古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねて

紀元前4世紀から十七代続いた古代出雲王朝ゆかりの地や神話を尋ねます。

諏訪湖地方を開発した出雲族  その1

2019年12月21日 23時45分35秒 | 古代出雲王朝ゆかりの地を訪ねて
このブログにコメントを頂いた方のご両親と祖父が信州諏訪のご出身と書いてありました。

諏訪といえば 出雲王家の建御名方(たてみなかた)が開拓したことで知られています。

その辺のことをもう少し詳しく述べてみたいと思います。
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諏訪湖地方を開発した出雲族  その1
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徐福の渡来と秦国人による 出雲王国の主王、副王の殺害
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紀元前三世紀末、徐福は大勢の海童たちを引き連れて 最初島根県の太田市五十猛海岸に上陸し 和名を「火明かり(ほあかり)」
と名乗ります。事前に忠実な部下の「矛卑ホヒ」を出雲王朝に使わして 上陸の許可を取り付けるという周到な悪巧みをしてからです。

ちなみにホヒの子孫が今の出雲大社宮司です。上陸した徐福は出雲に住み、出雲王家の高照姫を娶り 長男が生まれ 五十猛(いそたけ)」
と名付けます。徐福の父の名が徐猛と言ったので 「猛」を付けたのでしょう。

自分が出雲王国の王 つまり和国の王となるつもりでやってきた徐福は 当時の出雲王国の主王と副王を亡き者にします。

当時の出雲の 主王八千矛(役職名は大名持で 記紀では大国主とか大黒とか大名持、大汝と書かれた)と副王の八重波津身
(役職名は少彦で記紀では事代主とか少名彦名と書かれた)をホヒや海童たちに命じて誘拐幽閉して殺害し
自分が出雲の王になろうとしますが 王国の組織がしっかりとしていて それが果たせずに いったん秦国へ帰国します。
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五十猛海岸の地図です。
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付近の地名には 駅名をはじめ小学校、交差点など多くの五十猛があります。
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五十猛海岸の神島です。
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神島の説明看板です。
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※徐福が上陸した石見五十猛海岸訪問記事は 2014年4月24日の記事に載せています。
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猪目洞窟の地図です。ちなみに 園の長浜とは 記紀の作り話で大国主が小舟をひっくり返してその中に隠れてしまったという砂浜です。
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猪目洞窟です。説明看板には あの世の世界「黄泉の国」への入り口だと書かれていました。
ほんとのことを書くと 出雲大社の宮司が困りますからねえ。
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粟島の地図です。八重波津身(事代主)は美保関の沼川姫の御屋敷にいたところを矛卑たちに誘い出されて、
つまり大名持が行方不明だから すぐ来てくれと 誘い出され 王の海(今の中海)を西へ向かったまま 
行方不明になったと 向家に伝わっているそうです。
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志都の岩屋洞窟の前には鳥居が建っています。今も聖地なのです。
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大汝(おおなんじ)とは出雲王朝主王の役職名大名持のことです。少彦名(すくなひこな)とは副王の役職名少彦で
記紀では 意図的に間違え表記しています。

万葉集の時代までは 大国主(第八代の八千矛王)と事代主(第八代の八重波津身副王)が洞窟に幽閉されて殺されたことを
人々は知っていたのですね。奈良時代の都の貴族豪族の大半は出雲族でしたから、あたりまえですけどね。
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※大名持が幽閉殺害された猪目洞窟と少彦が幽閉殺害された志津の岩屋の訪問記事はこのブログの2013年3月18日の記事です。
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出雲王国の皇子たちの大和への移住
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徐福、その部下穂日、穂日の息子夷鳥(ひなどり)や海童たちに幽閉殺害された
八重波津身副王(記紀では事代主と書換えられました)の后の一人活玉依り姫(いくたまよりひめ)は皇子の奇日方(くしひかた)
を連れて実家の三島(今の大阪府三島郡島本町)に帰ります。

そして奇日方は三島の人たちや大勢の出雲族とともに葛城地方(今の奈良県葛城氏、御所市)に移住し登美家を名乗ります。

そして 同じく徐福や穂日らに幽閉殺害された 八千矛王(記紀では大国主と書換えられました)の皇子 
味鋤高彦(あじすきたかひこ)も大勢の出雲族を引き連れて葛城南部に移住し 高鴨家を名乗ります。

