古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

いわゆるヒミコについてのまとめ 第三のヒミコ サホ姫 その1

2021年04月29日 12時45分21秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

サホ姫 その1

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吉備王国を制圧したイクメ王は 瀬戸内海を東へ進み、難波の楯津(現在の東大阪市)に上陸しました。

そして日下(現在の東大阪市)に進軍して 背後にそびえる生駒山に登りました。生駒山の東はもうヤマトです。

しかし生駒山に登ったものの、東側へ下りることはできませんでした。

ヤマトでは磯城王朝第十代日子坐大王が亡くなり 第十一代大王に彦美知宇斯(ひこみちうし)大王が

就任して和邇の地に軍を構えており、生駒山の東側には大王の弟の佐保彦が軍を構えていて頑強に抵抗して

イクメ王は山を下りることができなく、磯城王朝の東軍と生駒山のイクメ王の西軍とが長期間対峙して

にらみ合いが続きました。

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大阪と奈良の堺のこの屏風のような山は イクメ王が長くとどまったことから

イクメの山、イコマ山(生駒山)と名付けられました。

そして生駒山山中には イクメ大王を祀る往馬(いこま)神社が建てられました。

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往馬(いこま)神社 (往馬坐往馬津比古神社ーいこまにいますいこまつひこじんじゃ) 奈良県生駒市壱分町 です。

往馬津比古と呼ばれるイクメ大王を祀っているはずです。

しかし本殿が一つのはずが七棟あります。往馬津彦お一人のはずなのに、ハテナである。
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良く探すと 何故七柱なのか説明札がありました。それを読んでびっくりたまげました。


往馬津彦(いこまつひこーイクメ大王)と往馬津比売(一回目の皇后のサホ比売なのか二回目の皇后ヒバス比売なのか不明だが)

は 分かります。

しかし全国の八幡神社お定まりの 仲哀(オキナガ姫皇后の部下の豊前ナカツヒコ)、神功皇后(オキナガタラシ比売)、

ホムタ大王(応神)の三柱セット、それに 朝鮮半島辰韓の王子卑ボコの子孫である息長帯姫のご両親まで

祀られているのにはびっくりです。

おまけに境内には二十いくつかの末社があり まるで神社のデパートです。

どんな神さんもいますから どんどん来てお金を頂戴という すごい魂胆の神社です。

がっくり来ました。イクメ大王なんてどうでもいいのです。由緒書きさえありませんでした。

これではイクメ大王がかわいそうですね。
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イクメ王がイコマ山に駐留していたころ、出雲の神殿、田和山神殿を破壊して 但馬で兵を集めた

田道間守がイコマにやってきて イクメ王の軍に合流しました。

すると西軍が がぜん優勢になりました。

そこで和邇の地の彦美知宇斯大王はイクメ王と休戦することにして 妹のサホ姫をイクメ王の后としました。

登美家出身のサホ姫は 日子坐大王亡き後 三輪山の祭祀を務めていましたが、

イクメ王の后となり正式な姫巫女となった サホ姫が第三のヒミコです。

 

登美の霊畤から 三輪山の太陽の女神を祀るサホ姫は 「大日霊女貴(おおひるめむち)」と呼ばれるようになり

それが太陽の女神を意味するようになりました。

登美の霊畤で祭祀するサホ姫の後には イクメ王が控えて、参列する大和の豪族たちは次第に彦美知宇斯大王から

イクメ王へ 尊敬心が移っていったといわれます。

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河内の国に陣取った田道間守は 連れてきた但馬の兵に河内を耕作させて 次第に勢力を強めて

イクメ王の指示を聞かなくなりました。彼は魏から中朗将の位を受けていてイクメ王も同じ中朗将なので

指図は受けないという意識が強かったのです。

田道間守は、勝手に奈良盆地の南西部の広瀬郡や葛木山東山麓に攻め込んで占領し あたかも自分が大和の王の

ように振る舞います。

それどころか 田道間守は佐保彦と手を組み イクメ王を襲い自分が大王になろうと陰謀を企てます。

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困り果てたイクメ王は 出雲駐在物部武官の秋上十千根に田道間守勢力を抑え込むように指示した。

物部十千根は出雲では物部に対し反感が強いことから 秋上家を名乗っていたが 駐在武官なので

兵力は少なく それで 徐福の忠実な部下の矛卑の子孫の矛卑家の韓比佐に相談しました。

しかし出雲王家の主王副王の二人を殺害した 矛卑の子孫は 物部よりもっと反感が強く 

矛卑家の出兵の求めに応じるものはいませんでした。

そこで十千根は 旧出雲王家の富家に助けを求めました。

 

登美家は出雲王家を滅ぼした物部家はもちろん大嫌いであった。しかしそれ以上に 大切な田和山神殿を

破壊した田道間守は もっと許せなかった。

田道間守に復讐することは 田和山で戦死した登美家の飯入根の霊を慰める事でもあった。

そこで登美家はこのイクメ王の求めに応じることにした。

ヤマトでは出雲の登美家に反感を持っている者がいるやもしれず 登美家の太田彦は 

用心のため、名前を登美家から「野見家」に変えて「野見太田彦」として出陣することにしました。

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ヤマトからは 大和直(やまとのあたい)の先祖の 長尾市が野見太田彦を迎えに来ました。

そこで太田彦は 旧東出雲軍を集めて 大和へ向かって出陣しました。

出雲軍は大和盆地の北西から侵入し、当麻(たいまー田道間守が連れてきた但馬の人々が住み着いたので

たじま→たいま と呼ばれるようになっていた)に割拠していた田道間守の兵士たちを片っ端から

見つけ出して追い払い 更に田道間守らを西へ責め立てて ついには淡路島へ追いやりました。

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これに喜んだイクメ王は 野見太田彦に 物部の重鎮称号の宿祢を与え、以後太田彦は

野見宿祢と呼ばれるようになりました。

 

しかし記紀では こんな戦争、内乱を書けないので おとぎ話に替えました。

すなわち 「この当麻の地で イクメ大王の前で 當麻蹴速(たいまのけはや)という大男と 野見の宿祢

という力持ちの男が 相撲を取り勝負しました。野見の宿祢は 當麻蹴速を見事に投げ飛ばして

勝負に勝ち、大王からご褒美をたくさん貰いましたとさ」 

これが大相撲の起源になったそうです。恐ろしくも 滑稽な事です。

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そしてご丁寧に 相撲神社までできました。

桜井市穴師という場所があります。穴師とは 金属精錬技術者たちのことです。

そこに 「穴師坐射盾兵主神社(あなしにいますいたてひょうずじんじゃ)」があります。

初代大和大王の天の村雲の一派が この地に住み 精錬をしたということです。そして天の村雲の父の

五十猛(徐福の長男)をこの神社に祀りました。射盾とは五十猛(いそたけ)を現したものだそうです。

五十猛は 出雲の五十猛海岸近くで生まれ そこから丹波に大勢の海童たちを引き連れて移住し、さらに

大和に移住してきましたが そのころには香語山と名乗っていました。

兵主とは 徐福が育った 古代シャントン半島で行われた八神信仰で 第三神が兵主(ひょうず)という神様で

徐福が和国に 稲荷信仰などとともに 八神信仰も持ち込んだといわれています。

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その穴師坐射盾兵主神社のすぐ手前に相撲神社があり、昭和の頃に大相撲の主だった力士がこの神社に集まり

土俵入りをしたといわれていますから いやはや 記紀の作り出した出鱈目話が 恐ろしいことになったものです。

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二上山から見た当麻の地と向こうは大和高田市街です。

田道間守はこの界隈を本拠地としました。

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当麻の地には 現在当麻寺が建っています。

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穴師坐射盾兵主神社です。神社の案内看板には「大兵主神社」とだけ書かれています。

