古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

九州北部を回り 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねる その4 浮杯 2022年4月1日

2022年04月22日 23時30分07秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねる その4 浮杯(ぶばい)

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徐福の上陸伝説は日本各地にあるようです。しかしその大半は徐福本人ではなく、徐福が連れてきた

海童だったり 徐福の子孫の九州物部王朝の皇子だったりだと思います。

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私もかつて世界文化遺産熊野古道のトレッキングをしているときに2度、徐福上陸地点と言われる場所に遭遇しました。

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※地図は メイツ出版 熊野古道より

世界文化遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」のうち「熊野古道中辺路」は紀伊田辺をスタートして山に入り、熊野本宮大社、

熊野那智大社、そして熊野速玉大社の熊野三山へ詣でる参詣道です。

またブルーの道が伊勢路です。伊勢神宮より熊野本宮大社へ至る参詣道が伊勢路です。

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その1 「世界文化遺産熊野古道伊勢路」 の徐福の里

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波田須の道の地図です。ピンクの部分を歩きました。

案内図の茶色の部分だけが石畳であとのグリーンの道はアスファルト道路です。

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石畳道を降りて国道わきのこの「徐福茶屋」のわきから下へ降ります。

この茶店はここの御主人が徐福の名前を付けたもので 徐福の言われとは関係ありません。

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眼下に熊野灘を見ながら道を降ります。アスファルトの道ですが伊勢路です。

正面の大きな楠木が「徐福の宮」で波田須集落の真ん中にあります。

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波田須集落の中程にあるこのお宮さんが 徐福の宮です。

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徐福がこの地に上陸したと書いてあります。それは間違いで徐福ではなく、徐福の子孫か(九州物部が

東征の時に上陸したのか、)または徐福が連れてきたたくさんの海童たちの子孫が上陸したものでしょう。

波田須集落の人たちは このお社を大切に守り続けてこられたのだそうです。

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集落を抜けて駅へ向かいます。

この道も伊勢路だと書いてあります。

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ちなみに これが波田須駅です。駅舎はありません。ホームがあるだけです。

この駅がアニメ映画「凪のあすから」で舞台のひとつになり たくさんのアニメファンの聖地になったそうです。

休日にはたくさんのアニメファンが全国からこの駅にやってくるそうです。

私はこのアニメを見ていないので どんな場面にこのホームが登場するのか分かりませんが。

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その2 世界文化遺産熊野古道中辺路の徐福上陸地点

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熊野古道中辺路は 熊野那智大社、そして世界遺産補陀洛山寺を過ぎてしばらく歩くと熊野灘の海岸を歩きます。

潮騒を聞き、潮の香りをかぎながら歩く気持ちの良いコースです。

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渚の道を約2キロ歩くと浜道が終わり 浜王子神社に来ます。

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こじんまりしたお社にお参りして その傍らの神社由緒書きを読むとびっくり仰天しました。

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この神社の主祭神は 稲飯(いないい)と三毛入(みけいり)だと書いてあります。

この二人は記紀には絶対に出てこない名前ですね。

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秦国から大量の技術者や若者ー海童たちを連れて 紀元前2世紀のはじめに 二度目に和国上陸を九州築紫にした徐福は、

宗像家(出雲王家の第六代主王臣津野の皇子吾田片隅が宇佐に移住して開いた王家)の宗像家三姉妹(吾田片隅の三人の娘)

のうち市杵島姫を后にします。

そして生まれた皇子穂穂出見(ホホデミ)が立ち上げた王家が 九州物部王家です。 

それから約300年後の二世紀はじめ 九州物部王家の物部五瀬(いつせ)は大和への第一次東征を開始します。

五瀬たちは 最初紀の国に上陸しようとしました。

 徐福が最初に上陸した出雲で 出雲王家の高照姫と結婚して出来た徐福の長男五十猛の息子高倉下は母親の大屋姫

と共に紀国に移住して勢力を強めます。

 

その高倉下の子孫たちに 紀の皮河口で手痛い反撃を食い 大将の物部五瀬は戦死します。 

残った九州物部軍は 船で南下して 熊野に上陸しますが、ここでも磯城王朝家のゲリラたちに攻撃されて

身動きが出来なくなります。

困り果てた物部軍は極秘にヤマトの登美家に使者を送り 自分たちを遊馬と屁案内してくれるよ絵に頼みます。

出雲王家の分家大和登美家の加茂建津乃身の導きで 無事にヤマトの磐余の地に落ち着いた物部軍は加茂建津之身に

感謝して彼を支那の神話に登場する太陽に住むカラスの八咫烏として祀り感謝します。 

磐余の地に入り 磐余彦(いわれひこ)と呼ばれる物部軍の大将は 物部の五瀬の弟の 稲飯なのか 三毛入りなのか

分からないので 記紀は「物部のウマシマチ」と言う名前をでっち上げました。

それが神大和磐余彦(神武)のモデルの一人です。

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その熊野に上陸した 物部稲飯と物部三毛入りの両方が主祭神 なので驚きました。

記紀には絶対に出てこない名前ですね。

「斎木雲州先生」の出雲王朝の古代史のまさにその通りなので 驚いた次第です。

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道路に埋め込まれた標識どおりに歩いていく。これも熊野古道なのです。