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出雲王国内で暴れまわる海童たち秦国人たちとの共存を嫌い、葛城地方(今の金剛山、大和葛城山の山塊の東側)に
移住した 出雲王家の皇子たちの勢力図です。

しかし徐福の息子の五十猛も丹波地方に移住して 「香語山」と名乗ります。そして香語山は 父徐福と九州宗像家の市杵嶋姫との
間に生まれた穂屋姫(つまり香語山の母違いの妹)と結婚します。

そして香語山と穂屋姫との間の長男が「天の村雲」で 出雲王家に遅れて大和葛城地方へ乗り込んできました。

大和入りした徐福の孫の天の村雲たち秦国からの渡来グループはヤマトで強大な勢力となります。
紀元前2世紀の当時では 数千人規模の海童たちは すごい数の勢力なのです。

そこで 出雲王族の二人、味鋤高彦と奇日方は ともに天の村雲が初代大和大王になるのを助けて支持します。

初代大和大王(おおきみと呼ばれていました。天皇と呼ばれたのは天武から後のことです。)の皇后となったのが
奇日方の妹「踏鞴五十鈴姫(たたらいすずひめ)」です。そして生まれたのが皇子の「沼川耳(ぬなかわみみ)」
で二代目大和大王となります。

※ 記紀は天の村雲の名前を消して「神武」という架空の名を作りますが 二代目の沼川耳、三代目の玉手看(たまてみ)などは
そのまま記紀に名前が書かれています。しかしイクメ大王(垂仁)前後からは記紀の大王名はむちゃくちゃになります。
このブログの記事でも詳しく取り上げて訪ねています。

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天の村雲達が建てた 葛城坐火雷神社(かつらぎにいますひといかづちじんじゃ)通称笛吹神社です。
火と雷とは製鉄法の踏鞴(たたら)のことです。

海童たち秦国人の子孫は故郷を偲び 陶塤(とうけん)と呼ばれる土笛を吹いていました。
それで笛吹神社とも呼ばれるのです。

陶塤はオカリナの仲間の楽器で掌で握る卵形の楽器で 七つの穴が開いている土笛です。
海童の子孫のハタ族と呼ばれる秦国人の子孫たちが住んだ地域から たくさん発掘されています。

松江市の西川津や古浦砂丘の遺跡から多数発掘されていて ハタ族の住んだ長門地方、また徐福の長男香語山
(五十猛)が移住した丹後半島、などでも多数出土しています。
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鴨都波神社は東出雲王家の向家の皇子奇日方(くしひかた)が中心になり移住開拓し、高鴨神社や一言主神社を建てました。
主祭神はもちろん事代主です。彼らは後に登美家と名乗るようになります。
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高鴨神社は西出雲王家の神門臣家の味鋤高彦(あじすきたかひこ)を中心として出雲族が移住開拓して
高鴨神社を建てました。

祭神はもちろん父親の八千矛王のはずですが なぜか事代主です。それと下照姫です。
下照姫は父八千矛王と八神姫との姫皇女で味鋤高彦の母違いの妹です。

彼らは高鴨家とか賀茂家と名乗ります。ちなみに古代出雲では 神のことを「かも」と発音し
後に鴨の字があてられました。
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※大和葛城地方へ移住開拓した出雲族の足跡を訪ねる記事は 2013年2月13日に載せています。
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諏訪湖地方を開発した出雲族  その2へ続く
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諏訪湖地方を開発した出雲族  その2

2019年12月21日 23時45分17秒 | 古代史の舞台を訪ねて
諏訪湖地方を開発した出雲族  その2
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美保神社と御穂須須美(みほすすみ)
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一方事代主(八重波津身)のもう一人の后の沼川姫は美保関に屋敷があったので美保津姫(三穂津姫)とも呼ばれていました。
そして事代主亡き後 沼川姫は 皇子の建御名方(タテミナカタ)を連れて実家の越の国、今の糸魚川に帰ります。 

しかし沼川姫の姫皇女の御穂須須美、または美保須々美(みほすすみ)は 沼川姫の住まいの美保関の邸宅に残り 
美保神社を建てて父の八重波津身を祀り 一生を美保の地で過ごされます。
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ちなみに八重波津身は記紀で事代主と書かれ 時代が下ると恵比寿様と呼ばれるようになるので
美保神社は恵比寿様を祀る神社ということで 全国の戎神社の総本社になります。

