古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

57.和国大乱の舞台 伯耆の国 楽楽福(ささふく)神社界隈を歩く 2017年3月29日

2017年04月04日 23時58分09秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
今回は「和国大乱」と支那の歴史書に書かれた場所のひとつを巡ります。

九州物部軍の第一次東征に伴う大和の内乱、そしてこの第一次出雲戦争を 支那の歴史書「梁書」では 
「和国大乱」と記しています。  (後漢霊帝の時代 178~183)

わが国には歴史書が無いので、出雲王朝の記録に 支那の歴史書の記述が見事に合致しているのには
驚きます。支那の歴史書は 歴史学者が王朝交代の後、忠実に歴史を書くので権力に左右されず
非常に正確です。

一方日本書紀が歴史書ではなく、歴史小説といわれるゆえんは 持統女帝が不比等に命じて 自分達の都合のよい
小説を仕立てたので、事実ではないのです。自分達が 渡来人の征服王朝と言うのを絶対隠す必要があったのです。

そのため 1.自分達の祖先の徐福(素戔嗚)は支那からではなく 天の神の国から地上に降りてきた。
     2.自分達の祖先はそれ以後和国を治めてきて 政権交代の戦などなかった。
      (出雲の王はこの国を自発的に譲ってくれた)
     3.和国が支那の属国になったことなど無い。
     4.和国を女王が治めたことなどない。(ヒミコなどいなかった。)

というのですから そのデタラメぶりが分かります。

九州物部王家の80年以上離れた時代の 二つの大和への東征を一つにして「神武東征」の小話をつくり
初代大和の大王「天の村雲」の名前を消して「神武」として しかもその神武時代を 東征時代から
出雲王朝第一代主王「菅の八耳」(すがのやいみみ)の時代まで遡らせたものですから、神武から続く王朝が
非常に間延びしてしまい、つじつまを合わせるために140年くらい生きた大君が何人もいらっしゃる
というデタラメな事になりました。凄い小説になりました。

しかし磯城王朝2代目から9代目までは実在の大君の名前を列挙しているので、事実をすべて承知した上で
小説を書いたことが分かります。それもそのはず 記紀の実務責任者の太安万侶は 第3代大王玉手看の兄で
出雲王家の血を引く「神八井耳」で「太臣家」創始者で 太安万侶はその子孫です。

記紀を書き上げた後 太安万侶は幽閉されて、後に祖先の地出雲に移されて 松江市「意宇の森」で
老後を過ごし亡くなりました。今は阿太加夜神社になっています。

また太臣家はその後も続き 現在は多神社の社家として現存しておられます。
訪問記は2015.12.26の大和訪問記にあります。
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と言うことで今回の訪問は
出雲に攻め入った大和のフトニ大王の皇子吉備津彦兄弟と皇后の細姫(くわしひめ)達が住んだ
楽楽福神社(ささふくじんじゃー東楽楽福神社) 鳥取県日南町

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楽楽福神社はこの町に 東と西の二社ありますが 今回はこの東の楽楽福神社を訪ねました。
この神社は大和の大王、つまり和国の王のフトニ大王(贈り名は孝霊)を祀っている神社です。
何故 和国の大王が ここに祀られているのかは、少し説明が長くなります。
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第52回の物部神社(2016.11.20)の項で述べたように、九州物部軍の第一次東征は 最初紀ノ川河口で高倉下の子孫に破れ
転進した熊野でもゲリラ戦で 身動きが取れなくなっていました。そこで物部軍は大和へ密使を送り登美家に救援を求めました。

収拾の付かない内紛状態の大和を物部軍との協力で納めようと考えた、登美家の当主、加茂建津之身の導きで 
無事に険しい伯母峰峠を越えて大和の磐余の地に落ち着いた物部軍は 次第に強大になって行き、
当時の磯城王朝と戦争が激化していきました。

次第に強力になる物部軍を恐れて、第7代大和大王フトニ大王は皇子の大吉備津彦、若吉備津彦と細姫(くわしひめ)
を連れて西へ逃れて吉備に住み 吉備王国を造りました。この時点でフトニは大王ではなくなり、単なる地方の
一王となるのです。
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当時の大和磯城王朝系図です。
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一方大和に残った別の皇子クニクルは第8代大王となり、磯城家のクニアレ姫を后とするも物部家からも
后を迎え入れて、物部と融和の姿勢を見せました。クニクル大王とクニアレ姫の皇子が大彦とモモソ姫です。

