古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

大和の古代史と出雲王家 オキナガ姫、ヒバス姫、ワカタラシ大王 2015年4月1日 その1奈良市 

2015年04月02日 23時07分38秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

今回訪ね歩いた 古代出雲王家ゆかりの地は
 
 その1 奈良市山陵町(みささぎちょう) オキナガ姫(神功皇后)、ヒバス姫、ワカタラシ大王(成務)の各御陵
 
 その2 奈良県天理市 手白香姫(たしらかひめ オケ大王皇女、オホド大王皇后)、イクメ大王(垂仁)、オシロワケ大王(景行)の各御陵

以上を4月1日に訪ね歩いた。

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奈良市山陵町(みささぎちょう)の訪ね歩いた三箇所の地図である。
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まずこの店で腹ごしらえ。同じ一膳飯屋でも「秋篠」なんて恐れ多い名前がついている。(町名です)
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食堂前の町内案内看板で場所をチェックする。
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あの民家の後ろ側の森がオキナガ姫の御陵のようだ。
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このあたりの御陵には駐車場が全く無い。少し離れた場所の道路の広い場所に止めた。
御陵の正面はすぐわかった。
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石碑にて確認する。「神功皇后」と書いてある。
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この宮内庁看板を見てびっくらこいた。なんと「仲哀大王の皇后」と書いてある。
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オキナガタラシ姫は ワカタラシ大王(成務ー物部王朝第三代大王)の皇后なのに。

オキナガ姫は朝鮮の辰韓王子ヒボコ(1世紀半ばに渡来した)の子孫なので、出雲王家とは血のつながりは無い。


朝鮮半島で辰韓が滅び新羅が起こったとき、新羅に対して辰韓の財産相続を請求したという。

話がまとまらず、武力で朝鮮へ行こうというときに相談した夫君のワカタラシ大王に断られて 大王とは疎遠となる。

その後ワカタラシ大王は長門の国で戦死された。そして皇后は朝鮮出兵を次に後豊前中津彦に相談するが 彼にも断られる。


中津彦も若くして戦死したという。

つまり豊前中津彦は 夫君や大王ではなく、皇后の部下なのである。

この後 皇后は朝鮮出兵を 日向ソツ彦(武内太田根宿禰の子孫 日向髪長姫とオシロワケとの間の皇子)に相談したところ、


ソツ彦は快諾し、紀の国や海部家、尾張家などの協力で集まった大船団を率いて


新羅、百済を攻め大勝利を納める。俗に言う三韓征伐である。

仲哀と贈り名を付けられた豊前中津彦は家来であり、夫君ではない。

むしろソツ彦が夫君であり、ソツ彦との間に「ホムタ皇子」が生まれたという。

ちなみに ソツ彦の祖先は あの高倉下で高倉下の母君は出雲王家の大屋姫(大国主の孫娘)である。

ホムタ皇子は7歳で夭折されたという。もしオキナガ姫に後継ぎがいなくなれば 新羅が年貢の提出を渋ると


考えられたオキナガ姫は 当時親交のあった 上毛野国(群馬県)国造家の皇子(竹葉瀬の君)が同じ7歳というのを知られた。

そして「竹葉瀬の君」を極秘に養子としたという。それが後のホムタ大王(応神)だ。

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上毛野国国造家は宇佐豊玉姫(第二のヒミコ)と九州物部家のイニエ王との皇子である豊来入彦の子孫である。