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松江市美保関町は美保神社の門前町です。青御影石の石畳が敷かれた道で土産物屋が並んでいます。
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美保神社の入り口です。
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立派な神門をくぐります。
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立派な拝殿です。全国の戎神社の総本社らしい重厚な造りです。
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拝殿の後ろに本殿があります。
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また美保神社は 美保津姫(沼川姫)と事代主を二柱祀るのでそれぞれ大社造りを二棟建てて それを「装束の間」
と呼ばれる建物で繋いだ形式の建物で美保造りと呼ばれています。

しかしもともとは御穂須須美(みほすすみ)の一柱のみを祀っていたと出雲の国風土記に書かれていたそうです。

しかし出雲風土記はイクメ大王が天下を取った時に都に駆けつけて大王に直談判して 出雲国造に決まっていた物部の十千根を
ひっくり返して 矛卑の子孫の果安が強引に国造にしてもらい 出雲風土記も果安らが作ったことを考えると
事代主と沼川姫の名前をあまり世に出したくないので 娘の美保須々美だけを祭神にしたとも考えられます。

だって事代主を殺して沼川姫を越の国へ追いやった犯人は 徐福の忠実な部下の矛卑(ほひ)ですからね。
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寒い12月に行われる美保神社「諸手舟神事(もろたぶねしんじ)」です。

美保の沼川姫の御屋敷に滞在していた事代主(八重波津身)のところに 大名持(大国主)が行方不明だという知らせが
早舟で知らされた 故事を現した神事です。
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松江市の駅前商店街には 「沼川姫」と書いたお店があります。以前から気になっていたのですが
何のお店か わかりません。多分おみやげ物屋だったような記憶がありますが。
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沼川神社のこと
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沼川姫と皇子の建御名方は越の国(今の糸魚川市)に帰りますが 建御名方は その後大勢の越の人や
出雲族を連れて諏訪盆地へ移住し諏訪地方の開拓に努力して成功します。

そして建御名方(タテミナカタ)は諏訪地方で絶大な尊敬を集めます。そして沼川姫も。

諏訪大社の主祭神 はもちろん建御名方(タテミナカタ)と 母親の沼川姫です。
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※ 記紀の製作者の持統女帝や不比等たち徐福の末裔たちは 諏訪の人たちから絶大な尊敬を集めた
建御名方が気に入らなかったらしく、記紀では 「出雲へ国譲りの交渉に出かけたタテイカヅチ
なる荒武者と 出雲の王子 建御名方(タテミナカタ)が力比べをして タテミナカタは負けて諏訪湖へ逃げ延びて
「ここから一生出ないからゆるしてくれ」と命乞いをしたと書きました。

ほんま支那人の末裔たち(大和王朝の王家とそれを千年に渡り支え続けて自らの私腹を肥やし続けた不比等の子孫藤原一族)は 
諏訪の人たちにも 出雲王国人の私たちにも失礼千万な スケールの小さな奴らなのです。というかあいつらは
記紀を作り それを国民にごり押しして 和国の歴史を歪めた超悪人なのです。

自分たちが渡来人で出雲王朝を倒して出来た 征服王朝の支配階級だという事を徹底して隠すため 
自分たちの祖先は天上世界から神様が地上に使わした神の子の子孫だなんて でっち上げて 
人民から尊敬されようとしたのですねえ。笑えますねえ。
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拝殿の中です。神社名の額には卑字がつかわれているため 私は沼川神社と書いています。
自分たちの郷土の英雄を祀る神社にこんな卑字をつかうなんて。やめましょうよ。

卑字といえば当時の支那人たちは自分たちが世界で一番優れた民族だと思い込んでいて、(今でもそうですが)
周辺の民族を蛮族と呼び 卑字や動物の字を当てて表記しました。

我が国の和国も卑字で表現したり ヤマト国に馬の字を当てたり 姫巫女や姫皇女のことをヒミコと省略して
卑字で表していました。その卑字を二千年も経った現在でも ありがたがって使っている歴史学者や 
地方の教育委員会の馬鹿たちがいます。

もっと日本人にプライドを持ってほしいものです。

ちなみに奈良県桜井市を訪ねた時に 町の中に大きな看板があり「ヒミコの里」と卑字で大きく書いてあり
唖然としました。日本人のプライドを捨てていますよねえ。

江戸時代に徳川幕府に李氏朝鮮から通商使節が来たときに 親書に和国のことを卑字でかいてあり これに立腹した幕府は
使節を追い返し 書き換えた親書を持ってきて初めて面会したといいます。日本にプライドがあったのですねえ。
現代の一部の馬鹿な歴史学者や教育委員会の人たちも少しは勉強して 日本にプライドをもってほしいものです。


