古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

奈良県桜井市宗像神社、大神神社、狭井神社、檜原神社 2015年1月29日

2015年02月03日 22時21分07秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
自宅のある大阪府河内長野市を午前9時に出て、奈良県桜井市に10時に到着。
今日は 一日がかりで「古代出雲王朝ゆかりの地」を訪ね歩くつもりだ。
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この日訪ねる予定の地とそのゆかりの人物

宗像神社、大神神社、狭井神社、檜原神社

宗像三姉妹、八千矛王(大国主)、八重波津身副王(事代主)、豊来入姫(豊鍬入姫)
           ()内の名前は記紀により、書き換えられた名前         
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宗像神社
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高速道路「南阪奈道路、大和高田バイパス」を降りて国道165号線を走っていて
ふと横を見ると 最初の目的地の「宗像神社」だった。

登美山鎮座と書いてある。登美山とは 今の鳥見山のことだ。
この地に移住してきた東出雲王家向家の皇子「奇日方(クシヒカタ)」が登美家
または富家(とびけ)と呼ばれた。

地名になった「登美」が 今も残っているのを見て びっくり。今日の最初の発見だ。
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神社の駐車場に車を止めて、早速鳥居を潜る。
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宗像神社の拝殿。
宗像家は出雲王家第6代主王「大名持ち」の「臣津野(おみつぬ)」の皇子「吾田片隅(あたかたす)」
が豊の国(大分県)へ移住して始まった。

※臣津野王は出雲では「国引き王」として有名で、古代出雲王国を宇佐の国(大分)から越の国
(新潟)まで広げた王として有名だ。
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だから当然主祭神 は「吾田片隅」と思いきや なんと主祭神 は吾田片隅の娘の宗像三姉妹なのだ。

そして中央の大きな社が、末娘の市杵島姫だという。

渡来人徐福が石見の五十猛海岸に上陸し、息子「五十猛」を設けたあと一旦秦国へ帰国し
さらに大量の海童や技術者を連れて 二度目に北九州「浮杯の地」(佐賀)に再上陸した後、
和名を饒速日(にぎはやひ)と名乗る。

宗像家の姫君「市杵島姫(いちきしまひめ)」と結婚し、その息子「穂穂出見(ほほでみ)」が九州物部家を起こす。

つまり徐福(素戔嗚)の奥方が宗像三姉妹の末娘、市杵島姫なのだ。

左は長女田心姫(たごりひめ)この方は出雲王家第7代大名持ち「天の冬衣」に嫁がれた方だ。

右は多岐津姫(たぎつひめ)この方は第8代大名持ち「八千矛」に嫁がれた方だ。
そして多岐津姫は味鋤高彦(あじすきたかひこ)をお生みになる。

秦国からの渡来人徐福(記紀では素戔嗚と書かれた)や部下の穂日(今の出雲大社宮司の祖先)
や沢山の海童たちに幽閉されて殺害された八千矛王は記紀では「大国主命」と書かれた。

八千矛王は西出雲王家(神門臣家)の出身で、その皇子の味鋤高彦は大和葛城地方に移住して
鴨家と呼ばれた。

※古代出雲では神をカモと発音したので カモ家に鴨の字が当てられたという。

八千矛王とほぼ同時に 徐福、穂日らに幽閉殺害された副王の八重波津身(やえなみつみ)
は記紀では「事代主(ことしろぬし)」と書かれて、その皇子「奇日方(くしひかた)」は
一旦大和葛城地方に移住した後、更にこのあたりに移住して登美家と呼ばれた。

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この地域の地図を見てびっくりした。今日二つ目の大発見だ。

外山と書いて(とび)と発音するのだ。まさに登美家の地盤なのだ。

登美家は後に磯城家(しきけ)とも呼ばれた。

鳥見山も昔は登美山と言い、登美家が登美山山頂から三輪山を遥拝したという。

その遥拝場所は「登美の霊畤(とびのれいじ)」と呼ばれてパワースポットだったらしい。

それゆえこの神社は「登美山鎮座宗像神社」と書かれていたのである。

三輪山は古代出雲族が崇拝する 太陽の女神「大ヒルメムチ」を祭る神奈備山だ。
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次に大神神社へ
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大神神社前の大鳥居前駐車場に車を止めてここから歩いてあちこちへ行く。
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大神神社二の鳥居。ここからは長い参道を歩いていく。
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長い参道を歩いていく。静寂な雰囲気だ。
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拝殿の前の鳥居に着く。この鳥居は出雲王家の分家の諏訪家の諏訪大社御柱のような
二本の柱に注連縄を渡した鳥居で、古代出雲の鳥居様式といわれる。
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これが大神神社の祈りの言葉だそうだ。