豊来入彦(記紀では豊鍬入り彦とかウガヤフキアエズ)は 豊国軍を率いて 妹の豊姫(第4のヒミコで魏書に台与トヨと書かれた。

ヤマトでは豊来入姫、記紀では豊鍬入り姫) とともに イクメ王の後を追い 大和入りし共に戦った異母兄弟だ。


檜原神社で 月読の神を祀り 次第に大和で人気が出てきた豊姫は 大和統一が進むに連れて イクメ王に煙たがられて

イクメ王の指示で出雲系の加茂田太彦に 豊彦、豊姫および豊国軍はヤマトから東国へ追い出されたお方だ。



ということで 竹葉瀬の君 後のホムタ大王は宇佐家の血を引くお方なのだ。

そのことを知った宇佐家は大喜びして宇佐宮にもともと一つしか本殿が無かったのに ホムタ大王と息長姫の

二つの本殿を追加した。

そして オキナガ姫は中津彦の奥方ではない。

豊前中津彦はあくまでもオキナガ姫皇后の新羅討伐を相談された 単なる臣下なのである。

仲哀大王とすべきは イクメ王と出雲王家の血を引く「日向ソツ彦」なのである。

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御陵の周りには全周囲ではないが、堀が復元されている。
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堀の向こうがオキナガ姫の御陵だ。
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御陵の前庭はきれいに整備されている。
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その御陵の前には「八幡神社」がある。
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この神社はもともと御陵の上にあったという。
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広い境内はよく整備されている。
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主祭神 はオキナガ姫と息子のホムタ大王(応神)、それに玉依り姫とある。

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オキナガ家は近江で「月読みの神」を祭る家であり、オキナガ姫は そこにお生まれになったという。
その「月読みの神」を祭る本家が宇佐王家の宇佐八幡宮である。

ホムタ大王誕生を一番喜んだのは 宇佐王家の宇佐八幡だという。

宇佐八幡は もともとは宇佐王家の豊玉姫(第二のヒミコ)を祀っていたが、あわてて 第二、第三の本殿を作り
オキナガ姫とホムタ大王(身内の豊玉姫の息子豊来入彦の子孫竹葉瀬の君)を祀ったという。

今も宇佐八幡の本殿は三社だ。

そして 「玉依り姫」とは記紀の作り話の人物だ。

宇佐豊玉姫がイ二エ王との間にお生みになった豊来入彦(記紀では豊鍬入り彦とかウガヤフキアエズと書かれた)
を育てた 豊玉姫の妹姫だそうだ。

後に ご自分がお育てになった 豊来入彦と結婚されて 架空の神武大王を生んだとされているわけのわからん姫君だ。

玉依り姫は末皇子の神武以外にも、150年も以前の実在の「第一次物部東征軍」を率いた 物部の五瀬(紀ノ川河口で戦死)や
五瀬の弟の稲飯、ミケイリ(熊野へ転進し登美家の加茂建津乃身の引き入れで大和入りした)などをお生みになったという
支離滅裂な 離れ業をされたお方らしい。

記紀の製作者も 時の右大臣藤原不比等に命じられて とんでもない苦し紛れを考え出したものだ。

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道標に従い、次は「ヒバス姫」と「ワカタラシ大王」の御陵へ歩く。
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ヒバス姫の御陵の回りもきれいに整備されて公園の中を歩いているようだ。
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宮内庁の看板もここは正しく書かれている。

ヒバス姫は約300年続いた磯城王朝最後の「道主大王」の皇女であり、イクメ大王とのあいだに大和姫をもうけられたお方だ。

ミチヌシ大王が物部イクメ王に敗れた後 因幡の国造として旅立たれて、磯城王朝は終わり、物部王朝が始まるが

記紀ではいっさい無視されて 抹殺されている。

万世一系が編集方針の記紀では、王朝交代など あってはならないことなのだ。

その後イクメ王は 晴れて大和の大王となり、前大王の皇女のヒバス姫を皇后として迎えられた。
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ヒバス姫皇后の御陵正面だ。
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この後 軽自動車も通れないような狭い道を歩いてワカタラシ大王稜へ歩く。
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御陵に到着。
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宮内庁看板もちゃんと正しく「成務」と書いてある。

前回訪ねた 「ヤマト トトビ モモソ姫」の御陵 と言うのは 二人の姫君をくっつけた名前で
思わず噴出したが、ここではちゃんと正しい看板だ。

※ しかし次に行く御陵には またしても噴出す看板だった。
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御陵の一部に堀が復元されていて、水をためてあり、往時をしのばせる雰囲気だ。
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ワカタラシ大王の御陵は 三韓征伐から凱旋されたオキナガ姫が 若くして死別された
夫君のワカタラシ大王のために造られたという。

