の前には 沢山の着飾った子供たちがいました。

そうか 今日は 天気も良いので 七五三に沢山の家族が来ていたのでした。

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境内の大きな銀杏の木は 黄色く輝いていました。

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神社の由緒を読むと 主祭神は 此花咲くや比賣だと書いてあります。

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「三国志、呉書」に次のように書かれているそうです。

「黄龍2年-西暦230年ーに呉王孫権は自国軍を大幅に増強するために 二人の

将軍に1万の兵士をつけて夷洲(沖縄)と亶洲(九州)に行き 兵士を大量に連れて

帰るように指示した。しかし将軍らは亶洲を探し当てることができず 夷洲から

住民数千人を連れ帰るのみであった。孫権はこれに激怒して 将軍らは誅殺され

た」

この話が 沖縄人か呉人から 九州物部王家のイニエ王にもたらされたらしい。

当時物部王家は筑後平野にいたから イニエ王は呉軍の再来を恐れたのかも知れ

ません。

またイニエ王は 物部第一次東征軍が大和入りしたあと 磯城王家に

完全に飲み込まれてしまったことも知っていました。

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イニエ王は232年に 第二次東征を決意します。そして有明海を南下し 

薩摩の国 笠沙の地に到達し そこで美しい姫に会います。

彼女は阿多(南さつま市)の豪族竹屋守の娘で阿多津姫といいました。

イニエ王は彼女を妃に迎えます。

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記紀はこの史実を神話に変えました。

邇邇芸命(ニニギノミコト)は大山津身神に対して 娘の「木の花咲くや姫」を妃に

迎えたいと申し出た。大山津身神は 「姉の岩永姫も一緒に迎えてください」と

言いました。「もし岩永姫を返すならば あなたは短命になるであろう」と警告し

た。岩永姫は非常に醜女だったので 邇邇芸命は姉の岩永姫を返した。

それで邇邇芸命は短命となった。

 

また記紀は イニエ王(のちの贈り名を崇神)を大君として扱い 「御真城入彦(み

まきいりひこ)」と名前を変えている。いかにも任那からやってきた王としている

が イニエ王は筑後平野から薩摩と日向へやってきた 地方の王で

決して大和の大君ではないのである。

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イニエ王は薩摩から阿多津姫と共に日向へ回り 大淀川を遡り生目(いくめ)の地に

着いてそこで暮らした。阿多津姫はそこで王子を生み その王子は土地にちなんで

イクメと名付けられた。

そのイクメ王子が 後のイクメ大君(のちの贈り名を垂仁)である。

生目の地にはイクメ大君を祀る生目神社が建てられている。

※生目神社は このブログ 33薩摩日向を訪ねて に載せています。

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阿多津姫は短命で イクメ王子を生んだ後に亡くなります。

イニエ王はその後豊王国から 月神を祀り人気のあった宇佐豊玉姫を妃として迎え

 ここに物部豊連合王国が誕生します。

イニエ王は 宇佐豊玉姫の姫巫女としての人気を味方にして 大和入りしようと

計画したのです。

しかし記紀の神話に書かれた通り イニエ王も短命に終わります。

その後の豊玉姫と生目王子の活躍は このブログに書いた通りです。 

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ということで浅間神社でなぜ 此花咲くや姫が主祭神としてまつられるように

なったのでしょうか。

神話では此花咲くや姫は邇邇芸命との一夜の契りで妊娠したとされています。

たった一夜で 妊娠したことに疑いを持つ邇邇芸命に対し 此花咲くや姫は 

「天津神の御子なら焼け死ぬことは無いでしよう」と言い 産屋に篭り火を放った

という。燃え盛る産屋の中で 無事生まれたのが 海彦、山彦ともうひと柱の

三人です。

燃え盛る火の中で出産したということで、たびたび荒れ狂う富士山を鎮めるべく

火の神として 浅間神社の大神として祀られたのでしょうか。

また いつのころから浅間神社の主祭神とされたのか 色々調べましたが

詳細は分かりませんでした。

此花咲くや姫の御子が山彦で 山彦(ホホデミ)と乙姫(豊玉姫)の御子が

鵜萱葺き合えず(ウガヤフキアエズ)でその御子が神武。

これらの神話の作者、太安万侶たちは 史実と実在の人物を熟知したうえで

ストーリーの組み立てをしたとしか思えませんね。

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邇邇芸命(ににぎのみこと)という名前は 饒速日(にぎはやひ)と似ていますね。

また神話には 火明り(ほあかり)という御子も登場します。

紀元前三世紀末に 石見の国五十猛海岸に上陸した徐福は 和名を火明り

(ほあかり)と名乗ります。またいったん秦へ帰国して徐福は皇帝から

さらなる資金と海童たちをもらい 二度目に佐賀の浮杯(ぶばい)に上陸します。

その時は 饒速日(にぎはやひ)と名乗ります。記紀の執筆者の太安万侶は

そのあたりのことをよく知っていたから そんな名前を作ったのだと思います。

饒速日(にぎはやひ)と宗像三姉妹の末娘、市杵島姫(いちきしまひめ)との間の御子

が ホホデミなのです。

 

初代ヤマト大王「天の村雲」は磯城家のタタラ五十鈴姫(事代主と活玉依り姫の

姫)と結婚し、その皇子「沼川耳(ぬなかわみみ)(のちの贈り名を綏靖すいぜ

い)」が二代目大王となります。

沼川耳はタタラ五十鈴姫の妹「五十鈴依り姫」と結婚し玉手看(たまてみ)と

八井耳の皇子が生まれます。

王位を継いだのは 弟の玉手看(たまてみ)(のちの贈り名を安寧あんねい
)で 

八井耳は「多臣家(おおのおみけ)」の始祖となり、その家系が連綿と続き記紀

製作者の太安万侶は 多家(おおけ)の子孫です。

つまり太安万侶は出雲王家の子孫でもあるのです。もともと臣は出雲王族を現す

家系です。

だから太安万侶はそのあたりの史実をよく知っていたのだと思います。

※多神社(おおじんじゃ)の訪探記は2015年12月26日の記事に載せています。

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終わり

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日光二荒山神社(にっこうふたらさんじんじゃ)を訪ねて その2 2022年12月9日

2023年02月12日 18時10分16秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

日光二荒山神社 その2 

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去年末の甲州武州下野(しもつけ)山旅の最後に 日光二荒山神社本社を訪ねました。

                             2022年12月9日

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神社入り口です。全体がうっそうとした森です。

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ここが大鳥居で、ここから参道が始まります。

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大鳥居の足元には、大黒様がいらっしゃいます。

つまり主祭神の大国主こと古代出雲王朝第八代主王八千矛王です。

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神門をくぐると

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正面に拝殿があります。

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拝殿の右奥に本殿の屋根が、少しだけ見えています。

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望遠で覗いた本殿の屋根です。

檜皮葺はなく、瓦葺きです。大社造りとは、程遠いお寺の建物の感じがします。

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広い境内です。

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建物がたくさんあり、どの建物が何なのか分かりません。

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さて日光二荒山神社の公式ホームページには、以下のように書かれています。

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御祭神 二荒山大神 (ふたらやまのおおかみ)
     ⇒親子3神を祀る
      大己貴命   (おおなむちのみこと)     父
      田心姫命   (たごりひめのみこと)     母
      味耜高彦根命 (あじすきたかひこねのみこと) 子

古くより、霊峰二荒山(ふたらさん・男体山)⇒標高2,486㍍を
神の鎮まり給う御山として尊崇したことから、御山を御神体山と
仰ぐ神社で、日光の氏神様でもあります。

境内は、日光国立公園の中枢をなす、日光連山をはじめとて、
御神域は、3,400㌶におよぶ広大な境内地です。

  華厳の滝や下りのいろは坂、重要文化財の神橋など

 日光市内に3社鎮座しています。
  男体山山頂⇒ 奥宮
  中禅寺湖畔⇒ 中宮祠
  山内(市内)⇒ 御本社

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古代出雲王朝初期の系図です。

(※斉木雲州先生の本をはじめ大元出版のすべての本を参考にして私が書きました)

古代出雲王朝第八代主王、八千矛(やちほこ)王の奥方は、多岐津姫(たぎつひめ)であり田心姫(たごりひ

め)ではありません。皇子は、確かに味鋤高彦ですが 奥方の名前が違います。

田心姫は 第七代主王 天之冬衣に嫁がれ 第八代副王 八重波津身(事代主)のご母堂です。

何故このような間違いを堂々と主張しているのでしょうか。

この神社を造営したと思える下野国の国造家が 出雲族ではないからこんな単純な間違いをするような

気がします。

ヤマトには 大国主や事代主を祀る神社が多数現存していて そのすべては ヤマトに移住した出雲王家

の皇子たちにより 作られました。主祭神は八千矛王か少彦の八重波津身です。

主祭神の出雲の王族の名前を間違うことはありません。

詳しくはこのブログの9.10.11.12をご覧ください。

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名実ともに ヤマトの大王となったイクメ大王(垂仁)の皇子忍代別(おしろわけ)大王(景行)は

九州と東国の遠征をおこないます。その東国への遠征に旧出雲王国の向家に出兵を要請します。

ヤマトに出雲系の磯城王朝があった時に 豊国軍がヤマトへなだれ込んで 出雲系の加茂氏を山城の国に

追いやったことがあり 向家は豊国軍に反感を持っていました。そこで東国にのがれた豊国軍を

探し出すため その要請を受け入れて 旧出雲王国軍はまず三河の国周辺で 旧豊国軍の残党を

探し出して東へ追い払いながら 関東に進み そこで豊国軍の残党を 上毛野国(かみつけぬくに)と

下毛野国(しもつけぬくに)に追い払った後 肥沃な関東平野南部に住み着き開拓し 関東平野南部の

秩父、武蔵、相模、安房、須惠などの国造家となりました。

(※詳しくは 大元出版斉木雲州著「出雲と蘇我王国」をご覧ください)

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つまり出雲勢により大和から三河へ追い払われ、更に上野国、下野国まで追い払われた豊彦の子孫たち

豊国勢は すぐ近くの関東南部に住み着いた出雲族たちからあまり睨まれないように 出雲の神様を

祀る神社を造ったのではないでしょうか。それで 建物は大社造りとは全く事なり お寺のような建物

になり 神社の主祭神も母神を間違えている。これは私個人の 勝手な想像ですが。

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日光二荒山神社 おわり

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九州北部を回り 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねる その4 浮杯 2022年4月1日

2022年04月22日 23時30分07秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねる その4 浮杯(ぶばい)

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徐福の上陸伝説は日本各地にあるようです。しかしその大半は徐福本人ではなく、徐福が連れてきた

海童だったり 徐福の子孫の九州物部王朝の皇子だったりだと思います。

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私もかつて世界文化遺産熊野古道のトレッキングをしているときに2度、徐福上陸地点と言われる場所に遭遇しました。

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※地図は メイツ出版 熊野古道より

世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」のうち「熊野古道中辺路」は紀伊田辺をスタートして山に入り、熊野本宮大社、

熊野那智大社、そして熊野速玉大社の熊野三山へ詣でる参詣道です。

またブルーの道が伊勢路です。伊勢神宮より熊野本宮大社へ至る参詣道が伊勢路です。

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その1 「世界文化遺産熊野古道伊勢路」 の徐福の里

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波田須の道の地図です。ピンクの部分を歩きました。

案内図の茶色の部分だけが石畳であとのグリーンの道はアスファルト道路です。

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石畳道を降りて国道わきのこの「徐福茶屋」のわきから下へ降ります。

この茶店はここの御主人が徐福の名前を付けたもので 徐福の言われとは関係ありません。

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眼下に熊野灘を見ながら道を降ります。アスファルトの道ですが伊勢路です。

正面の大きな楠木が「徐福の宮」で波田須集落の真ん中にあります。

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波田須集落の中程にあるこのお宮さんが 徐福の宮です。

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徐福がこの地に上陸したと書いてあります。それは間違いで徐福ではなく、徐福の子孫か(九州物部が

東征の時に上陸したのか、)または徐福が連れてきたたくさんの海童たちの子孫が上陸したものでしょう。

波田須集落の人たちは このお社を大切に守り続けてこられたのだそうです。

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集落を抜けて駅へ向かいます。

この道も伊勢路だと書いてあります。

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ちなみに これが波田須駅です。駅舎はありません。ホームがあるだけです。

この駅がアニメ映画「凪のあすから」で舞台のひとつになり たくさんのアニメファンの聖地になったそうです。

休日にはたくさんのアニメファンが全国からこの駅にやってくるそうです。

私はこのアニメを見ていないので どんな場面にこのホームが登場するのか分かりませんが。

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その2 世界文化遺産熊野古道中辺路の徐福上陸地点

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27

熊野古道中辺路は 熊野那智大社、そして世界遺産補陀洛山寺を過ぎてしばらく歩くと熊野灘の海岸を歩きます。

潮騒を聞き、潮の香りをかぎながら歩く気持ちの良いコースです。

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渚の道を約2キロ歩くと浜道が終わり 浜王子神社に来ます。

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こじんまりしたお社にお参りして その傍らの神社由緒書きを読むとびっくり仰天しました。

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この神社の主祭神は 稲飯(いないい)と三毛入(みけいり)だと書いてあります。

この二人は記紀には絶対に出てこない名前ですね。

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秦国から大量の技術者や若者ー海童たちを連れて 紀元前2世紀のはじめに 二度目に和国上陸を九州築紫にした徐福は、

宗像家(出雲王家の第六代主王臣津野の皇子吾田片隅が宇佐に移住して開いた王家)の宗像家三姉妹(吾田片隅の三人の娘)

のうち市杵島姫を后にします。

そして生まれた皇子穂穂出見(ホホデミ)が立ち上げた王家が 九州物部王家です。 

それから約300年後の二世紀はじめ 九州物部王家の物部五瀬(いつせ)は大和への第一次東征を開始します。

五瀬たちは 最初紀の国に上陸しようとしました。

 徐福が最初に上陸した出雲で 出雲王家の高照姫と結婚して出来た徐福の長男五十猛の息子高倉下は母親の大屋姫

と共に紀国に移住して勢力を強めます。

 

その高倉下の子孫たちに 紀の皮河口で手痛い反撃を食い 大将の物部五瀬は戦死します。 

残った九州物部軍は 船で南下して 熊野に上陸しますが、ここでも磯城王朝家のゲリラたちに攻撃されて

身動きが出来なくなります。

困り果てた物部軍は極秘にヤマトの登美家に使者を送り 自分たちを遊馬と屁案内してくれるよ絵に頼みます。

出雲王家の分家大和登美家の加茂建津乃身の導きで 無事にヤマトの磐余の地に落ち着いた物部軍は加茂建津之身に

感謝して彼を支那の神話に登場する太陽に住むカラスの八咫烏として祀り感謝します。 

磐余の地に入り 磐余彦(いわれひこ)と呼ばれる物部軍の大将は 物部の五瀬の弟の 稲飯なのか 三毛入りなのか

分からないので 記紀は「物部のウマシマチ」と言う名前をでっち上げました。

それが神大和磐余彦(神武)のモデルの一人です。

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その熊野に上陸した 物部稲飯と物部三毛入りの両方が主祭神 なので驚きました。

記紀には絶対に出てこない名前ですね。

「斎木雲州先生」の出雲王朝の古代史のまさにその通りなので 驚いた次第です。

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道路に埋め込まれた標識どおりに歩いていく。これも熊野古道なのです。

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40

突然きらきらした支那風の門が出てきました。見ると「徐福公園」と書いてあり、びっくり。

早速中へ入ってみることにしました。

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なんとこれが 道教の導師「徐福」だという。説明を読んで またまたびっくり。

なんと徐福は沢山の海童を連れて この熊野川の河口から 和国へ上陸したと書いてあります。

どこから こんな嘘を思いついたのでしょうか。

 

つまり熊野に上陸したのは 徐福ではなくて、徐福亡き後約350年後の子孫の九州物部王家の稲飯と三毛入りなのです。 

しかし嘘もこう堂々と書かれると 感心するなあ。

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阿須賀神社が分からなくて、地元の方に聞きまくり やっと到着しました。

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この阿須賀神社の由来書を読むと大変面白い。

フトニ大王(考霊天皇)の7年に徐福がこの地に上陸したと書いてあり、この神社は徐福を祀っているらしいのです。

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この項で前述しましたが、その頃この地に上陸したのは 先ほどの王子神社の主祭神 「稲飯と三毛入り」で

彼らが大和入りしたので 徐福の孫の天の村雲に始まる海部王朝(あまべおうちょう)第七代フトニ大王

(のちほど考霊と贈り名をつけられた)は大和の国から吉備の国へ逃げ 更に出雲王国の伯耆の国へ進出して 

出雲王家と第一次出雲戦争を引き起こしたのです。支那の歴史書に書かれた「和国大乱」の一つです。

 

