サホ姫 その1
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吉備王国を制圧したイクメ王は 瀬戸内海を東へ進み、難波の楯津(現在の東大阪市)に上陸しました。
そして日下(現在の東大阪市)に進軍して 背後にそびえる生駒山に登りました。生駒山の東はもうヤマトです。
しかし生駒山に登ったものの、東側へ下りることはできませんでした。
ヤマトでは磯城王朝第十代日子坐大王が亡くなり 第十一代大王に彦美知宇斯(ひこみちうし)大王が
就任して和邇の地に軍を構えており、生駒山の東側には大王の弟の佐保彦が軍を構えていて頑強に抵抗して
イクメ王は山を下りることができなく、磯城王朝の東軍と生駒山のイクメ王の西軍とが長期間対峙して
にらみ合いが続きました。
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大阪と奈良の堺のこの屏風のような山は イクメ王が長くとどまったことから
イクメの山、イコマ山(生駒山)と名付けられました。
そして生駒山山中には イクメ大王を祀る往馬(いこま)神社が建てられました。
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往馬(いこま)神社 (往馬坐往馬津比古神社ーいこまにいますいこまつひこじんじゃ) 奈良県生駒市壱分町 です。
往馬津比古と呼ばれるイクメ大王を祀っているはずです。
しかし本殿が一つのはずが七棟あります。往馬津彦お一人のはずなのに、ハテナである。
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良く探すと 何故七柱なのか説明札がありました。それを読んでびっくりたまげました。
往馬津彦(いこまつひこーイクメ大王)と往馬津比売(一回目の皇后のサホ比売なのか二回目の皇后ヒバス比売なのか不明だが)
は 分かります。
しかし全国の八幡神社お定まりの 仲哀(オキナガ姫皇后の部下の豊前ナカツヒコ)、神功皇后(オキナガタラシ比売)、
ホムタ大王(応神)の三柱セット、それに 朝鮮半島辰韓の王子卑ボコの子孫である息長帯姫のご両親まで
祀られているのにはびっくりです。
おまけに境内には二十いくつかの末社があり まるで神社のデパートです。
どんな神さんもいますから どんどん来てお金を頂戴という すごい魂胆の神社です。
がっくり来ました。イクメ大王なんてどうでもいいのです。由緒書きさえありませんでした。
これではイクメ大王がかわいそうですね。
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イクメ王がイコマ山に駐留していたころ、出雲の神殿、田和山神殿を破壊して 但馬で兵を集めた
田道間守がイコマにやってきて イクメ王の軍に合流しました。
すると西軍が がぜん優勢になりました。
そこで和邇の地の彦美知宇斯大王はイクメ王と休戦することにして 妹のサホ姫をイクメ王の后としました。
登美家出身のサホ姫は 日子坐大王亡き後 三輪山の祭祀を務めていましたが、
イクメ王の后となり正式な姫巫女となった サホ姫が第三のヒミコです。
登美の霊畤から 三輪山の太陽の女神を祀るサホ姫は 「大日霊女貴(おおひるめむち)」と呼ばれるようになり
それが太陽の女神を意味するようになりました。
登美の霊畤で祭祀するサホ姫の後には イクメ王が控えて、参列する大和の豪族たちは次第に彦美知宇斯大王から
イクメ王へ 尊敬心が移っていったといわれます。
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河内の国に陣取った田道間守は 連れてきた但馬の兵に河内を耕作させて 次第に勢力を強めて
イクメ王の指示を聞かなくなりました。彼は魏から中朗将の位を受けていてイクメ王も同じ中朗将なので
指図は受けないという意識が強かったのです。
田道間守は、勝手に奈良盆地の南西部の広瀬郡や葛木山東山麓に攻め込んで占領し あたかも自分が大和の王の
ように振る舞います。
それどころか 田道間守は佐保彦と手を組み イクメ王を襲い自分が大王になろうと陰謀を企てます。
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困り果てたイクメ王は 出雲駐在物部武官の秋上十千根に田道間守勢力を抑え込むように指示した。
物部十千根は出雲では物部に対し反感が強いことから 秋上家を名乗っていたが 駐在武官なので
兵力は少なく それで 徐福の忠実な部下の矛卑の子孫の矛卑家の韓比佐に相談しました。