大彦は徹底した物部嫌いで 物部に抵抗して戦を続けたが、終には物部に大和から追い出されて北へ逃れました。
記紀にナガスネ彦と書かれて賊扱いされたのが大彦であり れっきとした大和の王子様で出雲王家の血を引き
渡来人の子孫と 格式が違うのに 負けた為に蛮族扱いです。

一方物部の血を引く大日日(オオヒビ)が第10代大王となり(贈り名は開化)次第に物部との争いは納まりつつあった。
オオヒビの妹皇女モモソ姫は母(クニアレ姫)に似て信仰心深く、磯城家第9代当主の太田タネコの保護を受けて 
三輪山に「富の霊畤」(祭祀場所)を設けて 太陽の女神(日霊女貴ひるめむち)を祭り人々の人気を得た。

※富の霊畤を訪ねた記録は 2015年12月25日の記事に載っています。

その祭祀には各地から大勢の豪族が訪れて 巻向には大きな街が出来、長かった内乱もようやく納まり
平和が訪れました。魏書に「その女王が立つと 和国の内乱は納まり 平和が訪れた」と書かれた 一番目の
ヒミコがモモソ姫です。
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ここでヒミコについて  支那人が卑字でヒミコと書いた女王は日本語で姫皇女(ひめみこ)で
何人も いらっしゃいます。支那人たちは周囲の人たちをすべて馬鹿にして 卑字で書いたり
動物の字を当てたりして 自分達だけが人間だと思っています。

和国やヒミコの卑字を未だにありがたがって使っている馬鹿な歴史学者たちがたくさん居る事は
驚くべきことです。そんなあほな奴には 日本人の誇りが無いのでしょう。

ヒミコに付いてもう少し詳しく このページの最後で述べさせていただきます。
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一方吉備王国のフトニ王は 中国山地を越えて 怒涛のように出雲王国に攻め込みました。
出雲の鉄が欲しかったと言われています。

一方出雲王朝は 磯城王家を親戚と考えていたが 突然の侵入に
大慌てだったという。次第に攻め込まれたが 反撃に移り、双方に大量の戦死者を出したという。

これが出雲王家に伝えられている「第一次出雲戦争」です。

出雲兵が立てこもった山を 吉備兵たちは「鬼林山」と呼んで今も名が残っています。
※楽楽福神社の裏山が 鬼林山です。

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出雲兵の必死の反撃で 戦況は次第に膠着状態になり 自然に休戦状態となりました。
大吉備津彦と若吉備津彦たちは 兵を引き上げて 今の日南町に住み、その屋敷跡は東と西の楽楽福神社となっています。

一方 大神山の北側今の孝霊山のふもとに住んだフトニ王は 土地の若い美女との生活に溺れて 
後から追って来た細姫を見向きもしなかったといわれて居ます。

失意の細姫は息子のところに引き上げてさびしく余生を過ごしました。その細姫の死後 フトニ王が
住んだ今の大山町宮内では 大飢饉が起こり 人々は「細姫の祟りだ」と恐れて 土地の後家さんたちを
棒で叩くと 飢饉が治まり、平和になったといわれます。

後家さんのことを「うわなり」といったので「うわなり打ち」という行事が定着してフトニ王の住居跡に
建てられた 高杉神社の 神事として 今も伝えられています。

フトニ大王の贈り名が「孝霊」とつけられたので その屋敷裏の山は孝霊山と呼ばれるようになりました。
高杉神社訪問記は第54 2016.11.22の記事です。
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と言うことで 説明が長くなりましたが、この東楽楽福神社は 吉備津彦兄弟と母親皇后の細姫の
住居跡に建てられたので、当然主祭神 は フトニ大王(孝霊)、細姫、大吉備津彦、若吉備津彦
の親子4人が 主祭神 です。
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日南町宮内の東西楽楽福神社と 出雲兵が立てこもりゲリラ戦を仕掛けた「鬼林山」の位置図です。
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和国大乱当時の各陣営配置図です。実際の激戦地は 奥出雲と伯耆の境界上のあちこちで戦闘が
行われましたが、膠着状態のあと 自然休戦になり、フトニ王(大和を追われたのでもう大王ではありません)
は愛人と 高杉神社に、皇子の吉備津彦兄弟と細姫は楽楽福神社に住み分かれました。
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県道に大きな看板が立っているので 入口はすぐ分かります。
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石段を登っていくと 鳥居があります。
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鳥居を潜って更に進むと突き当たり左に神門があります。
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これが神門です。
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神門に杉玉が飾られていました。今ではこの玉は造り酒屋の印ですが、もともとは 酒造の神様に
ささげて酒の豊穣を祈願したりするものです。