この境内で 大鵬や柏戸などの人気力士が土俵入りしたそうです。

あな恐ろしや。

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兵主神社の下に相撲神社があります。嘘もここまで来ると本当に聞こえますよね。

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ご丁寧に野見の宿祢のレリーフまでこしらえてありました。クワバラクワバラ。

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佐保姫その2へ続く

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第二のヒミコ 宇佐豊玉姫 その3

2021年04月25日 23時11分36秒 | 古代史の舞台を訪ねて

宇佐豊玉姫 その3

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話は宇佐豊玉姫に戻ります。豊玉姫は東征の途中滞在していた多祁理宮(たけりのみや、

または埃宮えのみやともいう)で病になり 養生していましたがそこで亡くなります。

遺体は安芸の宮島に仮安置されて その後宇佐宮へ運ばれて宇佐家の祖先とともに祀られます。

また遺骨の一部は宇佐宮から見える院内町の奥山に墳墓が作られて葬られたといわれます。

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今の厳島神社です。御祭神を読むとひっくり返ります。素戔嗚の三人娘の多岐津姫、田心姫、市杵嶋姫で

あると書かれています。素戔嗚こと徐福には市杵嶋姫がお産みになった穂屋姫一人しかいません。

この御三方の姫たちは出雲王家第六代大名持の臣津野(国引き王)の皇子吾田片隅が九州宗像地方へ移住して

始めた宗像家の姫たちで 吾田片隅の三人の姫たちであり 徐福の娘たちではありません。

恐ろしく出鱈目な由緒書きです。

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記紀制作者指示たちはこの豊玉姫の記録を読んだと見えて 架空の大王、神武東征にこれを利用しました。

すなわち 多祁理宮(埃宮)は神武が東征の途中で行宮を作り休憩した場所と書かれ、ご丁寧に現在はここに神社が

建てられていて神武顕彰碑なる石碑も建っているということです。

記紀制作指示者は調子に乗って ついでに イクメ王が行宮を作り吉備王国攻撃の拠点とした吉備高島宮も

神武の行宮だとしています。ホンマにずうずうしいですね。

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豊玉姫は宇佐家の祖先神と共に宇佐神宮の本殿に祀られます。

宇佐宮にはもともと 祖先神を祀る本殿一つでした。そこに豊玉姫も祀られました。

しかし現在は本殿は三殿あります。いつの間に本殿が増えたのでしょうか。

それは三韓征伐と息長帯姫、それと彼女が生んだとされる誉田別(ほむたわけ)の君が大いに関係します。

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イクメ大王が苦労に苦労して大和入りして打ち立てた 物部王朝は 残念なことに短命に終わりました。

イクメ大王が支配したのは近畿地方だけでした。

次のオシロワケ大王(のちの贈り名を景行ー大足彦忍代別おおたらしひこおしろわけ)も支配地域が少なく 

それを広げるべく自ら遠征軍を率いて九州に行き 祖先の地日向で父(イクメ)や 祖父(イニエ)の墳墓や神社を築きました。

 戦争に行ってくれる豪族が少なかったから、自ら戦に行かざるを得なかったのです。

 

また関東に出兵するにあたり 出雲王家に協力を求めてきました。旧出雲王家と登美家は相談して

これに応ずることにしました。磯城王朝時代 豊国軍が登美家領地に突然攻め入り 加茂田太彦などを山城へ追い払ったことや、

登美の霊畤や太陽の女神を祀る三輪山を占領し登美家を追い払ったことなどの恨みがあり、イクメ大王に追われて

東国へ逃げた豊国軍を探して攻撃する決意をしたといわれます。

 

出雲軍は三河周辺から東へ豊国軍の残党を探し出しては追い払いながら 関東各地まで進みそこを占領し開拓しました。

それで関東各地の国造は出雲系の人たちで占められ 第二の出雲とも呼ばれました。

相模、武蔵、秩父、安房、須惠、上海上、下海上などの国造家です。

しかし出雲系の国造家の当主たちは 物部系や豊国系の残党たちから 暗殺されることを恐れて 

矛卑家の子孫のふりをしたそうです。

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しかし忍代別(オシロワケ)大王(景行)も直接支配地域を広げることなく 近江の国、高穴穂宮で ヤマトに

帰ることなくこの世を去ります。

次の稚足(わかたらし)大王(成務)も 自ら各所へ遠征に出掛け ほとんど都のヤマトには住むことなくこの世を去ります。

記紀では 短命に終わった物部政権を隠すために また大王自らが 征服戦争に直接出向き大和に

ほとんどいなかったことを隠すために 架空の皇子ヤマトタケルを作り出して

この二人の大王が自ら行った遠征を ヤマトタケルの仕事にします。

 

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息長帯比売(おきながたらしひめ)は ワカタラシ大王(成務ー物部王朝第三代大王)の皇后でした。

息長姫は朝鮮の辰韓王子ヒボコ(1世紀半ばに渡来した)の子孫です。

息長姫が皇后となり、暫くして朝鮮半島で辰韓が滅び その家臣により新羅が起こりました。

その時息長姫は新羅に対して 自分は辰韓王家の子孫だから 辰韓の財産相続を請求したという。

しかし話がまとまらず、武力で朝鮮へ行こうというときに相談した夫君のワカタラシ大王に断られて 

落胆した息長姫は ワカタラシ大王とは疎遠となります。

その後ワカタラシ大王は豊前の国、岡県主に攻められて若くして戦死されました。

息長姫皇后は朝鮮出兵の準備のため 筑後国に香椎の宮を建てそこに住んで準備を始められました。

それため彼女は北部九州に支持を広げられました。

 

そして皇后は朝鮮出兵を次に豊前中津彦に相談しますが 彼にも断られ 中津彦も長門の国で若くして戦死したという。

つまり豊前中津彦は 息長姫の夫君や大王ではなく、息長姫皇后の単なる部下、臣下なのです。

しかもほとんど仕事らしい仕事はしなかった。

記紀はかってに息長姫皇后の部下の中津彦を大王(仲哀)に仕立て上げています。

架空の皇子ヤマトタケルの思い付きといい、皇后の臣下の中津彦の大王への格上げといい また九州のイニエ王を

大和の大王にするというでっち上げも 短命に終わった物部王朝を 隠して引き延ばす作戦が見え見えですね。

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この後 息長姫皇后は朝鮮出兵を 日向襲津彦王に相談されます。襲津彦王は武内宿祢の子孫です。

 

イクメ大王の放った刺客から逃れて 出雲王家に匿われた 武内宿祢は出雲王家の姫を娶り出雲王家の称号の

臣を名乗り 武内臣太田根と名乗ります。

彼の息子の武内臣波夛は九州八代に移住して 武内臣八代と呼ばれます。

武内臣八代の娘 久米マイト姫は日向に移住して 襲津彦を生みます。

襲津彦は成長して 西都原の王となり、日向襲津彦王と呼ばれます。

 

息長姫は その日向襲津彦王に朝鮮出兵、新羅征伐を相談されたのです。

日向襲津彦王は息長姫の遠征話を快諾し、息長姫と一緒に住みます。

襲津彦王は 出雲王家の血、高倉下の血と共に 物部の血も持っていてネットワークに自信があったのでしょう。

中津彦が何者なのか詳しくはわかりませんが 中津彦と違い 襲津彦王の人物スケールの大きさが感じられます。

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襲津彦王は 祖先の出身地の紀乃国や海部家、尾張家などへ協力を呼び掛けますが、各地の豪族たちも

協力を約束します。

襲津彦王と息長姫たち遠征軍は 襲津彦王を最高司令官として、和国の各地から集まった大船団を率いて新羅へ向かいます。

 

