古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

夕陽を拝む 日御碕神社  その1  2020年9月10日

2020年09月25日 11時01分14秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

夕陽を拝む 日御碕神社  その1 

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日御碕神社は 出雲大社の北、島根半島の西端にあります。

その地は 日本海に沈む夕陽を拝むのに適した場所です。

この地に夕陽を拝む「日御碕神社」を建てたのは 日置王です。

日置王は上の宮法王(いわゆる聖徳太子)の皇子です。

このあたりの事情は後ほど詳しく説明します。

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出雲市から県道を車で走ると やがて山間に神社の建物群がみえてきます。

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大きな石の鳥居をくぐります。

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いきなり主祭神が大きく書かれた看板がお出迎えです。

天照大神は太陽の女神で 古代出雲王家の「佐比賣の命」が大和王朝でアマテラスと書き換えられたもので

太陽の女神を祀るのはわかるのですが なぜ素戔嗚つまり徐福なのでしょうか。

徐福が紀元前3世紀末に五十猛海岸へやってきて 出雲王家の主王ほ八千矛や副王八重波津身を

あいついで幽閉殺害して、自分が出雲王国の王になろうとして、街道たちを出雲国内で

大暴れさせた大事件はまだこのころ(推古帝)は都の貴族たちも記憶していたと思いますが。

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説明看板によれば この神社全体が 徳川幕府により 全面的に建て替えられていて

その時に主祭神が替えられたか 追加されたかしたのではないでしょうか。

この地方を支配していた 尼子氏が毛利に敗れ、毛利が秀吉に下りさらに徳川になった初めのころ

ですから もうこの地でも徐福の悪行に対する嫌悪感がかなりうすれていたのでしょう。

徐福を祀ることで 喜ぶのは出雲大社の宮司の家系だけですから。

だって出雲大社宮司は矛卑(ほひー徐福の忠実な部下で徐福とともに出雲国内で暴れた)の子孫ですから。

 

ちなみに全国の天皇陵なるものも 今の姿が初めからあったわけではなく、徳川後期の公武合体以後

徳川が巨額の費用を出して ほとんどの天皇陵を作り替えています。

ついでに実在しない天皇の陵を造ったりやりたい放題ですが。

 

※架空の大王や皇子の神武、ヤマトタケルの陵、九州から出たことのないイニエ王(崇神)の陵

モモソ姫と大和姫という時代の全く違う二人の姫皇女(いわゆるヒミコ)をくっつけて一つの陵としたり。

なんのこっちゃといいたいですね。

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立派な神門です。

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神門をくぐり境内に入ります。

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正面が「日沈みの宮」です。アマテラスが祀られていますが 朝日の方向を向いています。

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拝殿です。なんかきらびやかですね。

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内部もきらびやかです。

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こちらは本殿を真横から見たところです。境内はすべて「権現造り」なので、本殿も

大社造りとは似ても似つかない建物になっています。左の拝殿との間に別の建物が挟まれています。

「石の間」と呼ぶ建物でしょうか。

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こちらは神の宮で、夕日の沈む方向を向いて建てられています。

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神の宮拝殿です。

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拝殿内部で先ほどの 日沈みの宮の拝殿と似ています。

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左が本殿で右の拝殿より少し大きいようです。

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神の宮から日沈みの宮を見ると ちょうどその奥に夕陽が見えました。

ということで これらの建物はすべて権現造りと呼ばれる建物で 徳川幕府が日光東照宮を作った

大工たちを連れてきて 造営したものでしょう。

私個人的には 出雲の風土になじまないなあと思いました。それに素戔嗚を主祭神とするのは

徐福の子孫で秦国人の末裔たちで、京都の松尾大社、八坂神社などがそうです。

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境内の裏にひっそりと小さな祠があるので近づくと「韓国(からくに)神社」と書いてありました。

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祭神は素戔嗚つまり徐福は当たり前ですが ここには徐福に嫁入りした出雲王家第七代主王

「天の冬衣」の姫皇女が生んだ徐福の長男「五十猛(いそたけーのちの香語山)」も祀られていました。

 

神社の由緒書きに この神社の宮司の遠祖が「天の冬衣」だと書かれていたのですが ありえませんね。

出雲王家の主王副王を同時に殺害して 自分が王になろうとした奴を出雲王家の子孫が

祀るなんてありえないことですから。有名な天の冬衣王を自分の祖先だと偽って箔をつけたかった

のでしょう。

 

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日御碕神社 その2へ続く

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夕陽を拝む 日御碕神社  その2  2020年9月10日

2020年09月25日 11時00分17秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

夕陽を拝む 日御碕神社  その2

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西側のきれいな回廊を出ると

 

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こちらにも小さいけれど 立派なお社がありました。

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近寄ると「宗像神社」とあり、田心姫(たごりひめ)が祭神でした。

田心姫は出雲王朝第七代主王の雨の冬衣に嫁がれた九州の宗像家の三姉妹の長女の方です。

そして田心姫が生まれた高照姫が徐福に嫁がれて 五十猛を御生みになったのです。

 