つまり西暦170年頃に 熊野に上陸したのは徐福ではなくて 徐福の子孫たち「稲飯と三毛入り」のことを  

この神社では 「徐福が上陸した」と書き換えて ついでに徐福を祀っているのです。 

このあたりの神社は 先ほどの浜王子神社のように 歴史も非常に古く その由緒を読むと大変面白いのです。

その由緒は全くのでたらめではなくて 何らかの根拠があり、とても面白いのです。

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以上熊野古道を歩いた時に出会った 二つの徐福上陸地をご紹介しました。

探せばまだまだあると思います。

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今回の北九州で古代出雲を訪ねる旅の最後に徐福二度目の和国上陸地の浮盃(ぶばい)を訪ねました。

どんな場所なのか 昔から気になっていた場所でした。

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BC219年に始皇帝からたくさんの資金と海童たちをもらい 河北省秦皇島を出発して石見海岸の五十猛に上陸した

徐福とその忠実な部下の矛卑(ほひー今の出雲大社宮司の祖先)は 出雲王家の主王と副王を同時に殺しても 

徐福は出雲の王にはなれませんでした。出雲王国の組織が強く出来上がっていたのでしょう。

 

そこで徐福は いったん秦国に帰り始皇帝から更なる資金と海童たちをもらい不老不死の薬を探すふりをして

和国の王になるべくBC210年に今度は浙江省寧波(にんぽー)を出航し佐賀の浮杯に上陸しますが 今度も和国の王に

なれませんでした。

徐福の次男、穂穂出見が九州物部王家を作り 更にその約450年後にその子孫たちが出雲王国や磯城王朝を倒して大和入りし、 

やっとイクメ大王が 徐福由来の物部王朝を作ったのです。

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浮盃を訪ねる

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佐賀市浮盃になかなかたどり着けなくて グーグルに「ぶばい」と叫んだらここに連れて来てくれました。

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なるほどすぐ横の交差点は 浮盃交差点でした。

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佐賀市諸富町浮盃の新北神社をまず訪ねました。

これが成功で この神社の奥様がいろいろと親切に教えてくださいました。

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拝殿、本殿が二つずつあり、それぞれ別の神を祀っていると思いきや、おくさまがたまたま出てこられて

社殿がふるくなり 建て替えした時に 古いほうもそのまま残したと言う事でした。

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これが境内のビャクシンの木です。徐福が上陸の記念に植えたといわれています。

この珍しいビャクシンの木は 日本ではほとんど他では見られないそうです。

徐福が植えたのなら 樹齢2200年ほどです。幹はほとんど空洞化していました。

樹齢二千年と言われる 北斗市山高神代桜の幹よりさらに空洞化が進んだ感じでした。

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徐福の像が安置されていました。

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境内をいくら探しても 徐福が上陸後に体を清めたという「御手洗の井戸」を奥様にお聞きすると

ここから2キロほど海側へ行き 今は民家の庭に安置されているという事でした。

その民家の奥様は気さくな方なので 呼び鈴を押せばだれでも拝見できるという事なので

神社の奥様にお礼を言ってから 車で向かいました。

道中は鳥居が続いています。

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教えられたとおり 標識がありました。

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その民家の帰依には説明看板もありました。

この井戸は長い間場所が不明だったそうですが 大正15年の遺跡発掘調査時に 

この井戸が発見されたと書いてあります。

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呼び鈴を押すと奥様がでてこられて 気持ちよく中へ入れて頂きました。

この社の中に井戸があります。

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中を覗くとこんな風になっていました。古そうですね。

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浮盃の横を流れる筑後川の河口付近へ行ってみました。

徐福たちの船はここを通ったのでしようか。

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河口には徐福が建っていました。

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この地では徐福はそんなに 嫌われていないようです。

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出雲王国内では 徐福たちは 出雲の王族を殺したり 海童たちが農作物を壊したり大暴れして

出雲王国内では 悪魔のように嫌われた徐福ですが ここ浮盃では 嫌われるどころか

浮盃の人たちに親しまれているのが 驚きでした。「なんでえ?」と言う感じですが

徐福はここ 浮盃に字揚陸した後 この地には長居せずに すぐに吉野ケ里へ行き そこでお城を作り

住んだので この地ではほとんど暴れることはなかったのでしょう。

それでこの地の人々は 徐福をきらっていないのかなと思いました。

出雲王国民の末裔の私としては 徐福を嫌っていない人がいることが 大いに不思議でした。

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と言うことで今回の 古代出雲を尋ねる旅を終わります。

この項も大元出版の 斉木雲州先生の本をはじめ各本を参考にしました。

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九州北部を回り 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねる その2 宗像大社 2022年4月1日

2022年04月19日 11時17分56秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

その2 宗像大社

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宗像大社の境内配置図です。本殿のほかに第二宮と第三宮があります。

それと少し離れたところに高宮があり、神社の始まりの神聖な場所だと書いてありました。

最後に参拝するつもりです。

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宗像大社の御本尊は宗像三女神だと書いてあります。つまり宗像三姉妹の事で 宗像家の始祖の

吾田片隅については一言も述べられていません。

最もこの説明看板は文部省の役人のどんな奴が書いたか 書かれていないのでどうせ記紀にのっとった

当たり前のつまらん解説と思いますが、宗像大社の公式ホームページを見ても宗像三女神がご本尊だと

書いてあります。

しかも 宗像三女神は天照大神の娘だそうで びっくり仰天です。

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天照大神は後の世にでっち上げられた 太陽の女神で 主に大王家が利用しました。

物部家の始祖、穂穂出見は徐福の次男ですが 徐福は夜山に登り星に祈りを捧げていました。

そのうち徐福が連れてきた海童たちが 各地に散らばると 各地で星を拝むようになり、各地の妙見山が

その名残りだそうです。

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そののち 朝鮮系の息長家や宇佐家では月を拝むようになりました。

太陽神を「お天道様」と呼ぶのに対して お月様の神様は「月読の神(つくよみのかみ)」

とか「お陰の神様」と呼ばれました。今もお陰様と言うのはその名残だそうです。

※(勝 友彦著 「親魏和王の都」 大元出版)

太陽を拝んでいたのは 古代出雲王朝です。出雲王朝の国教の三神のクナト大神、佐比賣の命、

それに皇子神のサルタヒコの命の三神のうち佐比賣の命が 後年の天照大神のモデルと言われています。

つまり太陽の女神です。

 

大和に出雲系の磯城王朝が成立すると 太陽の女神を三輪山に祀り、その麓で遥拝するようになります。

三輪山に祀られた 太陽の女神を登美家(出雲系のヤマトの大豪族)は登美山(鳥見山)で遥拝するようになりました。

ヒミコの項で書きましたが 長い戦乱の後 大日々が大王になり 登美家のモモソ姫が姫巫女になると

春秋の大祭には 多くの豪族たちが 遠方からも参加するようになり、巻向にその滞在宿舎が建てられました。

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その後二番目のヒミコの宇佐豊玉姫は「月読の神」を奉じていましたが、三番目のヒミコのサホ姫は出雲系なので

太陽の女神を信奉していました。これに反感したのが 豊玉姫の皇子の豊彦と皇女の豊姫です。

魏から親魏和王の認定を受けた豊玉姫の後継ぎは自分たちだと主張して サホ姫を大和から追い出して

豊姫が四番目のヒミコになり、檜原神社で再び「月読の神」を奉じます。

大和を統一しつつあったイクメ王は 再び出雲軍の力を借りて 豊国軍を大和から追い出しました。

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大和を統一したイクメ王は晴れてイクメ大王となります。活目入彦五十狭茅命(いくめいりひこいさちのみこと、

後の贈り名は垂仁)そして降伏させた磯城王朝最後の大王の彦美知宇斯大王の皇女のヒバス姫を后として

大和姫を設けます。

大和姫は最初月読の神を奉じていましたが、そのうちに太陽の女神「日霊女貴(ひるめむち)」を奉じるようになり、

大和姫は丹波から伊勢へ、さらに志摩の国へ行き 伊雑宮の社家井沢富彦(登美家出身)の支持を受けます。

 

大和姫は井沢富彦の協力を受けて 伊勢の国五十鈴川のほとりに内宮を建て そこに太陽の女神を祀り

(太陽の女神は三輪山から移されました)、最初の伊勢斎宮(斎王)の役を務めました。

これを以後の大王家が受け継ぐのです。

つまり大王家の太陽の女神信仰は 出雲王朝の完全なパクリなのです。

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話は元に戻りますが、宗像大社の由緒書きは 出雲王家や宗像家の伝承や記録は全く表にせずに、

記紀に従った普通のつまらん解説になっています。

宗像家も 時の最高権力者の不比等ににらまれるようなこと、つまり宗像大社は吾田片隅を祀っているとは

決して言えなかったのでしょう。

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神門をくぐって中に入ります。

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広い境内の正面に 拝殿と本殿があります。

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拝殿ではたくさんの人が参拝されていました。

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この後ここで何かのお祓いがあるのか、巫女さんが準備をされていました。

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残念ながら本殿は大社造りではありませんでした。

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柱の本数も多く、しかも妻入りではありません。この社がいつ頃造営されたのか 書かれていませんが

かなり後の世になり、大規模に作り直したのでしょう。その時に大社造りはやめたのでしょう。

しかし千木だけは出雲式の縦削ぎです。

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拝殿、本殿の左右と奥の三方にはたくさんの摂社があります。地元の神様をたくさん合祀して

祀られているようです。

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続いて第二宮、第三宮へ

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左右に全く同じ造りの社があり、それぞれ第二宮と第三宮があります。

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どちらの宮も造りは同じでした。

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第一宮と同じく こちらの両宮とも大社造りではありませんでした。

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第二宮には田心姫が、第三宮には多岐津姫がそれぞれ祀られているそうです。

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ここでも宗像家の始祖については 全く触れられていません。

記紀作成時の大方針として 古代出雲王朝はなかったことにする、と言うのが大前提なのです。

それをごまかすために 初代大和大王、天の村雲を消して神武なるわけのわからん大王を作りしかも

その架空の大王の出現を 古代出雲王朝の初めまで 引き延ばしたものですから 大王の数がたりなくなり、

大王でないものを何人も大王にでっち上げたり、実在の大王の生存年齢を200歳ちかく引き延ばした大王が

何人も必要になったのです。

ですから 出雲王家の皇子である吾田片隅の事を表にできなかったと思えます。

古代出雲王朝はなかった、大王家の祖先は天から降臨してきたと 持統、不比等のおぞましいコンビが作り上げた

記紀に背く奴はいません。そんなことをすれば あのコンビニ何をされるのか分かりません。

現にそれまであった各地の風土記も 記紀に合わないものは 書き換えさせられたり、焼却処分させられたのです。

宗像家の苦しい胸の内が よくわかります。自分たちの始祖を語れないのですから。宇佐神宮の宇佐家も同じでしょう。

自分たちの祖先を祀れないのですから。

まあ宇佐家は自分たちの血を引く誉田別大王を祀ることに寄り、少しはうっぷんが晴れたことでしょう。

宗像家も 吾田片隅は表向き祀れなくとも その娘の宗像三姉妹は堂々と祀れますから少しは安心できたでしょう。

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古代出雲王朝の系統図です。吾田片隅が北九州へ移住して 宗像家を作り、その娘たちが宗像三姉妹です。

ちなみに多岐津姫は出雲西部に住まわれたので その地が田儀町となりました。イチジクの名産地です。

※この表は大元出版の斉木雲州先生の多数の本をもとにして私が作りました。

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続いて高宮へ

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ここから高宮へ歩きます。

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うっそうとした原始の森を約10分歩きます。

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高宮に到着しました。

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中を覗くと樹木に注連縄が張られています。

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望遠で覗くとよくわかります。真ん中の樹木の四方が注連縄で囲まれています。

古い形の御幣は縄と紙垂(しで)で四角く囲んだ形の物もあります。

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高宮の説明看板です。神籬(ひもろぎ)の祭場だと書いてあります。

つまりこの木を神聖な、神の宿る木だとして拝んだのです。

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古代出雲王国では 王が亡くなると風葬にされたそうです。遺体は座った形で竹かごに入れられて

口から朱を注ぎ 腐敗臭を防せいだそうです。竹籠は松江市南部の熊野山の頂付近に運ばれて

檜の大木の茂みに隠される。その木には注連縄が張られ、御幣が建てられて神籬(ひもろぎ)と呼ばれた。

三年後に洗骨して山頂付近の磐座に埋葬される。そこは「埋め墓」となる。

遺骨を下ろした後もその木は注連縄を張られて 神籬(ひもろぎ)と呼ばれた。ということは神籬とは 元々風葬の

神聖なる樹木なのです。

 

一方 屋敷の庭には 大きな玉石が置かれそこが「拝み墓」となった。古代出雲王家では このように二墓制でした。

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また山の中腹には「斎場」と呼ばれる広場が設けられて 人々が集まり代々の王に祈りを捧げたという。

吾田片隅は出雲王家の皇子なので当然この風習を知っていてた登思います。

その習慣を ここ北九州の宗像家に持ち込んだのでしょう。

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古代出雲王の拝み墓について

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ここが入り口です。出雲大神と書かれています。

現在は松江市のある学校の敷地内にあり、私は許可を取ったうえで参拝しました。

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うっそうとした森の中をしばらく歩きます。

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拝殿です。

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拝殿の向こうには 丸い巨岩が無造作に置かれています。巨岩の数は出雲王の数だそうです。

雲秀先生の御祖先様達です。雲州先生は出雲王朝は 第十七代大名持の山崎タラシ王で滅ぼされたので

巨岩の数は17個あるとおっしゃっています。

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私が見てもどれが墓石なのか 分かりませんでしたが、手を合わせました。

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※ このような墓石の形態は その後テレビで見てびっくりしました。

山岳修験の始祖、役の小角(役行者)に仕えた 夫婦の鬼、前鬼と後鬼の子孫だと伝わり、宿坊を開いて

約1200年の間修験者たちを支えてきた 前鬼小仲坊第61代当主五鬼助義之氏が ご自分の先祖たちのお墓を

テレビで説明されていましたが 直径30センチから50センチくらいの丸い石が 山中に無造作に置かれていたものでした。

五鬼助義之氏は自分の父親や祖父の墓と 前鬼、後鬼の墓は分かるけど その他の60個近い墓は どれが誰か

全く分からないとおっしゃっていました。

これを見て 古代出雲王家の王墓と似ていると感心しました。

最も役の小角(えんのおずぬ)のご母堂の白専女(しらとうめ)は出雲系の人だと何かで読んだ記憶がありますが。

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と言うことで宗像大社高宮は古代出雲の王の拝み墓に 非常によく似ていると感心しました。

ひょっとして この場所は宗像家の王の風葬場所ではなかったのかと 思えてなりません。

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宗像大社を終わり次は その3 伊都国です。

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九州北部を回り 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねる その1 宇佐神宮 2022年4月1日

2022年04月09日 23時28分25秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

今年2022年の春は 九州北部を回ってきました。

各地の桜を訪ねるのと 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねるためです。

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その1 まず宇佐神宮を訪ねました。

親魏和王に認定された和国の女王こと 宇佐王家の豊玉姫のふるさと宇佐神宮を訪ねる

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出雲王国民の末裔の私としては 宇佐はあまり好きではありません。

というか はっきり言って嫌いです。

なぜならば九州物部王家のイクメ王の第二次東征に従い、イクメ王の別動隊として渡来朝鮮人卑ボコの子孫の

田道間守(たじまもり)が日本海を東進し、東出雲王家を攻めて神聖な田和山神殿を破壊して、大きな損害を

出雲王朝東王家に与えました。

その昔、辰韓の王子卑ボコは 父親の王に嫌われたのか 家来と財宝を与えられて 国を追われました。

出雲王国に上陸しようとしたときに 出雲の王に「出雲の法律を守り、出雲の民と仲良くできるか」と聞かれましたが

卑ボコは心が荒れていたらしく、それを拒否したために上陸を拒否されました。

そのため卑ボコたちは但馬の丸山川上流湿地帯で 人の住めない場所に上陸して 苦労して開拓開墾して住んだと伝わります。

そのため卑ボコは終生出雲王国を恨んでいたということです。

卑ボコ子孫の朝鮮系の田道間守は その恨みを晴らしたかったのです。まさに逆恨みというやつですね。

田道間守の襲撃の後 続く物部軍の東出雲王家領への侵入時に 徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)の子孫の矛卑家の 

韓比佐とその息子ウカツヌクに出雲王国軍の手薄な場所を手引きされた物部軍は 激戦の挙句に東出雲王家を降伏させました。

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一方 日本海を進んだ物部軍率いる曙立王(あけたつおう)と豊国軍を率いる宇佐家の菟上王(うのかみおう)は 