しかし出雲王家の主王副王の二人を殺害した 矛卑の子孫は 物部よりもっと反感が強く
矛卑家の出兵の求めに応じるものはいませんでした。
そこで十千根は 旧出雲王家の富家に助けを求めました。
登美家は出雲王家を滅ぼした物部家はもちろん大嫌いであった。しかしそれ以上に 大切な田和山神殿を
破壊した田道間守は もっと許せなかった。
田道間守に復讐することは 田和山で戦死した登美家の飯入根の霊を慰める事でもあった。
そこで登美家はこのイクメ王の求めに応じることにした。
ヤマトでは出雲の登美家に反感を持っている者がいるやもしれず 登美家の太田彦は
用心のため、名前を登美家から「野見家」に変えて「野見太田彦」として出陣することにしました。
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ヤマトからは 大和直(やまとのあたい)の先祖の 長尾市が野見太田彦を迎えに来ました。
そこで太田彦は 旧東出雲軍を集めて 大和へ向かって出陣しました。
出雲軍は大和盆地の北西から侵入し、当麻(たいまー田道間守が連れてきた但馬の人々が住み着いたので
たじま→たいま と呼ばれるようになっていた)に割拠していた田道間守の兵士たちを片っ端から
見つけ出して追い払い 更に田道間守らを西へ責め立てて ついには淡路島へ追いやりました。
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これに喜んだイクメ王は 野見太田彦に 物部の重鎮称号の宿祢を与え、以後太田彦は
野見宿祢と呼ばれるようになりました。
しかし記紀では こんな戦争、内乱を書けないので おとぎ話に替えました。
すなわち 「この当麻の地で イクメ大王の前で 當麻蹴速(たいまのけはや)という大男と 野見の宿祢
という力持ちの男が 相撲を取り勝負しました。野見の宿祢は 當麻蹴速を見事に投げ飛ばして
勝負に勝ち、大王からご褒美をたくさん貰いましたとさ」
これが大相撲の起源になったそうです。恐ろしくも 滑稽な事です。
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そしてご丁寧に 相撲神社までできました。
桜井市穴師という場所があります。穴師とは 金属精錬技術者たちのことです。
そこに 「穴師坐射盾兵主神社(あなしにいますいたてひょうずじんじゃ)」があります。
初代大和大王の天の村雲の一派が この地に住み 精錬をしたということです。そして天の村雲の父の
五十猛(徐福の長男)をこの神社に祀りました。射盾とは五十猛(いそたけ)を現したものだそうです。
五十猛は 出雲の五十猛海岸近くで生まれ そこから丹波に大勢の海童たちを引き連れて移住し、さらに
大和に移住してきましたが そのころには香語山と名乗っていました。
兵主とは 徐福が育った 古代シャントン半島で行われた八神信仰で 第三神が兵主(ひょうず)という神様で
徐福が和国に 稲荷信仰などとともに 八神信仰も持ち込んだといわれています。
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その穴師坐射盾兵主神社のすぐ手前に相撲神社があり、昭和の頃に大相撲の主だった力士がこの神社に集まり
土俵入りをしたといわれていますから いやはや 記紀の作り出した出鱈目話が 恐ろしいことになったものです。
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二上山から見た当麻の地と向こうは大和高田市街です。
田道間守はこの界隈を本拠地としました。
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当麻の地には 現在当麻寺が建っています。
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穴師坐射盾兵主神社です。神社の案内看板には「大兵主神社」とだけ書かれています。
この境内で 大鵬や柏戸などの人気力士が土俵入りしたそうです。
あな恐ろしや。
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兵主神社の下に相撲神社があります。嘘もここまで来ると本当に聞こえますよね。
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ご丁寧に野見の宿祢のレリーフまでこしらえてありました。クワバラクワバラ。
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