落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

顕現後第3主日

2005-01-18 22:31:46 | 説教
2005年 顕現後第3主日 (2005.1.23) 
原因と結果  アモス3:1-8
1. 原因と結果
何でも一つのことが起こるのには何らかの原因がある。本日のテキストでいうと、二人の人が一緒に歩いているとしたら、その前に二人の間で打ち合わせがあったに違いない。ライオンが森の中で吠えるのは、近くに獲物がいるからであろうと推測する。近くに獲物がいるということが原因で、その結果としてライオンは吠える。また、こうも考えられる。ライオンが大きな声をあげて吠えるのは、獲物を捕まえたからである。同じようにライオンが吠えても、その原因、あるいは理由は異なる。しかし、その声の響きでその違いは分かる。鳥が地上に舞い降りてくるのは、そこに餌があるからである。また逆に、罠が跳ね上がる音がしたのは、鳥が罠にかかったからである。この辺までの実例は、主に自然界から取り上げられており、非常に分かりやすく、あまり深刻ではない。しかし、だんだんと取り上げられている具体例は深刻になってくる。
町で角笛が吹き鳴らされたら、それは何かの危険が迫っていることを知らせるているのであり、人々はその角笛の音に何らかの反応を示す。その音の方に向かう。あるいは音の反対の方に逃げる。角笛の音は何かが起こったことを示している。何にもないのに角笛は鳴らされないはずである。
最後に、とうとう、言いたいことの本音が語られる。「町に災いが起こったら、それは主がなされたことではないか」(3:6)。
2. 未曾有の災害
今、わたしたちはこの預言者の言葉の前でたじろぐ。今までは、この言葉を割合に気安く語り、思っていた。しかし、今度のインド洋沿岸における巨大津波によって20万人にも及ぶ人命が失われたという災害を前にして、気安くこの言葉を語ることが出来ない。これは主がなされたこと、なのか。
1月2日付の読売新聞はロンドン報告として、カンタベリーの大主教の異例の声明を伝えている。「(わたしは)こんな災害を認める神の存在そのものを疑う。これはわたしだけではなくほとんどすべてのクリスチャンが神の存在を信じることができなくなって当然であろう」と語った、という。もちろん、この災害において命を失った人々、深刻な被害を受けた人々と、助かった人々、あるいは災害を受けなかったわたしたちとを分けて、神の恵みとか、神の審判ということを語ることは明白に間違いである。従って、カンタベリーの大主教は「すべての信徒は生き残った人々と情熱を持ってかかわらないといけない」と語る。この「情熱をもってかかわる」という言葉は、非常に翻訳しにくい言葉で、原文では「passionate engagement with」であり、エンゲイジメントという意味はむしろ苦労を分かち合うという意味であり、「熱い思いを持って被災者たちと苦労を分かち合う」という意味であろう。つまり、カンタベリーの大主教は、すべてのキリスト者たちは被災者と同じ立場に立つことを求めている。先の、非常に「不信仰」な言葉も、被災者の立場に身をおいた発言であろう。災害と神の意志ということについては議論はできない。というよりも、議論しても何にもならないし、むしろ議論そのものが有害である。
3. 愛のゆえの罰
ただ、一つだけ、本日のアモスの言葉の中で注目すべき言葉がある。2節の言葉である。「地上の全部族の中からわたしが選んだのは、お前たちだけだ。それゆえ、わたしはお前たちをすべて罪のゆえに罰する」。この言葉を災害と結びつけてはならない。この言葉を一般化したり、論理化したり、この言葉をめぐって理屈を言い合ってはならない。ただ、この言葉は愛している者に対する愛の言葉として、預言者は語っている。それは災いの予告でもなければ、脅しの言葉でさえもない。パッショネイト エンゲイジメントのゆえの過激な言葉である。それ程、神は神ご自身が選んだ者を愛しておられるということを示している。愛されている者は、その愛に応えるということが義務である。しかし、この義務は法律によって命令されているような、守らなければ罰を受けるというような強制的な義務ではない。義務であって義務でない。
4. 神の民の生き方
本日のテキストを、人間が悪いことをしたから、あるいは神との約束を守らなかったから、それが原因で、災いという罰を結果した、と理解してはならない。むしろ、神とのこのような愛の関係が先ずあって、その結果としてのわたしたちの生き方がある。この原因・結果関係が重要である。わたしたちは神から選ばれ、愛されているがゆえに、それが原因あるいは理由、根拠となって、わたしたちが神を愛し、神に従う、という結果を生み出す。わたしたちが神に従って生き、神を愛している生き方を見て、それが、神がわたしを愛し、選ばれたという事実を示す。

最新の画像もっと見る