大国主の命(記紀では大物主と書き換えられた、古代出雲第八代主王八千矛の命)の
荒御霊は近くの狭井神社に祭られている。
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境内の東側の入口にも 出雲式の鳥居がある。
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境内のご神木には 巳様(蛇神様)がお住みらしい。

蛇神とか竜蛇神信仰も 幸の神信仰とともに古代出雲族の信仰の一つだと伝わる。

松江市内の古い神社(阿太加夜神社など)には境内に竜蛇を藁で編んだ神様が祀ってある。

東出雲王家の分家鴨族の移住した京都北部の上賀茂神社境内の砂の三角錐も
トグロを撒いた巳様の姿だという。
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主祭神 のお二方は 古代出雲王家の主王(役職名は大名持ち)と副王(役職名は少彦)の
お二人だ。

秦国からの渡来人徐福(記紀では素戔嗚)や部下の穂日(今の出雲大社宮司の祖先)
や沢山の海童たちに 出雲市北部「稲目洞窟」に幽閉されて殺害された八千矛王は
出雲王第八代主王(大名持ち)であり、記紀では「大国主命」と書かれた。

記紀ではそのほか主王の役職名の「大名持ち」も「大己貴(おおなむち)」とか
「大汝(おおなんじ)」とかさまざまに書き換えられた。


八千矛王とほぼ同時に 徐福、穂日らに 米子市粟島志都の岩屋に幽閉殺害された副王の
(役職名少彦)八重波津身(やえなみつみ)は記紀では「事代主」と書かれた。

また少彦(すくなひこ)も 記紀では 少彦名とか 一言主とか書き換えられた。

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つまり三輪山をご神体とした「大三輪神社」は古代出雲王家第八代の主王、八千矛と副王八重波津身
のお二人を御祭りしているのである。

そして後世に 「大神神社」とかかれるようになるのである。

ここの神社の本殿は古代出雲形式の「三つ鳥居」になっているそうだが 見ることは出来なかった。
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広い境内の祈祷殿の前を通り、隣の狭井神社へ行く。
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狭井神社の入口、「山之辺の道」に面した鳥居は普通の鳥居だ。
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しかし奥へ入ると 出雲式の御柱様式の鳥居があった。
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境内にある狭井神社の説明書である。
もちろん八千矛の命と八重波津身の命を御祭りしているのだが、ここでまたまた新発見。

踏鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)をも、お祀りしているのである。
踏鞴とはもちろん古代出雲で行われた製鉄方法である。

この姫君は八重波津身(事代主)の姫で、この地に移住した登美家の祖である奇日方の妹姫で、初代大和大王「天の村雲」
(徐福の孫、五十猛の息子)に嫁がれた皇后なのである。

その隣の「セヤ五十鈴姫」と言うお方は 踏鞴五十鈴姫の妹姫の「五十鈴依り姫」のことなのか、
もっと後世の登美家の姫なのか調べてみます。
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狭井神社の境内には またまた新発見の神社があった。
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池のほとりにあったのは、「市杵島姫神社」である。
このお方は徐福のお后で、先ほどの「登美山坐宗像神社」や、京都の松尾大社、祇園さんと呼ばれる八坂神社にも祀られていて、
安芸の宮島の主祭神 でもある。

説明に寄ると元来この社は この地にはなく 後の世に 勧請されたということだ。
物部の子孫がやったことだろう。

この神社には本殿が無く、三輪山がご神体とされる。三輪山へはこの境内から登拝するのだが、
今日は時間がなく次回にしよう。
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檜原神社
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山之辺の道を進むと 檜原神社がある。この神社も狭井神社と同じく 大神神社の摂社である。
鳥居も出雲式の鳥居だ。
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この神社も本殿がなく、三輪山がご神体だとか。
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ここに来て初めて三つ鳥居を拝ませてもらう。