吉備津彦たちは 出雲王家後を引いていますが、徐福の血 つまり秦族の血も引いているので
酒造の神様とされたのでしょう。

ちなみに京都嵯峨野というより、太秦の松尾大社は 徐福とその后の宗像王家(出雲王家の宇佐分家)
の宗像三姉妹の末娘 市杵島姫の二人を祀っていますが 嵯峨野太秦を開拓した秦族たちは
酒造、養蚕を広めたようです。

それゆえ 松尾大社は お酒と養蚕の神様として有名です。
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神門を潜って更に歩いて進みます。
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正面に拝殿が見えてきました。その右は末社です。
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拝殿には 私が鳥居を潜ったときから 雅楽が流れていて 誰か居るのかと探しても無尽なので
テープかCDから 音楽が流れているのです。
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賽銭箱にお金を投入れた途端 獅子舞が踊りだしたのにはびっくりしました。
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横に回ってみると拝殿の奥が 本殿です。
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本殿は一見出雲式のように見えます。
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千木は 出雲式の縦削ぎです。屋根つきの階(きざはし)で建物の妻側に出入りするのは出雲式です。
屋根の棟に「楽楽福神社の楽楽福」の金物が取り付けられています。

ちなみに徐福の血を引く吉備津彦たちの子孫は 「福」の字が好きです。この伯耆の国にも あちこちに
福万来、福長、福岡原、福万 などの地名がたくさんあります。
徐福の血を引くが自慢だったのでしょう。
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境内の一角に石が展示してありました。近寄ってみると説明看板があります。
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読んでいくうちに笑ってしまいました。出雲兵のことを鬼と呼び その鬼が投げつけた石だそうです。
和国で最初に誕生した王国の守備兵を「鬼」と呼ぶなら 渡来人で出雲王国内で大暴れした野蛮な
海童達の子孫は 何様なのでしょう。

出雲兵を鬼と呼ぶお前らこそ 品の無い 知性と教養の欠如した野蛮人なのだよ。
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その2 徐福の子孫達の侵入ルートを歩く。そしてひみこについてもう少し詳しく。
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楽楽福神社に引き続き 私は船通山へ向いました。
この付近の方に道を聞くと「ダメダメ、雪が深くて あんなところへはまだまだ行けないよ」
と猛反対されたのですが、一応行ってみます。
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楽楽福神社から国道183号線を南へ行くと 島根県奥出雲町横田へ行く道があります。
フトニ王の吉備王国軍は この道を奥出雲へ怒涛のように侵入したといわれます。
私はその県道15号線に入ります。
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ここで県道を分岐して林道へ向います。

このまま進むと奥出雲、横田、三成、木次などタタラ製鉄の中心部です。そこから更にもう少し行くと
出雲南部に出て 西出雲王家神門臣家、東出雲王家向家の心臓部です。
出雲軍が必死に反撃に出たのも分かります。このあたりで死闘が繰り広げられて双方に沢山の死者が
出たと伝えられます。
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ここが林道入口です。
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林道にはまだまだ雪が多く 進むのに難儀します。
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このあたりまでは スコップで除雪しながらなんとか進みましたが
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進むに連れて 雪は深く 倒木、倒竹が道を塞ぎお手上げになり 引き返しました。

素戔嗚(すさのおー徐福のこと)は天の国からこの山に下りてきたと出雲風土記に書かれました。
徐福が石見海岸の五十猛海岸に着いて、出雲王国内で大暴れした事は 出雲の民や王族は皆知っています。

とんでもない事が風土記に書かれたのは 徐福の部下の穂日の子孫の韓日佐達が、第二次出雲戦争で
出雲がイクメ軍に降伏した後 イクメ王に 出雲を降伏させたのは自分達が物部軍をひそかに導いたからで、
出雲国造にふさわしいのは自分達穂日の子孫だと強引に頼み込み、既に決まっていた 進駐軍司令官の 物部十千根から
出雲国造を変更させたからといわれています。

穂日の子孫達は 徐福のことを少しでも神に近づけたかったのでしょう。

風土記を見た出雲の人たちは
「ほなら、何かい、徐福達は船に乗って 五十猛海岸にではなく、この山に着いたのかい」
と笑い出して この山を船が着いた山ー船通山と名づけたそうです。

