落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

復活節第7主日の説教 顔を隠す

2005-05-05 21:03:49 | 説教
顔を隠す   エゼキエル書39:21-29
1. 復活節第7主日
復活節第7主日はまた「昇天後主日」でもある。復活なさった主が40日間弟子たちと共に居られて、弟子たちの見ている目の前で劇的に「昇天」なさった。「昇天」という出来事は言いかえると「見えなくなる」という経験である。主はもはや彼らの側に居られない。それはまさに主が「顔を隠す」という出来事でもある。
しかし、復活の主を経験した弟子たちにとって、主が十字架刑によって亡くなるということとは異なる経験でもある。あの時は、絶望しかなかった。しかし、今回は希望がある。しかし、その希望はいつ実現するのか保証はない。
主イエスの最後の言葉は「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」という命令であった。恐らく、弟子たちはこの言葉に従って、「聖霊を受ける」までは終わらない祈りを始めたにちがいない。
2. 神が顔を隠す
旧約聖書の中で、神が「顔を隠し」また「隠れた神」が再び現れるという預言がある。それが本日のテキストである。ここでは、「わが栄光を現し」ということと、「わたしが顔を隠し」ということとが対照的に用いられている。神が栄光を現しておられるときには神の民イスラエルは栄え、イスラエルの神があがめられる。神が顔を隠されるとイスラエルは衰え、神の民イスラエルに不幸が訪れる。これが神と神の民との関係である。しかし、神は神であるゆえに、「わが聖なる名のゆえに」(25節)、必ずイスラエルの繁栄を回復される。最後に、「わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことをしない」と言われる。これがエゼキエルの預言である。
3. 「わが霊」
姿を隠された主イエスの言葉に従って、エルサレムにとどまり祈り続けた弟子たちにとって、このエゼキエルの預言は祈りの根拠でもあっただろう。ただ、彼らは「わが霊を注ぐ」ということの具体的なイメージがつかないまま、祈り続けた。その時、彼らが信じていたことは、これが神の顕現の最後であって、再び「隠れる」ということがない。最初のクリスマスにおいてこの世界に生まれた御子イエスは十字架刑によって弟子たちから引き離された。イースターの朝、弟子たちに姿を現された主イエス・キリストは昇天というドラマによって再び姿を隠された。しかし、次ぎに姿を現されたときには、もう再び隠れることはない。これが彼らの確信であった。具体的にどういうことが起こるのか、はっきり分かっていたわけではない。しかし、主イエスが再び姿を現されることを信じて彼らはそういう神を待ち望んで祈り続けた。そして、10日目、彼らは「聖霊を受ける」という異常な出来事を経験した。復活節第7主日とは「聖霊を待つ」主日である。
4. 「隠れたところにおられる神」
ところで、「隠れた神」ということについてマタイ福音書に面白い記事がある。これはわたしたちの祈りに関する一つの秘密事項である。一応、祈りについての主イエスの教えということになっているが、主の祈りについて主イエスが語られたこととは少し異なる雰囲気を持っている。結論を言うと、これは明らかに教会の状況における祈りの本質に関することである。祈りとはどうあるべきか。祈りとは「隠れたところにおられる神」に対するものであり、神はわたしたちの祈りを「隠れたところ」で見ておられる、とする。(マタイ伝6:6)ここでは明らかに神の本質として「隠れている」、つまり人間の目には見えない、ということが語られている。「見えないから」いないのではない。むしろ、「見えないからこそ」わたしたちの祈りを見ておられるということが語られている。人々は単純に「神を見る」ことを求めている。しかし、逆に神は見えないからこそ、ここにおられるのである。逆説的になるが、聖霊経験とは「隠れた神」がおられるという経験に他ならない。

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