沼川神社はとてもわかりにくかったです。町の人に聞いても皆さんご存じなくて、苦労しました。
そこで市役所の観光課に聞きに行くと なんと市役所の隣にありました。
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拝殿の裏手にあるこじんまりとした本殿です。
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ここにも卑字が使われています。自分たちの誇る郷土の英雄なのに なぜ卑字を使うのでしょう。
多分時の権力者、右大臣の不比等らに 気を使ったのでしょう。

もういい加減にやめましょうよ。 天皇制度を利用して千年以上私腹を肥やして 利益をむさぼってきた藤原家やその子孫の
近衛家に気を遣うのは。ちゃんと当たり前の字を使いましょう。
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屋根の鰹木についている紋は出雲王家の龍鱗紋ではありませんでした。
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本殿の屋根の千木は出雲式の盾削ぎではありませんでした。
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沼川姫の木造です。この神社に伝わっているそうです。
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諏訪湖と諏訪大社
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以前信州山旅をしていた時 諏訪湖畔で車中泊しました。
朝起きてみると湖の中に女の人が立っています。
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近くを散歩中の人に「あの方はどなたですか」と訪ねてもほとんどの方がご存じありませんでした。
年配の方に聞くと「あの方は沼川姫だと思います。悲劇の御姫様ということしか知りません」
とおっしゃっていました。
あとで調べるとやはり沼川姫でした。建御名方の母上です。
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まず諏訪大社上社を訪れました。
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城内配置図です。広いですねえ。諏訪大社には どの社にも本殿はありません。木や山がご神体なのです。
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大国主が祀られていて 建御名方の父神と書いてありましたが これはまちがいです。
大国主(八千矛王)は父ではなく 事代主(八重波津身)が父で 沼川姫が母です。
主祭神は もちろん建御名方と その奥様といわれる 八坂斗女姫です。
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こちらは下社秋宮です。

下社は春宮と秋宮の二社あります。これは出雲王国時代は 春分大祭と秋分大祭の二大宗教行事が出雲で行われて
全国の豪族たちが集まったことが 影響しているといわれています。そして古代出雲王国では 春分の日と秋分の日に
それぞれ1歳年を取ったといわれています。つまり1年に2歳年を取るのです。
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ここには沼川姫が祀られていました。安産の神だそうです。
普通偉人の母親が祀られると 安産とか女性の病気の神とされますね。

空海のご母堂が祀られている九度山の慈尊院境内には 女性のオッパイのぬいぐるみが山積みされて奉納されています。
安産とかお乳がよく出るようにとか 女性の乳がんの平癒とかいろいろいわれて たくさんの方が奉納しています。

役行者のご母堂白専女(しらとうめ)が祀られている奈良県天川村の母公堂(ははこどう)も安産の神とされています。
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下社秋宮にはなんとあの「建て雷(たていかづち)」も祀られています。出雲の国譲りの談判で
建御名方をコテンパンにやっつけたと記紀に書かれたあいつです。ということは 誰がこんなやつを祀らせたのか
すぐ分かりますよね。
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秋宮の手水は温泉が引いてあり 湯気が出ていました。
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下社春宮です。
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ここも立派な建物です。
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広い境内の正面は舞殿でしょうか。
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ここにも越の沼川姫が祀られています。高志とは越のことですね。
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もちろん建御名方も祀られています。
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諏訪湖地方を開発した出雲族  その3へ続く
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諏訪湖地方を開発した出雲族  その3

2019年12月21日 23時42分42秒 | 古代史の舞台を訪ねて
諏訪湖地方を開発した出雲族  その3
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出雲を原郷とする信濃人
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面白い新聞記事を持っています。

長野県中野市越の越智神社の主祭神は 御穂須須美(みほすすみ)だそうです。古代文字で書いてあるそうです。
場所名からして いかにも越の国とかんけいありそうですね。

松江市にも越の人がたくさん移住してきていたので 古志とか古志原とかいう地名が今もあります。
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御穂須須美(みほすすみ)とは事代主と沼川姫の娘です。記紀には絶対に出てこない名前ですね。
もちろん出雲族には おなじみの御姫様ですが。