西出雲王家を責め立てて 多くの犠牲者を払いながら西出雲王家の神門臣家を降伏させさせました。

この時も矛卑家の韓比佐たちが 出雲軍の手薄な場所を熟知していて 物部軍を手引きしました。

つまり出雲王国民にとって 渡来朝鮮人卑ボコの子孫田道間守や渡来秦国人 矛卑(ほひ)の子孫矛卑家の人間や宇佐王家は

憎き存在なのです。

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ちなみに 田道間守はヤマトへ一番乗りして、遅れて大和入りした物部軍の総大将イクメ王のいうことを聞かなくなり、

自分がヤマトの王のように振る舞いだしたのです。

困り果てたイクメ王は旧出雲王家の富家の 富太田彦に ヤマトへ進軍して田道間守を追い払うように秘密裏に

要請したのです。

旧東出雲王家の富(とび)太田彦は 憎き物部軍は大嫌いでしたが 出雲の神聖な田和山神殿を破壊して たくさんの出雲兵を

殺した田道間守をもっと憎んでいました。

 

そこで太田彦は イクメ王の要請を聞き入れて 野見太田彦と名前を変えて出陣して大和へ出雲軍を率いて入り、憎き田道間守

を見事蹴散らしました。

記紀はこの時の戦争を隠して 當麻蹴速(たいまのけはや)と野見の宿祢(のみのすくね)の相撲勝負のおとぎ話に書き換えて

います。

持統女帝の記紀編集方針で 自分たちは天から降りてきた神の子の子孫であり、血で血を洗うような政権交代など

なかったことにしたのです。

また田道間守亡き後の子孫が 息長家(おきながけ)であり、息長帯比売(おきながたらしひめ)が神功皇后となられるのです。

そして矛卑家の子孫が今の出雲大社の宮司家です。出雲大社の由緒書きを読むと祖先は矛卑だと書かれています。

このブログのヒミコのまとめの章でそこのあたりを詳しく書いていますのでお読みくだされませ。

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宇佐神宮上宮境内です。広くて立派です。

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神社の由緒書きです。

三棟の本殿の真ん中は比賣大神としか書かれていませんが 神社の公式ホームページを見ると 比賣大神とは

なんと宗像三姉妹の名前がはっきりと書かれています。つまり宇佐家の姫は書いて無く 他家の宗像家の

有名な三姉妹が書かれていて びっくりです。

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ちなみに宗像三姉妹の長女の田心姫(たごりひめ)は出雲王家第七代主王(役職名 大名持)の天之冬衣(あめのふゆぎぬ)

に嫁がれて 高照姫をお産みになりました。高照姫は徐福が第一回目に石見の五十猛海岸に上陸した後に 徐福に

嫁がれました。 

また田心姫は 第八代副王(役職名 少彦)の八重波津身をもお産みになりました。

東出雲王家の富家と 西出雲王家の神門臣家は 主王と副王をそれぞれ 交代で出していました。

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次女の多岐津姫(たぎつひめ)は出雲王朝第八代主王の八千矛(徐福や矛卑に殺されて記紀では大国主と書かれた)

に嫁がれて味鋤高彦をお産みになり 味鋤高彦の姫の大屋姫が徐福の長男五十猛(香語山)との間に高倉下をお産みになり

その子孫から武内太田根(武内の宿祢)が出てその子孫から平群王朝の幾多の大王が排出されました。

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宗像三姉妹の末娘の市杵嶋姫は二度目に和国に上陸した徐福に嫁がれて 穂穂出見や穂屋姫を

お産みになりました。穂屋姫は徐福の長男香語山との間に 初代大和大王となった天の村雲や

九州物部王家を立ち上げた穂穂出見をお産みになりました。

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つまり宗像三姉妹は出雲王家の九州分家である宗像家の姫であり、宇佐王家の姫ではございません。

和国の女王として 魏の和国駐在武官張政から直接肩に錦糸のタスキを掛けられて 和国の女王として

魏に認められた 宇佐王家の豊玉姫の名前はどこにもありません。完全に豊玉姫の存在が消されています。

 

記紀がその存在を完全に消した宇佐王家の女王を 堂々と描くわけにはいかなかったのでしょう。

なんせ記紀作成を指揮した不比等は 時の右大臣で、政権の最高権力者ですから その意に反することはできないのです。

ちなみに記紀は魏書に登場するヒミコをも完全に無視しています。

和国が魏の属国だった事実を隠したかったのでしょう。

またヒミコを神功皇后と思わせたかったのでしょう、神功皇后の活躍をことさら大きくしていますね。

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朝鮮の三韓征伐で息長姫が頼った 日向襲津彦の大きな力で 大成功した息長姫は 襲津彦の子供の皇子を

6歳で夭折させます。辰韓の血筋が途絶えると 三韓からの税収が途絶えることを恐れた息長姫皇后は 当時親交のあった

上毛野国造家(かみつけのくにのみやつこけ)の竹葉瀬の君(たけはせのきみ)が同じ6歳だったので 彼を秘密裏に

息長姫の養子として育てます。

上毛野国造家は 宇佐王家の豊玉姫の長男豊彦の子孫なのです。

長じて誉田別(ほむたわけ)皇子は誉田別大王(のちの贈り名を応神)として即位されたのです。

宇佐家から出た初めての大王誕生に非常に喜んだ宇佐家が 本殿を追加して誉田別大王を祀ったのです。

それと世間的にその生母とされる 息長帯比売の御本殿も追加して 本殿が計三棟となったのです。

そこのあたりもヒミコのまとめに書いていますので このブログの二番目のヒミコ豊玉姫の項をお読みくださいませ。

 

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勅使門(南中楼門)です。この前で女王の豊玉姫は宇佐の兵士を集めて 出陣の激励をしたといわれます。

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一之御殿です。

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三之御殿です。

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一之御殿と三之御殿は同じ造りに見えました。

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真ん中の門からは中の本殿は全く見えませんでした。

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この窓から見える山は御許山(おもとやま)と呼ばれていて 宇佐王家の始まりとなる神聖な場所だそうです。

この場所はその遥拝所です。

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若宮には 大鷦鷯(おおさざき)大王(のちの贈り名を仁徳)が祀られています。

しかしなぜ宇佐神宮で大鷦鷯なのでしょうか。よくわかりません。

最も大鷦鷯は誉田別の皇子とされていますから それでついでに祀ったのかもしれません。。

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この橋を渡り 下宮へ参ります。

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下宮の拝殿です。

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ここも上宮と同じく左から 一之御殿、二之御殿、三之御殿となっています。

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扉の格子から本殿を見たところです。

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少し離れてみると 本殿が三棟あるのが分かります。

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この八坂神社にはなんとあの素戔嗚が祀られています。つまり徐福です。

徐福は素戔嗚と記紀に書かれてからは あちこちの神社で祀られています。

京都の松尾大社や京都祇園の八坂神社でも祀られています。

しかしなぜ宇佐神宮で素戔嗚なのでしょうか。よくわかりません。

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宇佐神宮の前に 神武大王の顕彰碑なるものがありました。

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なにげなく碑文を読むとなんと 神武大王の東征の折、神武が宇佐に立ち寄りこの地に「足一つ上がりの宮」を立てて

宇佐王家から接待を受けたと書いてあります。

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西暦165年頃に九州物部王家の彦渚武王の三人の皇子 物部の五瀬、稲飯、三毛入りが熊野へ上陸して

ヤマトの磐余入りしたのが第一次東征です。

西暦246年頃に 物部宇佐王国連合軍を率いて 豊玉姫女王が 宇佐に立ち寄り宇佐兵を集めたといわれています。

この時宇佐に滞在したのが 駅館川(やっかんがわ)の川岸の「足一つ上がりの宮」と言われています。

つまり記紀制作者は このことを知ったうえで 前後2回の東征を一つにまとめて物語にしました。

総大将を架空の神武として 豊玉姫女王の足跡をぱちったのです。

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足一つ上がりの宮を訪ねてあちこち歩きました。市役所裏手の河川敷あたりかと思いきや

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神武顕彰碑の碑文によればこの橋の右側に足一つ上がりの宮があったそうです。

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駅館川河口も観ました。この辺りまで来ると 駅館川も大河の雰囲気ですね。

戦艦が多数入ってこれる感じです。

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安芸の宮島で病になり 病気療養中に亡くなった宇佐豊玉姫女王は 宮島に仮安置された後 宇佐に帰り

院内町の奥山という 宇佐神宮が見える山に埋葬されたと伝わります。その奥山をマピオン地図で探したのですが

分かりませんでした。奥山はいずこ。あの山並みの内の一つでしょうか。

 

大阪に帰宅してしばらくして気づいたのですが ひょっとすると宇佐神宮から見える あの遥拝所の

御許山に葬られたのではないかという気がしました。機会があれば次回は あの御許山に登ってみたいものです。

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宇佐神宮はこれで終わりです。

次は その2 宗像大社です。

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丹生都比売神社(和歌山県かつらぎ町)が世界遺産となった不思議 2021年11月26日

2021年12月07日 23時34分53秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

先日和歌山県南部の紀ノ川流域の紅葉を見にバイクツアーをしました。

その時に丹生都比売神社にも行ったのですが、今回で3回目に訪ねました。

行くたびに不思議に思うのですが、この神社がなぜ世界遺産に登録されたのか

という疑問です。

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世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の地図です。

参詣道の始点、終点に霊場があります。

高野町石道は空海のご母堂の眠る慈尊院から空海の眠る奥の院への参詣道です。

奥駈道は始点の熊野本宮大社から終点の吉野山金峯山寺への修験道の道です。

(逆峰の場合は吉野川六田柳の渡しで禊して熊野本宮大社までの道)

熊野古道は熊野三山(本宮大社、那智大社、速玉大社)への参詣道で 小辺路、中辺路、伊勢路がありますす。

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※紀伊路、大辺路はほとんど破壊されました。小辺路中辺路伊勢路もほとんど国道、林道で破壊されましたが

峠道がわずかに保存復元されています。中でも伊勢路の峠道はほとんどが保存復元されて

三重県の意識の高さが感じられます。和歌山県、奈良県の熊野古道はほとんど林道や国道で破壊され

復元する意図も全くないような意識の低さです。

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町石道と丹生都比売神社の位置関係です。町石道も140町あたりになると標高も上がり

尾根道になっています。そこで わざわざ参詣道から分かれて山を下りて里へ行き

丹生都比売神社に参拝してまた尾根道に登り返す必要があるのでしょうか。

※私はかつてそうしましたけど。

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高野山は最近まで(明治の中頃まで)女人禁制でした。高野山を開いた空海は母親をふもとの寺に

住まわせました。母親は息子に会いたくて高野山に行こうとして 周りの人に押し留められたそうです。

空海はそれを知り母親に「女人禁制の山にのぼってはいけません。そのかわり私が月に九度、山から下りて

母上にお会いしに来ます」と言ったとか。それで母親の住む寺のあたりを「九度山」というそうです。

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と言うことで高野町石道は 母親の眠る九度山の慈尊院から空海の眠る(金剛峯寺によれば今も空海

は瞑想していらっしゃるそうで 今でも毎日お食事が゜お供えされています)奥の院までの参詣道、表参道なのです。

慈尊院から根本大塔まで180町、更に奥の院まで36町、合計216町 約20キロの山道は私の足で

約9時間かかりました。

わざわざ丹生都比売神社に寄り道するとさらに1時間半から2時間かかります。

このロングコースの参詣道で わざわざ丹生都比売神社に寄り道するでしょうか。

空海と縁もゆかりもない丹生都比売に参拝するために。

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町石道は かの偉大な空海、御大師様に参拝するための表参道です。

今でも四国八十八か所のお遍路が完了した人は 最終高野山奥の院へ空海に

結願(けちがん)報告とお礼にお参りします。大半の人は観光バスで行きますが 中には町石道を歩いてお参り

される方もいます。私も一度そういう人と町石道の一部分を一緒に歩きました。

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丹生都比売とは神社の説明によれば 若日霊女貴(わかひるめむち)ということです。つまり2番目に歴史に登場する

ヒミコ、宇佐豊玉姫の娘の豊姫(支那の歴史書に台与「とよ」と書かれた)の事で 豊の国からやって来たので

豊来入姫とも呼ばれました。記紀では豊の国から大和を征服に来たことがバレルので豊鍬入り姫と書かれました。

つまり歴史に4番目に登場するヒミコの豊姫は数百年も後の世の空海とは縁もゆかりもないのです。

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丹生都比売神社です。世界遺産だと宣伝されています。

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拝殿もとても立派です。

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拝殿の奥は舞殿でしょうか。その奥に本殿が四棟見えます。

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この場所から本殿を拝めと看板に書いてありました。

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神社のホームページの写真です。普通の人はこの場所に入れません。

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本殿の説明看板です。神社のパンフレットによれば丹生都比売は天照大神の妹だそうです。

そして高野の皇子は丹生都比売の皇子だそうです。あとの二人は後年何とか上人が

勧請したそうです。

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天照大神とは 記紀が作り上げた架空の神で、古代出雲王国国教の幸ノ神三神の佐比賣の命

がモデルになったといわれています。佐比賣の命、つまりアマテラスは太陽の女神です。

それに対して豊姫は檜原神社で「月読の神」を奉じていました。つまり太陽と月という相反する

これらの御二方をむりやり姉妹にして結び付けようとしているのです。

しかも豊姫には皇子や皇女はいないのに 高野の皇子なる皇子を作り上げてその皇子が空海を高野山へ

導いたとしたのです。豊姫と空海をむりやり結びつけたのがわかります。

司馬遼太郎によれば 空海は野迫川村から高野山入りしたとされていて、九度山からではありません。

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そこまでして豊姫と空海を結び付けたいのは、丹生都比売神社を世界遺産に付け加えるため

なのが見え見えでしょう。

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宇佐神宮系列の豊姫の本殿に市杵嶋姫が祀られているのも 何ともちぐはぐですね。

古代出雲王朝第六代主王の臣津野(別名国引き王)の皇子吾田片隅が北九州に移住して作ったのが

宗像家で吾田片隅の三人の娘が宗像三姉妹です。末娘の市杵嶋姫は徐福の二度目の来日後

に徐福に嫁ぎ穂穂出見(初代物部王家の王となる)と穂屋姫(徐福の長男五十猛に嫁ぎ初代大和大王

雨の村雲をお産みになった)のお二人をお産みになりました。

つまり市杵嶋姫は出雲王家のお方で宇佐王家の血を引く豊姫とは直接縁がないのですが、なぜ

本殿にお並びなのか。

まあ豊姫の父親は九州物部王家のイニエ王で市杵嶋姫の血も流れていると言えば言えますけど。

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続いて大峯奥駈道について

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役の小角が始めたといわれる 山岳修験道の代表的な山道の 大峯奥駈道は「懺悔懺悔、

六根清浄」を唱えながら汚れをはらい、身を清めながら自らの生まれ変わりを祈りながら歩く

修験の道です。参詣道とは言えませんが、奥駈道そのものが霊場と言えるでしょう。

しかしほとんどの修験者と称する人は 吉野山の桜本坊を出発して大峰山寺の宿坊と

弥山小屋で二泊して鬼の末裔と称する前鬼御坊の後鬼助義之氏の経営する前鬼小中坊へ下りて

そこでお風呂に入り食事して修行を終わりにします。

前鬼の上の奥駈道太古の辻から南の熊野本宮までの南奥駈道はパスします。

そのため南奥駈は荒れ放題になっていてとても雨ける状態ではなかったといわれます。

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その南奥駈の荒廃ぶりに心を痛めた 京都聖護院羽衣会で河内長野市在住の前田勇一翁は

南奥駈羽衣会を結成して私財を投じて道の復元に取り組みました。笹狩り、道普請、階段設置

などの努力で次第に南奥駈が復旧していきました。そして修験者のために私財を投じて山小屋を

計画したのですが、国や奈良県、十津川村の猛反対で中座しました。そこで困り果てた前田翁は元上司の

塩爺(塩川正十郎もと財務大臣)に相談しました。前田翁は塩爺の元秘書だったのです。

二つ返事で引き受けた塩爺は国や奈良県庁と十津川村役場を訪ねて説得して回りました。

そのおかげで持経の宿が完成し、そこを拠点にして山道の整備が進みました。

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そして突然不治の病にかかった前田翁は後のことを当時親交のあった「新宮やまびこぐるーぷ」の