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突然きらきらした支那風の門が出てきました。見ると「徐福公園」と書いてあり、びっくり。

早速中へ入ってみることにしました。

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なんとこれが 道教の導師「徐福」だという。説明を読んで またまたびっくり。

なんと徐福は沢山の海童を連れて この熊野川の河口から 和国へ上陸したと書いてあります。

どこから こんな嘘を思いついたのでしょうか。

 

つまり熊野に上陸したのは 徐福ではなくて、徐福亡き後約350年後の子孫の九州物部王家の稲飯と三毛入りなのです。 

しかし嘘もこう堂々と書かれると 感心するなあ。

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阿須賀神社が分からなくて、地元の方に聞きまくり やっと到着しました。

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この阿須賀神社の由来書を読むと大変面白い。

フトニ大王(考霊天皇)の7年に徐福がこの地に上陸したと書いてあり、この神社は徐福を祀っているらしいのです。

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この項で前述しましたが、その頃この地に上陸したのは 先ほどの王子神社の主祭神 「稲飯と三毛入り」で

彼らが大和入りしたので 徐福の孫の天の村雲に始まる海部王朝(あまべおうちょう)第七代フトニ大王

(のちほど考霊と贈り名をつけられた)は大和の国から吉備の国へ逃げ 更に出雲王国の伯耆の国へ進出して 

出雲王家と第一次出雲戦争を引き起こしたのです。支那の歴史書に書かれた「和国大乱」の一つです。

 

つまり西暦170年頃に 熊野に上陸したのは徐福ではなくて 徐福の子孫たち「稲飯と三毛入り」のことを  

この神社では 「徐福が上陸した」と書き換えて ついでに徐福を祀っているのです。 

このあたりの神社は 先ほどの浜王子神社のように 歴史も非常に古く その由緒を読むと大変面白いのです。

その由緒は全くのでたらめではなくて 何らかの根拠があり、とても面白いのです。

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以上熊野古道を歩いた時に出会った 二つの徐福上陸地をご紹介しました。

探せばまだまだあると思います。

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今回の北九州で古代出雲を訪ねる旅の最後に徐福二度目の和国上陸地の浮盃(ぶばい)を訪ねました。

どんな場所なのか 昔から気になっていた場所でした。

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BC219年に始皇帝からたくさんの資金と海童たちをもらい 河北省秦皇島を出発して石見海岸の五十猛に上陸した

徐福とその忠実な部下の矛卑(ほひー今の出雲大社宮司の祖先)は 出雲王家の主王と副王を同時に殺しても 

徐福は出雲の王にはなれませんでした。出雲王国の組織が強く出来上がっていたのでしょう。

 

そこで徐福は いったん秦国に帰り始皇帝から更なる資金と海童たちをもらい不老不死の薬を探すふりをして

和国の王になるべくBC210年に今度は浙江省寧波(にんぽー)を出航し佐賀の浮杯に上陸しますが 今度も和国の王に

なれませんでした。

徐福の次男、穂穂出見が九州物部王家を作り 更にその約450年後にその子孫たちが出雲王国や磯城王朝を倒して大和入りし、 

やっとイクメ大王が 徐福由来の物部王朝を作ったのです。

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浮盃を訪ねる

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佐賀市浮盃になかなかたどり着けなくて グーグルに「ぶばい」と叫んだらここに連れて来てくれました。

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なるほどすぐ横の交差点は 浮盃交差点でした。

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佐賀市諸富町浮盃の新北神社をまず訪ねました。

これが成功で この神社の奥様がいろいろと親切に教えてくださいました。

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拝殿、本殿が二つずつあり、それぞれ別の神を祀っていると思いきや、おくさまがたまたま出てこられて

社殿がふるくなり 建て替えした時に 古いほうもそのまま残したと言う事でした。

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これが境内のビャクシンの木です。徐福が上陸の記念に植えたといわれています。

この珍しいビャクシンの木は 日本ではほとんど他では見られないそうです。

徐福が植えたのなら 樹齢2200年ほどです。幹はほとんど空洞化していました。

樹齢二千年と言われる 北斗市山高神代桜の幹よりさらに空洞化が進んだ感じでした。

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徐福の像が安置されていました。

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境内をいくら探しても 徐福が上陸後に体を清めたという「御手洗の井戸」を奥様にお聞きすると

ここから2キロほど海側へ行き 今は民家の庭に安置されているという事でした。

その民家の奥様は気さくな方なので 呼び鈴を押せばだれでも拝見できるという事なので

神社の奥様にお礼を言ってから 車で向かいました。

道中は鳥居が続いています。

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教えられたとおり 標識がありました。

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その民家の帰依には説明看板もありました。

この井戸は長い間場所が不明だったそうですが 大正15年の遺跡発掘調査時に 

この井戸が発見されたと書いてあります。

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呼び鈴を押すと奥様がでてこられて 気持ちよく中へ入れて頂きました。