事代主が徐福らに殺された後 松江市美保関に残り父の事代主(八重波津身)を祀り一生を終えられた姫です。
出雲族にとっては なじみの深い御姫様です。

ということはこのあたりに住んで 開拓したのは 建御名方に付き従って諏訪湖周辺へ移り住んだ
出雲族の子孫と考えられます。
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出雲族と御柱のこと
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上社の御柱祭の説明がありました。
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秋宮の御柱です。

諏訪大社の御柱祭について かの岡本太郎氏は「縄文人の血がそうさせるのだ」とほめたたえていました。

しかしそれは違います。

出雲族の血がそうさせるのです。
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これは出雲王の葬儀に墳丘墓に御柱を建てる古代出雲の人たちです。
殯の宮の建設と思われます。なんと似た風景なのでしょう。

出雲族は 古墳築造技術にも 土木工事にも長けていました。土師氏と呼ばれる人たちです。
大和の大王の巨大墳墓は ほとんど土師氏の制作です。

※この写真は出雲弥生の森博物館で私が撮影したものです。
このブログの2014年6月20日の記事に詳しく載せています。
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これは近年発掘された 古代出雲大社の宇豆柱(うずばしら)です。
直径が約1.5mの巨大な丸太材を3本束ねて それを巨大な宇豆柱として 高さ94mの巨大神殿を支えていました。

宇豆柱とは 大社造りの9本の柱のうち正面の妻側の中央の柱で 若干外部へはみ出していてその柱が
棟まで伸びて建物を支えています。

※出雲古代歴史博物館のパンフレット写真です。
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巨大神殿の模型です。

※出雲古代歴史博物館のパンフレット写真です。実際にこの模型も展示してあります。

平安時代のわらべ歌に「雲太、和二、京三 (うんたわにきょうさん)」と歌われていたそうです。
当時の日本一の高さの建物が 雲州の出雲大社(太は太郎の太で一番の意味です)で二番目が 大和の大仏殿、三番目が
京都の大極殿 という意味だそうです。

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この巨大神殿ができたのは 716年で旧出雲王家の向家と神門臣家が資金を出して 大国主を祀る
大神殿を建てました。記紀では 国譲りの代償として 大和王朝が建ててやったと嘘を書いていますが。

御柱を建てる技術や巨大墳墓を造営する土木技術は 出雲王国時代のものです。
その出雲の民の血が 御柱神事をさせるのでしょう。
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出雲王国の国教 幸ノ神三神のこと
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古代出雲王朝の国教は 幸の神三神でした。つまりクナト大神、佐毘売(さひめ)のミコト、それに皇子神の
サルタ彦です。

ちなみに サルタとは古代インドのドラビダ語で鼻の大きいとか鼻の長いという意味で つまり今のヒンドゥーの
「象神 つまり ガネーシャ」のことです。時代が下った古事記などでは 猿田彦などと書かれましたが。
くれぐれも 猿の神ではありません。

クナト大神は 大神山(おおがみやま)に祀られました。そして大神山は いつの間にか大山寺に集まったヤクザ坊主どもに
「大山(だいせん)」なんて俗っぽい名前に変えられてしまいました。須弥山の真似をしたのでしょうね。
そして今では「大神山神社(おおがみやまじんじゃ)」だけにその名前が残っています。

大神山神社の境内奥に 「行者の道登山口」、「三鈷峰登山口」があります。
※2013年6月12日の記事にも大神山神社訪問記を載せています。

佐毘売のミコトはもちろん佐毘売山(さひめやま)に祀られました。明治時代の陸軍の陸地測量図にも「佐毘売山」
と書かれていたそうで、何時誰が 「三瓶山さんべさん」なんて陳腐な名前に替えたのでしょう。

2500年も続いた 出雲族に親しみのある佐毘売山を復活して欲しいものです。

そして皇子神のサルタ彦は 鼻が高い山すなわち 出雲北山の鼻高山(はなたかせん)に祀られて居ます。

インドに侵入したアーリア人に押し出されて 南インドから移動を開始したドラビダ人の一派は
ゴビ砂漠からバイカル湖へたどり着き、ブリアートモンゴルと混血を繰り返しながら アムール川を
くだり 日本海を南下して 日本に住み着き、砂鉄の取れる斐伊川下流で 王国を築いたといわれています。
(※斎木雲州著 古事記の編集室 他の著書 大元出版)