玉岡会長に託して亡くなりました。玉岡会長は私財を投じたり募金活動で行仙宿山小屋、ついで

平治の宿山小屋を建設して奥駈道もようやく歩ける状態になったということです。

塩爺はみずから山小屋に泊まり復旧工事を手伝ったということですが、警護の人がたくさんついてきて

大変なので「あんたは来なくてもいいから、みんなの宴会のお金だけ寄付してくれ」というと

快く大金を寄付してくれたということです。私は一度、ちょっとだけ「新宮やまびこぐるーぷ」

のお手伝いをしたときに 以上のお話を直接グループの方にお聞きしました。

私腹を肥やすことだけ考えているのが政治家だと思っていたのですが こういう立派な政治家もいたのですねえ。

塩爺のような素晴らしい政治家はもう出てこないでしょうね。

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100_2

持経の宿山小屋です。

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6_2

前田翁の写真は持経の宿山小屋に貼ってあります。

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762

復旧された平治の宿山小屋です。京都大学の今西錦司先生も泊まられたそうです。

記念植樹に山桜が植わっていました。

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平治の宿には、あの西行も訪れて唄をのこしています。

「こずえ洩る 月もあはれを 思ふべし

     光に 具して 露のこぼるる」と書いてありました。

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本来国や奈良県がするべきこと(奥駈道の整備や山小屋の整備)を放棄しておきながら、それどころか反対に

邪魔をしておきながら 道が整備されると「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録するなんて

国も奈良県もすごい根性していますね。今や奈良県も十津川村も奥駈道を観光資源にしています。呆れますね。

弥山周辺の道の整備や階段設置は世界遺産登録で 当時の皇太子が歩きに来るというので

あわてて整備したようです。文化的にお粗末な国です、この国は。

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奈良県に負けず劣らず馬鹿なのが和歌山県です。

世界遺産の高野町石道をゴルフ場の中を通しています。全く馬鹿としか言いようがないですね。

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世界遺産の参詣道はティーグランドのすぐ横を通ります。

(馬鹿じゃないの和歌山県は、世界遺産の参詣道をこんなことして)

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さきほどのティーグランドは たぶんフルバックなのでしょう。

レギュラーティーとレディスティーへ行くのには この世界遺産の参詣道を歩きなさいと書いてある。

そして町石道を歩く人は 飛んでくるゴルフボールに気を付けて歩きなさい。けがをしても知らんけんね。

と書いてあります。

やっぱ和歌山県は馬鹿ですよ。こんなことして。

こんな出鱈目なことしていて よくユネスコの世界遺産審査委員会に通ったものですなあ。

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町石道を歩いていくと ティーショットの最中だ。みんながこっちをじろりとにらむので 少し待ってやった。

へたくそがチョロをうちOBになったので思わず笑いそうになったが 懸命にこらえました。

チョロが終わったので、再び歩き出しても「待っていただいてありがとうございました」の一言も無かったなあ、

もちろんキャディーからも。程度の低いゴルファーとキャディーや。ゴルフは紳士、淑女のスポーツなのに。

マナーも礼儀もわきまえない程度の低い連中にとっては 「世界遺産の参詣道」なんてどうでもよいことなんでしょうね。

だから和歌山県職員も程度が低いのだろうなあ。

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世界遺産の英語パンフにもこの道が載っているので 外人観光客も歩きます。

私はかつてドイツの人とシンガポールの人と一部分を歩きました。

この道は日本の恥です。

ゴルフ場を避けてう回路、巻道を作るということを和歌山県の馬鹿な職員たちは思いつかないのでしょうね。

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馬鹿な和歌山県職員は 世界遺産熊野古道小辺路を「高野龍神スカイライン」の道路をも歩かせます。

しかも延々と。スカイラインをビュンビュン飛ばして走る車を避けながらあたりを見渡すと

巻道が出来そうな山が両側にあるのに、なにもしない和歌山県はやはりバカですねえ。

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熊野古道もズタズタです。私は小辺路を2泊3日で歩きましたがほとんどアスファルト道路

でした。それに懲りて 中辺路、伊勢路は案内図を見て峠道だけ歩きました。峠道は比較的保存、

復旧されている区間が多いからです。中でも伊勢路の三重県区間は峠道の石畳保存がよく

三重県の意識の高さが感じられました。

私はかつて伊勢路を歩いた時に 東京在住のフランス人と同行したことがあります。

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特に八鬼山越えは標高差900mを超える西国一の難所と言われる峠ですが 素晴らしい道でした。

フランス人のおっちゃんも「こんな高い山の全部の道に よくこんな大きな石を敷き詰めたもんだなあ。

それを今でも保存しているのはエライ」と声を大きくして叫んでいました。

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八鬼山山頂に着くと 眼下に熊野灘が広がり素晴らしい景色です。

よく見ると入り江の中に集落が見えます。

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かつて武勇をとどろかせた熊野灘の無敵水軍 九鬼水軍の九鬼村です。あんな入り江の中に

いくらたくさんの軍船がいても 外洋からは全く見えませんね。天然の要塞です。

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伊勢路はビーチも歩きます。

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新鹿ビーチはとてもきれいなビーチです。

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「熊野にはこんなにきれいなビーチがたくさんあるのに 日本人はなぜハワイみたいなつまらんとこへ行くのだよ」

と先ほどフランスのジーちゃんが怒っていたとおり 素晴らしいビーチでした。

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と言うことで 話が脱線しましたが 豊姫(豊来入姫)を祀る丹生都比売神社は高野山とも参詣道とも 

空海とも無縁なのに 無理に空海に縁をこじつけて世界遺産登録に便乗したのではないかと思われます。

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世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」に興味のある方はこちらのページに詳しく載せています。

http://yochanh.sakura.ne.jp/okugake/index.html

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「古代出雲ゆかりの地を訪ねる」トップページはこちらです。

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いわゆるヒミコについてのまとめ  その5.  大和姫  その2 

2021年05月18日 15時17分29秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

いわゆるヒミコについてのまとめ  その5. 大和姫  その2

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出雲国には古くから粟島坐伊射波神社(あわしまにいますいざわじんじゃー秋鹿郡伊農郷)がありました。

現在の松江市秋鹿町にはこの神社はありません。粟島とは 八重波津身(出雲王朝第八代副王ー少彦の事で

記紀では事代主と書き換えられた)が 美保関の沼川姫といるところを 徐福の部下の矛卑の息子のタケヒナドリや

海童たちに「大名持(大国主と書き換えられた出雲王朝第八代主王の八千矛)が行方不明です」と騙されて拉致され 

王の海(中海)を西へ向かったまま行方不明になりました。結果は大国主は出雲北部日本海に面した猪目洞窟に

事代主は王の海の弓ヶ浜半島の西の粟島の洞窟にそれぞれ幽閉殺害されました。

このため粟島は事代主を祀る聖地でもあります。

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八千矛王が幽閉されて殺害された猪目洞窟です。

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松江市美保関神社の モロタ舟神事です。

美保関の王宮に沼川姫といたところへ大国主行方不明の知らせに駆けつけた早船を模した神事です。

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王の海の粟島です。周りの海は江戸時代に干拓されました。

正面が志都の岩屋洞窟で最上部に粟島神社があります。

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事代主が幽閉殺害された志都の岩屋です。

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大汝とは大名持つまり主王の八千矛で、少彦名は間違い表記で副王の役職名の少彦で 八重波津身

つまり事代主の事です。

奈良時代の都の貴族豪族は 渡来系の物部家、尾張家、海部家を除けばほとんどが出雲系の

登美家やその親族の人たちでしたから 大国主と事代主が 洞窟に幽閉殺害されたことは

よく知られていました。

その祟りをおそれて 二人の霊を鎮めるために あちこちに大国主や事代主が祀られました。

後になって 大国主を大黒様、事代主を恵比寿様とよばれるようになり、事代主が沼川姫と暮らした

美保関の宮殿跡の美保神社(沼川姫が皇子の建御名方をつれて実家の越の国へ帰られた後 二人の娘の

御穂須須美(みほすすみ)姫が事代主の霊を祀り続けました。)は全国の戎神社の総本社となっています。

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このため粟島坐伊射波神社には古くから 事代主が祀られていました。

志摩の国の伊雑宮(いぞうのみや)は出雲から勧請されたと考えられます。  

また現在の松坂市にも伊射波(いざわ)神社や伊佐和(いざわ)神社がありますが いずれも

出雲系の志摩国造家の影響と考えられます。しかしいずれの神社も 残念なことに現在は祭神に事代主は

全く触れられていません。伊射波神社には井沢富命も祀られています。

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大和姫は伊勢からさらに志摩の国へ行き 伊雑宮の社家井沢富彦の支持を受けます。

彼は名前からもわかるように ヤマトの登美家出身と言われています。

 

大和姫は井沢富彦の協力を受けて 伊勢の国五十鈴川のほとりに内宮を建て そこに太陽の女神を祀り

最初の伊勢斎宮(斎王)の役を務めました。

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上の2枚の画像は 三重県明和町の斎王祭りの画像で 明和町の公式ホームページからお借りしました。

なお2021年の祭りは武漢ウイルスのため中止だそうです。

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伊勢内宮の太陽の女神は 三輪山から移されたので 大和姫の没後彼女の遺体は 三輪山の西麓の

賀茂家(登美家)に送られました。加茂田田彦は登美家なので 当然出雲系で野見宿祢の子孫たちとも親しく

古墳造りに慣れていました。

賀茂家当主加茂田田彦は土師家から養子に来た人で、当然土師家の古墳造りの技術者たちとも親しく

大和姫の墓は土師氏により作られました。そのため人々は大和姫の墓を土師氏が作った墓「土師墓」と

呼んだといいます。しかし 記紀はなぜかこれが気に入らないと見えて 土師墓の代わりに箸墓(はしはか)と

名前を変えてしまいました。

おまけにこの墓をモモソ姫の墓にしてしまい、しかもモモソ姫が箸で陰部を突き刺して死ぬという

異常な死に方をでっち上げました。

おまけにこの土師墓をどうしてもモモソ姫の墓にしたかったと見えて 「ヤマト、トトビ、モモソ姫」という

わけのわからん姫を作り出して モモソ姫と大和姫を合体させてしまいました。

モモソ姫と大和姫という約百年離れた時代の 別々の姫巫女で しかも両姫ともれっきとしたヤマトの大王とその后

でありながら この二人を合体させるという無茶苦茶なことをしでかしました。

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向こうに見えるこんもりとした丘が箸墓古墳です。

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箸墓古墳と隣接しているホケノ山古墳の模型です。

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出鱈目をしている宮内庁の案内看板があります。

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モモソ姫と大和姫を合体させた上にこの合体姫は磯城王朝第七代孝霊大王(フトニ大王)の娘だと言っています。

まるで出鱈目ですね。

モモソ姫は第八代クニクル大王(孝元)の娘であり、大和姫は初代物部王朝のイクメ大王の娘です。

お二人の姫君の生きた時代は約百年ほど離れています。なぜこんなバカなことをしたのでしようか。

二人の姫君にもそのご両親の大王、皇后たちにも失礼極まりないですね。

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おまけに 石碑の文字の「大和」の文字に支那人が日本人を蔑んで付けた 卑字蔑字が使われています。

矮小の意味合いがあるこんな卑字を日本人が使ってはいけません。江戸時代の朝鮮通商使節が「和国の将軍に

奉る」と書かれた親書を差し出したときにこの字を見た幕府の重鎮は親書を投げ返して書き換えさせたそうです。

江戸幕府はそれほど和国に誇りを持っていたのです。

ほんまに 今の宮内庁は日本人の誇りも尊厳もなく 支那人の家来のまま、支那人の言うがままでほんと馬鹿ですね。

こんなに卑字蔑字は いい加減直しましょうよ。我々の税金で作った石碑ですからね。

日本人として、また出雲王国民として 全く恥ずかしい限りです。宮内庁の無知さ加減、愚鈍さ加減は。

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いわゆるヒミコの時代、ヤマタイコクの時代は和国が魏の属国となっていた時代です。記紀編集指示者

の持統女帝や不比等は 魏書の内容を読む日本人が 魏書の内容を間違いだと思わすためにわざと大王や

姫の名前をぐちゃぐちゃにしたと思われます。

架空の大王の神武や皇子のヤマトタケルは論外ですが、地方の王で終わったのにヤマトの大王にしてもらった

イニエ王(崇神)や和国になんの貢献もしていない地方の豪族で終わった豊前中津彦(仲哀)は

「ラッキー」と思っているでしょうが 大王としての名前を消された「天の村雲」、「日子坐大王」、

「彦美知宇斯大王」などの大王さんたちや 別々の姫君なのに合体させられた「モモソ姫」、「大和姫」

さんなどは 全く浮かばれませんね。

それと息長姫の要請に応えて 大船団を組織して三韓征服を成功させ 和国に膨大な富をもたらした

日向襲津彦大王(長江襲津彦大王)も存在を消されて 浮かばれませんね。

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いわゆるヒミコのまとめを終わります。

ヒミコのまとめのページへはここからも戻れます。

モモソ姫 その1モモソ姫 その2 、モモソ姫 その3

宇佐豊玉姫 その1宇佐豊玉姫 その2宇佐豊玉姫 その3

サホ姫 その1サホ姫 その2

豊来入姫 その1豊来入姫 その2

大和姫 その1大和姫 その2

 

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※歴史内容は斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

斉木雲州著 古事記の編集室、出雲と蘇我王国、出雲とヤマトのあけぼの、飛鳥文化と宗教争乱

      万葉歌の天才(人麻呂の恋)、おとぎ話とモデル

勝 友彦著 親魏和王の都、山陰の名所旧跡

谷戸貞彦著 幸ノ神と竜

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尚 日本の歴史を書き換えた持統女帝や藤原不比等、およびその末裔の藤原家、近衛家に対する

私の個人的な嫌悪感は 斉木雲州先生はじめ 上記の書籍とは関係ありません。

また秦国人徐福やその末裔の物部王家、徐福の部下の矛卑やその末裔の出雲国造の果安、韓比佐、

その末裔の今の出雲大社宮司家にたいする 私の個人的な嫌悪感も上記の本とは一切関係ありません。

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いわゆるヒミコについてのまとめ  その5.  大和姫  その1 

2021年05月17日 15時57分10秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

5.大和姫 その1

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ヤマトの大王となったイクメ大王(後の贈り名を垂仁)は 魏との関係を断とうと思いました。

豊玉姫女王の使節団として 自らも魏に行ったことのあるイクメ大王ですが(幼名のイサチ五十狭茅、伊佐地の名前で行った)

いざ自分がヤマトの磯城王朝を倒し和国の大王になってみると 和国が魏の属国になっていることを 潔しとしない考えが

でてきたのでしょうか。

 

記紀の編集を指示した持統女帝や編集責任者の不比等、および編集者たちは いわゆるヒミコを

徹底して隠します。ヒミコに触れることは つまり魏との関係に触れざるを得ず 和国が魏の属国に

なっていたことに 触れなければならないからでしょう。

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和国の戦乱が納まった ということにして魏の和国駐在武官の張政を魏に送り返すことにしました。

そこで和国の使節団が張政(伊都国に駐在している魏の武官)を送っていくことになりました。使節団の団長は 

イクメ大王の異母弟の八坂入彦がなりました。彼は243年の使節団に続いて 2度目の使節です。

「三国志 魏書 東夷伝 和人条」には次のように書かれています。

※魏志倭人伝なる書物は存在しません。

 

「台与(とよー豊玉姫の後任として魏に承認された豊来入姫)は率善中朗将ヤサク(八坂入り彦の事ですが

字があまりにも軽蔑の汚い字なので書けません)ら20人を遣わして張政らを送って来た。

男女奴隷30人や青い大勾玉2個、珍しい模様の和錦鯉20匹などを貢物として差し出した。」

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丹波攻略を終えて大和に帰ったイクメ大王は 旧都和邇の地付近を直轄地としました。

そしてそこに石上神宮を建て それまで物部族が崇めていた 建布都大神社のご神体の剣が

石上神宮(いそのかみじんぐうー現奈良県天理市)に移されて祀りが行われました。

その新しい社が和邇の地に建ったことは 旧王朝を倒した物部王家が新しい王家になったことを天下に

知らしめました。 

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稲葉国造となった彦多都彦(元彦美知宇斯大王)の没後 遺体の一部は娘たちの一部が住んでいた丹後半島の

網野に運ばれて 地方には珍しい大きな古墳が作られたといわれています。

そしてヒバス姫は晩年になり 父である彦美知牛大王の古墳造りを始めました。

それが和邇の地の東大寺山古墳と言われています。

東大寺山古墳は管理できていないから 竹藪で覆われています。堀はほとんど埋められて酷いことになっています。

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古墳全体が現在は公園になっています。

記紀は磯城王朝最後の彦美知宇斯大王を隠しています。磯城王朝から物部王朝への政権交代は

なかったことにしているので 磯城王朝最後の彦美知宇斯大王そのものを隠したのです。

したがって天皇家の詳細を記紀に全面的に頼っている宮内庁はこの古墳を 天皇陵として管理できないのです。

しかし その割には 九州を一歩も出ずに日向で無くなったイニエ王をヤマトの大王に格上げして

登美家の古墳を崇神陵としてでっち上げたり、息長姫の部下で 物部王朝になんの貢献もせずに

豊後で戦死した 豊前中津彦も登美家の古墳を横取りして 仲哀陵としてでっち上げたり

やることがでたらめですね。独自のポリシーも考察もないので 記紀の小説内容を丸のみなのです。

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和邇の地を歩いていると あちこちに「和邇坐赤坂彦神社」への標識が建っているので