この社の中に井戸があります。

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中を覗くとこんな風になっていました。古そうですね。

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浮盃の横を流れる筑後川の河口付近へ行ってみました。

徐福たちの船はここを通ったのでしようか。

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河口には徐福が建っていました。

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この地では徐福はそんなに 嫌われていないようです。

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出雲王国内では 徐福たちは 出雲の王族を殺したり 海童たちが農作物を壊したり大暴れして

出雲王国内では 悪魔のように嫌われた徐福ですが ここ浮盃では 嫌われるどころか

浮盃の人たちに親しまれているのが 驚きでした。「なんでえ?」と言う感じですが

徐福はここ 浮盃に字揚陸した後 この地には長居せずに すぐに吉野ケ里へ行き そこでお城を作り

住んだので この地ではほとんど暴れることはなかったのでしょう。

それでこの地の人々は 徐福をきらっていないのかなと思いました。

出雲王国民の末裔の私としては 徐福を嫌っていない人がいることが 大いに不思議でした。

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と言うことで今回の 古代出雲を尋ねる旅を終わります。

この項も大元出版の 斉木雲州先生の本をはじめ各本を参考にしました。

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九州北部を回り 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねる その3 伊都国 2022年4月1日

2022年04月19日 18時44分20秒 | 古代史の舞台を訪ねて

伊都国は現在の福岡県糸島市です。

今回の古代出雲を訪ねる旅で 最も楽しみにしていた場所です。

なんせ古代和国の支那への玄関口であり  歴史の舞台でしたから。

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魏書には次の記述があるそうです。

「郡(魏領帯方郡)からの使者は(伊都国の)港に着くと 調べられる。文書と贈り物だけが

女王のもとに送られる。ごまかしは許されない」

 

つまり魏国の使者が女王の住む都に来ることを 女王豊玉姫は拒否しているのです。

豊、物部連合王国の女王豊玉姫は 魏に使節を送り 我こそはヤマト国(和国)の女王だと主張して

しかも大和地方には磯城王朝があり、それと対立していることは 内緒にしていたのです。

魏の使者は 港までか、それとも魏の大使館(魏の一大卒「魏国の官名」が常駐する伊都国の建物)までしか

行けませんでした。つまり女王豊玉姫のいる都万を秘密にして都が大和地方にあるように

見せかけていたのです。 

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西暦239年6月に豊、物部連合王国の使節団は魏領帯方郡へ出発しました。もちろん伊都国の港からです。

使節団団長は渡来朝鮮人ヒボコの子孫 田道間守(たじまもり)で 副団長は物部十市根(としね)でした。

魏へは帯方郡経由でしか行けず 朝鮮語の話せる田道間守が重宝されたようです。

帯方郡で待たされて 都の洛陽に着いたのはその年の暮でした。

翌年の正月に使節団は帰路に着き 中朗将に任命された田道間守と校尉に任命された物部十市根には

帯方郡で郡の長官から 青い錦帯と銀印が渡されました。そして郡の長官の指示で帰国する使節団に

魏の役人テイシュンがついてきました。魏の皇帝から女王ヒミコへの詔書と金印、それに贈り物は

直接手渡すことになっていたからです。

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伊都国に着いた十市根はテイシュンを伊都国に置いたまま すぐに都万に戻り 女王豊玉姫と

イクメ皇太子に伊都国に赴くよう伝えました。

テイシュンが伊都国までついてきて 親魏和王のしるしを直接手渡すと言っているので

直接に赴かざるを得ませんでした。

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伊都国でテイシュンは女王ヒミコ(二番目のヒミコの豊玉姫)に 皇帝の詔書、金印、紫帯と下賜品

の目録(五尺刀二振り、銅鏡百枚、高級織物など)を手渡しました。

女王は正装の上に紫帯を肩から掛けて大いに威厳を示したということです。

田道間守と十市根も青錦帯を掛けて参列しました。

 

と言うことで伊都国は古代史の重要な舞台だったのです。しかも魏書など支那の歴史書に記された

ヒミコの内実際に支那人が直接目にしたヒミコはこの豊玉姫女王一人なのです。

あとは みな間接的に聞いた事柄なのです。

 

※ちなみに日本でよく言われる「魏志倭人伝」なる書物は存在しません。誰かが間違えて言い それが

広まったのでしょう。正確には「三国志 魏書 東夷伝」です。

 それに ヤマタイ国もヤマト国を誰かがヤマタイ国と読んだ間違いでしようね。だって豊玉姫女王の娘の

豊姫は魏の和国駐在武官 張春により、親魏和王の豊玉姫の後継者に指定されましたが 魏書では

台与と書かれていて 「たいよ」ではなく「とよ」です。誰かが台をタイと間違えたのがひろまったのでしょうね。 

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243年に豊玉姫女王は魏へ再び使節を送りました。今度の使節団団長にはイクメ皇太子がなりましたが

イクメの名前ではなくて 「伊佐地」(いさち)の名前でした。和国の皇太子が直接出向くことをためらったのでしょう。

245年には 当時外交官として伊都国長官になっていた 田道間守が帯方郡へ行き 黄幢(おうどうー

黄色い吹き流し状の旗)を受け取って帰りました。

例の宇佐神宮でヒミコ女王が 八本の旗を立てて 戦士を鼓舞したと伝わる旗で八幡神社の由来の旗です。

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と言うことで 伊都国は古代の和国で重要な役割の表舞台だったのです。

