パンダとそらまめ

ヴァイオリン弾きのパンダと環境系法律屋さんのそらまめによる不思議なコラボブログです。
(「初めに」をご一読ください)

Publication Biasと新聞記事 ~その1:決め打ち型

2006-05-01 23:35:17 | Weblog
 Publication Biasっていうのは研究者がNegativeな結果を論文にせずPositiveな結果ばかりを公表したがることを指摘するお言葉のハズですが(元々は疫学の言葉かな?切り札的な実験結果で白黒つける性質の学問でないことの表れかも)、新聞記事にも、同様な記事と実体の乖離傾向が(程度は不明ですが)あるんじゃないかと体験的に考えています。一言でいうとネタになるものでないと報道されないということですね(なんかトートロジカルですみません)。
 で、ネタになりやすいのは何かというと、差別化を図った記事ってことになって、結果として、他が取り扱っていない記事(所謂スクープ)が重宝されることになるんでしょう。まあそうはいっても大半は横並び報道なんでしょうけど。んで、差別化を図った記事にも2種類あると思っていて、
1)記者がネタをもらう立場の場合;
 この場合もさらに、情報提供者の意に反する場合(すっぱ抜き)と反しない場合(リーク)の二種類ある気がする
2)記者が能動的な場合;
 こっちのタイプは「事実を集めてそれを伝える」のではなくて、「書きたいことがあって、それに都合のいい材料を集める」ものですね。

別に私は世に花盛りのマスコミバッシングに今更加担するつもりはなく(彼らには彼らの役割があるという気もするし、結局は・・・Well, that’s their jobなので)、はたまた政治的に右でも左でもなく、いや「新聞記事ってそんなもんだ」と思っておかないと困ったことになるよね、と改めて思ったので忘れないうちに書いておこうというだけです。今回は記者が能動的な場合(勝手に決め打ち型と呼んでいます)について。
 何を見て思ったかというと、朝日新聞の30日のこの記事。
 日本の歴史問題、米国専門家も懸念 アジア戦略と対立

専門家といっても引かれている例えばKent Calder氏は大使館のアドバイザーも務めたような方で、見出しの驚きをひきずって記事に書かれた氏のコメント
「戦争を正当化することは、日本と戦った米国の歴史観と対立する。異なった歴史解釈のうえに安定した同盟は築けない」
 「多くの米国人が靖国を知るようになると、日米関係の障害となりかねない」
を読むと「アメリカでも総理の靖国参拝はよくないと思われているのねぇ~」っていう印象が残ったわけです。試験期間中だしそれで終わりにしてもよかったのですが、うーん腑に落ちない、アメリカの歴史観がデモクラシー否定の中国の歴史観寄りだなんて聞いたことがないよ、あれ、これはひょっとして「中国や韓国だけじゃなくて(多分一番影響力のある)アメリカも反対している」という記事を書きたい決め打ち型ではなかろうか、という疑念が浮かび、彼の最近の論文を読んだ上で現在学生という特権で突撃メール取材をしてみました。

 ちなみにKent Calder氏の最近の論文China and Japan's Simmering Rivalry(Foreign Affairs 3月4月号←注:オンライン購入も簡単です)では、
○日中関係がエネルギー問題や歴史問題で悪化している。これは問題。日中関係の安定化がアメリカの国益にもかなう。
○アメリカとしては、
 ・まず何より日米同盟(経済面含む)を強化すること
 ・次に日中間の対話、特に非政府間の対話を促進するよう努めること
 ・アメリカ政府の人間がデリケートな日本の戦没者慰霊の問題に立ち入らないこと

が主張されています。特に最後の点ですが、ここ最近検討されてきた無宗教慰霊施設の建設も日本国民の選択肢と言及しつつもあくまで日本国内の問題であることをヒトキワ強調しておられ、朝日の記事のような言及は彼がすべきでないと言っていたことそのものではないか?と思ってしまったわけです。
 当地のオープンないいところで、昨晩遅く質問(論文と新聞記事が一致していないように思える)を送ったら今朝早くあっという間に返事がかえってきまして(!)、一応ファン風な学生からの私信にお答えいただいたということなのでお返事の英文そのまま貼り付けることは差し控えますが、訳すと以下のようなことでした。
 私は、特に現職や過去政府の経験がある外国人が国内問題に入るべきでないと強く思っているが、朝日新聞は私を、不適切に、私がそう思っている国内問題に非常に近づけてしまった(the Asahi Shimbun pulled me inappropriately very close to a domestic matter)。
 既に朝日新聞にはインタビューの翻訳ミスについて抗議したところ。インタビューは***の自宅で数週間前にあったもの。インタビューの長文記事は5月4日に掲載される予定で、私の国内問題に立ち入らない決意をもう少し繊細に扱っていてほしいものだ。*(私の意図を明確にするため)*、明朝インタビューをした***論説委員と会う予定だ。

溜め息 決め打ち取材はこちらが何を言おうと都合のいい部分しか取り上げてくれませんが、Kent Calder氏のような学者にまでその弊害が、しかも一番不本意な形で及ぶとは。しかしこの記事よく見ると、よく工夫された味わい深い記事になっていて、
「(形容詞節)靖国神社が示す歴史観は先の戦争を正当化するもので」
というリード文と、Kent Calder氏のコメントの
「戦争を正当化する~」
ってよ~く読めば無関係な二つの文を並べただけで、ウソじゃない記事になっていますね。う~ん、もう芸術の域です

別に決め打ち取材そのものが悪いとは思わないし、仮にも「ジャーナリスト」なら書きたいことがあるのはむしろ当然とも思うのだけど、書きたいことが誤りだと分かったら方向転換する勇気が必要というか、モノには限度があるというか、取材協力者の意に反したウソぎりぎりの記事はよくないんじゃないか(そういえば向井亜紀さん v. TBSも意に反した引用の仕方でしたね)、ジャーナリスト魂みたいなものはみじんもないのかい?という気がします。それでも主張したいことがあるならいっそ表に出て署名記事にしたらいいんじゃないの?
 そういえば時期が時期(憲法記念日直前)で、同じ政治部の国政担当の関連?フォローアップ記事も出ているようなので、どうやら一連のキャンペーンみたいですね。

 まあ新聞記事にも不可避な限界がある、一言で言うとそんなものだ(コシ・ファン・トゥッテ)と思っていれば、目くじらを立てることもなくへぇ~で終わりますし、メディア・リテラシーなんて言葉も使い古されてきて、そう思っている人は大いに増えているんでしょう。未知の問題を指摘する場合もこれあり、それでもなお重要な役割を担っているとは思うのですが、しかし結局「そんなもの」に対して各種の特権を認める(記者クラブとか、再販・特殊指定)ことが適当かどうかはまた別の議論です。

 ちなみに他のタイプのことは近くないそのうち気が向いたときに。