この神社はひょっとすると彦美知宇斯大王を祀っているのかなあと期待して歩いて行きました。

もしそうなら記紀で隠せなかった神社がまた一つ発見できるからです。

記紀で隠せなかった一つ目の神社は熊野古道小辺路の浜街道に立っている浜王子神社で

物部稲飯と三毛入りの兄弟を祀っていました。ウマシマジとか磐余彦のモデルの兄弟で

第一次東征で 紀国で戦死した物部五瀬の弟たちです。この二人が実際に登美家の先導で大和入りしたのですが

記紀には書かれていません。神武なる架空の大王がでっち上げられたのです。

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和邇の集落は複雑で道行く人に片端から聞いて回って ようやく神社にたどり着けました。

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現在の和邇の地(天理市和邇町)の集落のはずれに「和邇坐赤坂彦神社」にようやくたどり着けました。

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主祭神を見ると 不比等の祖先だとでっち上げた天の児屋根の命とか 出雲王家の分家宗像家を始めた吾田片隅や

その娘市杵嶋姫(徐福の二度目の来日で后となり 九州物部王家の始祖 穂穂出見を生んだ方)や誉田別(応神)など

ごちゃまぜの御祭神でした。登美家第八代当主の方も吾田片隅と言い、和邇の地を開発した人という事なのですが

どちらの吾田片隅なのか分かりません。いずれにしても 彦美知宇斯大王の名前はありませんでした。

奈良の都に近いこの場所で 記紀にないお方を主祭神にすれば 時の最高権力者の不比等ににらまれて

恐ろしいことになるので できなかったのでしょう。

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神社の隣には「富の森」という子供広場がありました。

桜井市には 出雲系豪族の登美家にちなむ とび、富、登美 外山(トビ)、鳥見山(とみやま)などの地名が

たくさん残されています。

この富の広場もそのうちのひとつかもしれません。

※登美家の加茂田田彦を追い出して一時豊国軍が三輪山周辺を占領していたので 桜井市には

「豊」の付く地名もあちこちにあります。

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こちらは石上神宮の立派な神門です。

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広い境内の正面が拝殿です。

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石上神宮境内には 出雲建雄神社があり いろいろと興味深い神が祀られています。

 

天の村雲の剣の御霊  これは初代大和大王、天の村雲(徐福の長男五十猛の皇子で記紀では神武と書き換えられた)

                                     の即位祝いに出雲王家が送った出雲型の銅剣と言われる「天村雲の剣」で 記紀では草薙剣と

           書き換えられました。天の村雲大王の実家の海部家から尾張家へ持ち出されて現在は

           熱田神宮に納められているといわれます。

 

ウマシマジの命    これはすでに述べましたが 物部の第一次東征で大和入りした稲飯と三毛入りの

           どちらが兄の大将か分からないのでこんな名前の架空の皇子を作りそれを磐余彦としました。

           いわゆる架空の大王の神武の別名です。というか神武は後から付けられた贈り名です。

 

イニシキの命     この方はイクメ大王の長男で 次男の忍代別(おしろわけ)が大王(景行)となりました。

           この方は和泉の国でタタラ製鉄をして鉄剣を千振り石上神宮に奉納したといわれています。

 

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新しくヤマトの大王となったイクメ大王はヤマトの旧支配者の彦美知宇斯大王の娘の

ヒバス姫を后に迎えました。それがヤマトを支配する効果的な方法でもありました。

大王ではなくなった 彦美知宇斯王は娘たちを連れて丹波北西部の網野に移り住みそこに網野神社

を建て、父の日子坐(ひこいます)大王を祀りました。

その後稲葉国造に任命された彦美知宇斯王は 幼名の彦多都彦を名乗り 武内宿祢と共に稲葉へ移り住みました。

 

※その後イクメ大王が武内宿祢に放った刺客の事をヒバス姫が父の彦多都彦に知らせ武内宿祢が

出雲王家へ逃げ込んで命を救われたことは 前述しました。

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イクメ大王の后となったヒバス姫はイクメ大王の娘、大和姫を丹波竹野郡で生みました。

大和姫は信仰心が篤く 自ら志願して丹波国竹野社に奉仕していました。

そののち竹野郡の奈具社に行き月読の神に加えて 太陽の女神日霊女貴(ひるめむち)も祀るようになりました。

その後宇良社に移り 日霊女貴を祀っていましたが 彼女は朝日信仰を大切にするようになりました。

そして朝日を拝むためには 東向きの海岸がいいと考えて 伊勢の国に移住して 信者を増やすために

伊勢の各地を転々としました。

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大和姫 その2へ続く

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第四のヒミコ 豊姫(豊来入姫) その2

2021年05月08日 10時08分12秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

豊姫(豊来入姫) その2

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イクメ大王によりヤマトから追い払われた豊彦の子孫が 下毛野国の開発に成功して国造家となりました。

またイクメ大王に敗れて武内宿祢は彦美知宇斯王と共に稲葉に住んでいました。

しかし イクメ王が武内宿祢に刺客を放ったという彦美知宇斯王の娘でイクメ大王の后であるヒバス姫からの知らせに 

武内宿祢は急遽 出雲王家に逃げ込み、出雲王家が武内宿祢を匿い命を助けたことで 武内宿祢の子孫の日向襲津彦と

イクメ大王の孫の后である息長姫が結ばれました。

二人はともに住み、二人で三韓征服に成功するも、その二人の皇子ホムタワケ(誉田別)皇子は7歳で夭折しました。

豊彦の子孫の下毛野国造家の御曹司の竹葉瀬の君が 秘密裏に息長帯比売の養子となり 誉田別皇子として

成長し ホムタ大王として即位します。

豊玉姫の項で述べましたが イクメ大王、豊来入彦王、武内宿祢(武内臣太田根)は若い時は一緒に働きましたが、

年を取るにつれて別々の道を歩みますが、不思議な運命の糸で繋がっています。

また宇佐家が 宇佐家の血を引く大王誕生(ホムタ大王)に大喜びしたのもよくわかります。 

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豊来入姫は月読の神の布教のため竹野郡船木里に移り奈具社を建てて 豊受神の名前で月神

を祀りました。その後与謝郡伊根の宇良社に移りました。宇良社の社家は本庄村の島子だと言われています。

シマとは海岸近くの集落を意味する古語で 子はそのあたりの首長を意味する尊敬語です。

つまり本庄村の村長なのです。

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宇良社は今の浦島神社です。

この神社の社家は彦美知宇斯大王の子孫ということです。

※写真は浦島神社の公式ホームページよりお借りしました。

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 一方伊勢の国の一宮は椿大神社(つばきおおかみやしろ)で そこはサルタヒコ大神本宮

と称していました。

その椿大神社から誘いを受けた豊来入姫は 宇良社の島子が連れて行き そちらに移ります。

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豊国の宇佐から来た豊姫は「宇佐女の命」と呼ばれましたが、イクメ大王が豊姫の行方を追っている

ということがわかり 宇佐女ではわかりやすいのでウズメの命と呼ばれるようになったということです。

椿大神社の奥に椿岸神社が建てられて そこで豊姫は月読の命を祀り 鈿女(うずめ)本宮と呼ばれました。

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椿大神社の拝殿前には「伊勢一宮」と大きく書かれています。

一宮とはその地方で 一番古く、権威のある神社といういみで、伊勢一宮は伊勢神宮ではなく

この椿大神社です。

ちなみに出雲の国 一宮は出雲大社(杵築大社)ではなく 松江市の熊野大社です。

第二次東征軍に敗れた東出雲王家が 熊野に引きこもり熊野大社を建てたからです。

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椿大神社の立大きくて派な拝殿です。さすが一宮です。

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拝殿の千木は 出雲式の縦削ぎです。

出雲王朝国教の幸ノ神三神の皇子神サルタヒコを祀っているので当然ですが。

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椿大神社の拝殿の向こうには 内拝殿があります。

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境内には 大黒様と恵比寿様が祀ってあります。つまり大国主と事代主のお二人です。

まあサルタヒコを祀るのですから当然と言えば当然ですか。

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ウズメの命が「芸能祖神」とあるのは 記紀では天照大神が天の岩戸に隠れたときにウズメの命が

上半身裸で踊り 神々を笑わせたと書かれたのが原因です。太陽の女神に比べて月神は一段と扱いが

低いですね。それと記紀では 鈿女の命が胸をあらわにしてサルタヒコを誘惑したと書かれて

あまりウズメの命はよい扱いを受けていませんね。

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椿大神社の境内にある 鈿女本宮椿岸神社です。

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椿岸神社の拝殿です。

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しかし豊来入姫は イクメ大王の放った刺客に命を奪われて この地で亡くなります。

すると月神の信者たちが集まり、遺体をヤマトへ運びホケノ山古墳に埋葬したと伝えられています。

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ホケノ山古墳を復元したものです。

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棺の埋められていた場所を復元したものです。

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ホケノ山古墳から隣の箸墓古墳(大和姫が埋葬された古墳)をみたところです。

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豊来入姫を終わり次は大和姫です。

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第四のヒミコ 豊姫(豊来入姫) その1

2021年05月07日 16時14分36秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

豊姫 その1

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239年6月に魏へ出発した、物部十千根や田道間守の使節団は翌年初めに帰国しましたが、魏の役人

テイシュンが付いてきました。北九州の伊都国において 魏の皇帝からの詔書と金印は直接 

親魏和王の認定を受けた宇佐豊玉姫に手渡されました

そして豊玉姫亡き後 大和が第二次東征軍と磯城王朝との混乱時期に、九州の伊都国に滞在する 

魏の和国駐在武官、張政によって 親魏和王の宇佐豊玉姫の後継者に 豊玉姫の娘の豊姫が指名されました。

魏書では 台与トヨ と書かれました。ヤマト国と書かれたのを ヤマタイ国と間違えて

読んだ人がいるようですが 台与はタイヨではありません。トヨです。

豊姫は傘縫村の檜原神社で月神を祀り若日霊女貴(わかひるめむち)と呼ばれます。

また豊の国から大和へやってきた征服王朝の御姫様なので 豊来入姫(とよきいりひめ)と呼ばれます。

 

※豊来入彦、豊来入姫では豊の国からやってきた征服王朝ということがバレルので 記紀は

「豊鍬入彦(とよすきいりひこ)」「豊鍬入姫(とよすきいりひめ)」と書き換えます。

豊の国から鍬(すき)を持ってきた王と姫???  なんのこっちゃ。

 

当時は陰暦を使う時代だったから、月も満ち干を見て月日が決められました。それで月神は

月読の神(つくよみのかみ)と呼ばれました。

毎月の満月の夕方に月読の命の礼拝が行われ、春秋の満月の夜には大祭が行われました。

その大祭には多くの人が参列し信者が次第に増えていきました。

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豊姫は笠縫村の檜原神社で月読の神を祀りました。

神社の鳥居は古代出雲式の二本柱の鳥居です。豊姫は出雲王家の血は入っていませんが

檜原神社が大神神社の末社となっているために、大神神社の鳥居様式となっています。

三輪山の麓の大神神社(おおみわじんじゃ)は登美家はじめ出雲族が 八千矛王を祀るために建てました。

八千矛王は古代出雲第八代大名持(主王)で、八重波津身少彦(副王で記紀では事代主と書き換え)と共に、

秦国からの渡来人徐福とその部下の矛卑(ほひ)により幽閉殺害され、記紀では大国主と

書き換えられました。

 

※ちなみに矛卑の子孫が今の出雲大社宮司家です。

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檜原神社境内の「豊来入姫宮」です。

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ちなみに我が家の神棚の神様の御札です。

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親魏和王の認定を受けた豊玉姫の後任として魏の承認を得た豊来入姫女王と豊来入彦王に このままでは

ヤマトの政治権力が奪われてしまうと危機感を抱いたイクメ王は 出雲の富家に密使を

送りました。内容は「出雲兵を大和に送り 豊国軍を追い出したら、三輪山方面と磯城郡界隈の

領地を与える」というものでした。

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イクメ王はまずその前に豊国軍を利用することを考えて 豊彦王に佐保彦追討を命じます。

豊彦軍は 佐保彦軍を破り ヤマトから東国へ追いやりました。

サホ姫は佐保彦軍と共に 近江の国へ逃れ、更に尾張の国の丹羽郡に隠れたといわれます。

佐保彦はさらに東へ行き 甲斐の国で日下部連と名を変えました。

 

豊彦軍は佐保彦軍を山城の国まで追いかけましたが、そこから転進して彦美知宇斯大王を

攻めるため丹波国に向かいました。

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豊国軍がヤマトから離れ、山城、丹波へ向かった隙に ヤマトから豊国軍によって 

追い払われて 山城の国にいた賀茂家(登美家から賀茂家へ名前を変えていました)当主の

加茂田田彦は出雲からの援軍と共に 三輪山へ向かって進軍し 三輪山周辺の旧領地を回復して

さらに磯城王朝家の領地の一部も手に入れました。

笠縫村にいた豊来入姫女王は 加茂田田彦軍、出雲軍に追い出されて 兄の豊来入彦のいる

丹波へ逃れました。

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丹波では前述したように 彦美知宇斯王と武内宿祢の軍が 豊国軍とイクメ王の物部軍に

取り囲まれて降伏し、イクメ王は名実ともに大和の大王となるのです。

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しかし勝利したはずの西軍も不仲になります。豊国軍は「今度は自分たちがやられる」と

疑いだして 東へ移動しました。近江の国に住み着いた豊国軍は「豊郷」の地名を付けました。

尾張の地に移住した兵士は 武豊や豊明の地名を付けました。

豊明は月神のあかりを意味したそうです。

 

豊国勢はさらに関東へ逃げ、下毛野に落ち着いて その地の開発に成功して豊彦の子孫が下毛野国造家

となっていたのです。

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下毛野国赤城神社の広い境内です。

追われた豊来入彦は この地まで逃げてきてこの地の開拓発展に大いに貢献したという。

それで祀られているのです。

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赤城神社の立派な拝殿。その奥に本殿があります。

しかしこの神社の由緒書きには 「崇神大王が東国に豊来入彦将軍を派遣してこの地を平定した」

「この豊来入彦将軍を祀っている」


などと、記紀の御伽噺をそのまま載せているので 困ったもんです。

イニエ王(崇神)は九州から一歩も出たことはなく、したがって大和の大王ではないし、豊彦王は

イクメ大王(垂仁)によって大和から追い払われたのだし。偽書も困ったもんだ。


追放された豊来入彦が 大王に派遣された将軍になっている。記紀は政権交代で追放された前王朝の

大君や皇子は すべて大王が派遣した将軍にされています。

つまり記紀は歴史書ではなく、持統や不比等らが自分たちの立場を正当化するための偽書(ぎしょ)、おとぎ話なのです。

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その2へ続く

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第三のヒミコ サホ姫 その2

2021年05月03日 11時41分57秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

サホ姫 その2

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田道間守を大和から追い払った野見太田彦は ヤマトの添下郡(今の奈良市菅原町、秋篠街方面)

を領地にもらい その管理を長男と次男に任せて 連れてきた出雲兵と共に 出雲に帰ることになった。

一行は播磨を通り 日下部の野に宿泊した。

日下部には日下部一族が住んでいて、日下部氏はヤマトの登美家の分家であり、富太田彦の親戚でもあった。

その日下部氏から太田彦は招待されて もてなしの食事を提供された。

しかしその食事には 毒が盛られていて太田彦は急死しました。

後で知らされたことですが 日下部氏の家には 卑ボコの子孫の者がいて そいつが毒を盛ったと

云うことでした。旅先で亡くなったので 太田彦の遺体はその地に埋葬されることとなり

出雲から大勢の人が駆けつけて 古墳造りに立ち回ったということです。

たくさんの人が その野に立ち回ったので その地は「立つ野」と名付けられました。

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現在の兵庫県龍野市に、「野見の宿祢の古墳」があります。

(上の写真と下の説明文は 龍野市の公式ホームページから借用しました。)

龍野市野見の宿祢神社の写真と説明文です。

相撲の元祖であり、殉死の代わりに埴輪を考案したことで有名な野見宿禰は、大和の国から

故郷の出雲へ帰る途中この地で病死しました。

宿禰の死を悲しみ、出雲から多くの人が来て川からリレー式に石を運び墓を建てました。

野に人が立ち並んだことから、「野に立つ人」「立野」と言い、いつしか「龍野」になったそうです。

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また遺体の一部は 出雲にも持ち帰られて松江市宍道町にもお墓があります。