宗像家は 出雲王家第六代主王の臣津野(おみつぬー国引き王として有名です)の皇子の吾田片隅が九州へ移住して

開かれた出雲王家の分家です。

ちなみに宗像三姉妹の次女の多岐津姫は第八代主王八千矛(徐福に幽閉殺害されました)に嫁がれました。

徐福がいったん申告へ帰国して始皇帝から更なる資金と多数の海童たちをもらい 二度目に佐賀の浮盃に

上陸したあと 宗像家からめとった姫が末娘の市杵嶋姫(いちきしまひめ)で市杵嶋姫は 徐福の次男

穂穂出見 と長女穂屋姫を御生みになりました。

 

穂穂出見が九州物部家を興しその子孫が二度にわた之東征して 大和王家を倒すのです。

穂屋姫は徐福の長男五十猛と結婚し天の村雲を御生みになり天の村雲が 初代大和王家の王となるのですが

徐福の次男の子孫の東征で倒されるのです。おとぎ話の海幸彦と山幸彦の兄弟喧嘩のモデルです。

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ということで 日置王が豊富な財力で建設した神社は 徳川幕府により跡形もなく作り替えられ

家康を祀る日光東照宮のようなキラキラしたものになり 個人的には好きになれませんでしたが

観光客が誰も見ようとしない ひっそりとした韓国神社や宗像神社にこそ 出雲王家の痕跡が

残されていて ここを訪ねた甲斐がありました。

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神社を西へ出て歩くと すぐに日御碕漁港があり

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すぐ右手に経島(ふみしま)がありました。日沈みの宮はもともとこちらにあったとされています。

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帰路に県道を走っていると遠くに砂浜が見えてきました。

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徐福やその忠実な部下の矛卑(ほひー今の出雲大社の宮司の祖先)立により 日御碕神社のもう少し東側の

日本海に面した「猪目洞窟(いなめどうくつ)」で幽閉殺害された後 不比等らによる記紀では

この稲佐の浜で 大国主(八千矛王)は国譲りをした後 小舟をひっくり返してその中へ

御隠れになりました。と殺害を隠された砂浜です。

 

またこの砂浜は 毎年神在月(出雲以外では神無月)に全国の神々がこの砂浜に上陸されて

出雲大社へ向かわれるという作り話も作られました。

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初代日御碕神社を建てられた日置王について

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推古女帝の兄「用明大王」と推古の姫皇女「貝蛸(かいたこ)姫皇女」との間に生まれた皇子は

二人で 長男が財王(たからおう) 次男が日置王です。

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日御碕神社は 御食炊屋姫(みけかしきやひめ)大王(推古)の指示で出雲の国に配属された日置王が

推古女帝の希望に沿い 建設したものです。

 

フトタマジキ大王(敏達)の指示で設立された 日奉部(ひまつりべ)は太陽信仰の部署です。

古代出雲王家やその大和分家の登美家、磯城家は三輪山で太陽の女神を信仰しました。

それは日の出を拝むものでした。それに対して日奉部は夕陽を拝むとされています。

 

日置王はその日奉部を敏達、推古から受け継ぎ 日奉王と称していました。

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一方出雲では 広庭大王(欽明)の時代に広庭大王により 日置の伴部(へきのともべ)らが派遣されて

出雲の王家の谷に広庭大王の指示で 旧東出雲王家神門臣家のために次々と巨大古墳が増築されました。

広庭の父君が男大迹(おほど)大王(継体)で この方は東出雲王家の男大迹の君ですから、当たり前のことですけど。

 

※その辺のことはこのブログの男大迹大王を越前に尋ねる旅(2018年4月5日)を見てください。

※また日置王や財王が出雲に配属された理由などはこのブログの2019年3月19日の記事をお読みください。

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日奉王が出雲に配属されたころは すでに日置の伴部らが方四隅突出墓をたくさん作っていました。

日置氏はもともと朝鮮系の氏族です。その頃都では朝鮮系の息長氏(おきなが)系の勢いが次第に

強力になっていました。そこで日奉王は 朝鮮系の迫害を避けるために 日置の名を継いで

日置王と名乗るようになりました。

日御碕神社の完成を聞いて 額田部大王(推古)は大そう喜ばれたそうです。
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この写真は出雲市の斎谷に多数築かれた 出雲西王家神門臣家の王家の墓 四隅突出墳丘墓の一つです。
日置王は ご自分で造営された 上塩冶築山古墳に葬られました。
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これがその日置王の古墳から発掘された品々です。このほか黄金の太刀や多数のブレスレットとネックレスもあります。

当時勾玉やネックレスなどの装飾品は王族しか身に付けることを許されませんでした。

「出雲弥生の森博物館」見学記はこのブログの 2014年6月18日の記事にあります。
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これが復元された日置王の写真です。博物館のパンフに載せてあります。
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「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」トップページはこちらです。

http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html

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※このブログの内容は 大元出版の斉木雲州先生他すべての本の内容によりました。

また先生のご了解は頂いております。

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