ちなみにドラビダ人の一部は 海を渡り南のスリランカに移住して北部に住み着きタミール人となり、今も
スリランカの多数人種シンハリ人との間で内戦を続けています。私がスリランカで働いていた1980年代半ば
たびたび内戦が激化して外出禁止令が出て多数の人が亡くなられました。

ドラビダ語にはそのほか 古代製鉄法のタタラ(激しい炎)や カネ(鉄)などがあるということです。
※詳しくは「弥生文明と南インド 大野晋 岩波書店」を参照してください。

出雲王国の春分祭、秋分祭には王国内各地から豪族が集まり 大名持の司祭のもと クナト大神をはじめ
幸ノ神三神に祈りを捧げました。
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松江市内の嵩山から見た 大神山(今のダイセン)です。クナト大神の宿るとされた山です。
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東出雲王家の宮殿のあった松江市大庭町の高台には カラス天狗広場があります。
石碑には「大山大智明大権現」と読めます。

ここは旧出雲王朝宮殿のあった大庭の地にあり、国教の幸ノ神三神のうちクナト大神が祭られている大神山(今の大山)を
遥拝した場所つまり東王家向家の霊畤(れいじ 政事を行う遥拝所でもある広場)だったと思われます。
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佐比賣山です。三瓶山なんて陳腐な名前に変り果てましたが 「四季の宿 さひめ野」なんて国民宿舎の名前に残っていて安心しました。
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出雲市の出雲神奈備神社の鳥居の正面には 猿田彦を祀る鼻高山(はなたかせん)が見えます。
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出雲の古い神社の一つ 意保美神社境内には塞の神と山の神が祀ってありました。塞の神はサルタ彦が変化したもので、道祖神にもなりました。

村はずれや峠に安置されて、悪霊の侵入を防いだり、サルタ彦の鼻の形から男性自身を表して男女和合の神、子孫繁栄の神とされました。

山の神とはクナト大神のことです。クナト大神は伊弉諾尊(イザナギ)のモデルとされましたが 時代が下り大山祇の命(おおやみつみのみこと)とも
呼ばれるようになったという。(谷戸貞彦 幸ノ神と竜 大元出版)

記紀では 大山祇の命は咲くや木花姫(イニエ王との間にイクメ大王を生んだ阿多津姫のことを記紀はこう書き換えました)の父親と書かれた。
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出雲市の長浜神社は第六代大名持 八束水臣津野(やつかみずおみつぬ)を祀る古くて権威ある神社です。

この臣津野王は西出雲王家神門臣家の方で 第七代主王は東出雲王家向家の天の冬衣王そして
第八代主王が西出雲王家神門臣家の方で 悲劇の八千矛王(記紀では大国主と書かれた)です。

古代出雲王朝では 東出雲王家向家と西出雲王家神門臣家が 主王と副王を交互に出していたのです。

つまり臣津野王は 大国主ー八千矛王の祖父なのです。
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社務所で 臣津野の神のお札を頂いたときに写させていただいた「国来、国来(くにこ くにこ)」と叫ぶ
国引きの神 臣津野王のお姿です。越の国や新羅から 国土を引き寄せたといわれる神です。

この通称くにびき王の時代に出雲王国は領土を最大に広げたといわれて 松江市の大橋川にかかる橋も
くにびき大橋というくらい 出雲人にはおなじみの古代出雲王です。
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この長浜神社の三つ鳥居は古い形の鳥居の一つで 幸ノ神三神を祀る形です。
真ん中がクナト大神、左が佐比賣の命、右が猿田彦大神を祀るといわれています。

そしてこの鳥居形式は 大和にも移されて 魏書にかかれた二番目のヒミコの宇佐豊玉姫と
九州物部王のイ二エ王(贈り名は崇神)との間の姫 トヨ姫(豊来入姫で 記紀では豊鍬入姫とか天の菟津女の命
と書かれた姫皇女で魏書で台与トヨと書かれた三番目のヒミコ)が大和で月読みの神を祭った 檜原神社
(奈良県櫻井市三輪の大神神社裏手)の三つ鳥居にもなっているのです。

