落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

大斎節第4主日

2005-03-04 09:32:49 | 説教
2005年 大斎節第4主日 (2005.3.6) 
何時まで  サムエル記16:1-13
1. サウロ王への失望
イスラエルの最初の王、サウロは始めの間は神の祝福を受け、国民からも支持されていたが、即位後数年にして、他国の王たちと同様に、堕落し、権力を思うままに使うようになり、預言者サムエルとしばしば対立するようになる。本日のテキストはそういう状況のもとで預言者サムエルが新しい王となるべき人物を探す旅に出立し、ダビデという人物を見つけ出し、彼に王としての油を注ぐいきさつが記されている。
王宮でサウル王と一緒に住んでいるサムエルが旅に出るということはサウル王にとって非常に不安なことであった。王がどんなに権力を振るおうと、国民の支持を得ているのは預言者サムエルであり、サムエルの支持があってこそサウルは王として威張っておれたのである。従って、サムエルが旅に出るということは、非常に不安である。いなくなるという不安ではなく、サムエルが何処に何しに行くのかということが問題である。サムエルもそのことをよく承知している。馬鹿正直に、角に油を入れて、「新しい王を探しに行く」などといえば、たちまち暗殺されるであろう。そこで、神はサムエルに「いけにえをささげに行く」と言え、という。はっきり言って、サウル王を騙すのである。少なくとも、目をごまかす、のである。ともかく、こういういきさつでダビデが選ばれ、油が注がれた。
2. いつまで
それはそれでよい。しかし、ここで注目すべき点は、本日のテキストの冒頭に出てくる神の言葉である。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。わたしは、イスラエルを治める王位から彼を退けた」(サムエル記上16:1)と主なる神はサムエルに言う。神はサムエルの嘆きを聞き入れ、行動を起こされた。もう、嘆くことはない。この言葉の中に神の強い決意が表明されている。しかし、まだ神の行動の結果は顕わにされていない。ただ、神の意志の中でのみ現実となっている。
この時点でもう既に神はダビデを選ばれ、歴史は大きく曲がろうとしている。しかし、そのことについて誰も歴史がどう曲がるのかということは明らかではない。サムエルにさえ、そのことは明らかにされていない。しかし、神の中でははっきりしている。つまり、サムエルは歴史がどのように展開するのか分からないまま、神の御心の実現のために働き始める。
神の御心が決定し、そのために人材が準備され、その御心が歴史の中で、現実的に実現するまでの間、この時間の間が重要である。実現してしまえば、もはや信仰の問題ではない。御心とそれの実現との間が信仰の時である。預言者サムエルが神の言葉を聞いた、この時点では未だ次の王が誰になるのかはサムエルにも分からなかった。しかし、サムエルは神の言葉に従って探しに出かける。その時、サムエルに与えられたヒントは「ベツレヘムのエッサイの元に行け」ということであった。サムエルがエッサイという人物と何らかの関わりがあったとは思えない。エッサイの子ダビデが王になってからこそ、エッサイという人物は有名になったのであって、この時は未だ名もなき田舎の羊飼いに過ぎない。ともかく、サムエルはエッサイの家で少年ダビデに出会い、神の指示によってダビデに王としての油を注いだ。その日以来、主の霊がダビデに激しく注がれるようになった、と聖書は語る。
しかし問題はその日から実際にダビデが王に即位するまでの間である。これにはかなりの期間がある。数年どころではない。この期間、サムエルもダビデもあるいはその関係者もダビデが次の王になることを秘密にしていたようである。しかし、いろいろな事件を通してダビデの人気は高まり、サウル王の気持ちは穏やかでなかった。事あるごとに、サウル王はダビデを攻撃し、命まで狙う。幾たびも、ダビデはサウル王の命を奪うチャンスがあったにもかかわらず、ダビデはサウル王を助けた。国内にいてはあまりにも危険なので、祖国を離れ、山野を放浪し、食料もなくて、麦畑で落穂を拾ったり、山の無人の寺で供え物をかすめたり、ついには敵国で狂人のような振る舞いをして命拾いするというような数年であった。一体、この期間というものは何なのか。預言者サムエルに対して「何時までサウル王のことについて嘆いているのか」と言われた神である。その神の中では既に結末は決定している。神は何をぐずぐずしているのだろうか。わたしたちには理解できない。今度はわたしたちの方が神に向かって「何時までですか」と問う。わたしたちは問いつつ、時が熟するのを待つだけである。この待つという行為において、というよりも待つという無行為、何もしないということを通して神の心を学ぶ。
3. キリスト教の歴史
実は、この「何もしないで待つ」の問題はキリスト教信仰において非常に重要な意味を含んでいる。最初期の信徒たちは、主イエスの再臨は「もう直ぐ」と思っていた。「自分が生きている間」という感覚すら、かなり後の感覚であって、「主の日」はすでに決定され、主イエスは「もう直ぐ」再臨する、と信じていたと思われる。ところが、伸びて伸びて「未だに未だ」なのが現在である。いうならば、教会という時間はサウルから追い回されているダビデの時間、ただ逃げ回るだけで何もしないで時が熟するのを待つ「間の時間」である。こういう「間の時間」というものは、すべてがはっきりしているようで、はっきりしない。曖昧というか、不安定な時間である。この時間の中では信じることもできるし、疑うこともできる。試験を受けて、その結果が発表されるまでの間のようなものである。そういう状況の中で生きる生き方を、アルバート・シュヴァイツアーは「中間倫理」と名づけ、キリスト教倫理の特徴とした。つまり、キリスト者の生き方のである。使徒パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰの第13章12節で「わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だが、その時には、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、その時には知られているようにはっきり知ることになる」と語る。
ダビデとサウルとの決定的な差は、ダビデが神の決定を既に知っていたというのに対して、サウル王はそれを知らないでひたすら延命のためにいらいらしていたということである。わたしたちが生きている現実は、神の決定のもとにある。しかし、その決定が実現されるまでの「間の時間」を生きている。しかし、多くの人々はサウルと同様に「神の決定」を知らずに生きている。

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