新羅に到着すると 新羅王は海上を埋め尽くした大船団におじけづき 戦わずに降伏し、

財宝を差し出して 年貢と人質を差し出すことを約束します。

遠征軍はそのまま 百済に向かい、百済も同じように戦わずして降伏し年貢を納めることを約束します。

そのあと同じように高句麗にも攻め入り 同様に征服します。

これが三韓征伐です。

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三韓征伐の立役者 襲津彦王は大和に凱旋し 摂津の国住吉郡桑津村に住まわれました。

その地に住吉神社を建てた後 葛城地方に移り長江に宮を建てて住まわれたので

長江襲津彦王と呼ばれました。

 

※摂津の国住吉郡桑津村は 今の大阪市東住吉区桑津で近鉄南大阪線北田辺駅とJR大和路線東部市場駅の間の地域です。

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三韓征服に成功した息長姫は 長門の国に住吉神社を津守連に建てさせました。

この神社の御祭神は後に摂津の国住吉郡の住吉神社に移されました。

その主祭神は 上筒の神、中筒の神、底筒の神の三神ですが 筒とはその形から

男神とされています。つまり息長姫とかかわりのあった御三方 つまりワカタラシ大王、中津彦、

襲津彦王の御三人と言われます。

現在の住吉大社には 本殿が一つ増えて四棟あります。息長姫の本殿が追加されたからです。

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息長姫は近江の国の息長家に帰られました。その後の和国は朝鮮からの年貢が入り 財政的に大いに

うるおい、それで巨大古墳が次々にできたといわれます。そのため和国では息長姫が大王とされたといいます。

しかし記紀では大君ではなくて摂政とされて、大王にはされていません。

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息長姫は古墳造りを始めます。

まずワカタラシ大王の陵を作りました。現在の奈良市山陵町です。早くして没したお方の霊を慰めました。

息長姫が皇后として権力をふるう基を作ってくれたお方です。

そしてその北にご自分の陵も作らせました。あの世でも添いたいと思われたのでしょうか。

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息長姫は三韓征服から帰国されて 出産されました。襲津彦王の皇子だと言われます。

一緒に暮らして、一緒に船で戦場へ行ったので おそらくそうでしょうね。

船で朝鮮へ三韓征服に出向いた時には お腹が大きかったといわれています。

ところがこの皇子「誉田別ホムタワケ」皇子は7歳で夭折されてしまいます。

これは大変なことです。

息長姫に後継ぎがなくなると 新羅をはじめ三韓は 年貢提出を渋るのに決まっています。

新羅王家の血筋が途絶えるからです。

当時和国にはすでに新羅の皇太子が 人質として滞在していました。 

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そこで息長姫は皇子の死を秘密にしました。そして当時息長家と付き合いのあった上毛野国造家の

竹葉瀬の君(たけはせのきみ)が同じ七歳であることを知り 秘密裏に彼を呼び寄せて息長家の養子にしました。

上毛野国造(かみつけのくにのみやつこ)家は宇佐豊玉姫の長男豊彦(ヤマトでは豊来入り彦と呼ばれ、

記紀では豊鍬入り彦と書かれた)の子孫です。

月読の神を祀る豊姫(ヤマトでは豊来入姫、記紀では豊鍬入り姫)の人気に危機感を持った

イクメ王が登美家の加茂田太彦に命じて 豊姫、豊彦、豊国軍を大和から追い出したので 豊国勢は関東へ逃げ

豊彦の子孫が下毛野国造家となっていたのです。

息長姫皇后は息長家で育ち成長した竹葉瀬の君をホムタ大王(のちの贈り名を応神)として即位させました。

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これに大いに喜んだのが宇佐家です。宇佐豊玉姫の長男の豊彦の子孫から 宇佐家で初めて大王が誕生したのです。

早速ホムタ大王のために本殿を追加しました。そして息長姫のためにも本殿を追加したのです。

息長姫は宇佐家とは縁がありませんが、息長姫のお陰で宇佐家から大王がでたのです。

それと息長家は 宇佐家と同じく月読の神を祀る家でもあったからです。

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ホムタ大王御陵や息長姫御陵には古墳の上に八幡宮が建てられたのはそういう意味だったのです。

現在はこれらの御陵の上から古墳のすぐそばに八幡宮は移されています。

記紀にはとてもこんなこと書くわけありませんが、ホムタ大王は第二のヒミコ、豊玉姫の直接の子孫なのです。

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現在の宇佐宮の配置図です。左上に本殿があります。

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中楼門の奥に本殿が三棟あり、左から一の御殿(ホムタ大王)、二の御殿は姫大神(もともと豊玉姫と先祖神が祀られていましたが

記紀が豊玉姫を完全無視しているので これに合わせるように現在は宗像三姉妹が祀られていますが宗像三姉妹と

宇佐家は関係ありません。宗像家は出雲王家第六代大名持の臣津野の皇子吾田片隅が宗像へ移住してた始めました。)、

三の御殿は息長姫(神宮皇后)が祀られています。

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南中楼門です。豊玉姫女王はこの門の前に豊国軍の兵士を集めて東征出陣式を行ったといわれます。

上の三枚の画像はいずれも宇佐宮HPよりお借りしました。

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上毛野国(かみつけのくに)にある赤城神社です。赤城山(黒檜山)のふもと、大沼のほとりにあります。

イクメ王や登美家の加茂田太彦に追われた豊彦たち豊国勢は この上毛野国に逃げて来てこの地の開発に

大いに貢献し、豊彦(豊来入り彦)はこの立派な神社の主祭神に祀られました。

この上毛野国造家の子孫の竹葉瀬の君が秘密裏に息長家の養子になり ホムタ大王となりました。

 

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次は第三のヒミコ サホ姫です。

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※歴史内容については すべて斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

雲州先生もご了解済みです。またすべての写真は私が自分で撮りました。

また宇佐宮の写真三枚は宇佐宮のホームページから借用いたしました。

 

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「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」トップページはこちらです。

http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第二のヒミコ 宇佐豊玉姫 その2

2021年04月21日 16時10分54秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

宇佐豊玉姫 その2

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しかしイニエ王も短命で 日向を離れることもなく 物部豊連合王国の首都西都原で亡くなります。

記紀ではイニエ王を大和の大王にでっち上げてますが イニエ王(のちの贈り名を崇神)は

一度も九州から出ていないのです。

のこされた豊玉姫は 連合王国の女王となり 第二次東征の決行を決意します。

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豊玉姫皇后は魏に数回使節を送り臣下の礼をとります。記紀編纂指示者はそれが気に入らないのか

豊玉姫を徹底的に無視します。

239年6月に魏へ出発した、物部十千根や田道間守の使節団は翌年初めに帰国します。

しかし魏の役人テイシュンがついてきました。皇帝からの詔書と金印は女王に直接手渡す

ことになっていたからです。

 

当時魏の役人は 伊都国までしか和国に入れませんでした。伊都国(今の福岡県糸島市付近)の迎賓館にテイシュンを待たせて

十千根は西都原へ引き返して 女王豊玉姫と皇太子イクメに伊都国へ赴くように伝えます。

豊玉姫は魏に対してヤマトの女王と言ってましたから 和国の女王との意味だったのでしょう。

自分が都万国の西都原にいることは伏せていて ヤマトから来たふりをしてテイシュンの待つ伊都国に

イクメとともに赴きます。

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姫巫女であり 女王でもある いわゆるヒミコこと豊玉姫皇后に テイシュンは伊都国で詔書と金印

、紫帯及び下賜品目録を直接手渡しました。

 

女王は正装の上に紫色の錦帯を肩から斜めにかけて 大いなる威厳を示したそうです。

田道間守と十千根も青錦帯を肩から掛けて参列しました。

下賜品には 五尺刀、高級織物とともに 銅鏡が100枚ありました。(三角縁神獣鏡ではありません)