時の最高権力者 右大臣の藤原不比等に表立って反抗する事はできませんからねえ。

ちなみに徐福の忠実な部下の 穂日の子孫が 今の出雲大社の宮司さんです。
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船通山から引き返して楽楽福神社まで戻ると 人者入口からは 昨日私が郡の急斜面で滑落しそうになり
もう少しで死ぬところだった 大山の郡の稜線が 昨日はホワイトアウト立ったのに今日ははっきり見えていました。
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ここでヒミコに付いてもう少し詳しく 述べさせていただきます。
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ヒミコつまり姫皇女を一覧表にまとめました。
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※ちなみに2番目のヒミコは宇佐豊玉姫でこのお方はイ二エ王が日向西都原で亡くなられた後当時和国で尤も強大な王国
である物部宇佐連合王国の名実共に女王(皇后)で、魏の和国駐在武官テイシュンから直接和国印をもらい 
肩に直接錦帯を架けてもらいました。そのお姿は非常に威厳があったと書かれています。

魏の役人が直接会った唯一のお方(ヒメミコ)です。その他のヒメミコ方の話はすべて伝聞と書簡の話です。
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3番目のヒミコは大日霊女貴(おおひるめむち)と呼ばれたサホ姫(第10代大王彦坐の皇女)で
このお方は最初大和入りしたイクメ王と組み 三輪山で日霊女貴(太陽の女神ひるめむち)を崇拝し人気を得ますが、
遅れて大和入りした豊国軍に追われ 兄皇子のサホ彦と共に敗走されます。近江から尾張へ さらに
日下部の連と名を変えて甲斐の国に隠れ住んだといわれます。

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4番目が豊玉姫の娘豊姫(魏書では台与トヨと書かれ、記紀では豊来入姫とか豊鍬入り比売と書かれた)で、
イクメ王の侵入で大和が 戦乱状態に陥ったときに 当時伊都国に駐在していた魏の駐在武官 張政により
豊玉姫の後継者に指名されて 大和入りし 一時的に戦乱が納まりました。

豊来入姫は大和笠縫村檜原神社で月読みの神を奉じて 若日霊女貴とよばれました。しかし豊国軍の強大化と豊来入姫の
人気に 自分が追い出されるのを恐れたイクメ王が出雲系の加茂田田彦に 助けを求め、田田彦は三輪山や 
豊国軍に奪われた領地を回復すべく 出雲から援軍を得て 豊国軍を追い出すのに成功します。

豊国勢は大和を追われ、尾張方面へ闘争します。愛知県に数ある豊のつく地名はその名残です。
豊来入姫は 丹波、伊根と逃れて最終的に伊勢の出雲系の椿大神社(サルタ彦を祀る)
で保護されて 余生を送ったがイクメ大王が放った刺客に倒されて亡くなり遺体は大和へ運ばれて
ホケノ山古墳に葬られました。姫は最初宇佐から来られたので 「宇佐女の命」と呼ばれましたが
織ってを避けるため 「ウズメの命」と呼ばれるようになりました。現在 椿岸神社では
「ウズメノ命」として祀られて居ます。

※椿大神社(つばきおおかみやしろ)、椿岸神社訪問記は2015年10月7日です。
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5番目のヒミコはヒバス姫です。イクメ大王に終に倒された約300年続いた磯城王朝最後の大王、道主大王の
娘皇女がヒバス姫です。

イクメ王に丹波まで追い詰められて降伏した道主大王は彦タツヒコと名前を幼名に戻して 因幡国造として
因幡に住みます。

ヒバス姫は一時因幡にも住んだので 中国山地の比婆山にほうむられたとか 神話が多く作られましたが
彼女の御陵は奈良市山稜町にあります。

また 彼女は西暦265年に晋へ使者を送り献朝し ヒミコとして記録が残されています。
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6番目のヒミコがヒバス姫とイクメ大王との娘皇女 大和姫です。彼女は丹波の竹野郡で生まれ、宇良神社で
月読みの神とともに 太陽の女神の日霊女貴も奉じました。

そしてさらに志摩の国へ行き、そこで出雲系の井澤登美の命の保護を受け五十鈴川のほとりに内宮を建て
最初の伊勢斎宮として太陽の女神を祀ります。
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王朝、姫皇女の一覧表については 斎木雲集州著「古事記の編集室」、「出雲と大和の曙」、「出雲と蘇我王国」
勝友彦著「親魏和王の都」いずれも大元出版 などをもとに私が作成しました。
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古代出雲王国トップページはこちらです。
http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html
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