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伊都国博物館の近くで こんな看板を見て感激しました。

「クイーンズヒル」と書いてあるではありませんか。

女王豊玉姫が丘の上に立ち、服の裾を風になびかせながら魏の役人を待っている情景が

目に浮かびました。

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伊都国歴史博物館です。この建物が建っている場所が伊都国の中心部だったそうです。

博物館の学芸員の方にお聞きしました。

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博物館の玄関に看板がありました。

だからあ、魏志倭人伝は無いと言ってるでしょう。

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こんな人が目の前に現れてびっくりしました。「わっ、びっくりした」と言うと後ろで掃除をされていた

清掃中のおばちゃんが笑い出して「私も初めて見たときはびっくりしました」とおっしゃっていました。

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展示物の説明です。

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左が装飾品、真ん中が鉄製武器、右が鉄製農具です。

※展示物はフラッシュをたかなければ 撮影オーケーでした。

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イヤリングです。今みたいに男の人(貴人)もつけたのでしょうか。

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ネックレスやブレスレットなどの装身具です。

出雲の四隅突出墳丘墓や巻向の古墳からもよく似たものが出土していますね。

詳しい違いは分かりませんが。

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伊都国の女王の着物だそうです。

女王がいたということは 伊都国は 豊物部連合国の一員だったのでしょうか。

豊玉姫もこのような姿をしていたのでしょうか。素晴らしく高貴な印象ですね。

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地元の人は伊都国の周りをこのような船で移動していたのでしょうか。

朝鮮や支那へは もっと大きな船だと思いますが。

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出雲の銅鐸のレプリカがありました。鳴らしてみたら 不思議な音色でした。

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現在の糸島市の地図です。赤い丸はこの博物館の場所で 伊都国の中心部だったそうです。

伊都国の港の場所を 学芸員の方にお聞きすると 「糸島半島の東側(右側)は海が浅く、西側のほうが深いので

おそらく西側の海だと思われますが、記録や出土品がないので断定はできませんが」と

おっしゃっていました。青い丸は私が書きました。

「港からこの中心部へ 広い道路がまっすぐに通っていたはずなのですが、残念ながらその間は

ほとんどが田んぼで、発掘できないでいます。道路が発掘できればいいのですが」とおっしゃっていました。

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博物館のすぐ裏手(南側)は背振り山です。あの山の向こうが吉野ケ里です。

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徐福が生涯を過ごしたと伝わる吉野ケ里です。

その奥の山が背振り山で 山の向こうが伊都国です。

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伊都国の海です。本当は伊都国の海も見たかったのですが、この後佐賀の浮杯へ向かうので時間が無くなり

残念ながら海は見れませんでした。

この写真は糸島市観光協会のホームページからお借りした伊都国の海です。

この海を越えて 朝鮮半島の帯方郡へ幾多の船が行き来したのですね。

機会があれば この海を将来ぜひ見てみたいものです。

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と言うことで 豊玉姫女王と同様に伊都国も記紀では完全に無視されています。

だって「渡来人徐福の子孫の九州王国が二度も大和へ攻め入り、挙句にヤマトの王国や、出雲王国を

血で血を洗う戦で責め滅ぼして新しい征服王朝を打ち立てた」なんてことは絶対に書けませんから。

持統、不比等らの 「自分たちの祖先は天から降りて来て出雲の国を譲ってもらい、その後万世一系の

王家である」という嘘がバレルので 絶対に無視せざるを得ないのです。

それに 伊都国のことを詳しく書けば 和国が魏の属国だった事実がばれて またも万世一系が

崩れるのです。

 

さすがに徐福は無視することができず、素戔嗚(すさのお)と名前を変えて記紀に登場させますが

ヒミコや豊玉姫など触れてはならないのです。もちろん伊都国にも。

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面白そうな本を伊都国歴史博物館で見つけました。

即購入しましたので 内容は後日載せようと思います。

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次は その4 徐福二回目の和国上陸地「浮杯(ぶはい)」です。

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九州北部を回り 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねる その2 宗像大社 2022年4月1日

2022年04月19日 11時17分56秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

その2 宗像大社

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宗像大社の境内配置図です。本殿のほかに第二宮と第三宮があります。

それと少し離れたところに高宮があり、神社の始まりの神聖な場所だと書いてありました。

最後に参拝するつもりです。

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宗像大社の御本尊は宗像三女神だと書いてあります。つまり宗像三姉妹の事で 宗像家の始祖の

吾田片隅については一言も述べられていません。

最もこの説明看板は文部省の役人のどんな奴が書いたか 書かれていないのでどうせ記紀にのっとった

当たり前のつまらん解説と思いますが、宗像大社の公式ホームページを見ても宗像三女神がご本尊だと

書いてあります。

しかも 宗像三女神は天照大神の娘だそうで びっくり仰天です。

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天照大神は後の世にでっち上げられた 太陽の女神で 主に大王家が利用しました。