※檜原神社は2015年1月29日の NO30の記事に載せています。
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右側には 岐(くなと)の神を祀っていると書いてあります。これは道の分岐点や集落の入り口、また峠道に祀られる
道祖神のことです。つまり猿田彦を祀っているのです。
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この石像が上に載っています。この形はなんと信州各地でよく見る道祖神の一つ夫婦神(めおとがみ)の像です。

つまり夫婦和合と子孫繁栄を願う神で 猿田彦の変形です。

猿田彦は幸ノ神三神の中では若くて力強く、そして鼻の形が男性自身が強大になった時を現すと考えられて
夫婦和合、子孫繁栄の神として また悪霊の侵入を防ぐ神として いろいろな形で各地で祀られるようになりました。
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そしてこれも夫婦和合、子授け、安産の神だそうです。男性器と女性器の形の石が置いてあります。
つまりこれも猿田彦大神を祀っているのです。この石をさすりながら お願いしてくださいとかいてありました。
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伊勢一宮 椿大神社

伊勢で一番古く権威のある神社が椿大神社です。伊勢一宮は伊勢神宮ではありません。
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椿大神社の猿田彦と天の鈿女(あめのうずめ)の命

大和の出雲王家分家の登美家から分家した 宇治土公家(うじとこけ)により、はやくから伊勢に「椿大神社」
(つばきおおかみやしろ)が建てられて 出雲のサルタ彦が祀られていました。

その後大和統一が進むにつれて イクメ大王(垂仁)に追われた豊来入姫は 伊勢に逃れ
宇治土公家に保護を求めたという。

豊来入姫は 魏書に書かれた有名な二番目のヒミコ(宇佐王国の豊玉姫)の娘です。
(※ちなみに魏書に書かれた一番目のヒミコは「その姫皇女(ひめみこ)が女王に立つと長かった戦乱が収まり和国に平和が
訪れた」と書かれたのが 有名なモモソ姫です。磯城王朝第八代のクニクル大王と磯城家のクニアレ姫の娘で
磯城家当主大田田根子の世話で 三輪山の太陽の女神を祀る巫女として司祭し 各地から大勢の豪族が巻向に集まったといいます)

そして魏国の和国駐在武官の張政により豊玉姫(ヒミコ)の後継者に指名されたということは魏に認められた和国の女王ということです。
そして彼女は魏書に書かれた「トヨー台与」のことです。当時和国は魏の属国状態だったので 指名されれば正真正銘の和国女王です。

しかしイクメ大王が和国を統一すると たくさんの土産を付けて 魏国の和国駐在武官の張政を魏へ送り届けて
魏との関係を断ちます。そして邪魔になった異母兄妹の豊来入姫に刺客を放ち殺します。

彼女の亡骸は大和の登美家に運ばれて出雲族の土師氏により ホケノ山古墳(奈良県桜井市)に埋葬されました。
※ホケノ山古墳は2015年1月29日の NO29の記事に載せています。

豊来入姫は宇佐から来られた姫なので 最初は宇佐女(うさめ)の命と呼ばれたが イクメ大王が行方を追っているというので
宇佐女ではまずいので ウズメと呼ぶようになったといわれています。

記紀では天の鈿女の命(あめのうずめのみこと)が 胸を開いて乳房を猿田彦に見せて誘惑し、
猿田彦は彼女を伊勢へ連れて行ったと書かれました。なんのこっちゃ。

※伊勢の国一宮椿大神社は 2015年10月7日の記事に載せています。
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信濃の国の幸ノ神(さいのかみ)のこと
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信州山旅で白馬村の夕方散歩で見かけた白馬村の道祖神です。
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道祖神の説明看板です。
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田頭という場所の手握り夫婦神像です。
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こちらは先ほどの出雲市長浜神社の幸ノ神三つ鳥居の手握り夫婦神像です。そっくりですね。
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こちらは佐野中村という場所の祝言夫婦像です。
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こちらが 白馬村の道祖神です。
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石像は手を取り合っているように見えます。つまり手握り夫婦神像です。
それと直立した男根をもつ木の像がいくつか 奉納されていました。
これはまさしく猿田彦ですね。
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ということで 信濃の国には出雲族の風習文化が 色濃く残っていることを説明しました。
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信濃の道祖神の写真については 沢山の写真と解説が 「幸ノ神と竜 谷戸貞彦 大本出版」
に詳しく載せられています。
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※諏訪大社の分霊は のちに建御名方の生まれ故郷の出雲に里帰りしました。
出雲市斐川町名島の御名方神社です。
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