そしてそのすぐ北側にご自分の御陵も生前に築かれたという。
ご自分が皇后として 権力を振るう元を作られたお方と 来世でもご一緒したいという 女心なのかもしれない。

しかしヒバス姫の御陵は その当時 当然存在したと思われるのに何故 それにくっつけて築造されたのか、大きな謎である。

ヒバス姫は ワカタラシ大王の血の繋がる祖母なのであり、何故くっつけて築造されたのか。
まるで おばあちゃんが孫の世話をしているようなのである。

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その2 天理市の御陵へ続く
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大和の古代史と出雲王家 手白香姫、イクメ大王(垂仁)、オシロワケ大王(景行) 2015年4月1日 その2天理市

2015年04月02日 21時50分10秒 | 古代史の舞台を訪ねて
大和の古代史と出雲王家  その2天理市の御陵

手白香姫、イクメ大王(垂仁)、オシロワケ大王(景行) 2015年4月1日

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次に天理市内の御陵に向う。
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手白香姫御陵の周りにも駐車スペースは全く無い。遠くに留めて歩き出した。
集落の真ん中に桜が満開だった。その桜の下に御陵への道標があった。
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しばらく雨の中を歩くと ピンク色に煙る山桜の中に手白香姫の御陵が見えてきた。
なんともすばらしいロケーションだ。
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手白香姫は 平群王朝最後から二人目の大王の皇女で、磯城王朝は初代から三代続けて磯城家(出雲王家の分家)
から皇后を迎え入れられて、出雲王家の血が濃い王家だ。

また夫君のオホド大王は 出雲王家の皇子「オホドの君」が成長されて、越前の国国造家の蘇我家へ婿入りされた。

蘇我家当主オホド王は三国港を整備されて、大型船で日本海交易を盛んに行い、大いに発展されたという。

また旧出雲王家のご出身なので、出雲王家の血が濃い 北陸や越前越後、それに美濃の国造家や関東の出雲系国造家とも
親しく、その名声は平群王朝の大王をもしのぐとさえ言われたという。

また平群王朝の最後は評判の悪いお方が大王で、「平群王家」に見切りをつけた 大伴家や物部家の重臣たちが
オホド王に大和大王就任を打診しにこられたという。

大王就任の条件は 蘇我刀自と別れて オケ大王の皇女手白香姫を皇后として迎えるというものだという。
オホド王は最終的にその条件を受け入れて 樟葉に都を建設して 大王となられた。

※しかし後ほど前妻の皇子たちが都に現れて 大王と名乗るなど揉め事が起こるのである(カナヒ、オシタテ大王)。 
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手白香姫皇后の御陵。整然とした雰囲気だ。
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しかしこの御陵の周りにはお堀はすべて埋め立てられて、畑になっている。
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航空写真でも無残な姿が確認できる。

オホド大王、手白香姫の皇子のヒロニワ大王(欽明)がその後の皇族に繋がる始祖なのだから、こういう御陵こそ 
宮内庁は 大切にして 周囲を買い取って堀を復活させるべきだと思う。

訳のわからんいい加減な看板を作ってる場合ではないと思う。
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手白香姫御陵から南へ少し離れた場所に 大きな御陵がある。
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大きな御陵の周りには 満々と水を蓄えた御陵がある。
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周りを歩いても正面が分からないので、雨の中で 農作業をしている方に尋ねると 
私はちょうど反対側を歩いていたらしい。引き返して正面へ回る。
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正面の石碑には「崇神」と書いてある。吃驚だ。
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この看板にも「崇神」と書いてある。つまり物部イ二エ王」なのだ。
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私はてっきり 「イクメ大王」の御陵とばかり思い込んでいたのだ。
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御陵入口から反対側の裏から入ってきて、正面へ回ると 雨の中満開桜がさびしそうだった。
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「物部イ二エ王」は記紀では 「ミマ来入り彦イ二エ大王」と書かれて贈り名が「崇神」だ。