三つ鳥居は 古代出雲族の信仰の幸の神(さいのかみ)三神、クナト大神、奥方の佐井姫の命、
それに皇子神のサルタ彦大神の三神である。

※サルタ彦のサルタとは南部インドのドラビダ族の言葉で「鼻の大きい」と言う意味だそうで
つまりヒンドゥーの象神ことガネーシャ神のことなのだそうだ。
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神社の説明文には天照大神を祀ると書いてある。
佐井姫の命は 記紀によりアマテラスと書き換えられて太陽の女神とされた。
「大ヒルメムチ」のことである。
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この地から見る三輪山の姿である。
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境内左側の末社を見てまたまた新発見。
豊鍬入り姫を祭ると書いてあるではないか。びっくり驚きだ。
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持統女帝が命じ、藤原不比等が編纂させた記紀の 編集方針の第一は 「万世一系」である。

つまり自分たちは天上世界から降臨して 連綿と続く大王家だという作り話だ。

自分たちが渡来人の子孫だとか、出雲王朝やその後の王朝を次々と倒してきた
征服王朝だとは絶対に悟られてはいけないのである。

豊鍬入り姫とは 「豊来入姫」を記紀が書き換えたものであり、九州の物部家イニエ王(崇神)
と宇佐王国の「豊玉姫(トヨタマヒメ)」(魏書にヒミコと書かれた2番目の姫巫女で魏の役人から
「親魏和王の印鑑や襷、錦の旗」を直接受け取った唯一の姫巫女)の娘姫である。

物部家の第二次大和東征でイクメ大王(垂仁)とともに大和入りした姫であるが豊王国から大和入りしたことを
隠すため 豊来(とよき)ではなく、豊鍬(とよすき)と書き換えられたのである。

またトヨタマヒメ亡き後、魏の和国駐在武官「張政」よりヒミコの後継者として指名された
「トヨ」のことである。

もともと豊来入姫はこの檜原神社で「月読み(つくよみ)の神」を祭り「若ヒルメムチ」と呼ばれていた。

イクメ王の大和統一が進むに連れて、豊来入彦(兄)とともにイクメ王に邪魔にされ、
イクメ王の指示で出雲系「加茂田田彦」に追われ、丹波、伊根、さらに伊勢の椿大神社まで逃れたが
最後には イクメ王の放った刺客に殺されて、「ホケノ山古墳」に埋葬された悲劇の姫巫女である。

※イクメ大王(垂仁)の父はイニエ王(崇神)だが 母は豊玉姫トヨタマヒメではなく、薩摩の阿多津姫である。
阿多津姫は記紀では「此花咲くや姫」と書かれた。つまりイクメ大王と豊来入彦、豊来入姫は腹違いの兄妹である。

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この有名な姫巫女のお札を檜原神社で買い求めて 神棚にお祀りした。
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檜原神社の鳥居から西を見ると 持統女帝に殺された悲劇の「皇子大津の皇子」が葬られている
「二上山」が見える。この景色の夕日が 「大和夕日なんとか」で有名だと書いてあった。
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檜原神社の前に一軒の茶店があった。ちょうどお昼なので一休み。
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「檜原にゅう麺定食」を食べたがとてもおいしかった。おいしい具も彩りよく沢山入っていた。
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次はホケノ山古墳、箸墓古墳、「穴師に坐イタケ兵主神社」へ続く
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奈良県桜井市 ホケノ山古墳箸墓古墳、穴師坐射楯兵主神社、大和姫モモソ姫 2015年1月29日

2015年02月03日 22時16分26秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
次に訪れた場所と人物
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ホケノ山古墳、箸墓古墳、穴師坐イタテ神社、相撲神社、それと意味不明の
大和トトビモモソ姫御陵

 それぞれに関連する人物

豊来入姫、大和姫(イクメ大王の姫)、五十猛(徐福の息子)、野見の宿禰 (富 大田彦)
大和姫、モモソ姫
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次に檜原神社から眼下に見える「ホケノ山古墳」と「箸墓古墳」へ行く。
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ホケノ山古墳は道路で削られている。「山之辺の道」かもしれない。
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墳墓の一部を復元されている。
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発掘調査の結果 木製棺と瓶棺が発見されたそうだ。
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発掘された棺を復元したそうだ。
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この古墳の説明書である。
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埋葬施設の説明書。