女王は魏の皇帝に対する感謝の書状をテイシュンに持たせて魏に返しました。

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ヒミコこと豊玉姫はどんな衣装だったのか 気になります。

この復元想像図は「出雲弥生の森博物館」に展示されている女王のアクセサリーです。

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これは大阪府河南町「近つ明日香博物館」の復元想像の像です。

飛鳥時代の服装だったような気がしますが。

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これは奈良県桜井市埋蔵文化センターの巻向遺跡の貴婦人アクセサリーです。

巻向はモモソ姫ヒミコ時代の大集落で 登美家の地盤でした。最高権力者のヒミコはもっと

高貴な衣装だと思いますが、この復元想像の衣服は麻か綿のように見えてかなり質素です。

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243年にも女王は魏へ使節団を派遣しています。使節団長はイクメ王ですが 幼名のイサチのなまえで行っていて

記録にも「イセシ」と書かれています。王であるイクメの名前を隠したのでしょう。

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かつて東のヤマトと並び 和国の西の中心だった西都原の今の西都市の町並みです。

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都万神社です。都万国があった場所は現在は妻という字が当てられています。

都万神社の御祭神はイクメ大王の生母である 阿多津姫です。

阿多津姫は薩摩の豪族の娘で身分が低かったので 記紀はこの姫の素性をいろいろと細工したようです。

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イクメ大王が育ったあたりは 現在は「生目(いきめ)」という地名になっています。

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イクメ神社です。神社由緒書きには「御祭神は一説には イクメ入り彦イサチの命ともいわれている」

とあいまいな表現をしています。

当たり前ですよね。

記紀の出鱈目小説のなかで 九州を一度も出たことのない イニエ王(後の贈り名を崇神)は大和の大王にでっち上げており、

ということは当然その息子イクメ大王は大和で生まれたことになるので ヤマトからこんな離れた日向で

正式に祀られていたら絶対におかしいから。

本当のことを表記すれば 時の最高権力者、右大臣の不比等ににらまれまれるどころか死罪になりますからね。

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西都原古墳群にはたくさんの古墳があり じっくり見ていくと一日では回れません。

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中でも一番大きな古墳に目を付けて見に行くと なんと宮内庁の管理になっていました。

オサホ、メサホの墓と書いてあります。ウーム!  

私が思うに これはイニエ王と阿多津姫の墳墓ではないでしょうか。

ということは宮内庁は、イニエ王が大和に来ずにここで亡くなったことをちゃんと知っていると思いますね。

ヤマトから遠く離れた都万国のお墓を宮内庁が管理するのは異例で 不自然ですからね。

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さて宇佐神宮は八幡神社とも言います。なぜ幡(はた)が八本なのでしょうか。

 

東征軍は都万国を出発して周防灘で一時停泊しました。豊玉姫の実家の宇佐にしばらく滞在して

豊国の兵士を集めるためです。豊玉姫は駅館川(やっかんがわ)の川岸に行宮を建てて滞在しました。

そこは川岸だったので「足一つ上がりの宮」と呼ばれたそうです。

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田道間守が帯方郡で魏からもらってきた4本の黄色の錦の御幡が伊都国に安置されていたのを

田道間守の船が宇佐宮へ持ってきました。それと以前に魏からもらい受けていた黄色の錦の御幡4本と合わせて

八本の幡が神前に飾られて、東征軍総司令官の豊玉姫は兵士を集めて出陣式を行い 武運を祈りました。

 

八本の幡を飾り兵士を集めて出陣式を行ったことから 宇佐宮は八幡宮と呼ばれるようになったと言われます。

その八幡は軍旗であったので のちには八幡宮は武力の神とされるようになりました。

黄色は魏の皇室の色なので 黄色の幡を建てることはそこが魏の領地ということを示します。

その旗を先頭の軍船に飾り 兵士の士気を大いにかき立てたといわれます。

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246年に物部豊連合王国軍を率いて 豊玉姫皇后は瀬戸内へ出陣しました。

先頭は物部軍率いるイクメ王で、豊国軍を率いる女王豊玉姫と豊彦、豊姫が続きました。

豊国軍はまず安芸の国に上陸し埃宮(えのみや)を作りそこに留まり安芸の国の征服戦を始めた。

しかしそこで女王は病になり養生せざるを得なくなりました。

女王はイクメ王を東征軍総指揮官に指名して 先へ進ませました。

イクメ王は吉備王国を征服するために 吉備の高島に行宮を建て そこに留まり吉備の征服戦を続けたが

8年以上かかったという。

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一方 日本海を進んだ物部軍率いる曙立王(あけたつおう)と豊国軍を率いる宇佐家の菟上王は 

西出雲王家を責め立てて 多くの犠牲者を払い西出雲王家の神門臣家を降伏させさせました。

西出雲王家は東征軍の来襲に備えて 険しい堀や垣根を何重にも作り備えていましたが 物部軍と豊国軍は

その警備の手薄なところを まるで熟知しているかのように進軍してきたと言われます。

後で判明するのですが 徐福とともに渡来した徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)の子孫の矛卑家は

出雲に住んでいて出雲王国軍の警備を熟知しており 矛卑家の韓比佐と息子のウカツクヌが東征軍を

手引きして 西出雲王家の警備する裏側に導いたといわれます。

 

あわてた西出雲王国軍は 将軍の振根と多くの兵士を宮殿に残し、山崎帯(たらし)王たちは 久奈子(くなこ)の丘に避難しました。

激戦の末に 振根将軍は戦死し 西出雲王家の第十七代山崎帯大名持(主王)は降伏しました。

物部軍は 旧王宮を占拠し、久奈子の丘の新王宮で 西出雲王家と物部軍との間で降伏調印式が行われました。

久奈子の丘はそれ以後江戸時代まで「和はかりの宮」と呼ばれました。

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長い石段を上り詰めると 久奈子の丘の上には 今は久奈子神社があります。

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久奈子の丘はもともと正面やや右の雲に隠れた出雲北山の主峰 鼻高山(はなたかせん)を遥拝する霊畤でした。

久奈子とは出雲国教幸ノ神三神のクナト大神の皇子神サルタヒコのことで クナトの子です。

サルタヒコはドラビダ語でサルタつまり鼻が長い神で象神ガネーシャのことです。

鼻が高いサルタヒコは 鼻高山に祀られて ここクナコの丘 つまりサルタヒコの丘から鼻高山を遥拝したのです。

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また別動隊の田道間守率いる卑ボコ子孫勢軍が 東出雲王家を責め立てて 多くの戦死者をだして

田和山神殿を破壊しましたが イクメ王よりも先に大和入りする計画を持っていた 田道間守は

直ちに軍を引き返し ヤマトへ向かいました。

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田和山神殿跡です。向こうに宍道湖を見下ろします。柱列だけが復元されましたが

建物の形状は諸説ありということで建物の復元はされていません。

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一方 物部軍本体は苦労の末に吉備王国を降伏させて 物部十千根率いる別動隊が永江峠を越えて東出雲王国に

攻め込んできました。 能義郡伯太村で激戦の末東出雲王国軍を破り 東出雲王家の富家太田彦を降伏させました。

この時も矛卑家の韓比佐が十千根軍を手引きしたといわれています。

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我が国最初の王国の出雲王朝は 初代菅之八耳で始まり約700年続きましたが 第十七代大名持の山崎帯主王、

第十七代少彦(副王)富太田彦で終わりました。

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記紀ではこの征服戦争について 全く触れていません。「我が国最初の王朝、出雲王朝を秦国からの渡来人