2015年12月13日の記事と2021年2月2日の記事に松江市の太田彦の古墳の記事があります。

※なお現在は その古墳の敷地に太田彦の子孫の菅原道真の菅原天満宮も建てられています。

菅原道真の生家も松江市宍道町です。

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さて田道間守がヤマトから追い払われて イクメ王が安堵したのもつかの間、今度は磯城王朝の

彦美知宇斯大王の誘いに応じた 武内宿祢が 紀国からたくさんの兵を集めて磯城王朝側に参加します。

かれは宇佐豊玉姫に冷遇され、魏から官位がもらえず失望し、かつ怒りが こみ上げてきて、物部軍から離れて

紀州に帰り機をうかがっていたのです。

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彦美知宇斯大王の軍に 武内宿祢の紀州軍が加わると 佐保彦の軍と合わせて東軍の勢力が

がぜん優勢になりました。西軍はこの状況に非常に落胆したといわれます。

イクメ王は 十千根をはじめとして 様々な物部軍関係者から武内宿祢に密使を送り物部軍に帰るように

勧めたそうですが 武内宿祢は がんとして聞き入れませんでした。

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しかしこの後 宇佐豊玉姫の葬儀を終えた豊国勢が 瀬戸内海から河内へ上陸しました。

この時点から 豊彦、豊姫は「豊来入り彦」、「豊来入姫」と呼ばれます。しかし記紀は

豊来では 豊の国からやってきた征服王朝というのがバレルので 「豊鍬入り彦(とよすきいりひこ)」

「豊鍬入り姫(とよすきいりひめ)」と書きました。なんのこっちゃという感じですね。

ちなみに 記紀は 九州から一度も出ていないイニエ王(イクメ王の父君)の事を「御間城(みまき)入り彦大王」

と書き換えて あたかも朝鮮の和国領土の任那(みまな)からやってきたように見せかけていますが

任那ができるのは 襲津彦大王と息長姫が三韓征服したそのあとなので 時代が全然合いません。

やることが無茶苦茶ですね、記紀は。

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豊彦と豊姫は イクメ王が磯城王朝と休戦したことを知り、しかもイクメ王がサホ姫と結婚して

サホ姫が三輪山で 太陽の女神を祭祀する姫巫女であることを知り 大いに不満を感じます。

宇佐家は代々月読の神を祀る家柄であり、豊玉姫も豊姫も月読の神を奉じているのに

サホ姫が司祭する 太陽の女神 すなわち大日霊女貴が政治の中心となっているので

自分たちの立場がなくなるのを恐れたのです。

そこで豊彦達豊国軍は 河内から突然大和南部へ進軍して登美の霊畤や三輪山を占領し、登美家の勢力を追い払ったのです。

登美家はヤマトの大豪族でしたが 突然の豊国勢の乱入に 対戦できず登美家当主の大賀茂津身は

山城の国南部の岡田(現京都府木津川市加茂町)へ地盤を移します。

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宇佐豊玉姫は亡くなる前に 親魏和王の金印と紫帯を娘の豊姫に渡していました。

そして伊都国に駐在している魏の和国駐在武官の張政は 豊玉姫の後任にトヨを文書で指名します。

トヨは魏書に台与と書かれています。これはタイヨではありません。トヨです。

ヤマト国と書かれた字を誰かが ヤマタイ国と間違えて読んでそれが広まったようですが台はトと読みます。

タイではありません。つまりヤマト国、トヨヒメです。

当時の和国が魏の属国である以上 張政の檄文書は絶大なチカラがあります。そこでイクメ王の物部軍と

豊国軍は再び合流します。すると俄然西軍が優勢になります。

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魏から親魏和王と認められた豊玉姫は 豊彦にとって自分の母であり、自分の妹の豊姫が母、豊玉姫の後継者なので

自分こそが和王であり、妹が和国の祭祀を司る姫巫女なのだと豊彦は思い 自分を王と名乗ります。

豊姫は三輪山の麓の笠縫村の檜原神社で月神を祀り 人々から「若日霊女貴」と呼ばれます。

そして若日霊女貴も次第に人気が出てきます。

 

そして豊彦はイクメ王にサホ姫と手を切ることを求めます。魏の和国駐在武官の張政が

豊姫を親魏和王の後継者と定めたので これに従わなければならないのです。 

イクメ王は佐保姫と手を切りサホ彦を攻めることを決意します。

これを知ったサホ姫は幼いホムツワケの皇子を抱いて夜更けに兄のもとへ逃げ込みました。

サホ姫は兄のもとからさらに護衛を付けられて 東国へ向かい 尾張の国丹羽郡に隠れたといわれます。 

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イクメ王のもとで 三輪山で太陽の女神を奉じ「大日霊女貴(おおひるめむち)」と呼ばれた

サホ姫は これで歴史の表舞台から姿を消します。

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奈良市の狭岡神社です。

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境内には記念碑があります。

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サホ姫伝承地と書いてあります。

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記紀を引用した割には正確です。サホ姫はたしかに大日々大王の孫です。

そして一時はイクメ王の后でしたから。しかし当時はイクメ王はまだ大王になっていませんでした。

記紀は第10代日子坐と第11代彦美知宇斯大王を隠していますから、サホ姫の父親を書けなかったのです。

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狭岡神社にはサホ姫の社はありません。

ネットで調べると近くの常陸神社境内にあると書いてあったので訪ねました。

確かにサホ姫大神と書いた社がありました。

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優勢になった西軍は 豊彦の息子八綱田(やつなた)が将軍となりイクメ王軍と共に佐保彦軍を

打ち破りました。さらにイクメ王は磯城王朝の都である和邇の地へ総攻撃を指示し、豊国軍と

イクメ王の物部軍が総攻撃をかけました。

彦美知宇斯大王軍と武内宿祢軍は破れて 丹波へ逃れました。

これでイクメ王は名実ともに ヤマトの大王となりました。

さらにイクメ大王は 彦美知宇斯王と武内宿祢のいる丹波への総攻撃を仕掛けて 彦美知宇斯王を

取り囲みます。

観念した彦美知宇斯王は 降伏し ここに約300年続いた磯城王朝は終わります。

大王の資格を失った彦美知宇斯王は幼名の彦多津彦を名乗り 娘たちや武内宿祢を連れて

丹波の網野の地に行きそこに網野神社を建てて父の日子坐大王を祀りました。

さらに 彦多津彦王は 稲葉国造に任命されて 武内宿祢を伴って稲葉の地に赴任しました。

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サホ姫の項 これで終わり 次は豊姫(豊来入姫)です。

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第三のヒミコ サホ姫 その1

2021年04月29日 12時45分21秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

サホ姫 その1

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吉備王国を制圧したイクメ王は 瀬戸内海を東へ進み、難波の楯津(現在の東大阪市)に上陸しました。

そして日下(現在の東大阪市)に進軍して 背後にそびえる生駒山に登りました。生駒山の東はもうヤマトです。

しかし生駒山に登ったものの、東側へ下りることはできませんでした。

ヤマトでは磯城王朝第十代日子坐大王が亡くなり 第十一代大王に彦美知宇斯(ひこみちうし)大王が

就任して和邇の地に軍を構えており、生駒山の東側には大王の弟の佐保彦が軍を構えていて頑強に抵抗して

イクメ王は山を下りることができなく、磯城王朝の東軍と生駒山のイクメ王の西軍とが長期間対峙して

にらみ合いが続きました。

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大阪と奈良の堺のこの屏風のような山は イクメ王が長くとどまったことから

イクメの山、イコマ山(生駒山)と名付けられました。

そして生駒山山中には イクメ大王を祀る往馬(いこま)神社が建てられました。

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往馬(いこま)神社 (往馬坐往馬津比古神社ーいこまにいますいこまつひこじんじゃ) 奈良県生駒市壱分町 です。

往馬津比古と呼ばれるイクメ大王を祀っているはずです。

しかし本殿が一つのはずが七棟あります。往馬津彦お一人のはずなのに、ハテナである。
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良く探すと 何故七柱なのか説明札がありました。それを読んでびっくりたまげました。


往馬津彦(いこまつひこーイクメ大王)と往馬津比売(一回目の皇后のサホ比売なのか二回目の皇后ヒバス比売なのか不明だが)

は 分かります。

しかし全国の八幡神社お定まりの 仲哀(オキナガ姫皇后の部下の豊前ナカツヒコ)、神功皇后(オキナガタラシ比売)、

ホムタ大王(応神)の三柱セット、それに 朝鮮半島辰韓の王子卑ボコの子孫である息長帯姫のご両親まで

祀られているのにはびっくりです。

おまけに境内には二十いくつかの末社があり まるで神社のデパートです。

どんな神さんもいますから どんどん来てお金を頂戴という すごい魂胆の神社です。

がっくり来ました。イクメ大王なんてどうでもいいのです。由緒書きさえありませんでした。

これではイクメ大王がかわいそうですね。
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イクメ王がイコマ山に駐留していたころ、出雲の神殿、田和山神殿を破壊して 但馬で兵を集めた

田道間守がイコマにやってきて イクメ王の軍に合流しました。

すると西軍が がぜん優勢になりました。

そこで和邇の地の彦美知宇斯大王はイクメ王と休戦することにして 妹のサホ姫をイクメ王の后としました。

登美家出身のサホ姫は 日子坐大王亡き後 三輪山の祭祀を務めていましたが、

イクメ王の后となり正式な姫巫女となった サホ姫が第三のヒミコです。

 

登美の霊畤から 三輪山の太陽の女神を祀るサホ姫は 「大日霊女貴(おおひるめむち)」と呼ばれるようになり

それが太陽の女神を意味するようになりました。

登美の霊畤で祭祀するサホ姫の後には イクメ王が控えて、参列する大和の豪族たちは次第に彦美知宇斯大王から

イクメ王へ 尊敬心が移っていったといわれます。

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河内の国に陣取った田道間守は 連れてきた但馬の兵に河内を耕作させて 次第に勢力を強めて

イクメ王の指示を聞かなくなりました。彼は魏から中朗将の位を受けていてイクメ王も同じ中朗将なので

指図は受けないという意識が強かったのです。

田道間守は、勝手に奈良盆地の南西部の広瀬郡や葛木山東山麓に攻め込んで占領し あたかも自分が大和の王の

ように振る舞います。

それどころか 田道間守は佐保彦と手を組み イクメ王を襲い自分が大王になろうと陰謀を企てます。

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困り果てたイクメ王は 出雲駐在物部武官の秋上十千根に田道間守勢力を抑え込むように指示した。

物部十千根は出雲では物部に対し反感が強いことから 秋上家を名乗っていたが 駐在武官なので

兵力は少なく それで 徐福の忠実な部下の矛卑の子孫の矛卑家の韓比佐に相談しました。

しかし出雲王家の主王副王の二人を殺害した 矛卑の子孫は 物部よりもっと反感が強く 

矛卑家の出兵の求めに応じるものはいませんでした。

そこで十千根は 旧出雲王家の富家に助けを求めました。

 

登美家は出雲王家を滅ぼした物部家はもちろん大嫌いであった。しかしそれ以上に 大切な田和山神殿を

破壊した田道間守は もっと許せなかった。

田道間守に復讐することは 田和山で戦死した登美家の飯入根の霊を慰める事でもあった。

そこで登美家はこのイクメ王の求めに応じることにした。

ヤマトでは出雲の登美家に反感を持っている者がいるやもしれず 登美家の太田彦は 

用心のため、名前を登美家から「野見家」に変えて「野見太田彦」として出陣することにしました。

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ヤマトからは 大和直(やまとのあたい)の先祖の 長尾市が野見太田彦を迎えに来ました。

そこで太田彦は 旧東出雲軍を集めて 大和へ向かって出陣しました。

出雲軍は大和盆地の北西から侵入し、当麻(たいまー田道間守が連れてきた但馬の人々が住み着いたので

たじま→たいま と呼ばれるようになっていた)に割拠していた田道間守の兵士たちを片っ端から

見つけ出して追い払い 更に田道間守らを西へ責め立てて ついには淡路島へ追いやりました。

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これに喜んだイクメ王は 野見太田彦に 物部の重鎮称号の宿祢を与え、以後太田彦は

野見宿祢と呼ばれるようになりました。

 

しかし記紀では こんな戦争、内乱を書けないので おとぎ話に替えました。

すなわち 「この当麻の地で イクメ大王の前で 當麻蹴速(たいまのけはや)という大男と 野見の宿祢

という力持ちの男が 相撲を取り勝負しました。野見の宿祢は 當麻蹴速を見事に投げ飛ばして

勝負に勝ち、大王からご褒美をたくさん貰いましたとさ」 

これが大相撲の起源になったそうです。恐ろしくも 滑稽な事です。

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そしてご丁寧に 相撲神社までできました。

桜井市穴師という場所があります。穴師とは 金属精錬技術者たちのことです。

そこに 「穴師坐射盾兵主神社(あなしにいますいたてひょうずじんじゃ)」があります。

初代大和大王の天の村雲の一派が この地に住み 精錬をしたということです。そして天の村雲の父の

五十猛(徐福の長男)をこの神社に祀りました。射盾とは五十猛(いそたけ)を現したものだそうです。

五十猛は 出雲の五十猛海岸近くで生まれ そこから丹波に大勢の海童たちを引き連れて移住し、さらに

大和に移住してきましたが そのころには香語山と名乗っていました。

兵主とは 徐福が育った 古代シャントン半島で行われた八神信仰で 第三神が兵主(ひょうず)という神様で

徐福が和国に 稲荷信仰などとともに 八神信仰も持ち込んだといわれています。

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その穴師坐射盾兵主神社のすぐ手前に相撲神社があり、昭和の頃に大相撲の主だった力士がこの神社に集まり

土俵入りをしたといわれていますから いやはや 記紀の作り出した出鱈目話が 恐ろしいことになったものです。

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二上山から見た当麻の地と向こうは大和高田市街です。

田道間守はこの界隈を本拠地としました。

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当麻の地には 現在当麻寺が建っています。

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穴師坐射盾兵主神社です。神社の案内看板には「大兵主神社」とだけ書かれています。

この境内で 大鵬や柏戸などの人気力士が土俵入りしたそうです。

あな恐ろしや。

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兵主神社の下に相撲神社があります。嘘もここまで来ると本当に聞こえますよね。

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ご丁寧に野見の宿祢のレリーフまでこしらえてありました。クワバラクワバラ。

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佐保姫その2へ続く

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第二のヒミコ 宇佐豊玉姫 その2

2021年04月21日 16時10分54秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

宇佐豊玉姫 その2

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しかしイニエ王も短命で 日向を離れることもなく 物部豊連合王国の首都西都原で亡くなります。

記紀ではイニエ王を大和の大王にでっち上げてますが イニエ王(のちの贈り名を崇神)は

一度も九州から出ていないのです。

のこされた豊玉姫は 連合王国の女王となり 第二次東征の決行を決意します。

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豊玉姫皇后は魏に数回使節を送り臣下の礼をとります。記紀編纂指示者はそれが気に入らないのか

豊玉姫を徹底的に無視します。

239年6月に魏へ出発した、物部十千根や田道間守の使節団は翌年初めに帰国します。

しかし魏の役人テイシュンがついてきました。皇帝からの詔書と金印は女王に直接手渡す

ことになっていたからです。

 

当時魏の役人は 伊都国までしか和国に入れませんでした。伊都国(今の福岡県糸島市付近)の迎賓館にテイシュンを待たせて

十千根は西都原へ引き返して 女王豊玉姫と皇太子イクメに伊都国へ赴くように伝えます。

豊玉姫は魏に対してヤマトの女王と言ってましたから 和国の女王との意味だったのでしょう。

自分が都万国の西都原にいることは伏せていて ヤマトから来たふりをしてテイシュンの待つ伊都国に

イクメとともに赴きます。

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姫巫女であり 女王でもある いわゆるヒミコこと豊玉姫皇后に テイシュンは伊都国で詔書と金印

、紫帯及び下賜品目録を直接手渡しました。

 

女王は正装の上に紫色の錦帯を肩から斜めにかけて 大いなる威厳を示したそうです。

田道間守と十千根も青錦帯を肩から掛けて参列しました。

下賜品には 五尺刀、高級織物とともに 銅鏡が100枚ありました。(三角縁神獣鏡ではありません)

女王は魏の皇帝に対する感謝の書状をテイシュンに持たせて魏に返しました。

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ヒミコこと豊玉姫はどんな衣装だったのか 気になります。

この復元想像図は「出雲弥生の森博物館」に展示されている女王のアクセサリーです。

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これは大阪府河南町「近つ明日香博物館」の復元想像の像です。

飛鳥時代の服装だったような気がしますが。

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これは奈良県桜井市埋蔵文化センターの巻向遺跡の貴婦人アクセサリーです。

巻向はモモソ姫ヒミコ時代の大集落で 登美家の地盤でした。最高権力者のヒミコはもっと

高貴な衣装だと思いますが、この復元想像の衣服は麻か綿のように見えてかなり質素です。

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243年にも女王は魏へ使節団を派遣しています。使節団長はイクメ王ですが 幼名のイサチのなまえで行っていて

記録にも「イセシ」と書かれています。王であるイクメの名前を隠したのでしょう。

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かつて東のヤマトと並び 和国の西の中心だった西都原の今の西都市の町並みです。

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都万神社です。都万国があった場所は現在は妻という字が当てられています。

都万神社の御祭神はイクメ大王の生母である 阿多津姫です。

阿多津姫は薩摩の豪族の娘で身分が低かったので 記紀はこの姫の素性をいろいろと細工したようです。

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イクメ大王が育ったあたりは 現在は「生目(いきめ)」という地名になっています。

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イクメ神社です。神社由緒書きには「御祭神は一説には イクメ入り彦イサチの命ともいわれている」

とあいまいな表現をしています。

当たり前ですよね。

記紀の出鱈目小説のなかで 九州を一度も出たことのない イニエ王(後の贈り名を崇神)は大和の大王にでっち上げており、

ということは当然その息子イクメ大王は大和で生まれたことになるので ヤマトからこんな離れた日向で

正式に祀られていたら絶対におかしいから。

本当のことを表記すれば 時の最高権力者、右大臣の不比等ににらまれまれるどころか死罪になりますからね。

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西都原古墳群にはたくさんの古墳があり じっくり見ていくと一日では回れません。

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中でも一番大きな古墳に目を付けて見に行くと なんと宮内庁の管理になっていました。

オサホ、メサホの墓と書いてあります。ウーム!  

