落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第17主日(特定20)説教 友達をつくりなさい

2010-09-14 16:10:52 | 説教
2010年 聖霊降臨後第17主日(特定20) 2010.9.19
友だちをつくりなさい  ルカ16:1-13

1. 疑問 この譬は何を語ろうとしているのか?
今日の主日のために選ばれている福音書のテキストは、「不正な管理人」の譬えといわれているテキストである。この譬えはイエスの譬えの中でも最も理解困難だと言われる「変な話し」である。(10節以下の部分は、一応この譬えとは無関係だと思われるので、本日は取り上げない。)
さて、一体この譬えは何を語ろうとしているのであろうか。この管理人のしたことはどう考えても不正である。言い訳の道はない。しかも、それが主人にすぐにばれてしまうような手口では、それほど利口であるとも思えない。しかしこの譬の中では、この管理人は主人から「よく考えた行動である」と褒められている。なぜだろう。最も驚いているのは管理人自身であろう。このことを意外と言わないで、何を意外と言えるのか。思ってもいないことが、主人の口から出てきたのである。上司特有の皮肉であろうか。ところが、そうでもなさそうである。主人は本気で褒めている。
2. この物語の主人公は誰か。
この物語の主人公は、一見不正な管理人の様に思われる。しかし管理人を主人公にしてこの物語を解釈しようとすると、何故「不正が許されるのか」理解できない。この管理人の行動は不正であるかも知れないが、いわばわたしたちの常識内の出来事である。その意味では、決して褒められるようなことではないが、わたしたちもそういうことをしかねないことでもある。この物語を管理人に焦点を合わせている限り、この物語は本来「こういう不正なことをしてクビになりそうになった管理人がいたが、彼は辞めるときにもっと不正なことをしてそれがばれたため、監獄に入れられた。不正ということは決して得にならないよ」というそこらに転がっている普通の道徳的な物語である。しかし、その物語の結末を差し替えて、反道徳化したいわばパロディに過ぎない。
しかし重要なことは、差し替えられた結末から読み直すと、この物語の主人公は管理人ではなく、主人の言葉と行動に移る。この物語に固有の意味を与えているのは、主人の「全く意外な言葉」であり、そこにドラマ性の鍵がある。この管理人も、またこれを聞いている弟子たちも、主人の言葉の意外性に驚くのである。本来許されるべき者でないものが、主人の判断によって許され、褒められる。ここに、管理人やこの物語を聞く聴衆たちの価値判断とは全く異なる価値判断が主人と物語の語り手にある。イエスが聞く者たちに判らせたいポイントは、この不正の管理人の行動ではなく、この主人の考え方である。端的に言うと、わたしたちの全生活を評価するのは人間の常識ではなく、神であり、神側の価値判断がわたしたちの人生を評価するということにある。
3. 神の目から見て褒められること
主人は管理人の賢さを評価する。しかし、その賢さは一般的な賢さではなく「自分の仲間に対する賢さ」である。ここでいう「仲間」とは主人に対する債務者であり、この不正がばれるまでは管理人とは対立関係にあった。しかし不正がばれた今では管理人は債務者たちと同じ立場に立つ。この管理人のここでの行動は「仲間の変更」である。その変更の仕方が賢い。不正な富であれ、何でもいい、ともかくこの際何を利用しても仲間を変更しなければならない。主人は「この世の子ら」の賢さ(=変わり身の早さ)に感心する。今までの連携の相手は主人であったが、この主人は私の将来を保障してくれない。今、決断すべきことは現在の主人を離れ、将来の仲間と連帯することである。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」というメッセージはここにある。
確かに、この物語における「富」は不正にまみれている。まさに「不正による富」である。しかし、この文脈から見ると、ここでいう「不正な富」とは「不正によって得られた富」というよりも、この世の富が全て「不正な富」と考えられている点である。つまり大なり小なり、この世の富は不正にまみれている。従って、ここでの重要なポイントは現世に属する「富」で「永遠の住まいを提供してくれる友」を作れということである。いま生きている、ここでの全ての財産や人間関係を、天国への富みに転換する。この譬えの主眼点はここにある。
4. ごく小さな事、大きな事
この物語の教訓として「ごく小さな事にも忠実な者は、大きな事にも忠実である」(10節)という格言が添えられている。この格言はルカによる福音書ではもう一度第19章でも用いられているが、そこでは「どんなに些細なことでも忠実でなければならない」ということが強調されている。ところが、ここでは単に「些細なことにも忠実であれ」というだけでなく、ごく小さな事を小さいがゆえに軽視するのではなく、小さな事を大きな事のために「利用し、役立てること」が強調されている。つまり、「永遠の住まいに迎え入れてもらえる」友を得るために、現在自分の手元にある富、たとえそれが「不正にまみれた富」であっても、それを生かしたということが、褒められているのである。
5. 結論
さて、要するにこの不正な管理人は自らの未来のために、現在利用できる自分の能力を最大限に利用したことが主人から褒められた。ところが、多くの人たちは人間が本来大切にすべき価値、人間が人間であるということに何の配慮もなく、瞬間に消えてしまうような現在の楽しみのために埋没している。大事なことを小事のために犠牲にしている。

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