落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

降臨節第4主日説教 クリスマス物語

2005-12-16 13:22:45 | 説教
2005年 降臨節第4主日 (2005.12.18)
神にはできないことはない   ルカ1:26-38
1. 何故マルコでないのか
B年の福音書はマルコであるはずなのに、何故ルカなのか。調べてみると、B年の主日でルカ福音書が読まれるのはこの主日だけである。答えはいたって簡単で、マルコ福音書には主イエスの誕生に関する記事がないからである。なぜマルコはイエスの誕生について何も語らないのであろうか、ということが問題である。実は、ここに非常に重要な事柄が隠されている。もっとも、イエスの誕生について無関心なのはマルコだけではなくヨハネ福音書も「哲学的な受肉論」はあっても、いわゆるクリスマス物語はない。ヨハネの問題は別として、マルコが福音書を書いたころの教会の状況の中では、現在残っている限りでいうと、キリスト教の文書らしいもの言えば、使徒たちの手紙類に限られており、特にパウロの書簡がほとんどであった。というよりも、教会内でパウロの影響力が強くなるにつれ、パウロの文書以外のものが淘汰されたというべきかも知れない。
2. マルコが福音書を書いた動機
ここで注目すべきことは、パウロはマニアックにイエスの「十字架と復活」に固執し、福音とは「十字架と復活」だけであり、イエスに関して言えば「十字架に付けられた姿」(1コリント1:23,2:2,ガラテヤ書3:1)を語る。この視点からいえば、生前のイエスの「したこと」「言ったこと」は「作り話や切りのない系図」(2テモテ1:4)にすぎないとし、「肉に従ってキリストを知っていたとしても、今はもうそのように知ろうとはしません」(2コリント5:16)とまで言い切ってしまう。
単純化して言ってしまえば、マルコはこのことに噛みついた。生前の主イエスの「したこと」と「言ったこと」こそ福音そのものであり、それをそんなに簡単に切り捨てていいものだろうか。そこで、マルコは色々と資料を集め、まとめて、イエスの「したこと言ったこと」を「福音」として提示したのが、マルコ福音書である。
当然ながら、ある人の誕生物語というものは、その人の「したこと言ったこと」の枠の外である。従って、イエスの「したこと言ったこと」に集中するマルコ福音書では誕生物語は切り捨てられる。マルコ福音書が執筆されていた頃、マルコがイエスに関する資料を集めていた頃、イエスの奇跡物語やたとえ物語と同じように、誕生物語も口承伝承として無数に流布していたものと思われる。マルコはそういう雑然とした口承伝承の中から「したこと言ったこと」だけを取り上げたのである。その意味では、マルコもパウロと同じように、誕生物語や系図に類するものを切り捨てた。その意味ではマルコもパウロと視点は異なるが同類である。何が同類かというと、要するに彼らはインテリである。インテリは雑然とした資料の中から自分の主張に合うものを選び取り、不必要なものを切り捨てることが出来る。しかし、一般民衆はそういうわけにはいかない。民衆の関心事はイエスという人物の「人となり」である。それは「したこと言ったこと」に限らない。誰の子どもなのか、何処で生まれたのか、どういう教育を受けたのか。今日でいうとマスコミが追いかける様々な「噂話」に類するものに興味がある。パウロが苦虫を潰したような顔をして馬鹿にする「作り話や系図」などである。民衆はそのような雑然としたものを雑然としたままで受け入れ、イメージ化し、伝承する。実は、そういう風にして、事実なのか作り話なのかはっきりしないままで語る。それが「民話」である。
3. 民話の魅力
民話においては、語る者も聞く者もそれが事実であるかどうかなど問題にしない。もっと率直にその物語が語るメッセージそのものに耳を傾ける。これは聖書における民話だけでなく、すべての民話に共通する特徴である。民話にはそれだけの力がある。特に福音書における民話にはイエスという人物がどういう人物であるのかということについての民衆の率直な気持ちが込められている。これは馬鹿には出来ない。逆に言うと、民話には初期のキリスト者、この言い方も問題であるが、むしろ、イエスと直接出会った人々のイエス観が民話という形で結晶化しているというべきであろう。イエスが「したこと言ったこと」ではなく、民衆がイエスをどう思ったのか、イエスという人物に出会い、何を思ったのかということがイエスに関わる民話を生み出した背景にある。このことについては、ここではこれ以上展開させない。ただ、クリスマス物語においてそのことが明確に現れているということだけをはっきりと抑えておきたい。
4. キリストの体なる教会
教会とはキリストの体であると譬えられる。この譬えは譬え以上のことを含蓄している。譬えというより教会の本質を「身体」というあり方で表現している。身体は骨格と皮と肉とで出来ている。パウロは教会の骨格とを形成した。マルコはその骨組みの上に外皮を着せた。外皮には豊かな表情がある。しかし、骨格と皮だけでは、つまり「骨皮筋右衛門」は人間の形はしているが本当に生きているとは言えない。そこに肉が、しかも豊かな肉がついてこそ健全な身体となる。この肉の部分が、祭儀であり、祭であり、礼拝であり、祈りであり、神話である。つまり、非合理的なものである。付きすぎると、贅肉となり健康を損なうが、健全な身体にとってなくてはならないものである。それが、イエスの民話のもつ意味である。キリスト教会は、これにより2000年の歴史を生き抜くエネルギーを得た。
(以上を実際の説教では省略する。)


