落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

顕現後第3主日説教 ガリラヤの春

2010-01-20 16:59:37 | 説教
2010年 顕現後第3主日 2010.1.24
「ガリラヤの春」  ルカ4:14~21

1. 「ガリラヤの春」
ガリラヤ湖を中心とするイエスの初期の伝道活動(マルコ1:14~6:6、ルカ4:14~4:44)を19世紀のイエス伝研究者カイムは「ガリラヤの春」と名付けた。春風のそよぐガリラヤ湖畔ののどかな風景をバックにイエスは山で、湖畔で人々に語り病人を癒した。そんなイエスを民衆は熱狂的に歓迎し、イエスもまた人々のために食する暇もないほど多忙な日々を過ごしていた。その頃はまだイエスの活動を妨げる反対者もいなかったっものと思われる。
このようなガリラヤの春のイエスの活動をマルコは次のようにまとめている。
「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」(マルコ1:14~15)。この言葉を受けてルカは次のように語る。「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」(ルカ4:14~15)。マルコはイエスが何を語ったのかということに力点をおいており、ルカは伝道活動の方法に関心を寄せている。イエスはどこの地方にいても先ずそこの会堂で説教をした。その説教によってイエスは皆から尊敬を受けた。ルカは先ずガリラヤの春の伝道活動をこのようについてまとめた上で、イエスが語った説教の内容を次のように述べる。ルカはイエスの故郷ナザレでの説教の状況をかなり具体的に報告しているのでそれを手がかりに想像してみよう。
2. イエスの説教
先ず、当番の人からイザヤ書の巻物が渡される。イエスは立ち上がって次の文章を読む。「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4:18~19)。読み終えるとイエスはイザヤ書の巻物を係の者に返して席に座る。その頃は説教は座ってしていたらしい。集まっている会衆はイエスに目を注ぐ。そこでイエスは「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」と語る。これがイエスの説教である。実際にはその前後にいろいろなことを説明的に語ったかも知れない。しかし、それらの説明はあくまでも説明であって、その日のメッセージはこれである。
ルカはこの説教をイエスの故郷ナザレの説教であるという。それは事実であろう。しかしよく考えてみると、この説教はナザレでの説教というよりもイエスの一生を通してのメッセージであったと言うべきであろう。マルコがイエスの一生の説教を「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」という言葉で集約したように、ルカはイエスの生涯の説教を「この聖書の言葉は、今日、あなた方が耳にしたとき、実現した」という言葉で総括する。その意味ではルカ11:20の「わたしが神の指で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」という言葉も、またルカ17:21の「(神の国は)『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」という言葉もそのバリエイションであろう。
この説教を聞いた人々は驚いた。こんな説教を今まで聞いたことがない。今までの説教者は聖書を読み、聖書の意味を解説し、最後に「このことが実現するように祈りましょう」という言葉で終わる。ところがイエスは「この言葉が今日、ここで実現した」と宣言する。これは異様なことである。普通ではない。人々の驚きのざわめきが聞こえてくるような感じがする。
3. イザヤ書61章の背景と状況
その日読まれた聖書の箇所はイザヤ62:1~2で、いわゆる第3イザヤ(56章~66章)と呼ばれる文書に含まれている。第3イザヤ書は1人の預言者の文書というよりも、バビロン捕囚時代以後の時代に書かれた文書をまとめたいわば詩集のようなもので、中でもとくに61章は貧しい者を解放するメシア(油注がれた者)が立てられるという希望の詩である。50年近くに及ぶバビロンでの捕囚から帰還した人々の前には荒廃した祖国であり神殿であった。しかも彼らは先ず自分たちの住むところ、食べるものを確保することから始めなければならなかった。国を再建するということは生やさしいことではない。この当時のもう一人の預言者ハガイは「神殿は廃虚のままであるのに、お前たちはそれぞれ自分の家のために走り回っている」(ハガイ1:9)と言う。人々は自分たちのためにだけ奔走し、隣人のことが目に入らない。そういう状況の中で預言者の課題は貧しさに打ちひしがれ、希望を失いがちな人々を励まし、民族のエネルギーを鼓舞することにあった。それが神殿の建設という事業へと人々を向かわせる動機であったと思われる。今考えると失業対策であったのかもしれない。祖国再建の目標は完全に自由で平等な社会の実現ということで、それが「ヨベルの年=主の恵みの年」(レビ.25章)という言葉で表現されている。しかし現実の歴史はイザヤの期待通りには展開しなかった。イザヤ以後の預言者たちはイザヤの預言を受け継いだものの、それは終末論的な希望へと変質してしまった。終末論的希望とは現実には実現しないということの裏返しにすぎない。
イエスはそれに対して、「そうではない」と宣言する。イザヤの預言は今日、ここで、この言葉を聞いた瞬間、実現しているのだと語る。ルカはイエスの説教を語りながら、ルカの時代の人々に語りかけている。

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