物部家の始祖、穂穂出見は徐福の次男ですが 徐福は夜山に登り星に祈りを捧げていました。

そのうち徐福が連れてきた海童たちが 各地に散らばると 各地で星を拝むようになり、各地の妙見山が

その名残りだそうです。

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そののち 朝鮮系の息長家や宇佐家では月を拝むようになりました。

太陽神を「お天道様」と呼ぶのに対して お月様の神様は「月読の神(つくよみのかみ)」

とか「お陰の神様」と呼ばれました。今もお陰様と言うのはその名残だそうです。

※(勝 友彦著 「親魏和王の都」 大元出版)

太陽を拝んでいたのは 古代出雲王朝です。出雲王朝の国教の三神のクナト大神、佐比賣の命、

それに皇子神のサルタヒコの命の三神のうち佐比賣の命が 後年の天照大神のモデルと言われています。

つまり太陽の女神です。

 

大和に出雲系の磯城王朝が成立すると 太陽の女神を三輪山に祀り、その麓で遥拝するようになります。

三輪山に祀られた 太陽の女神を登美家(出雲系のヤマトの大豪族)は登美山(鳥見山)で遥拝するようになりました。

ヒミコの項で書きましたが 長い戦乱の後 大日々が大王になり 登美家のモモソ姫が姫巫女になると

春秋の大祭には 多くの豪族たちが 遠方からも参加するようになり、巻向にその滞在宿舎が建てられました。

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その後二番目のヒミコの宇佐豊玉姫は「月読の神」を奉じていましたが、三番目のヒミコのサホ姫は出雲系なので

太陽の女神を信奉していました。これに反感したのが 豊玉姫の皇子の豊彦と皇女の豊姫です。

魏から親魏和王の認定を受けた豊玉姫の後継ぎは自分たちだと主張して サホ姫を大和から追い出して

豊姫が四番目のヒミコになり、檜原神社で再び「月読の神」を奉じます。

大和を統一しつつあったイクメ王は 再び出雲軍の力を借りて 豊国軍を大和から追い出しました。

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大和を統一したイクメ王は晴れてイクメ大王となります。活目入彦五十狭茅命(いくめいりひこいさちのみこと、

後の贈り名は垂仁)そして降伏させた磯城王朝最後の大王の彦美知宇斯大王の皇女のヒバス姫を后として

大和姫を設けます。

大和姫は最初月読の神を奉じていましたが、そのうちに太陽の女神「日霊女貴(ひるめむち)」を奉じるようになり、

大和姫は丹波から伊勢へ、さらに志摩の国へ行き 伊雑宮の社家井沢富彦(登美家出身)の支持を受けます。

 

大和姫は井沢富彦の協力を受けて 伊勢の国五十鈴川のほとりに内宮を建て そこに太陽の女神を祀り

(太陽の女神は三輪山から移されました)、最初の伊勢斎宮(斎王)の役を務めました。

これを以後の大王家が受け継ぐのです。

つまり大王家の太陽の女神信仰は 出雲王朝の完全なパクリなのです。

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話は元に戻りますが、宗像大社の由緒書きは 出雲王家や宗像家の伝承や記録は全く表にせずに、

記紀に従った普通のつまらん解説になっています。

宗像家も 時の最高権力者の不比等ににらまれるようなこと、つまり宗像大社は吾田片隅を祀っているとは

決して言えなかったのでしょう。

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神門をくぐって中に入ります。

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広い境内の正面に 拝殿と本殿があります。

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拝殿ではたくさんの人が参拝されていました。

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この後ここで何かのお祓いがあるのか、巫女さんが準備をされていました。

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残念ながら本殿は大社造りではありませんでした。

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柱の本数も多く、しかも妻入りではありません。この社がいつ頃造営されたのか 書かれていませんが

かなり後の世になり、大規模に作り直したのでしょう。その時に大社造りはやめたのでしょう。

しかし千木だけは出雲式の縦削ぎです。

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拝殿、本殿の左右と奥の三方にはたくさんの摂社があります。地元の神様をたくさん合祀して

祀られているようです。

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続いて第二宮、第三宮へ

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左右に全く同じ造りの社があり、それぞれ第二宮と第三宮があります。

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どちらの宮も造りは同じでした。

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第一宮と同じく こちらの両宮とも大社造りではありませんでした。

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第二宮には田心姫が、第三宮には多岐津姫がそれぞれ祀られているそうです。

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ここでも宗像家の始祖については 全く触れられていません。