誰が埋葬されているのかかかれていないが、先ほどの檜原神社「豊来入姫の宮」説明文にも
あったように豊来入姫」である。

イクメ大王(垂仁)が大和統一を進めるに従い 自分の腹違いの妹の豊来入姫が邪魔になりだした。 
そこで刺客を放ち 伊勢の椿大神社で殺された「豊来入姫」を殺すのである。
この墓が 豊来入姫の墓であることは、複数の歴史学者の本にも書いてある。
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古墳頂部から三輪山を望む。あの山の麓に彼女がしばらく祭祀を行った檜原神社がある。
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古墳頂部から西を見ると すぐそこにこんもりとした森が見える。箸墓古墳だ。
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道路を歩いていくと この道は山之辺の道だと 表示があった。
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山之辺の道を下っていくと、こんもりとした箸墓古墳が見えてくる。
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北と西は かろうじて堀が残っている。
記念碑が立ててあり、何とか池の修理完工記念とか書いてあった。
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箸墓古墳の回りは環濠があったらしいが、東と南側は埋め立てられて畑になっている。
古墳の周りを歩いて回ってみる。かなり大きい古墳だ。
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この写真は「桜井市埋蔵文化センター」の箸墓古墳(左)とホケノ山古墳(右)の模型である。
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南側の畑の中の畦道を歩いていくと 鳥居が建っている。
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宮内庁の立て札があり、それを読むと思わず噴出した。

「大和トトビモモソ姫」の墓だと書いてある。なんのこっちゃ??。
しかもこのわけの分からん姫君は、磯城王朝第七代フトニ(考霊)大王の皇女だと書いてある。

大和姫とモモソ姫という 全く時代の違う二人の皇女姫巫女を並べてくっつけて書いてあるのだ。

つまりこの墓が大和姫の墓なのか、モモソ姫の墓なのか分からないと宮内庁は公にしているのである。
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石碑にも「大和(ヤマトの字は中国がわが国を蔑んで付けた卑字をそのままありがたく使用しているので
私が大和の字に訂正した。)トトビモモソ姫」と書いてある。

宮内庁も記紀の作り話を丸呑みにせざるを得ないのであろう。いろいろとまずいことがたくさんばれるので。
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モモソ姫は磯城王朝第八代クニクル大王と磯城家クニアレ姫との間に生まれた姫巫女である。

登美家当主 大田田根子の世話で 三輪山で大ヒルメムチの祭祀を行うと、それまで続いていた
第一次東征で大和入りした物部家とヤマトの豪族との間の戦争も徐々に収まった。

魏書に「そのヒミコが女王として立つと戦乱が収まり、国がまとまった」とかかれた最初のヒミコがモモソ姫である。

祭祀の日には巻向の地に 各地から大勢の豪族の首長たちが集まり、巻向は大いに栄えたという。

当時の巻向は 登美家の領地、地盤であったので モモソ姫の亡骸は 当然登美家の土師氏で葬られた。

彼女の墓は 巻向の大きな古墳のどれかだろうと思われる。
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一方ヤマト姫は初代物部王朝イクメ大王(垂仁)と磯城王朝最後の道主大王の娘ヒバス姫との姫である。

彼女は信仰心が深く、伊勢志摩で井澤富彦(登美家出身)の世話を受けて、五十鈴川の
ほとりに内宮を建て 太陽の女神を祭り 最初の伊勢斎宮となる。

彼女の亡骸は 伊勢から登美家に送られて 登美家の土師氏に葬られた。

最初は出雲系土師氏(はじし)たちの作った墓、「土師墓(はじはか)」と呼ばれたらしいが 
後に箸墓と書き換えられたという。
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つまり ヤマト姫とモモソ姫は 姫巫女としてもお墓も 全く異なる別人なのである。

二人の皇女をくっつけて呼ぶとは宮内庁も よほど困った事情があるのだろう。
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なんせ嘘で固めた記紀は 魏書に書かれたヤマトの内情を一切無視して作成されたので、
つじつまの合わない作り話になっている。中には何百年も生きた大君がいたり、
またヒミコが誰なのかいっさい触れていない。