私が思うに これはイニエ王と阿多津姫の墳墓ではないでしょうか。

ということは宮内庁は、イニエ王が大和に来ずにここで亡くなったことをちゃんと知っていると思いますね。

ヤマトから遠く離れた都万国のお墓を宮内庁が管理するのは異例で 不自然ですからね。

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さて宇佐神宮は八幡神社とも言います。なぜ幡(はた)が八本なのでしょうか。

 

東征軍は都万国を出発して周防灘で一時停泊しました。豊玉姫の実家の宇佐にしばらく滞在して

豊国の兵士を集めるためです。豊玉姫は駅館川(やっかんがわ)の川岸に行宮を建てて滞在しました。

そこは川岸だったので「足一つ上がりの宮」と呼ばれたそうです。

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田道間守が帯方郡で魏からもらってきた4本の黄色の錦の御幡が伊都国に安置されていたのを

田道間守の船が宇佐宮へ持ってきました。それと以前に魏からもらい受けていた黄色の錦の御幡4本と合わせて

八本の幡が神前に飾られて、東征軍総司令官の豊玉姫は兵士を集めて出陣式を行い 武運を祈りました。

 

八本の幡を飾り兵士を集めて出陣式を行ったことから 宇佐宮は八幡宮と呼ばれるようになったと言われます。

その八幡は軍旗であったので のちには八幡宮は武力の神とされるようになりました。

黄色は魏の皇室の色なので 黄色の幡を建てることはそこが魏の領地ということを示します。

その旗を先頭の軍船に飾り 兵士の士気を大いにかき立てたといわれます。

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246年に物部豊連合王国軍を率いて 豊玉姫皇后は瀬戸内へ出陣しました。

先頭は物部軍率いるイクメ王で、豊国軍を率いる女王豊玉姫と豊彦、豊姫が続きました。

豊国軍はまず安芸の国に上陸し埃宮(えのみや)を作りそこに留まり安芸の国の征服戦を始めた。

しかしそこで女王は病になり養生せざるを得なくなりました。

女王はイクメ王を東征軍総指揮官に指名して 先へ進ませました。

イクメ王は吉備王国を征服するために 吉備の高島に行宮を建て そこに留まり吉備の征服戦を続けたが

8年以上かかったという。

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一方 日本海を進んだ物部軍率いる曙立王(あけたつおう)と豊国軍を率いる宇佐家の菟上王は 

西出雲王家を責め立てて 多くの犠牲者を払い西出雲王家の神門臣家を降伏させさせました。

西出雲王家は東征軍の来襲に備えて 険しい堀や垣根を何重にも作り備えていましたが 物部軍と豊国軍は

その警備の手薄なところを まるで熟知しているかのように進軍してきたと言われます。

後で判明するのですが 徐福とともに渡来した徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)の子孫の矛卑家は

出雲に住んでいて出雲王国軍の警備を熟知しており 矛卑家の韓比佐と息子のウカツクヌが東征軍を

手引きして 西出雲王家の警備する裏側に導いたといわれます。

 

あわてた西出雲王国軍は 将軍の振根と多くの兵士を宮殿に残し、山崎帯(たらし)王たちは 久奈子(くなこ)の丘に避難しました。

激戦の末に 振根将軍は戦死し 西出雲王家の第十七代山崎帯大名持(主王)は降伏しました。

物部軍は 旧王宮を占拠し、久奈子の丘の新王宮で 西出雲王家と物部軍との間で降伏調印式が行われました。

久奈子の丘はそれ以後江戸時代まで「和はかりの宮」と呼ばれました。

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長い石段を上り詰めると 久奈子の丘の上には 今は久奈子神社があります。

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久奈子の丘はもともと正面やや右の雲に隠れた出雲北山の主峰 鼻高山(はなたかせん)を遥拝する霊畤でした。

久奈子とは出雲国教幸ノ神三神のクナト大神の皇子神サルタヒコのことで クナトの子です。

サルタヒコはドラビダ語でサルタつまり鼻が長い神で象神ガネーシャのことです。

鼻が高いサルタヒコは 鼻高山に祀られて ここクナコの丘 つまりサルタヒコの丘から鼻高山を遥拝したのです。

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また別動隊の田道間守率いる卑ボコ子孫勢軍が 東出雲王家を責め立てて 多くの戦死者をだして

田和山神殿を破壊しましたが イクメ王よりも先に大和入りする計画を持っていた 田道間守は

直ちに軍を引き返し ヤマトへ向かいました。

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田和山神殿跡です。向こうに宍道湖を見下ろします。柱列だけが復元されましたが

建物の形状は諸説ありということで建物の復元はされていません。

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一方 物部軍本体は苦労の末に吉備王国を降伏させて 物部十千根率いる別動隊が永江峠を越えて東出雲王国に

攻め込んできました。 能義郡伯太村で激戦の末東出雲王国軍を破り 東出雲王家の富家太田彦を降伏させました。

この時も矛卑家の韓比佐が十千根軍を手引きしたといわれています。

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我が国最初の王国の出雲王朝は 初代菅之八耳で始まり約700年続きましたが 第十七代大名持の山崎帯主王、

第十七代少彦(副王)富太田彦で終わりました。

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記紀ではこの征服戦争について 全く触れていません。「我が国最初の王朝、出雲王朝を秦国からの渡来人

徐福や矛卑、大勢の海童たちの子孫の物部王朝が殺し合いで倒し、征服して大和に物部王朝を打ち立てた」

なんて絶対に秘密なのです。そんな渡来人の征服王朝の言う事なんか 誰も聞かないから。

そこで記紀制作者たちは 妙案を思いつきました。

国つ神(大国主を代表とする もともと出雲にいた神々 )が 天津神ー天から降りてきた神々に

出雲の国を差し出して 譲ったというのです。国譲り神話です。これも矛卑家の悪知恵だといわれます。

 

調子に乗った記紀制作指示者たちは 国譲り神話の続編を思いつきました。

国譲りの申し出に来た天津神に 大国主の皇子の建御名方が 「俺と力比べをして勝てばこの国を譲る」

といったので 天津神の一人タケイカヅチが建御名方を投げ飛ばして勝ちました。

それで建御名方は逃げ回り ついに諏訪湖のほとりでつかまり「この地から一生出ませんから許してください」と言って

許されたことにして 建御名方を弱いもの、情けないものに 作り替えました。

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徐福に殺された古代出雲の八千矛王(大国主と書き換えられた)と八重波津身副王(事代主と書き換えられた)

の皇子たちは そのまま出雲王朝を守り続けますが 出雲に住み着いた秦国人たちとの共存を嫌った何人かの皇子たちは

大和へ移住して 賀茂家、登美家や高鴨家を作りました。

また夫の八重波津身(事代主) を殺されたお后の一人沼川姫は皇子の建御名方を連れて実家の越の国糸魚川へお帰りになりました。

建御名方は越の人や一緒に移住した出雲の人たちを引き連れて諏訪湖に移住して 開拓し信濃の開発に成功を収めます。

それで沼川姫とともに建御名方は 信濃の人々から絶大な尊敬を集めて 諏訪大社各社に祀られます。

 

自分たちの祖先の徐福が殺した事代主の息子が諏訪湖の開発に成功して土地の人々から絶大な尊敬をあつめているなんて。

記紀制作支持者たちは それが許せなかったのでしょう。それゆえあえてタケミナカタを弱いものに仕立てたのです。

スケールの小さなつまらんやつらですね、不比等らは。

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BC219年に始皇帝からたくさんの資金と海童たちをもらい 河北省秦皇島を出発して石見海岸の五十猛に上陸して

出雲王家の主王と副王を同時に殺しても 徐福は出雲の王にはなれませんでした。出雲王国の組織が硬くまとまって

いたのでしょう。

そこで徐福は いったん秦国に帰り始皇帝から更なる資金と海童たちをもらい不老不死の薬を探すふりをして

和国の王になるべくBC210年に今度は浙江省寧波(にんぽー)を出航し佐賀の浮杯に上陸しますが 今度も和国の王に

なれませんでした。

徐福の次男、穂穂出見が九州物部王家を作り 更にその約450年後にその子孫たちが出雲王国を倒して大和入りし、 

やっとイクメ大王が 徐福由来の物部王朝を作ったのです。

 

そんな苦労した二度にわたる九州からの東征を「神武東征」として一度にまとめて しかも輝かしく見せるために 

出雲の国譲り神話をでっちあげたり、信濃で絶大な尊敬を集める建御名方を ことさら弱弱しくつまらん奴に

しなくてはならなかったのです。

 

記紀制作時には イクメ王に出雲国造にしてもらっていた 矛卑家の果安のつまらん提案や悪知恵もあったでしょうが

それを聞き入れて採用した 持統も不比等も度量の小さいやつですね。

 

※矛卑家の子孫が今の出雲大社宮司の家系で、不比等の子孫の藤原家はその後天皇制を食い物にして千年以上も

徹底的に私腹を肥やし続けてきました。昭和天皇に 足を組んで偉そうに戦況報告をしたという 有名なあのお方も

藤原家の末裔のお方です。

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糸魚川市の沼川神社拝殿内部です。郷土の英雄である沼川姫の字をあろうことか卑字で書いています。

こんなバカげたことは止めて ちゃんとした字で書いてあげましょう。

沼川姫も悲しんでいらっしゃいます。

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諏訪湖の中にたたずみ諏訪の街を見守る沼川姫です。

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諏訪大社秋宮御柱です。諏訪大社は 春宮秋宮上社下社とたくさんあります。

御祭神はもちろんみな 沼川姫と建御名方です。

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豊玉姫 その3へ続く

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第二のヒミコ 宇佐豊玉姫 その1

2021年04月15日 23時05分50秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

宇佐豊玉姫 その1

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支那の歴史書に登場する第二のヒミコは 宇佐王家の豊玉姫です。このお方こそ正真正銘の

「ヒミコ」なのです。しかも支那人から 直接「親魏和王」の認定を受けたお方です。

しかも支那人が直接声をかけて 肩に錦のタスキを掛けた和国の女王なのです。

記紀はこのお方を 完全に無視しています。

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完全に無視する理由はあります。

一つは 和国が当時支那(魏)の属国だったことを潔しとしないことがあるでしょう。

もう一つのほうが大きな理由だと思いますが、記紀では神武が東征して大和入りして以来

大王家は連綿と続く万世一系としていることが 作り事だとバレてしまうからです。

 

九州物部王家と豊王家が連合し、物部豊連合王国が第二次東征してイクメ王が ヤマトの大王になり 

それまで約300年続いた磯城王朝が滅んだこと。

磯城王朝第11代大王彦道主大王が イクメ王に降伏し娘のヒバス姫をイクメ王に差し出して 

名前を彦タツヒコと 変えて稲葉国造になったことは絶対に秘密なのです。

 

第二次東征という戦争により、たくさんの血を流した結果 磯城王朝が倒れて、九州物部王家による

物部王朝が始まったことなど、隠さなくては 「万世一系」が崩れてしまうのです。

流血による政権交代など、記紀の制作を指示した持統女帝にとって 最も忌み嫌う事なのです。

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記紀では九州物部王家の 80年ほど離れた前後二度にわたる東征を一つにまとめて書いています。

第一次東征は 165年頃 九州物部王家の彦渚武王の皇子たち三人による東征です。

物部五瀬を総指揮官として 紀ノ川から大和入りしようとしましたが 高倉下の子孫の名草の戸畔(とべ)

による迎撃で 五瀬は戦死します。

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物部五瀬が祀られている竈山神社です。この神社の横に五瀬の御陵があります。

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残った物部稲飯と三毛入りの兄弟は紀ノ川河口から南下して熊野川河口に着きます。

しかしそこでも磯城王朝の兵士たちにゲリラ戦で苦しめられて前に進めず 秘密裏に協力を求めた大和の

登美家当主加茂建津之身の案内で磐余の地に入り 一応は目的を果たしたかに見えましたが

結果的には失敗と言われます。

 

宗教的な式祭を取り行う姫巫女をもたない物部王家は 太陽の女神を崇拝し祭祀する姫巫女を擁する登美家に

取り込まれてしまいます。武力だけでは民衆の支持を得られなかったのです。

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230年頃に九州物部王家は 再び東征を実施します。これが第二次東征です。

イニエ王は南下して各地で兵力を集めながら 南下します。そして南薩摩の阿多(南さつま市)で

地元の豪族(竹屋の守)の美して姫と出会います。それが阿多津姫です。

イニエ王は その姫を娶り、姫とともに薩摩から日向へまわり そこで一時落ち着きます。

その姫は イニエ王の皇子を生みます。

 

阿多津姫は記紀では この花咲くや姫と名前を書き換えられます。また父親の竹屋の守は

神話の中の神 大山津身ノ神に替えられました。

阿多津姫が生んだその皇子がイクメ皇子です。後に東征で大和の大王となられたイクメ大王

(のちの贈り名を垂仁)です。

各地の神職の祝詞に出てくる「日向の橘の小戸で禊給いし」 といわれたのがこのイクメ王です。

阿多津姫は短命で日向の地でなくなります。

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イクメ皇子が産湯をつかったといわれる橘の小戸に建てられた小戸神社です。

阿多津姫が祀られています。この神社はもともと海岸にあったそうですが嵐で流されたのでここに

移転されたそうです。

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鹿児島神宮にも阿多津姫が祀られています。阿多津姫の出身地ですね。

ご丁寧に 九州物部家の始祖で 徐福と市杵嶋姫との皇子(長男の五十猛の腹違いの弟)の穂穂出見も祀られています。

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イニエ王は宇佐王家から豊玉姫を皇后として迎え入れ、ここに物部、豊連合王国が出来上がります。

宇佐家は代々月読の神をまつる家柄でした。

物部の武力と 豊玉姫の月読の神を祀る宗教性で大和を征服しようとしたのです。

豊玉姫は豊彦と豊姫を御生みになります。のちに豊来入り彦、豊来入姫と呼ばれるお二人です。

イニエ王は西都原に都を作り ヤマトに新しい政権を打ち立てると宣言し 各地から豪族を集めます。

日向の都万国の都西都原は続々と各地の豪族たちが集まり大いに栄えます。

第一次東征で大和へ行った物部の子孫の 物部十千根もそのひとりです。

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イニエ王の重鎮に物部彦布都押(ひこふつおし)がいました。彼は紀国国造家の山下影姫を娶り

物部武内彦をもうけます。物部武内彦は若くして才能にあふれ イニエ王から可愛がられて物部の重鎮の

称号である宿祢の称号をもらい 物部宿祢武内彦と呼ばれます。しかしその才能が豊玉姫に恐れられて

豊玉姫皇后の息子、豊彦より偉くならないように 豊玉姫に意地悪されるのです。

武内彦が魏へ使節として行った時 十千根や田道間守やイクメ王のような魏の官位「中朗将」がもらえませんでした。

豊玉姫が 魏への親書に 使節団のメンバーに官位を与えてくれるように いつもはお願いするのですが

武内彦の使節には 何もお願いしなかったのです。

 