徐福や矛卑、大勢の海童たちの子孫の物部王朝が殺し合いで倒し、征服して大和に物部王朝を打ち立てた」

なんて絶対に秘密なのです。そんな渡来人の征服王朝の言う事なんか 誰も聞かないから。

そこで記紀制作者たちは 妙案を思いつきました。

国つ神(大国主を代表とする もともと出雲にいた神々 )が 天津神ー天から降りてきた神々に

出雲の国を差し出して 譲ったというのです。国譲り神話です。これも矛卑家の悪知恵だといわれます。

 

調子に乗った記紀制作指示者たちは 国譲り神話の続編を思いつきました。

国譲りの申し出に来た天津神に 大国主の皇子の建御名方が 「俺と力比べをして勝てばこの国を譲る」

といったので 天津神の一人タケイカヅチが建御名方を投げ飛ばして勝ちました。

それで建御名方は逃げ回り ついに諏訪湖のほとりでつかまり「この地から一生出ませんから許してください」と言って

許されたことにして 建御名方を弱いもの、情けないものに 作り替えました。

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徐福に殺された古代出雲の八千矛王(大国主と書き換えられた)と八重波津身副王(事代主と書き換えられた)

の皇子たちは そのまま出雲王朝を守り続けますが 出雲に住み着いた秦国人たちとの共存を嫌った何人かの皇子たちは

大和へ移住して 賀茂家、登美家や高鴨家を作りました。

また夫の八重波津身(事代主) を殺されたお后の一人沼川姫は皇子の建御名方を連れて実家の越の国糸魚川へお帰りになりました。

建御名方は越の人や一緒に移住した出雲の人たちを引き連れて諏訪湖に移住して 開拓し信濃の開発に成功を収めます。

それで沼川姫とともに建御名方は 信濃の人々から絶大な尊敬を集めて 諏訪大社各社に祀られます。

 

自分たちの祖先の徐福が殺した事代主の息子が諏訪湖の開発に成功して土地の人々から絶大な尊敬をあつめているなんて。

記紀制作支持者たちは それが許せなかったのでしょう。それゆえあえてタケミナカタを弱いものに仕立てたのです。

スケールの小さなつまらんやつらですね、不比等らは。

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BC219年に始皇帝からたくさんの資金と海童たちをもらい 河北省秦皇島を出発して石見海岸の五十猛に上陸して

出雲王家の主王と副王を同時に殺しても 徐福は出雲の王にはなれませんでした。出雲王国の組織が硬くまとまって

いたのでしょう。

そこで徐福は いったん秦国に帰り始皇帝から更なる資金と海童たちをもらい不老不死の薬を探すふりをして

和国の王になるべくBC210年に今度は浙江省寧波(にんぽー)を出航し佐賀の浮杯に上陸しますが 今度も和国の王に

なれませんでした。

徐福の次男、穂穂出見が九州物部王家を作り 更にその約450年後にその子孫たちが出雲王国を倒して大和入りし、 

やっとイクメ大王が 徐福由来の物部王朝を作ったのです。

 

そんな苦労した二度にわたる九州からの東征を「神武東征」として一度にまとめて しかも輝かしく見せるために 

出雲の国譲り神話をでっちあげたり、信濃で絶大な尊敬を集める建御名方を ことさら弱弱しくつまらん奴に

しなくてはならなかったのです。

 

記紀制作時には イクメ王に出雲国造にしてもらっていた 矛卑家の果安のつまらん提案や悪知恵もあったでしょうが

それを聞き入れて採用した 持統も不比等も度量の小さいやつですね。

 

※矛卑家の子孫が今の出雲大社宮司の家系で、不比等の子孫の藤原家はその後天皇制を食い物にして千年以上も

徹底的に私腹を肥やし続けてきました。昭和天皇に 足を組んで偉そうに戦況報告をしたという 有名なあのお方も

藤原家の末裔のお方です。

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糸魚川市の沼川神社拝殿内部です。郷土の英雄である沼川姫の字をあろうことか卑字で書いています。

こんなバカげたことは止めて ちゃんとした字で書いてあげましょう。

沼川姫も悲しんでいらっしゃいます。

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諏訪湖の中にたたずみ諏訪の街を見守る沼川姫です。

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諏訪大社秋宮御柱です。諏訪大社は 春宮秋宮上社下社とたくさんあります。

御祭神はもちろんみな 沼川姫と建御名方です。

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豊玉姫 その3へ続く

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第二のヒミコ 宇佐豊玉姫 その1

2021年04月15日 23時05分50秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて

宇佐豊玉姫 その1

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支那の歴史書に登場する第二のヒミコは 宇佐王家の豊玉姫です。このお方こそ正真正銘の

「ヒミコ」なのです。しかも支那人から 直接「親魏和王」の認定を受けたお方です。

しかも支那人が直接声をかけて 肩に錦のタスキを掛けた和国の女王なのです。

記紀はこのお方を 完全に無視しています。

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完全に無視する理由はあります。

一つは 和国が当時支那(魏)の属国だったことを潔しとしないことがあるでしょう。

もう一つのほうが大きな理由だと思いますが、記紀では神武が東征して大和入りして以来

大王家は連綿と続く万世一系としていることが 作り事だとバレてしまうからです。

 

九州物部王家と豊王家が連合し、物部豊連合王国が第二次東征してイクメ王が ヤマトの大王になり 

それまで約300年続いた磯城王朝が滅んだこと。

磯城王朝第11代大王彦道主大王が イクメ王に降伏し娘のヒバス姫をイクメ王に差し出して 

名前を彦タツヒコと 変えて稲葉国造になったことは絶対に秘密なのです。

 

第二次東征という戦争により、たくさんの血を流した結果 磯城王朝が倒れて、九州物部王家による

物部王朝が始まったことなど、隠さなくては 「万世一系」が崩れてしまうのです。

流血による政権交代など、記紀の制作を指示した持統女帝にとって 最も忌み嫌う事なのです。

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記紀では九州物部王家の 80年ほど離れた前後二度にわたる東征を一つにまとめて書いています。

第一次東征は 165年頃 九州物部王家の彦渚武王の皇子たち三人による東征です。

物部五瀬を総指揮官として 紀ノ川から大和入りしようとしましたが 高倉下の子孫の名草の戸畔(とべ)

による迎撃で 五瀬は戦死します。

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物部五瀬が祀られている竈山神社です。この神社の横に五瀬の御陵があります。

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残った物部稲飯と三毛入りの兄弟は紀ノ川河口から南下して熊野川河口に着きます。

しかしそこでも磯城王朝の兵士たちにゲリラ戦で苦しめられて前に進めず 秘密裏に協力を求めた大和の

登美家当主加茂建津之身の案内で磐余の地に入り 一応は目的を果たしたかに見えましたが

結果的には失敗と言われます。

 

宗教的な式祭を取り行う姫巫女をもたない物部王家は 太陽の女神を崇拝し祭祀する姫巫女を擁する登美家に

取り込まれてしまいます。武力だけでは民衆の支持を得られなかったのです。

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230年頃に九州物部王家は 再び東征を実施します。これが第二次東征です。

イニエ王は南下して各地で兵力を集めながら 南下します。そして南薩摩の阿多(南さつま市)で

地元の豪族(竹屋の守)の美して姫と出会います。それが阿多津姫です。

イニエ王は その姫を娶り、姫とともに薩摩から日向へまわり そこで一時落ち着きます。

その姫は イニエ王の皇子を生みます。

 

阿多津姫は記紀では この花咲くや姫と名前を書き換えられます。また父親の竹屋の守は

神話の中の神 大山津身ノ神に替えられました。

阿多津姫が生んだその皇子がイクメ皇子です。後に東征で大和の大王となられたイクメ大王

(のちの贈り名を垂仁)です。

各地の神職の祝詞に出てくる「日向の橘の小戸で禊給いし」 といわれたのがこのイクメ王です。

阿多津姫は短命で日向の地でなくなります。

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イクメ皇子が産湯をつかったといわれる橘の小戸に建てられた小戸神社です。