朝鮮渡来人ヒボコの子孫オキナガタラシ姫(神功皇后)をヒミコと思わせる為、魏書に何回も名前の挙がった
平群王朝の祖である武内宿禰などなどは、3代の大王に仕えて 150年も生きたことになっている。


ヤマトタケルなどの架空人物を歴史の繋ぎに作ったり、150年以上も離れた物部王朝の前後2回の東征
を一つにまとめて「神武東征」としたり、いろいろと嘘が嘘を呼び大変なのだ。

持統女帝が記紀の編集で一番恐れたのは、自分たちが渡来人で元からの王朝(古代出雲)を倒した
征服王朝だということが知れること。そのために天孫降臨神話を作り出し、天上から築紫の日向に降り立ち
橘の小戸で禊をしたと 作り話を書いている。そして出雲国譲りなどという神話をでっち上げたのだ。

※ちなみに 築紫は徐福が再上陸した場所で、日向は第二次東征のため イニエ(崇神)が築紫から日向へ転進し
日向にツマ国をつくり、イクメが日向の生目で生まれ橘の小戸で産湯を浸かったということらしい。

次に無視したのは 和国が一時的に 魏の属国になっていたということだろう。
イクメ大王(垂仁)が若い頃 魏へ直接行き、イサチという名前で魏王に臣下の礼を
とったことなど、とんでもない卑屈なことなのだ。
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次は 徐福(素戔嗚)の息子五十猛を祀る 穴師坐イタテ兵主神社へ
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参道入口の鳥居脇の石碑には 兵主神社としか書いてない。

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境内から拝殿を見たところ。奥に本殿が見える。
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神社の説明文。手書きであり、どなたがかかれたのか 説明がない。
ここにも五十猛の名前は出てこない。
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本殿は良く見えないが、三連の造りのようだ。
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石見から丹波に移住した五十猛は、丹波で「香語山」と名を変える。

そしてさらに 数千人の秦国人を引き連れて 大和葛城の笛吹の地に移住する。
住んだ場所が 尾張村なので 尾張家と呼ばれるようになる。

先住の出雲族の登美家、カモ家よりもはるかに数の上で勝る尾張家は 香語山の皇子「天の村雲」が初代大和大王となる。

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尾張家の一部は ここ穴師に移住する。「穴師」とは「金属精錬技術師」の意味だ。
そして村雲の父五十猛(香語山)をこの地で祀る。

イタテ神社のイタテとは 五十猛の五十をイと読み、タケをタテと書き換えたのだろう。

村雲にはじまる海部王朝は 3代目から磯城王朝となり、やがて五十猛の腹違いの弟ホホデミに始まる
九州物部家の東征で、磯城王朝は終わり 物部王朝となる。

そのため五十猛の名前をそのまま残すことがためらわれたのだろう。

それで五十猛を射楯と表記したのだろう。
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兵主とは 徐福が育った 古代シャントン半島で行われた八神信仰で 第3神が兵主
(ひょうず)という神様らしい。徐福が和国に 稲荷信仰などとともに持ち込んだといわれている。
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続いて相撲神社
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穴師坐射楯兵主神社は狭い山道の奥なので、神社鳥居脇の広場で一休みしたら、
相撲神社と書いた小さな祠があり、びっくりした。

またまた今日の偶然の発見だ。

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相撲神社の謂れの説明だ。
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ご丁寧に「野見の宿禰 」の新しいレリーフまで設置してある。

嘘もここまでかためると本当に思えるから恐ろしい。

社やレリーフを造っている人も記紀の嘘の作り話に 踊らされているとは、夢にも思わないだろう。

皆さんの真剣さが伺える。

千年以上経つのに 記紀の呪縛は恐ろしいほど 強烈だ。
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もともと當麻のケハヤと野見の宿禰 は相撲など取っていない。
イクメ大王のために 戦をして野見の宿禰 が勝ち
イクメ大王から物部家の重臣の呼称「宿禰」を貰ったのだ。
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イクメ王がイコマ山脈を越えて大和入りしたときには、既に一足早く九州から田道間守(朝鮮渡来人ヒボコの子孫)が
古代出雲王朝の田和山神殿を破壊してすぐに、大和入りしていた。