魏へ行っても何も官位がもらえなかったことに武内彦は非常に絶望し 然りがこみ上げてきました。

十千根や田道間守よりも自分のほうが 血筋がいいとおもっていたからです。

それで武内彦は 失意のうちに東征軍を離れて磯城王朝側へ寝返ります。

しかし イクメ王との戦に敗れて彦道主大王とともに稲葉に逃れます。

しかしイクメ大王の放った刺客から逃れて出雲へ行き、出雲王家に匿われて東出雲王家領地の意宇の森

で生涯を終えます。

 

武内彦は出雲王家の姫を娶り出雲王家の称号「臣」を名乗り 武内臣太田根と名乗ります。

出雲王家が 武内彦を匿まって生かしたことで 武内臣太田根の子孫から日向襲津彦(長江襲津彦)

はじめ平群王朝の大王が排出され 古代史に大きな役割を果たします。 

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武内彦が住んだ意宇の森の阿太加夜神社境内です。

古代出雲の信仰は幸ノ神三神でしたが、それとともに竜蛇神も信仰されました。

境内には古代出雲の伝統の大きな竜が ご神木に巻き付いています。

武内の臣太田根が住んだ意宇の森には、日本書紀を書き終えた太安万侶も 口封じのため 不比等に幽閉されて生涯を終えます。

 

太安万侶は 幸運(?)にもご先祖の地 東出雲王家の向家の領地に幽閉されます。

太安万侶は 幽閉されながらも 秘密裏に東出雲王家の向井家と連絡を取り「自分は出雲王家の血を引く 

多臣家(おおのおみけーヤマト磯城王朝二代目沼川耳の皇子で三代目大王の玉手看の兄である八井耳が始祖)

の末裔で 山部赤人の名前で 幽閉されながら記紀を書かされた」と言ったと出雲王家に伝わります。

そして「古代出雲王十七代の王の名前を古事記に書き入れた」と伝え、それに対して向家は出雲王家を代表して

お礼を述べたと伝わっているそうです。 太安万侶が幽閉されて 余生を送った場所は 島根県松江市の

「意宇の森(おうのもり)」で阿太加夜神社 (あだかやじんじゃ)が建てられています。

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武内臣太田根は ここ雲南市神原に葬られました。今は神原神社が建てられています。

この古墳を作ったのは 武内宿禰の腹違いの弟 ウマシウチの宿禰です。


彼は山代の国加茂付近にいたが、武内宿禰が出雲王家に助けられて 意宇の森に住んだのを知り、

山城の国加茂町から沢山の人を引き連れて移住して来ました。

そのためこの付近も 加茂町と名が付いた。彼は出雲王家の姫と結婚し 臣の称号をもらい

 
額田部の臣と名乗り その子孫たちも この地に住み続けた。

彼が兄の古墳をこの地に 方墳の形で作ったという。

この古墳からは銅剣や 三角縁神獣鏡などが発掘されています。この鏡は彼が帯方郡から連れ帰った鏡つくり職人

たちが作ったものと言われています。

※三角縁神獣鏡は和国製で奈良県田原本町に住んだ鏡造り職人たちにより作られました。

詳しくはこのブログの2015年12月26日の記事をご参照ください。

なお三角縁神獣鏡は支那大陸では一枚も発見されていません。

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豊玉姫 その2へ続く

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※歴史内容については すべて斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

雲州先生もご了解済みです。またすべての写真は私が自分で撮りました。

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「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」トップページはこちらから戻れます。

http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第一のヒミコ モモソ姫 その1

2021年03月29日 23時36分43秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

第一のヒミコ モモソ姫 その1

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支那の歴史書には「ヒミコ」なる人物が 何人か登場します。

しかし記紀では徹底して ヒミコを無視しています。

記紀を書かせた持統女帝や時の最高権力者の不比等らの祖先について 支那の歴史書には

都合の悪いことが書かれているのでしょう。

それらのヒミコについてや、時の権力者にとって 都合の悪いことをまとめていきたいと思います。

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そもそもヒミコとはなんでしょう。

もともと支那人は中華思想におぼれているので(今でもそうですが)支那の周りの国や、

民族を人間扱いしていなかったようです。

卑字、蔑字(卑しんだり蔑んだりする表現の文字)を使ったり、動物の字を当てたりします。

鮮卑、匈奴など汚い表現が凄すぎますね。和国や和人なども卑字で表現されています。

その点朝鮮人は偉かったですね。支那人が蔑んだ名前を付ける前に自分たちの国は「朝鮮」つまり

朝日の当たる鮮やかな国だと 支那人に伝えたから 卑字で呼ばれることがなかったのです。

もちろん我が国の「ヒミコ」も卑字蔑字で書かれています。

 

いまだにその卑字をありがたがって使っている馬鹿な歴史学者がたくさんいます。

あいつらに日本人としての誇りはないのでしょうか。

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江戸幕府に朝鮮通商使節が訪ねてきたときに 将軍あての親書に 和国の文字に卑字が

使われていたので 幕府が怒り親書を投げつけて返し 書き直させたという逸話もあります。

昔の人は日本に誇りを持っていたのに いまだに卑字蔑字をありがたがっているなんて

どうかしてますね。いまでも支那人に遠慮しているのでしょうか。

それとも日本人が支那人に馬鹿にされているのに気が付いていない 大馬鹿なんでしょうね。

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こんなものを並べてはいけません。私は馬鹿ですと言っているのと同じです。

内容は正しいです。桜井市は昔は大和の大豪族で、出雲王家の分家の登美家の地盤でした。

ヒミコの活躍した 鳥見山(登美山)や三輪山があり ヒミコの祭礼やヒミコの司祭する大祭に参集した

各地の豪族たちの宿舎のあった巻向もあり、登美家や大王家の古墳もたくさんあり、まさに古代史の舞台でした。

しかし支那人が日本人を馬鹿にして蔑んだこんな卑字をいまだにありがたがった使っているなんて馬鹿丸出しです。

はやく撤去しましょう。良識ある日本人として 気分悪いから。

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支那人は自分たちの周りの国の人間は みな野蛮人と思っていました。

野蛮な国の名や野蛮人の名前なぞ適当に表記したり、卑字蔑字や動物の文字を当てはめました。

ヤマトの磯城王朝第六代大王国押人(くにおしひとー後の贈り名は孝安)は107年に後漢の安帝に

自ら朝献に行っていますが(記紀では隠しています。大和国の代表として大王が 支那の皇帝に臣下の礼を取ったのが

許せなかったのでしょうが、歴史的事実で支那の歴史書に書いてあります) 支那人は彼の6文字の内2字だけ表記して

「師飛しひ」と記録しました。

おまけに ご丁寧に 役人が転記するとき写し間違うて「師升」となっています。

省略するわ、名前を間違えるわ 要は支那人以外はヒトと思っていないからいい加減なのです。

そのほか魏に出掛けて行った 物部豊連合王国の使節の田道間守(たじまもり)、八坂入り彦(やさ

かいりひこ)、武内の宿祢(たけしうちのすくね)、イクメ王(幼名をイサチ、後の贈り名を垂仁)

などまともに記録されている人はいません。

すべて省略した上に間違えて記録されています。日本人みたいな野蛮人の名前なんて

どうだっていいのです。卑字蔑字で適当に表現すれば。

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話は初めに戻りますが ヒミコとは姫皇女 もしくは姫巫女なのです。つまり「ひめみこ」

なのです。

後漢や魏に直接出向いた和人から聞いた人の名や身分の名前を 適当に省略して記録したのでしょう。

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それでは 姫巫女とはなんでしょうか。

今の桜井市の鳥見山(とみやま)は ヤマトの磯城王朝当時では 登美山(とびやま)と呼ばれて

その山頂は 登美の霊畤(とびのれいじ)と呼ばれる祀りの広場でありました。

登美家は当時のヤマトの大豪族で出雲王家の分家です。

 

登美の霊畤と呼ばれる祀りの広場からは 三輪山に祀られている 太陽の女神(出雲王国国教の

幸ノ神三神の母神、佐比賣の命(さひめのみこと))を遥拝する大切な場所であり、春と秋の大祭に

は 大和はおろか遠方から地方の豪族たちが集まり 大祭に参加しました。

それが祭政一致と呼ばれるものです。

 

その祭りの司祭者は 出雲系の登美家の姫が選ばれて 姫巫女(ひめみこ)と呼ばれていました。

支那人はこの「ひめみこ」を省略して「ひみこ」としたのでしょう。

 

※このブログでは ヒミコ、ひみこ、和国、和人と表記しています。

支那人が書いた 日本人を蔑んだ 蔑字卑字は気分が悪いので つかいません。

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登美の霊畤の入り口です。等彌神社境内から登ります。この神社も昔は富神社 もしくは

登美神社と言ったのでしょう。かつて登美家の地盤だった桜井市には「とび」という地名があちこちにありますが

みな字が違います。「外」という地名も「とび」と発音します。

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しばらく登るとこの広場に出ます。ここか゛登美の霊畤です。

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今は雑木の間から三輪山が見えますが 昔はもっとすっきりと見えたのでしょう。

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※登美の霊畤訪問記は 2015年12月26日の記事です。

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話は初めに戻りますが 三国志、魏書、和人の項に出てくる「ヒミコ」が第一のヒミコで

「モモソ姫」です。

「その女が女王に立つと長かった和国の戦乱が収まり、平和が訪れた」と書かれた第一のヒミコです。

 

モモソ姫が姫巫女になる前は 和国は戦乱が続いていました。

後漢書東夷伝によると「後漢桓帝、霊帝の頃(146~189)は和国は大いに乱れて定まった王が

いなかった」と書かれています。もちろん記紀はひた隠しにしています。

だって万世一系の嘘を押し通していますから。

神武なる架空の大王が天上から降りて来て、九州から大和へ東征して以来和国には争いごとは

全くなかったことにしていますから。

戦いに敗れて ヤマトから逃げた大王も 新しい大王が 地方に派遣した将軍ということにされた大王が何人もいます。

 

実際に何度もあった血で血を洗う政権交代なんて 決してあってはならないのです。

それに自分たちが 渡来人の征服王朝だなんて、絶対に隠しておかなければなりません。

自分たちは天から降りてきた人たちの子孫なのです。つまり天上の神様の子孫なのです。

日本最古の出雲王朝は 戦争で倒したのではありません。

出雲王家から国を譲ってもらったのですから。

そういう事にしとかないと 渡来人の征服王朝のいう事なんて 国民は誰も言うことを聞きませんよね。

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その当時の和国大乱の争いは主に三つあります。

1.大和内部の豪族たちの争い

2.播磨、吉備に侵入した朝鮮人卑ボコの子孫たちと出雲王国の争い。

 そして続いて播磨吉備に侵入したフトニ大王とその皇子の吉備津彦たちと 出雲王国とのし烈な戦争

 (出雲王国では第一次出雲戦争と記録されています)

3.九州物部王国の第一次東征による大和入りとその後のヤマト内の内乱

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1.まず大和国内の豪族たちの争いについて

記紀では 大王家が大和全体および和国全体を掌握していたように見せかけていますが

実際に大王家が強力だったのは 3代目までで(天の村雲(徐福と出雲高照姫との間の長男五十猛と徐福と

宗像家市杵嶋姫との間の長女穂屋姫との間に生まれた皇子ですが 記紀では架空の大王神武にすり替えられました)、

沼川耳(ぬなかわみみ、のちの贈り名をスイゼイー天の村雲と出雲王家踏鞴五十鈴姫との皇子)、玉手看(たまてみ、

のちの贈り名を安寧 沼川耳と登美家五十鈴依姫との皇子)まで)で 4代目(スキトモ、のちの贈り名をイトク

ー玉手看と出雲王家沼底中姫との皇子)以降は力が衰えて、大和は主に三家の豪族が覇権を争う状況になっていました。

大王家の磯城家、出雲系の登美家、それに天の村雲の出身母体の尾張家です。

 

尾張家は徐福の長男五十猛の子孫を中心とした家系で 奈良県葛城市の高尾張村が地盤だった

ことから尾張家と呼ばれました。

のちにイクメ王に追われて東海地方に逃げたので 東海地方が 尾張の地名になりました。

 

※ちなみに大王を天皇と呼ぶのは天武からで このころは大王(おおきみ)です。

大王の名前を漢字二文字に書き換えたのは 右大臣不比等が大友皇子の曾孫、近江淡海を文書博士

に任命して書き換えさせたものです。

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2.播磨、吉備の戦争について

1世紀後半に渡来した朝鮮人卑ボコ(辰韓の王子)の子孫たち(以後卑ボコ子孫勢という)は 150年

頃丹波で豪族になっていました。そして突如播磨へ侵攻します。

そこは出雲王国の領土でしたが突然の侵攻に大した反撃もできないまま播磨は卑ボコ子孫勢に

乗っ取られてしまいます。出雲王家は親戚の磯城家に援軍を頼みますがフトニ大王は動きません

でした。

出雲とヤマトはその中央で 卑ボコ子孫勢により、分断されました。

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160年ごろフトニ大王は皇子の吉備津彦、若武吉備津彦を 突然播磨に出兵させて卑ボコ子孫勢

を打ち破り淡路島へ追いやります。

そしてフトニ大王も自ら出陣して吉備から伯耆へ侵攻し、出雲軍と戦争になります。

出雲王家にとり、親戚の磯城家の突然の侵攻にあわてた出雲王家は 必死に反撃し、

激しい戦争になり双方におびただしい戦死者が出たと言われます。第一次出雲戦争です。

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楽々福(ささふく)神社神門です。

この神社は吉備津彦、若武吉備津彦の兄弟と その母親の細姫(くわしひめ)

が住んだ住居跡に建てられました。フトニ王(もうこの時点では物部軍が大和の磐余に入り

フトニ大王は 大王ではなくなりました)は地元の若い美人と孝霊山の麓に住み奥方の細姫を

追い出したので 細姫は息子たちとここに住んだのです。

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楽々福神社拝殿と 左奥に本殿です。

本殿は千木は出雲仕切り縦削ぎですが 造りは出雲式の大社造りではなく

桁行方向に柱が4本立っていました。近寄れなかったのでよく観察できませんでした。

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楽楽福神社から国道183号線を南へ行くと 島根県奥出雲町横田へ行く道があります。


フトニ王の吉備王国軍は この道を奥出雲へ怒涛のように侵入したといわれます。
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ここの分岐は船通山へ向かう道です。

徐福が大勢の海童を連れて 秦国から大型船で石見の五十猛海岸へ上陸したことは 

出雲王国民なら皆が知っていました。しかし徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)の子孫の

果安たちは 物部第二次東征で.出雲王国軍の手薄な場所を熟知していて 物部軍が出雲へ侵入す

るのを助けて出雲王国が負けるのに大いに貢献しました。この時の激戦で 出雲王国の大切な霊畤(祀りの式場)

の田和山神殿が破壊され、西、東の出雲王家は降伏し、五百年以上続いた和国最初の王朝は 秦国人徐福の

末裔の渡来人集団、物部王家により倒されたのです。出雲王家に記録されている第二次出雲戦争です。

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物部王家第二次東征で 物部軍を手引きして 大活躍したと自負していた果安は イクメ大王に直談判して 

出雲国造が物部十千根に決まっていたのをひっくり返して出雲国造にしてもらいました。

そして記紀制作時、神武東征を出雲王国の初期にまでさかのぼらせたり、出雲戦争を隠して国譲りの話に

置き換えさせたのもみな果安らの仕組んだことだと言われます。

素戔嗚(徐福)が船通山に天から降りてきたと記紀にかかせたのも 果安です。

このため 徐福が五十猛海岸に上陸したことを知っている出雲王国民は 徐福が空からこの山に

下りてきたという話を聞いて あきれて「ほんなら 徐福は船に乗って この山に下りてきたのだべ」

と冷ややかにこの山を船通山と名付けたといわれます。

 

※徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)の子孫が今の出雲大社の宮司です。

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この道をこのまま進むと奥出雲、横田、三成、木次など奥出雲タタラ製鉄の中心部です。

そこから更にもう少し行くと出雲王国南部に出て 西出雲王家神門臣家、東出雲王家向家

などの 出雲王国の心臓部です。


出雲軍が必死に反撃に出たのも分かります。

このあたりで死闘が繰り広げられて双方に沢山の死者が出たと伝えられます。
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モモソ姫 その2へ続く

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※歴史内容については すべて斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

雲州先生もご了解済みです。またすべての写真は私が自分で撮りました。

またウワナリ打ち神事の絵は 雲秀先生の本から引用しました。

また地図はMapionから引用しました。

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古代出雲王朝トップページはこちらです。

http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html

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