落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

降誕日説教 人の光

2005-12-20 11:31:57 | 説教
2005年 降誕日 (2005.12.25)
人の光   ヨハネ1:1-14
1. 一年を総括する
今年はクリスマスが一年の最後の主日になる。まさに今年はクリスマスが1年を総括すべき日である。こういう年は7~8年に一度しかない。今年1年をふり返り、来るべき年に向かって新しい決断をすること、これが総括ということである。
財団法人日本漢字能力検定協会では12月12日を漢字の日と定めて、毎年全国から「今年一年の世相を反映する漢字一字」を公募している。昨年は「災」という字が選ばれた。すでに新聞やテレビで報道されているように2005年は「愛」という字が選ばれた。昨年の「災」という字はなるほどと思うが、今年の「愛」については「何故だろう」と考えずにおれない。むしろ、これは今年の世相を反映するというよりも、人々の願望を示していると思われる。来年こそ、「愛」という字で世相を示すような年になって欲しい。
西大和聖ペテロ教会の2006年の「教会カレンダー」のテーマとして「輝く」という言葉を選んだ。来年こそは「輝く年」であって欲しいという祈りである。それで、その言葉を中心に毎月の聖書の言葉を選んで、一寸したコメントを添えた。それぞれで、各月の聖書の言葉を味わっていただきたいと思う。本日は特に4月の御言葉として選ばれているヨハネによる福音書1:4,5の言葉について共に考えたい。
2. 「命が人間を照らす光であった」という言葉
「命は人間を照らす光であった」という言葉は非常に味わい深い。言い換えると一寸やそっとでは理解できない。「命イコール光」、「ライフ イズ ライト」、言葉の響きは美しいし、非常にシンプルである。しかし、「命」と「光」というものを具体的に考えるならば、「光は光」であり、「命は命」であり、それらはそれぞれ全然別なものであり、相互に何の関係もない。ただ、キリストを示す「象徴」として結び合わされているというだけで結びついているにすぎない。そういうことで、この言葉を理解したと本当に言えるのだろうか。
3. 幼い子供たちから学んだこと
今年は、幼稚園の園長として、年少組も年中組も、年長組も、一週間に一度全学年の各部屋を廻って、園児たちに直接お話しをした。わたしも子どもたちの前に座り込んで、子どもたちに囲まれてお話しをした。そのお蔭で、子どもたちをじっくり見ることができた。子どもたちはわたしの言葉の一言ひと言に敏感に反応する。この反応というものは「命」である。死んでいるもの、命のないものは反応しない。さらに、注意深く子どもたちを見ていて、非常に感じたことは子どもたちの目である。子どもたちがこちらを見るときの目は輝いている。もちろん、何時もいつもというわけにはいかないが、もし輝いていない目があれば、それは何か問題がある場合である。この子どもたちの「輝く目」において、「命」と「光」とは合体している。本当の美しさというものは「命と光との合体」である。「命は輝いているときに命である」。
4. 光は命に触れて輝く
考えてみると、光は何もないところでは輝かない。礼拝堂を建築したとき、どこからでも見えるような十字架を建てたいと願い、計画通りに十字架が建てられた。そして、夜、それが輝くようにライトアップも設置した。そして、さらによく光るように、十字架はステンレスで作らせた。かなり高価であったが、夜空に十字架が輝くことを期待して、すこし贅沢をした。ライトアップの電球も2箇所設置した。ところが、どうしたことか、十字架は少しも輝かない。昼間は、まぶしいほど輝くのに、肝心の夜には十字架は見えなくなってしまう。ライトから出る光が見えない。光はみえないままに宇宙の彼方へ飛んでいってしまう。どうしたことか、いろいろ工夫するがいい知恵がない。これには本当に困ってしまった。
ある日、京都の聖光教会に伺ったときにその話しをしたら、聖光教会でも同じ経験をしたとのこと、それでステンレスの上からペンキを塗ったら輝いたとのこと。早速、設計者にそのことを報告し、もったいないと思ったが、思い切ってステンレスの上に、白色のビニールを貼り付けたところ、美事に輝くようになった。後から分かったことは、ステンレスは鏡のようなもので、すべての光を吸収してしまい、外の出さない、らしい。あるいは、反射して宇宙の彼方に向かってしまう、らしい。
要するに、光というものは、何かにぶっつかって、そこにあるものを照らし出すことによって輝く。そこに何もなければ、光は輝くこともない。光は命に出会って、命を輝かす。輝いているのは命であり、同時に光である。
5. 光は醜も照らす
光が照らし出すものは美しいものだけではない。醜いものも照らし出す。しかし、光に照らされた醜いものは「輝き」ではない。それは「暗闇」である。わたしたちは「暗闇」を決して美しいとは感じない。と同時に、「暗闇」をそのままに放置しておけない。何とかしなければならないと感じる。そこからはわたしたちの課題である。「暗闇」を抹殺してしまうわけにはいかない。なぜなら、その「暗闇」もわたしたちの一部であるからである。「暗闇」を「輝き」に変革する作戦。
わたしたちは子どもを見て「命の輝き」を感じる。「わたしが子どもたちを見て」と思っている。しかし、本当は子どもの輝きを見ているのではなく、子どもの輝きによって「わたしが照らされている」のではなかろうか。「わたしと命の輝きとの関係」ということになると、わたしの方が照らされる命であって、照らしているのは子どもの方である。
この「照らし照らされる関係」が崩れるとき、大人にとって子どもは邪魔者にすぎなくなる。子どもを物体化し、自分の自由になる対象にする。現代の悲劇はここにある。わたしたちを照らす光が見えなくなっている。
6. 命は人間を照らす光である
「光が人間を照らす」のではない。「命が人間を照らす光」である。人間を照らすものは「命」である。人間は「命」に照らされて輝く。つまり、光となる。人間を照らす命は子どもの命である。幼子イエスが命である。イエスがわたしたちのために何かをしたのでもなく、イエスの言葉がわたしたちに何かを語りかける以前に、「幼子イエス」がわたしたちを照らす。「貧しい飼い葉桶の中で平和に寝ている幼子イエス」に照らされて、わたしたちは「光」となる。メリー・クリスマス!

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