阿多津姫が祀られています。この神社はもともと海岸にあったそうですが嵐で流されたのでここに

移転されたそうです。

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鹿児島神宮にも阿多津姫が祀られています。阿多津姫の出身地ですね。

ご丁寧に 九州物部家の始祖で 徐福と市杵嶋姫との皇子(長男の五十猛の腹違いの弟)の穂穂出見も祀られています。

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イニエ王は宇佐王家から豊玉姫を皇后として迎え入れ、ここに物部、豊連合王国が出来上がります。

宇佐家は代々月読の神をまつる家柄でした。

物部の武力と 豊玉姫の月読の神を祀る宗教性で大和を征服しようとしたのです。

豊玉姫は豊彦と豊姫を御生みになります。のちに豊来入り彦、豊来入姫と呼ばれるお二人です。

イニエ王は西都原に都を作り ヤマトに新しい政権を打ち立てると宣言し 各地から豪族を集めます。

日向の都万国の都西都原は続々と各地の豪族たちが集まり大いに栄えます。

第一次東征で大和へ行った物部の子孫の 物部十千根もそのひとりです。

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イニエ王の重鎮に物部彦布都押(ひこふつおし)がいました。彼は紀国国造家の山下影姫を娶り

物部武内彦をもうけます。物部武内彦は若くして才能にあふれ イニエ王から可愛がられて物部の重鎮の

称号である宿祢の称号をもらい 物部宿祢武内彦と呼ばれます。しかしその才能が豊玉姫に恐れられて

豊玉姫皇后の息子、豊彦より偉くならないように 豊玉姫に意地悪されるのです。

武内彦が魏へ使節として行った時 十千根や田道間守やイクメ王のような魏の官位「中朗将」がもらえませんでした。

豊玉姫が 魏への親書に 使節団のメンバーに官位を与えてくれるように いつもはお願いするのですが

武内彦の使節には 何もお願いしなかったのです。

 

魏へ行っても何も官位がもらえなかったことに武内彦は非常に絶望し 然りがこみ上げてきました。

十千根や田道間守よりも自分のほうが 血筋がいいとおもっていたからです。

それで武内彦は 失意のうちに東征軍を離れて磯城王朝側へ寝返ります。

しかし イクメ王との戦に敗れて彦道主大王とともに稲葉に逃れます。

しかしイクメ大王の放った刺客から逃れて出雲へ行き、出雲王家に匿われて東出雲王家領地の意宇の森

で生涯を終えます。

 

武内彦は出雲王家の姫を娶り出雲王家の称号「臣」を名乗り 武内臣太田根と名乗ります。

出雲王家が 武内彦を匿まって生かしたことで 武内臣太田根の子孫から日向襲津彦(長江襲津彦)

はじめ平群王朝の大王が排出され 古代史に大きな役割を果たします。 

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武内彦が住んだ意宇の森の阿太加夜神社境内です。

古代出雲の信仰は幸ノ神三神でしたが、それとともに竜蛇神も信仰されました。

境内には古代出雲の伝統の大きな竜が ご神木に巻き付いています。

武内の臣太田根が住んだ意宇の森には、日本書紀を書き終えた太安万侶も 口封じのため 不比等に幽閉されて生涯を終えます。

 

太安万侶は 幸運(?)にもご先祖の地 東出雲王家の向家の領地に幽閉されます。

太安万侶は 幽閉されながらも 秘密裏に東出雲王家の向井家と連絡を取り「自分は出雲王家の血を引く 

多臣家(おおのおみけーヤマト磯城王朝二代目沼川耳の皇子で三代目大王の玉手看の兄である八井耳が始祖)

の末裔で 山部赤人の名前で 幽閉されながら記紀を書かされた」と言ったと出雲王家に伝わります。

そして「古代出雲王十七代の王の名前を古事記に書き入れた」と伝え、それに対して向家は出雲王家を代表して

お礼を述べたと伝わっているそうです。 太安万侶が幽閉されて 余生を送った場所は 島根県松江市の

「意宇の森(おうのもり)」で阿太加夜神社 (あだかやじんじゃ)が建てられています。

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武内臣太田根は ここ雲南市神原に葬られました。今は神原神社が建てられています。

この古墳を作ったのは 武内宿禰の腹違いの弟 ウマシウチの宿禰です。


彼は山代の国加茂付近にいたが、武内宿禰が出雲王家に助けられて 意宇の森に住んだのを知り、

山城の国加茂町から沢山の人を引き連れて移住して来ました。

そのためこの付近も 加茂町と名が付いた。彼は出雲王家の姫と結婚し 臣の称号をもらい

 
額田部の臣と名乗り その子孫たちも この地に住み続けた。

彼が兄の古墳をこの地に 方墳の形で作ったという。

この古墳からは銅剣や 三角縁神獣鏡などが発掘されています。この鏡は彼が帯方郡から連れ帰った鏡つくり職人

たちが作ったものと言われています。

※三角縁神獣鏡は和国製で奈良県田原本町に住んだ鏡造り職人たちにより作られました。

詳しくはこのブログの2015年12月26日の記事をご参照ください。

なお三角縁神獣鏡は支那大陸では一枚も発見されていません。

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豊玉姫 その2へ続く

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※歴史内容については すべて斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

雲州先生もご了解済みです。またすべての写真は私が自分で撮りました。

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「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」トップページはこちらから戻れます。

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第一のヒミコ モモソ姫 その3

2021年04月07日 12時22分14秒 | 古代史の舞台を訪ねて

モモソ姫 その3 

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大彦は銅鐸を飾り、農業神を祀ることを続けましたが 次第に物部勢に押されて ついに大和を出て

三島に退去します。三島は出雲王家第八代副王八重波津身(記紀では事代主と書かれた)の后の一人

玉櫛姫(別名活玉依姫)の出身家の三島家の領地でしたが 出雲王家の領地になっていて、

このころは登美家の領地になっていました。

三島にいたころに大彦は密かに出雲王家に来て 援軍を頼んだそうですが 出雲王家は

九州物部家が再度東征するという噂があり そのために兵力を避けない」と断ったそうです。

そして以後は富家の名前を使わないように申し入れたので、大彦は以後摂津国三島郡の阿武山に

ちなんで 「阿部」氏と名乗ることを富家に約束したという。

大彦は出雲王家の血を引いていることを誇りにしていて 一時は富彦と名乗ったこともあり、大彦の皇子は

事代主の后の一人沼川姫の名前を取り「沼川分け」と名乗りました。

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阿武山です。昔の摂津国三島郡の阿武山は 現在は高槻市になります。

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次第に強力になった物部軍は 幾度も大彦を攻めて、大彦はついに北へ向かって退却します。

大彦は野洲から北陸を通り 信濃へ行き更級郡布施に住みその地で亡くなり、邸宅跡には布施神社が建てられました。

布施神社は大彦と天の冬衣(古代出雲王朝第七代主王で事代主の父君ー出身は東王家の富家)が主祭神です。

また沼川分けは東海方面から伊豆に移り住みその地に 「三島」の地名が出来ました。

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負ければ賊軍となり、大彦達は蝦夷と呼ばれたり、葛城地方の曾大根(現大和高田市)で育ったので

幼名を中曽大根彦(なかそおねひこ)と名乗りましたので 記紀では「長脛彦(ながすねひこ)」と書かれて 

しかも数百年前の架空の大王の神武東征時の敵にされたり 無茶苦茶な扱いです。

大彦たちは 出雲国教の幸ノ神三神を信仰していたので その主神クナト大神の名前から自分たちの国は

「クナトの国」といったので 「クナ国」と呼ばれました。 

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話はヒミコに戻ります。

物部に抵抗し続けた大彦勢が大和から去り、クニクル大王の次に物部の血を引く大日々が大王となります。

大日々(のちの贈り名は開化)は物部の血を引くので 物部勢と妥協して添上郡春日(奈良市白毫寺町付近)