田道間守も、イクメ王も数年前に魏へ イニエ王の使いで渡り、魏王から「中朗将」の称号を貰っていた。

田道間守は第二次東征で大和へ一番乗りし、しかも葛城地方に沢山の丹波人を移住させて自分が大和の王のように振舞っていたという。

その土地はタジマがなまって當麻タイマと呼ばれるようになったという。今の當麻寺のあたりだ。


しかも後から来たイクメ王の言うことを聞かず、磯城王朝第11代彦道主大王を倒す為に独自の動きをしていたという。

困り果てたイクメ王は 出雲に占領軍として進駐していた物部の十千根に 田道間守を撃つように指示するも 十千根は兵力が足らず

彼は旧出雲王家の向家に頼み込んだという。向井家は富家と名前を変えていて、当主の富大田彦は 田和山神殿が破壊された恨みもあり、

田和山で戦死した大勢の出雲兵たちの仕返しのために引き受けたという。

大田彦はトビではなく、野見大田彦と名を変えて 大勢の出雲兵を連れて葛城へ進撃し、田道間守を打ち破り淡路島へと追いやった。

喜んだイクメ王は野見大田彦に物部王家の重臣の称号「宿禰」を与えて、領地も与えたという。

大和統一が更に進んだイクメ王は 今度は第2のヒミコ「宇佐豊玉姫」の息子と娘の豊来入彦、豊来入姫が
王のように振舞うのが 邪魔になるのである。そこで豊来入彦は打ち破られて遠くに逃れ、豊来入姫は
伊勢で刺客に殺されるのである。

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血で血を洗う 王朝交代の戦争を嫌う持統は この話を不比等に「田道間守(当麻蹶速)と野見の宿禰 が相撲をとり

野見の宿禰 が投げ飛ばして勝った。と言う話に作り変えたのだ。

それが相撲発祥の神社になるとは、嘘で固めた記紀の呪縛もすごいものだ。
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射楯兵主神社鳥居付近から巻向の街を見下ろす。
このあたり一体が3世紀から4世紀にかけて 一大都市として栄えていたのだ。
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物部王朝2代目オオタラシオシロワケ(景行)の宮古もこのあたりにあったと書いてある。

先ほどの射楯兵主神社のたて看板に寄れば、オシロワケ大王は和国統一を進める為ヤマトタケルを各地に派遣し平定させたと書いてある。
大和の大王になったものの、オシロワケ大王 はまだ力も弱く、和国統一を自分が出兵しながら進めたという。

記紀の製作者や不比等は それでは大王家の権威がないし、大王が自ら戦争に行くのは格好が悪いというので
ヤマトタケルを作り出して彼に征服戦争をさせたように書いたのだ。
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イクメ大王の宮殿もこのあたりにあったと書いてある。

※イクメ大王を垂仁天皇と書いてあるが、この時代にはまだ「天皇」と言う言葉はない。「垂仁」も後の世で付けた「送り名」だ。
この時代は まだ大王(おおきみ)と呼ばれていた。

天皇と名乗ったのは天武からである。
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次は古代出雲王朝ゆかりの歴史道 磐余と巻向を歩く。
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奈良県桜井市の歴史道 磐余(いわれ)と巻向(まきむく)

2015年02月03日 22時11分59秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
古代出雲王朝ゆかりの地を尋ねて磐余道と巻向を歩いた。
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「磐余橋」という地名を見つけた。
記紀に書かれた作り話の大王神武が熊野から大和入りして ここ磐余の地に落ち着き「磐余彦」と呼ばれたとある。
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「磐余の道」を歩いてみた。
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近鉄桜井駅前の道が 「磐余の道」らしい。

第一次物部東征で 最初紀ノ川河口へ上陸し、高倉下の子孫たちに手痛い反撃を受けた物部軍は
大将の「物部五瀬」が戦死する。

その後熊野へ転進して上陸するも、磯城王朝側のゲリラ名やられて 身動きも出来ず川洲の中で防戦一方だったという。

戦死した五瀬の弟の稲飯か三毛入りかどちらが 大将か分からないので ここでも記紀は「ウマシマジ」という大将を
でっち上げている。ちなみに上陸地点の新宮市の浜王子神社では「稲飯」と「ミケイリ」の両方を主祭神 としている。