記紀作成時の大方針として 古代出雲王朝はなかったことにする、と言うのが大前提なのです。

それをごまかすために 初代大和大王、天の村雲を消して神武なるわけのわからん大王を作りしかも

その架空の大王の出現を 古代出雲王朝の初めまで 引き延ばしたものですから 大王の数がたりなくなり、

大王でないものを何人も大王にでっち上げたり、実在の大王の生存年齢を200歳ちかく引き延ばした大王が

何人も必要になったのです。

ですから 出雲王家の皇子である吾田片隅の事を表にできなかったと思えます。

古代出雲王朝はなかった、大王家の祖先は天から降臨してきたと 持統、不比等のおぞましいコンビが作り上げた

記紀に背く奴はいません。そんなことをすれば あのコンビニ何をされるのか分かりません。

現にそれまであった各地の風土記も 記紀に合わないものは 書き換えさせられたり、焼却処分させられたのです。

宗像家の苦しい胸の内が よくわかります。自分たちの始祖を語れないのですから。宇佐神宮の宇佐家も同じでしょう。

自分たちの祖先を祀れないのですから。

まあ宇佐家は自分たちの血を引く誉田別大王を祀ることに寄り、少しはうっぷんが晴れたことでしょう。

宗像家も 吾田片隅は表向き祀れなくとも その娘の宗像三姉妹は堂々と祀れますから少しは安心できたでしょう。

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古代出雲王朝の系統図です。吾田片隅が北九州へ移住して 宗像家を作り、その娘たちが宗像三姉妹です。

ちなみに多岐津姫は出雲西部に住まわれたので その地が田儀町となりました。イチジクの名産地です。

※この表は大元出版の斉木雲州先生の多数の本をもとにして私が作りました。

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続いて高宮へ

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ここから高宮へ歩きます。

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うっそうとした原始の森を約10分歩きます。

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高宮に到着しました。

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中を覗くと樹木に注連縄が張られています。

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望遠で覗くとよくわかります。真ん中の樹木の四方が注連縄で囲まれています。

古い形の御幣は縄と紙垂(しで)で四角く囲んだ形の物もあります。

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高宮の説明看板です。神籬(ひもろぎ)の祭場だと書いてあります。

つまりこの木を神聖な、神の宿る木だとして拝んだのです。

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古代出雲王国では 王が亡くなると風葬にされたそうです。遺体は座った形で竹かごに入れられて

口から朱を注ぎ 腐敗臭を防せいだそうです。竹籠は松江市南部の熊野山の頂付近に運ばれて

檜の大木の茂みに隠される。その木には注連縄が張られ、御幣が建てられて神籬(ひもろぎ)と呼ばれた。

三年後に洗骨して山頂付近の磐座に埋葬される。そこは「埋め墓」となる。

遺骨を下ろした後もその木は注連縄を張られて 神籬(ひもろぎ)と呼ばれた。ということは神籬とは 元々風葬の

神聖なる樹木なのです。

 

一方 屋敷の庭には 大きな玉石が置かれそこが「拝み墓」となった。古代出雲王家では このように二墓制でした。

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また山の中腹には「斎場」と呼ばれる広場が設けられて 人々が集まり代々の王に祈りを捧げたという。

吾田片隅は出雲王家の皇子なので当然この風習を知っていてた登思います。

その習慣を ここ北九州の宗像家に持ち込んだのでしょう。

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古代出雲王の拝み墓について

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ここが入り口です。出雲大神と書かれています。

現在は松江市のある学校の敷地内にあり、私は許可を取ったうえで参拝しました。

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うっそうとした森の中をしばらく歩きます。

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拝殿です。

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拝殿の向こうには 丸い巨岩が無造作に置かれています。巨岩の数は出雲王の数だそうです。

雲秀先生の御祖先様達です。雲州先生は出雲王朝は 第十七代大名持の山崎タラシ王で滅ぼされたので

巨岩の数は17個あるとおっしゃっています。

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私が見てもどれが墓石なのか 分かりませんでしたが、手を合わせました。

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※ このような墓石の形態は その後テレビで見てびっくりしました。

山岳修験の始祖、役の小角(役行者)に仕えた 夫婦の鬼、前鬼と後鬼の子孫だと伝わり、宿坊を開いて

約1200年の間修験者たちを支えてきた 前鬼小仲坊第61代当主五鬼助義之氏が ご自分の先祖たちのお墓を

テレビで説明されていましたが 直径30センチから50センチくらいの丸い石が 山中に無造作に置かれていたものでした。

五鬼助義之氏は自分の父親や祖父の墓と 前鬼、後鬼の墓は分かるけど その他の60個近い墓は どれが誰か

全く分からないとおっしゃっていました。

これを見て 古代出雲王家の王墓と似ていると感心しました。

最も役の小角(えんのおずぬ)のご母堂の白専女(しらとうめ)は出雲系の人だと何かで読んだ記憶がありますが。

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と言うことで宗像大社高宮は古代出雲の王の拝み墓に 非常によく似ていると感心しました。

ひょっとして この場所は宗像家の王の風葬場所ではなかったのかと 思えてなりません。

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宗像大社を終わり次は その3 伊都国です。

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九州北部を回り 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねる その1 宇佐神宮 2022年4月1日

2022年04月09日 23時28分25秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

今年2022年の春は 九州北部を回ってきました。

各地の桜を訪ねるのと 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねるためです。

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その1 まず宇佐神宮を訪ねました。

親魏和王に認定された和国の女王こと 宇佐王家の豊玉姫のふるさと宇佐神宮を訪ねる

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出雲王国民の末裔の私としては 宇佐はあまり好きではありません。