に宮殿を作り政治を行いました。

 

母クニアレ姫の跡を継ぎ 三輪山の太陽の女神を祀る姫巫女となったモモソ姫は 登美家勢力に守られて

司祭を続けました。モモソ姫の人気は次第に高まり、モモソ姫が司祭する春と秋の大祭には 

大日々大王をはじめとして大和中の豪族が参列し、遠方からも泊りがけでたくさんの地方の豪族が参列しました。

こうした政治方式が磯城王朝時代のヤマト王国の政治方式で祭政一致とよばれます。

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神武天皇像です。大台ケ原の山中に立っています。神武東征はこの地を通ったそうです。

地理を熟知していた八咫烏こと 登美家当主加茂建津之身は わざわざ大台ケ原の山中を通らずとも

熊野川沿いに北上して、伯母峰峠を越えて吉野川沿いに下り 磐余の地に入ったと私は思いますが。

まあ困難多くして大和入りしたと 言いたいのでしょう。

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磐余の地名は 今も桜井市に残っています。

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磐余の道もあります。

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「磐余の道」にはこんなレトロな雰囲気の場所もあります。

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大祭の前後の期間には 三輪山麓の扇状地(現桜井市太田)の巻向にはたくさんの宿舎が建てられて

遠方から来た各地の豪族が寝泊まりしました。その地はそれ以前から ヤマトの大豪族登美家の領地であり、

姫巫女の住む場所とされていて ヒミコの宮殿も建てられていました。

登美家第九代当主の太田田根子は出雲王家神門臣家から美気姫を奥方に迎え、登美家クニアレ姫の

愛娘のモモソ姫を支え続けました。太田の地名は太田田根子からきています。

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今の巻向駅周辺です。

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各地の豪族たちは自分たちの地元の土器に土産物を入れて持参し、巻向の神殿に捧げました。

神殿では 物部式と出雲式の折衷的な祭りが行われました。

榊を根から抜き取って 枝に鏡(物部式の神獣鏡)をぶら下げましたが 光る面を参加者に向けて

太陽の女神(出雲式の日霊女貴ーひるめむち)のご神体とされました。出雲国教の幸ノ神では

男神として根の付いた木を用い、根は男性器のシンボルでした。鏡の丸い形は女性器のシンボルであり、

女神のシンボルでした。

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「一人の女を選んで女王としヒミコと名付けた。神霊に通じた巫女で神託により国を治め人々を心服させた。

弟がいて 祭りごとを補佐した。」と魏書に書かれましたが 弟ではなく、登美家当主の太田田根子

のことです。

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当時は魏の駐在武官は九州の伊都国までしか入れず、和国の国情は通訳を通じてすべて聞かされたことを

記録したもので 駐在武官が直接会ったのは 二番目のヒミコ 宇佐豊玉姫だけです。

親魏和王とされたのは 二番目のヒミコの豊玉姫でモモソ姫ではありません。

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三輪山です。隣の大鳥居は大神神社の大鳥居です。

今はJR三輪駅周辺ですが 昔はこの辺りも巻向だったのでしょう。弧文板や弧帯石がこのあたりから

出土しています。(桜井市埋蔵文化センター資料)

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桜井市箸中の畑の中の畦道を歩いていくと 鳥居が建っています。
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宮内庁の立て札があり、それを読むと思わず噴出しました。

「大和トトビモモソ姫」の墓だと書いてある。なんのこっちゃ??。


しかもこのわけの分からん姫君は、磯城王朝第七代フトニ(考霊)大王の皇女だと書いてある。

大和姫とモモソ姫という 全く時代の違う二人の皇女姫巫女を並べてくっつけて書いてあるのです。

つまりこの墓が大和姫の墓なのか、モモソ姫の墓なのか分からないと宮内庁は公にしているのです。

 

今まで述べてきたように モモソ姫は磯城王朝第八代大王のクニクル(孝元)と登美家クニアレ姫との皇女であり

大和姫は初代物部王朝大王イクメ(垂仁)と磯城王朝最後の大王第十一代大王彦道主の皇女ヒバス姫との

皇女であり 約100年ほど離れてはいますが 二人とも父親が大王の れっきとした皇女です。

このお粗末な宮内庁の歴史観は なんとかしないといけませんね。

二人の姫にも失礼だし、二人の父親の大王にも失礼でしょう。

 

おまけに 宮内庁は 大和姫の漢字に 卑字を当てています。

宮内庁が れっきとした大王(後の天皇)の皇女に 卑字を使うなんて 信じられませんよね。

いまだに支那人たちが日本人を蔑んだ蔑字をありがたがっているようでは話になりません。

 

宮内庁の人たちも もっと日本の歴史を勉強して 日本人に誇りをもたなくちゃあ。

もう今は日本は支那の属国ではありません。イクメ大王が支那と連絡を絶ち和国が支那を離れて

もう1700年になろうとしているのに 宮内庁はいまだに大王家の姫に卑字を使い続けているなんて、

不謹慎ですよね。ある意味馬鹿ですけど。 
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以上が 一番目のヒミコ モモソ姫が登場した時代背景と 当時の状況です。

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次は第二のヒミコ 宇佐豊玉姫です。

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※歴史内容については すべて斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

雲州先生もご了解済みです。またすべての写真は私が自分で撮りました。

またウワナリ打ち神事の絵は 雲州先生の本から引用しました。

また地図はMapionから引用しました。

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いわゆるヒミコについてのまとめ 第一のヒミコ モモソ姫 その2

2021年04月03日 23時02分32秒 | 古代史の舞台を訪ねて

モモソ姫 その2

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親戚である出雲王家が 突然卑ボコ子孫勢に吉備、播磨を占領され、出雲王家の救援要請に

動かなかったくせに、フトニ大王は今度は突然吉備播磨に攻め入り、卑ボコ子孫勢を追い出して 

自分がその後釜に座りました。フトニ大王は それほど吉備の鉄が欲しかったのでしょうか。

それとも物部の東征情報を聞いて ヤマトから逃げ出したのでしょうか。

多分後者だと思われますが。

鉄が欲しいだけでは 大王自ら出陣しないとおもいますが。

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「真がね吹く」が吉備の枕詞になったのはそこで良質の鉄が取れて 盛んに野踏鞴(のだたら)で鉄が生産されたからです。

ちなみに「かね」とは出雲族の祖先ドラビダ族の言葉のドラビダ語で鉄を現し、「たたら」

とはドラビダ語で激しく燃える炎を現すそうです。また出雲国教幸ノ神三神のうち 皇子神の

サルタ彦大神のサルタとはドラビダ語で「鼻が長い、鼻が大きい」意味で つまりインドの

象神「ガネーシャ」のことです。

時代が下ると猿田彦と表現されますが 猿の神ではありません。

また鼻が大きいので 男性器の象徴とされ、子孫繁栄の生殖の神とされました。

建御名方(古代出雲王朝第八代副王八重波津身ー記紀では事代主と変えられたーと沼川姫との皇子)

が開拓した信濃諏訪地方では サルタヒコは子孫繁栄の生殖の神、夫婦和合の神とされ 今も道祖神として 

たくさん残っています。

※「諏訪地方を開拓した出雲族」については このブログの2019年12月21日の記事をご覧ください。

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信州白馬村の田頭という場所の手握り夫婦神像です。
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こちらは出雲王朝第六代大名持の臣津野を祀る、出雲市長浜神社の幸ノ神三つ鳥居の手握り夫婦神像です。