困り果てた物部軍は 大和の登美家にひそかに使者を送り、大和へ先導してくれるように頼む。

登美家の「鴨建津乃身」は物部軍とともに大和に新国家を作ろうと、自ら案内して下北山、上北山の山中を通り
物部軍を大和に引き入れた。物部軍は彼に感謝して「ヤタガラス」として末代まで神社に祭ったという。

ところが大和入りした恩知らずな物部ウマシマジは「磐余彦」と名乗り、出雲系の集落を次々と襲い
銅鐸祭祀をやめさせて、自分たちの、神獣鏡を飾る支那の道教祭祀を押し付けて回り、宗教戦争を引き起こしたという。

この争いはモモソ姫が三輪山の巫女となり、祭祀を行うと次第に収まったらしい。(魏書による)
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磐余の道を歩くと 昔ながらのたたずまいに出会う。
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老舗の造り酒屋もある。
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突然現れた素戔嗚神社。このあたりは出雲系と物部の混在地域だから、徐福を祀っても不思議はない。
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恵比寿神社が現れた。恵比寿さんは徐福、穂日らに幽閉殺害された事代主のことだ。
出雲系の住人が建てたのだろう。
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中へ入ると拝殿はなかなか立派だ。本殿が大社造かどうか見たかったのだが、覗けなかった。
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この神社の主祭神 は当然八重波津身(事代主)だ。

ところが加夜奈留美と書いてあるのを見て またまたびっくり。

徐福、穂日らに幽閉殺害された 第八代大名持ち八千矛王のあと、八重波津身(事代主)の皇子の
鳥鳴海が第九代大名持ちとなった。主王(大名持ち)と副王(少彦)は 東王家(向井家、富家)
と西王家(神門臣家)から交互に出すしきたりだからだ。

鳥鳴海王は死後伯耆の国日吉津の香屋島神社に祀られたので、香や鳴海の命と呼ばれるのだ。
このあたりの出雲系の人たちは なかなか出雲の内情に詳しい人たちだ。

八尋熊鰐の命はよく分からないので いろいろ調べるとどうも 熊鰐(わに)族とは事代主族と書いてあるのが多い。
つまり出雲系の分家の長なのかもしれない。

古代出雲では 鮫のことを鰐といい(今でもそう言う)、鰐は神の使いだと尊敬されていた。
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磐余の道を歩いているとこの「豊田」という地名が目に付いた。

安芸の宮島で亡くなったトヨタマヒメ(第2のヒミコ)の葬儀を宇佐王国で済ませた
豊来入彦、豊来入姫たち豊王国勢はイクメ王に遅れてこの地にやってきた。

沢山の豊王国軍隊の中にはこの地域に住み着いた人も多く、「豊」の地名が残る。
「豊田」や「豊前」まであるのにはびっくりした。
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磐余道の最後に「桜井市埋蔵文化財センター」へ行ってみた。
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何かの儀式に使用されたと思われるお面。
なんに使われたのだろう。なかなか興味深かった。
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イヤリング、ネックレス、ブレスレットなどの装飾品。
出雲市の王家の谷で発掘された物を展示している「出雲弥生の森博物館」のものとほぼ同じだ。
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埋葬された女性が身に付けていた装飾品。
豊来入姫や大和姫もこのように飾られて埋葬されたのだろうか。
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鏃や鐙などの鉄製品は 「穴師の郷」でつくられたものだろうか。
出土した土器は 全国から集まったそうだ。
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ガラス製品も出土したそうだ。インド製のビーズが多かったけど、時代が下がるとこの地で作られたガラスもあるそうだ。
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このイヤリングなど 今のデザインとあまり変わらない。
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巻向で出土した土器の半数は東海のものだそうだ。笛吹から東海方面へ移住した尾張家の祭り参加が多かったのか。
出雲系の土器が少ないのは意外だった。
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古墳から発掘された埴輪も展示されている。
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野見の宿禰 の子孫が大和に残り、土師氏として埴輪を発達させて、それまで行われていた 
王の墳墓への 生き埋め殉死をなくしたと 何かの本で読んだけど、本当だろうか。
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歴史については
斎木雲州著 「出雲と大和の曙」「古事記の編集室」「万葉歌の天才」「御伽噺とそのモデル」「出雲と蘇我王国」
勝 友彦著 「親魏和王の都」
谷戸貞彦著 「幸の神と竜」 
などを参照しました。 
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松江市山代二子塚古墳と安来市荒島の王陵の丘 2015年1月21日