というか はっきり言って嫌いです。

なぜならば九州物部王家のイクメ王の第二次東征に従い、イクメ王の別動隊として渡来朝鮮人卑ボコの子孫の

田道間守(たじまもり)が日本海を東進し、東出雲王家を攻めて神聖な田和山神殿を破壊して、大きな損害を

出雲王朝東王家に与えました。

その昔、辰韓の王子卑ボコは 父親の王に嫌われたのか 家来と財宝を与えられて 国を追われました。

出雲王国に上陸しようとしたときに 出雲の王に「出雲の法律を守り、出雲の民と仲良くできるか」と聞かれましたが

卑ボコは心が荒れていたらしく、それを拒否したために上陸を拒否されました。

そのため卑ボコたちは但馬の丸山川上流湿地帯で 人の住めない場所に上陸して 苦労して開拓開墾して住んだと伝わります。

そのため卑ボコは終生出雲王国を恨んでいたということです。

卑ボコ子孫の朝鮮系の田道間守は その恨みを晴らしたかったのです。まさに逆恨みというやつですね。

田道間守の襲撃の後 続く物部軍の東出雲王家領への侵入時に 徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)の子孫の矛卑家の 

韓比佐とその息子ウカツヌクに出雲王国軍の手薄な場所を手引きされた物部軍は 激戦の挙句に東出雲王家を降伏させました。

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一方 日本海を進んだ物部軍率いる曙立王(あけたつおう)と豊国軍を率いる宇佐家の菟上王(うのかみおう)は 

西出雲王家を責め立てて 多くの犠牲者を払いながら西出雲王家の神門臣家を降伏させさせました。

この時も矛卑家の韓比佐たちが 出雲軍の手薄な場所を熟知していて 物部軍を手引きしました。

つまり出雲王国民にとって 渡来朝鮮人卑ボコの子孫田道間守や渡来秦国人 矛卑(ほひ)の子孫矛卑家の人間や宇佐王家は

憎き存在なのです。

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ちなみに 田道間守はヤマトへ一番乗りして、遅れて大和入りした物部軍の総大将イクメ王のいうことを聞かなくなり、

自分がヤマトの王のように振る舞いだしたのです。

困り果てたイクメ王は旧出雲王家の富家の 富太田彦に ヤマトへ進軍して田道間守を追い払うように秘密裏に

要請したのです。

旧東出雲王家の富(とび)太田彦は 憎き物部軍は大嫌いでしたが 出雲の神聖な田和山神殿を破壊して たくさんの出雲兵を

殺した田道間守をもっと憎んでいました。

 

そこで太田彦は イクメ王の要請を聞き入れて 野見太田彦と名前を変えて出陣して大和へ出雲軍を率いて入り、憎き田道間守

を見事蹴散らしました。

記紀はこの時の戦争を隠して 當麻蹴速(たいまのけはや)と野見の宿祢(のみのすくね)の相撲勝負のおとぎ話に書き換えて

います。

持統女帝の記紀編集方針で 自分たちは天から降りてきた神の子の子孫であり、血で血を洗うような政権交代など

なかったことにしたのです。

また田道間守亡き後の子孫が 息長家(おきながけ)であり、息長帯比売(おきながたらしひめ)が神功皇后となられるのです。

そして矛卑家の子孫が今の出雲大社の宮司家です。出雲大社の由緒書きを読むと祖先は矛卑だと書かれています。

このブログのヒミコのまとめの章でそこのあたりを詳しく書いていますのでお読みくだされませ。

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宇佐神宮上宮境内です。広くて立派です。

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神社の由緒書きです。

三棟の本殿の真ん中は比賣大神としか書かれていませんが 神社の公式ホームページを見ると 比賣大神とは

なんと宗像三姉妹の名前がはっきりと書かれています。つまり宇佐家の姫は書いて無く 他家の宗像家の

有名な三姉妹が書かれていて びっくりです。

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ちなみに宗像三姉妹の長女の田心姫(たごりひめ)は出雲王家第七代主王(役職名 大名持)の天之冬衣(あめのふゆぎぬ)

に嫁がれて 高照姫をお産みになりました。高照姫は徐福が第一回目に石見の五十猛海岸に上陸した後に 徐福に

嫁がれました。 

また田心姫は 第八代副王(役職名 少彦)の八重波津身をもお産みになりました。

東出雲王家の富家と 西出雲王家の神門臣家は 主王と副王をそれぞれ 交代で出していました。

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次女の多岐津姫(たぎつひめ)は出雲王朝第八代主王の八千矛(徐福や矛卑に殺されて記紀では大国主と書かれた)

に嫁がれて味鋤高彦をお産みになり 味鋤高彦の姫の大屋姫が徐福の長男五十猛(香語山)との間に高倉下をお産みになり

その子孫から武内太田根(武内の宿祢)が出てその子孫から平群王朝の幾多の大王が排出されました。

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宗像三姉妹の末娘の市杵嶋姫は二度目に和国に上陸した徐福に嫁がれて 穂穂出見や穂屋姫を

お産みになりました。穂屋姫は徐福の長男香語山との間に 初代大和大王となった天の村雲や

九州物部王家を立ち上げた穂穂出見をお産みになりました。

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つまり宗像三姉妹は出雲王家の九州分家である宗像家の姫であり、宇佐王家の姫ではございません。