5. イエスの噂話
イエスのことについては、イエスの在世当時から、いろいろと噂されていた。イエスをほめ讃える噂から、イエスに批判的な噂まで、それこそ無責任にいろいろなことが噂された。イエス自身が言っていないことでも「言ったこと」とされたり、他の誰かが行った奇跡がイエスが行ったことになってしまうということもあったであろう。イエスの死後、つまり教会が成立した後でも、教会の外部の人も、教会内部の人も、いろいろな噂話の担い手になった。時には、教会で語られる説教さえも、聞いた人々は自分勝手に解釈して新しい噂の発信者になる。噂話というものは「したこと」に尽きない。人々の関心は当然「誰の子か」「どこ出身か」「家族関係のこと」「子どもの頃のこと」「仕事のこと」、何でも噂の材料になった。特に、注目すべきことはイエスの誕生をめぐる話しは、プラス、マイナスを含めて真実味を帯びてくる。そもそも、噂話というものは「確証」がなければないほど、話しは大きくなり、真実味を帯びてくるものである。様々なクリスマス物語が生まれる。その中の、いくつかがマタイ福音書とルカ福音書に取り込まれた。
6. 処女誕生
マタイとルカが共通に取り入れた民話が「処女誕生物語」である。いまさら、この物語を簡単に「非科学的」だとか、「空しい作り話」ということで棄てても何の益もない。むしろ、彼らがこれを取り上げた「意味」を考えることが重要である。この物語において、イエスという方が「したこと言ったこと」、「どういう死に方をしたのか」、というすべてのことを超越して、イエスという方の存在そのものが語られている。そのことが語られているからこそ、初代のキリスト者から現代のキリスト者まで一貫して、この物語を大切に伝承してきたのだと思う。
7. 清らかさの奇跡
それを一言で表現するならば、「清らかさ」ということであろう。その「清らかさ」は奇跡であった。ミラクルとかワンダーという言葉を越えている。当然、処女降誕によってイエスの「清らかさ」を表現する文化には通常の性の営みによる誕生を「清くない」と思う価値観がある。それはわたしたちの価値観とは大きな隔たりがある。従って、それをそのままで受け入れることが出来ないことは当然である。しかし、彼らがイエスという人物と接し、関わった経験の中で、この人は純粋さ、潔癖さ、清らかさは「われわれとは違う」と思ったことは十分に表現されている。
その「清らかさ」はまさに奇跡的である。その奇跡の根拠について、ルカは「神にはできないことはない」という。何か奇跡なことを証明するのに、神の全能を持ち出すのは、あまりにも単純である。イラクを爆撃するのに「神の正義」をかざす単純さと同程度の単純さがある。しかし、この単純さが民衆を動かす原動力となる。「神にはできないことはない」という言葉が出てきたらもはや議論はできない。この超単純な論理こそ民話の力であり、民衆の力である。教会における礼拝、祈り、祭儀、サクラメントを支える論理は複雑な神学ではない。実はこの超単純な信仰である。

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