2015年02月01日 23時01分56秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
6世紀のヒロニワ大王の時代に 出雲王家の向山代彦が亡くなった。
そのときの葬儀に 勅旨として「日置志毘」が参列したという。

彼はそのまま出雲王家領内にとどまり、ヒロニワ大王(欽明)の指示で
古墳の造営をしたという。

ヒロニワ大王の父君はオホド大王(継体)で オホドは元来出雲王家の人で「オホドの君」と呼ばれていたが
越の国の蘇我の刀自に婿養子に行った。

その後三国国造として越の国を発展させ、当時の若狭、近江から越後にかけての
出雲王家の血筋を引く「蘇我、道連合王国」の盟主的存在となる。

そして 大和の平群王朝が途絶えたときに大和の豪族たちに請われて 大和大王となった方である。

蘇我氏の祖先は初代大和大王「天の村雲」の弟「高倉下」であり、その母親は出雲王家の「大屋姫」だ。

高倉下の子孫の「武内宿禰」がイクメ大王に反旗を翻して破れ 逃げたときに出雲王家はかくまったという。
武内宿禰の終焉の地が松江市の「武内神社」となっている。

そんないきさつで オホド大王やヒロニワ大王は 出雲王家に感謝の気持ちを持ち続けたという。

日置志毘の子孫も出雲に住み続け、向井家やその分家、また西出雲王家「神門臣家」の王陵を
次々と作りつづけたという。

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山代二子塚古墳の入口である。
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全体像である。
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反対側の南側から見た全体像でも 小高い丘にしか見えない。
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これが古墳完成時の復元創造図らしい。
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古墳の調査をする前の航空写真らしい。周りに民家が 古墳に喰らい付くように 建っている。
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古墳の東側は古墳断面が見えるように建物で覆われている。
戦時中に 陸軍が古墳の一部を削り取ったという。しかし石室は無事で未調査らしい。
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古墳の南側に「資料館がある。午後4時半まで営業しているが 私は4時半過ぎに訪れた。
親切な館長さんが わざわざ閉めた扉と断層見学質の扉を開けて見せてくださった。
有り難うございます。
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資料館の中の石室のレプリカ。
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この石室は近くの向山古墳の石室のレプリカだそうだ。
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山代二子塚古墳の近くに「風土記の丘」がある。この周りの古墳が案内されている。
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風土記の丘の屋上展望台から見える古墳「岡田山古墳」も向家の分家の古墳だとか。
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王陵の丘
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まず造山古墳へ行ってみた。ここの古墳群は1号墳から4号墳までが 散策公園になっている。
この写真は1号墳の全体像だ。ゆっくりと見て回る。
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1号墳の頂からは眼下に「王の海」(中海)が広がる。
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次に塩津神社へ行く。この神社は塩津古墳群の足元にあり、下は古墳の一部だったと思われる。
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何時の時代なのか、古墳の一部が削られて石室が露出している。
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石室の中は覗けるようになっている。石の加工技術が高く、石の接する面は密着している。凄い高度の技術だ。
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1号墳に登ってみた。側面には葺き石がしてある。
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海側の2面だけ葺き石がしてあったそうだ。
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葬儀の儀式に用いられた土器はそのまま墳丘墓の上に置かれていたそうだ。
この古墳の真下を山陰道がトンネルで貫いている。まだ未発掘だそうだ。
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1号墳から4号墳を見たところ。4号墳は小型の円墳だ。
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この荒島地区の古墳群も時期的に、日置志毘の子孫が東出雲王家の分家のために築いたものと思われる。

出雲に住み着いた日置志毘は 出雲王家から姫を嫁にもらい 「臣おみ」の性を名乗ることを許されたとか。

日置の臣志毘の子孫たちは 西出雲王家の墳墓をも 王家の谷西谷に次々と築いたという。

蘇我王朝の直接の祖先は 高倉下の母君、西出雲王家の大屋姫なのだから。
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