和国の女王として 魏の和国駐在武官張政から直接肩に錦糸のタスキを掛けられて 和国の女王として

魏に認められた 宇佐王家の豊玉姫の名前はどこにもありません。完全に豊玉姫の存在が消されています。

 

記紀がその存在を完全に消した宇佐王家の女王を 堂々と描くわけにはいかなかったのでしょう。

なんせ記紀作成を指揮した不比等は 時の右大臣で、政権の最高権力者ですから その意に反することはできないのです。

ちなみに記紀は魏書に登場するヒミコをも完全に無視しています。

和国が魏の属国だった事実を隠したかったのでしょう。

またヒミコを神功皇后と思わせたかったのでしょう、神功皇后の活躍をことさら大きくしていますね。

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朝鮮の三韓征伐で息長姫が頼った 日向襲津彦の大きな力で 大成功した息長姫は 襲津彦の子供の皇子を

6歳で夭折させます。辰韓の血筋が途絶えると 三韓からの税収が途絶えることを恐れた息長姫皇后は 当時親交のあった

上毛野国造家(かみつけのくにのみやつこけ)の竹葉瀬の君(たけはせのきみ)が同じ6歳だったので 彼を秘密裏に

息長姫の養子として育てます。

上毛野国造家は 宇佐王家の豊玉姫の長男豊彦の子孫なのです。

長じて誉田別(ほむたわけ)皇子は誉田別大王(のちの贈り名を応神)として即位されたのです。

宇佐家から出た初めての大王誕生に非常に喜んだ宇佐家が 本殿を追加して誉田別大王を祀ったのです。

それと世間的にその生母とされる 息長帯比売の御本殿も追加して 本殿が計三棟となったのです。

そこのあたりもヒミコのまとめに書いていますので このブログの二番目のヒミコ豊玉姫の項をお読みくださいませ。

 

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勅使門(南中楼門)です。この前で女王の豊玉姫は宇佐の兵士を集めて 出陣の激励をしたといわれます。

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一之御殿です。

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三之御殿です。

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一之御殿と三之御殿は同じ造りに見えました。

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真ん中の門からは中の本殿は全く見えませんでした。

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この窓から見える山は御許山(おもとやま)と呼ばれていて 宇佐王家の始まりとなる神聖な場所だそうです。

この場所はその遥拝所です。

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若宮には 大鷦鷯(おおさざき)大王(のちの贈り名を仁徳)が祀られています。

しかしなぜ宇佐神宮で大鷦鷯なのでしょうか。よくわかりません。

最も大鷦鷯は誉田別の皇子とされていますから それでついでに祀ったのかもしれません。。

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この橋を渡り 下宮へ参ります。

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下宮の拝殿です。

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ここも上宮と同じく左から 一之御殿、二之御殿、三之御殿となっています。

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扉の格子から本殿を見たところです。

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少し離れてみると 本殿が三棟あるのが分かります。

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この八坂神社にはなんとあの素戔嗚が祀られています。つまり徐福です。

徐福は素戔嗚と記紀に書かれてからは あちこちの神社で祀られています。

京都の松尾大社や京都祇園の八坂神社でも祀られています。

しかしなぜ宇佐神宮で素戔嗚なのでしょうか。よくわかりません。

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宇佐神宮の前に 神武大王の顕彰碑なるものがありました。

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なにげなく碑文を読むとなんと 神武大王の東征の折、神武が宇佐に立ち寄りこの地に「足一つ上がりの宮」を立てて

宇佐王家から接待を受けたと書いてあります。

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西暦165年頃に九州物部王家の彦渚武王の三人の皇子 物部の五瀬、稲飯、三毛入りが熊野へ上陸して

ヤマトの磐余入りしたのが第一次東征です。

西暦246年頃に 物部宇佐王国連合軍を率いて 豊玉姫女王が 宇佐に立ち寄り宇佐兵を集めたといわれています。

この時宇佐に滞在したのが 駅館川(やっかんがわ)の川岸の「足一つ上がりの宮」と言われています。

つまり記紀制作者は このことを知ったうえで 前後2回の東征を一つにまとめて物語にしました。

総大将を架空の神武として 豊玉姫女王の足跡をぱちったのです。

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足一つ上がりの宮を訪ねてあちこち歩きました。市役所裏手の河川敷あたりかと思いきや

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神武顕彰碑の碑文によればこの橋の右側に足一つ上がりの宮があったそうです。

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駅館川河口も観ました。この辺りまで来ると 駅館川も大河の雰囲気ですね。

戦艦が多数入ってこれる感じです。

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安芸の宮島で病になり 病気療養中に亡くなった宇佐豊玉姫女王は 宮島に仮安置された後 宇佐に帰り

院内町の奥山という 宇佐神宮が見える山に埋葬されたと伝わります。その奥山をマピオン地図で探したのですが

分かりませんでした。奥山はいずこ。あの山並みの内の一つでしょうか。

 

大阪に帰宅してしばらくして気づいたのですが ひょっとすると宇佐神宮から見える あの遥拝所の

御許山に葬られたのではないかという気がしました。機会があれば次回は あの御許山に登ってみたいものです。

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宇佐神宮はこれで終わりです。

次は その2 宗像大社です。

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