しかしイ二エ王が築紫を出発し、日向に「都万国」を打ち立てて、「第二次東征」を宣言した頃は
まだ任那は存在していない。

任那はオキナガ姫とソツ彦の三韓征伐の賜物なのだからずっと後の世だ。

任那から大和入りしたなんてとんでもない 記紀のでっち上げだ。

しかもイ二エ王は都万国で死去されていて、九州から一歩も出ておられない。
つまり大和の大王になれるはずがないのである。

イ二エ王の意思を継ぎ 大和入りして物部王朝を打ち立てたのは皇子のイクメなのだ。

私はこの大きな御陵がイクメ大王の御陵と思い込んでいた。
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※後で調べるとイクメ大王の御陵は「奈良市尼辻の宝来山古墳」だと宮内庁は言っているのだ。
かなり小さな御陵で しかも何故奈良なのだろう。

イクメ王が大和入りして都を作ったのは ここ 桜井市と天理市にまたがる巻向地方なのだ。

当時はこのあたりが日本 つまり大和の中心なのだ。

その初代物部王朝の始祖の御陵が遠く離れた奈良市にあるはずが無い。

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この御陵の周囲は 高低差がかなりあり、何箇所かの堰が設けられて水面の高さ調整をしている 大きな御陵だ。
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この御陵の隣には 物部王朝第二代オシロワケ大王(景行)の御陵が並んでいる。
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オシロワケ大王御陵には沢山の花びらが浮いていた。
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オシロワケ大王の宮内庁看板はまともだった。
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後ろの森に ご自分の父上と並んで葬られていると考えたほうがよほど つじつまが合う。
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九州を一歩も出たことの無いお方、つまり九州の地方の王を何故大和の大王だとでっち上げる必要があったのか。

短命に終わった物部王朝を隠すため 記紀の製作者も苦労していると思わざるを得ない。


武内太田根宿禰の裏切りのために一時大和で孤立したイクメ王が、起死回生の逆転劇をしたり、

旧出雲王家の登美家の太田彦(野見の宿禰 )の力を借りて イクメ王の言うことを聞かない田道間守(当麻蹶速)を大和から追い出したり、

異母兄弟の豊来入彦(記紀では豊洲気入り彦とかウガヤフキアエズ)や同じく異母兄妹の豊来入姫
(記紀では豊鍬入り姫とかウズメノ尊)などを 大和統一の邪魔になり 大和から追い出したり、

すったもんだの挙句にやっと成立した物部王朝が たった三代でつぶれたことは なんとしても隠したかったのだろう。

イクメ、オシロワケ、ワカタラシ とたった三代で倒れた 短命の物部王朝を長く見せかける為に

九州から一度も出たことの無いイ二エ王を初代物部王朝の大王としたり、

オキナガ姫の臣下の豊前中津彦を仲哀大王としたり、

ワカタラシ大王の次に「ヤマトタケルの尊」なる架空の皇子をでっち上げたり。

時の女帝も不比等も 苦労しているなあ。

自分たちが渡来系の征服王朝であることを隠すために。



記紀編集責任者 「太安万侶」は 出雲王家の血を引くお方だけど、最高権力者不比等の言うことにはさからえないからなあ。
まあ「太安万侶」は余生を 先祖の土地 「意宇の森」で静かに暮らせてよかったみたいだけど。

※ 初代大和大王「天の村雲」と出雲王家8代目副王「少彦」の「事代主」の長女「踏鞴五十鈴姫」との皇子が
二代目大王「沼川耳」となる。その「沼川耳」と事代主の次女「五十鈴依り姫」との皇子が
三代目大和大王「玉手看」でその弟皇子「八井耳」の子孫が「多臣家」となる。

意宇の森は今は松江市の「阿太加夜神社」になっている。


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