上の白馬村の手握り夫婦神像とそっくりですね。
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こちらは白馬村佐野中村という場所の祝言夫婦像です。
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こちらが 白馬村の道祖神です。
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石像は手を取り合っているように見えます。つまり手握り夫婦神像です。
それと直立した男根をもつ木の像がいくつか 奉納されていました。
これはまさしく猿田彦ですね。
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ということで 信濃の国には出雲族の風習文化が 色濃く残っていることを説明しました。

そのほかにも御柱の共通点とか、詳しくはこのブログの2019年12月21日の記事をご覧ください。
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そのころ九州物部王家は物部五瀬(いつせ)を大将として 第一次東征を決行し 紀ノ川河口から大和入り

しようとしますが 高倉下(たかくらじー徐福の長男五十猛と出雲王家大屋姫との皇子で初代ヤマト大王天の村雲の

腹違いの弟、)の子孫の豪族 名草の戸畔(なぐさのとべ)に撃退されて五瀬は戦死します。

 

五瀬の弟の物部稲飯、三毛入りたちは 熊野へ転進し 熊野川沿いに大和入りしようとしますが

磯城家の兵隊のゲリラ戦法で身動きが取れず 物部の大軍は熊野川の中州に留まり続けます。

その地が後に 熊野本宮大社になります。(今の場所ではなくて 明治の大水害で流された大斎原(おおゆのはら)です)

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竈山神社   五瀬は和歌山の竈山神社に祀られて その訪問記は2015年9月8日に載せています。

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大斎原 熊野川河口近くにあり かつてこの地に熊野本宮大社がありましたが

明治の大洪水で流失し、今は鳥居だけが建てられています。

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困り果てた稲飯と三毛入りは ひそかに登美家へ使者を送り大和へ 物部軍をひそかに案内してくれるように頼みます。

登美家当主の賀茂建津之身(かもたてつのみ)は戦乱の続く大和を物部とともに平定しようと考えて 物部軍を案内して

熊野川沿いに北上、磐余(いわれ)の地(登美家の領地)に案内します。これが第一次東征で 物部軍は加茂建津之身に大いに

感謝して彼を「八咫烏(やたがらすー支那の神話に出てくる太陽の中に住むカラス)」と呼び 各地に八咫烏神社を建てます。

※記紀の制作者は三毛入りと稲飯のどちらが物部軍の大将か分からないので 物部ウマシマジなる人物を作り上げて

そいつを磐余彦と名付けました。そして初代大和の大王「天の村雲」を消してその磐余彦と名付けられた

物部ウマシマジを初代大和の大王、神武大王としました。

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浜王子神社 説明看板を読むと 物部三毛入りと稲飯の二人を祀っています。

記紀では絶対に出てこない名前の二人です。

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八咫烏神社 奈良県宇陀市榛原

登美家当主 加茂建津之身に感謝した物部軍は各地に八咫烏神社を建てました。

これはその一つです。

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ヤタガラス神社の由緒書きです。


熊野に上陸した九州物部軍を磐余の地へ導いた、加茂建津之身(賀茂建角身)を祀っているとかかれています。


そして賀茂建角身は山代の加茂族の祖と書いてある。かなり正確です。

まあ記紀に迎合したところは 少しあるが、神社の由緒書きの中ではかなり上出来のほうです。
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記紀制作者たちにとり、困ったことに古代出雲王朝の存在を「なかったことに」しなくては 大王家が

万世一系の王朝とはならないのです。

記紀編纂者は不比等の指示で 前後100年近く離れた2回にわたる物部の東征を一つにまとめて神武東征

としました。そしてその東征を古代出雲王朝の最初の紀元前5世紀までさかのぼらせたので 数百年も

歴史が引き延ばされました。そのために 大王の在位期間が200年近い人が何人も出てきました。

そして足りない大王を補うために 九州を一度も出たことのないイニエ王(第二次東征を始めた九州物部の王)を

大和の大王にしてしまい ご丁寧にのちに贈り名を崇神とつけてしまい、ついでに嘘の上塗りで ヤマトにたくさんある

登美家の墓の一つを崇神陵としてしまいました。

また三韓征伐で有名な息長帯比売(神功皇后)の家来の豊前中津彦を 大王に格上げして大王を増やしました。

後の贈り名は仲哀です。そうしないとつじつまがあわないからです。一度嘘をつき始めると 嘘を嘘で上塗りしないと

自分で自分の首を絞めることになるのです。宮内庁の存在も記紀の内容そのものに 基づいているので

そうしないといけないのです。

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しかし三韓征伐の第一の立役者の日向襲津彦大王を記紀では大王にしていません。大王が足りないのに。

記紀では 魏書を読んだ和国民に 息長帯比売ー神功皇后を「ひみこ」と思わせるために 立役者の

襲津彦大王の存在を消して 息長姫が一人で活躍したように見せかけたのかもしれません。

私個人の考えですが。不比等のような陰険なやつは何を考えていたか分かりませんが。

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伯耆の国で出雲王国軍と戦争をしていた磯城王朝のフトニ大王はこの時点で ヤマトの大王ではなくなり

伯耆の国の王となりました。フトニ王軍と出雲王国軍とは自然に休戦状態になり、フトニ王は

皇后の細(くわし)姫を追い出して 地元の愛人と余生を送ります。

彼が住んだ土地の山は のちに彼の贈り名をとり 孝霊山と名付けられました。

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孝霊山山頂から弓ヶ浜半島の先に美保関がみえます。事代主の后の一人沼川姫が住まれたところです。

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高杉神社の「ウワナリ打ち神事」斉木雲州先生の「古事記の編集室より」

フトニ王亡き後このあたりで大飢饉が発生したそうです。人々はこれはてっきり フトニ王が

地元の愛人におぼれて追い出した本妻の細姫(くわしひめ)の祟りだと言って、付近に住む後家さんたちを集めて

棒で叩いて 細姫の恨みを晴らしたところ 飢饉は収まったそうで 以後毎年これを高杉神社の神事として

行うようになったということだそうです。「ウワナリ」とはこの地方で 後妻さんという意味だそうです。

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※孝霊山登山記録はホームページの「その他の山」からはいり「アウトドア日記」の2016年

11月22日の記録に載せています。

愛人と住んだその住居跡に建てられたのが 高杉神社です。2016年11月22日の記事に載せています。

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磐余の地に落ち着いた物部は態度を豹変させて 登美家や尾張家を迫害し始めます。

さすが秦国人徐福の血を引く 恩知らずの集団ですね。

伯耆の国へ去ったフトニ大王(のちの贈り名は孝霊)には 細姫以外に別の姫との間にクニクル皇子がいて 

クニクルが磯城王朝の第八代大王になります。

クニクル(のちの贈り名は孝元)は登美家のクニアレ姫との間に 大彦皇子、モモソ姫をもうけ、

物部の姫(ウツシコメ姫)をも迎え入れて その姫との間には 大日々皇子がいました。

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クニアレ姫は登美山の登美の霊畤で太陽の女神を祀る姫巫女でした。その娘のモモソ姫も信仰心厚く

クニアレ姫に続いて登美の霊畤の姫巫女に推挙されます。姫巫女は登美家か磯城家の姫しかなれませんでした。

モモソ姫の兄の大彦は 徹底した物部嫌いで 最後まで物部と戦い続けました。

戦闘の神「フツの御霊」を祀る物部と 銅鐸を吊り 農耕神を祀る大王家や尾張家との宗教戦争でした。

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モモソ姫 その3へ続く

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※歴史内容については すべて斉木雲州先生はじめ 大元出版のすべての本を参考にしました。

雲州先生もご了解済みです。またすべての写真は私が自分で撮りました。

またウワナリ打ち神事の絵は 雲秀先生の本から引用しました。

また地図はMapionから引用しました。

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「古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて」のトップページはこちらです。

http://yochanh.sakura.ne.jp/kodaiizumo/index.html

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