落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

降臨節第3主日説教 空中再臨という思想

2008-12-10 11:38:00 | 説教
       <写真は長崎半島の先端・野母崎の夕陽>
2008年 降臨節第3主日 2008.12.14
空中再臨という思想 1テサロニケ5:16~28

1. テサロニケの信徒への手紙1の特徴
わたしたちがテサロニケの信徒への手紙を読むときに先ず第1に注意すべきことは、この手紙こそ新約聖書の中で最も古い文書であるということ、つまり使徒時代の最も初期の雰囲気をわたしたちに伝えるものである、ということである。その雰囲気とは、要するに世界の終局がもう間近に迫っている、という非常に緊迫した心理的状況であろう。終わりがもうそこに来ている。しかし、その終わりがどういう形になるのか、ということについては、なにしろ初めての経験であるので確かなことははっきりしない。全ては古い文書を解釈することによって得られた予想である。いろいろな人がいろいろなことを言う。ある人は、メシヤが「栄光の雲」に包まれて無数の天使と共に天から降ってくる、と言う(マルコ13:26)。また、別の人は盗人が夜密かに来るようにやってくる、とも言う。それらの「信仰」をひとまとめにして「再臨信仰」という。使徒信経でも「主は活きている人と死んだ人とを裁くためにこられます」と唱えられるし、聖餐式文においても「キリストは死に、キリストはよみがえり、キリストは再び来られます」と唱える。しかし、現代の教会において、再臨信仰についてまともに論じられることはほとんどない。本日は、その再臨信仰の中心的なテーマとなった「空中再臨」ということについて、共に学びたいと思う。
2. 「空中再臨」という思想
この手紙の4章16節以下のところにこういう記述がある。「合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、先ず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにしてわたしたちはいつまでも主と共にいることになります」。恐らくこれが使徒時代の最も正統的な再臨信仰についての論述だろう。細かい説明は省かれているが、マタイ福音書の「畑に二人の男がいれば、一人は連れていかれ、もう一人は残される。二人の女が臼をひいていれば、一人は連れていかれ、もう一人は残される」(24:40-41)の記述も、この空中再臨を前提にして語られている。
ミケランジェロという大天才はバチカンの聖ペテロ大聖堂の正面に描いている「最後の審判」という絵は、空中再臨の情景を描いたものである。
現代のわたしたちの世界観からみると、この様な終末理解は到底受け入れるわけにはいかないだろう。しかし、ここでわたしたちにとって重要なことは、初代教会のこういう終末観からキリスト者の生き方、価値観、倫理観が形成され、しかも人間の知識の増大と共に常にその時代の最先端の科学的知識と葛藤しながらその中心部分を失わずに発展したのだという歴史的事実である。神話を排除することは出来ても、その神話が果たした歴史的事実は消すわけにはいかない。
3. 空中再臨という神話がもたらしたもの
空中再臨という神話がもたらしたものは何か。それは、取り残される恐怖である。人間という生き物は、本能的に「取り残される不安」というものを持っている。とくに、幼児はこの恐怖・不安を本能的に感じている。この空中再臨という神話は、その恐怖感に直接触れてくる。そこから「取り残されないようにする」という倫理が生まれてくる。これは罪意識よりも根源的である。空中再臨という神話を排除することは出来ても、この恐怖・不安を取り除くことは出来ない。
4. 本日のテキストの意味
さて、そこまでテサロニケの手紙が書かれた全体的な状況である。そこには、終末をめぐる一つの興奮状況がある。それはオウム真理教が醸し出す一種の宗教的恐怖感と共通するものがある。
ところが、本日のテキストではむしろそれとは逆のことが書かれている。
さて、いよいよ本日のテキストであるが、ここにはここまでの部分を支配していた緊張感が全くない。むしろ、非常に落ち着いた、普通の信仰生活の中で、信徒のあり方が淡々と語られている。この落差は何であろう。とくに、21節の「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」という言葉は光っている。ただ単純にこの言葉だけを取り出して読むならば、ごく当たり前のことを言っているにすぎない。しかし、テサロニケの手紙全体の中でこの言葉を読むときに、むしろ異常なほど落ち着いている。このことを考えないと、この言葉を十分に理解したことにはならない。
再臨信仰に限らず、終末信仰というものは人々を興奮させる。現在のものが何もかも「過去のもの」となる。「現在」が「将来」に呑み込まれ「無」となる。その意味では、再臨信仰(=終末観)は非常識の世界である。しかし、「すべてを吟味して、良いものを大事にしなさい」と語るパウロは非常に常識的である。現在を大切にすることを勧めている。ただ、現在のすべてではない。現在の中から、将来に向かって「良いもの」を大切にする。それでは現在の中で将来に向かって「良いもの」とは何か。それは「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(16~18)という言葉に尽きる。

最新の画像もっと見る