2006年 聖霊降臨後第23主日(特定27) (2006.11.12)
レプトン銅貨二枚 マルコ12:38-44
1. 賽銭箱の前での出来事
41節に描かれているイエスの情景は珍しい。「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた」。福音書で描かれているイエスは常に見られる立場であるが、ここでは「見る」立場にいる。イエスはどんな顔をして見ていたのだろうか。何気なくボーッとしていたのか。それとも真剣に哲学者のような目をして観察していたのか。そのようなイエスの姿を弟子たちはどういう思いで見ていたのだろうか。
賽銭箱の前はなかなか面白い場所である。賽銭箱の前での仕草、態度、捧げ方(投げ方)、金額等を注意深く見れば、その人自身のあからさまな真相が見えてくる。それは医者が患者の血液を採って、その人の生活習慣や性格や健康状態を判断するのと似ている。
イエスは大勢の金持ちたちがお互いに競い合って大金を賽銭箱に投じているのを見た。彼らは明らかに見られていることを意識している。いやらしい。その中で、一人の貧しいやもめが、ソッとレプトン銅貨二枚(現在の通貨に換算して約300円程度か)を入れているのも見た。おそらく、もじもじとしていたのだろう。イエスが弟子たちに注意を喚起する余裕があったことから推測される。その態度や金額から、イエスは弟子たちに「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(43-44)と語られた。
2. 神の目
さて、本日のテキストを通してわたしたちはどういうメッセージを聞くのだろうか。読む人によって、いろいろあるだろうが、わたしはただ一つのことを聞く。それはイエスは、あるいは神は、わたしたちの生活の全てをしっかりと見ておられるということにほかならない。わたしたちは誰の目を意識して生きているのか。貧しいやもめは、「世間」とか「人の目」を避けて行動している。しかし、だからと言って、何も隠れて何か悪いことをしているのではなく、「神の目」を意識している。それに対して律法学者やお金持ちの連中は、「神の目」ではなく、「人の目」を意識し、それに支配されている。
昔はこういう人たちのことを「偽善者」と呼んで軽蔑した。今から考えると「偽善者」という軽蔑の言葉が生きていた頃は「善」ということが人間の生き方として重要な価値を持っていたのだということをつくづく考えさせられる。ところが、現在では「善」ということに人々はあまり関心をもたず、むしろ「かっこいい」ということに取って代わられている。しかも、その「かっこいい」という言葉には、身だしなみの良さとか、健全な常識というものからほど遠い。しかし、いずれにせよ、現代人の多くは「人の目」を気にして生きている。
3. 「人の目」
「人の目」を気にすること自体はそう悪いことではないが、問題は「神の目」が完全に無視されていることである。「神の目」などというと何か抹香臭い感じがするが、実は「神の目」から見えるものはその人の真相ということで、「神の目」を無視するということは自分自身の真の姿を見ようとしないということである。「人の目」から見える自分を自分自身だと思い込み、自分自身を見失ってしまうことを意味している。
しかし、「人の目」もそう単純ではない。「人の目」も外観だけを見ているわけではない。律法学者の外観だけを見て、単純に尊敬する人もいるかもしれないが、すべての人がそういうわけではない。「人の目」もしっかり見ることのできる人ならば、彼らの真相をはっきりと見ぬくことができる。もし、本当に「人の目」を気にするならば、そういう人の「目」を気にしなければならない。何か矛盾したような言い方になるが、こういう人たちの「目」を気にするということは、自分自身に正直になることである。そして、「見られて恥ずかしくない自分」を磨くこと。これ以外にない。
そこで最も重要なメッセージ。残念ながらわたしたちはどんなに自分を磨いても「見られて恥ずかしくない自分」になることはできない。ただ、わたしたちが「神の目」の前に立てること、自分の真相を見ぬくことのできる人の「目」にさらされても生きることができるのは、「赦しの福音」を信じるからである。
レプトン銅貨二枚 マルコ12:38-44
1. 賽銭箱の前での出来事
41節に描かれているイエスの情景は珍しい。「イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた」。福音書で描かれているイエスは常に見られる立場であるが、ここでは「見る」立場にいる。イエスはどんな顔をして見ていたのだろうか。何気なくボーッとしていたのか。それとも真剣に哲学者のような目をして観察していたのか。そのようなイエスの姿を弟子たちはどういう思いで見ていたのだろうか。
賽銭箱の前はなかなか面白い場所である。賽銭箱の前での仕草、態度、捧げ方(投げ方)、金額等を注意深く見れば、その人自身のあからさまな真相が見えてくる。それは医者が患者の血液を採って、その人の生活習慣や性格や健康状態を判断するのと似ている。
イエスは大勢の金持ちたちがお互いに競い合って大金を賽銭箱に投じているのを見た。彼らは明らかに見られていることを意識している。いやらしい。その中で、一人の貧しいやもめが、ソッとレプトン銅貨二枚(現在の通貨に換算して約300円程度か)を入れているのも見た。おそらく、もじもじとしていたのだろう。イエスが弟子たちに注意を喚起する余裕があったことから推測される。その態度や金額から、イエスは弟子たちに「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」(43-44)と語られた。
2. 神の目
さて、本日のテキストを通してわたしたちはどういうメッセージを聞くのだろうか。読む人によって、いろいろあるだろうが、わたしはただ一つのことを聞く。それはイエスは、あるいは神は、わたしたちの生活の全てをしっかりと見ておられるということにほかならない。わたしたちは誰の目を意識して生きているのか。貧しいやもめは、「世間」とか「人の目」を避けて行動している。しかし、だからと言って、何も隠れて何か悪いことをしているのではなく、「神の目」を意識している。それに対して律法学者やお金持ちの連中は、「神の目」ではなく、「人の目」を意識し、それに支配されている。
昔はこういう人たちのことを「偽善者」と呼んで軽蔑した。今から考えると「偽善者」という軽蔑の言葉が生きていた頃は「善」ということが人間の生き方として重要な価値を持っていたのだということをつくづく考えさせられる。ところが、現在では「善」ということに人々はあまり関心をもたず、むしろ「かっこいい」ということに取って代わられている。しかも、その「かっこいい」という言葉には、身だしなみの良さとか、健全な常識というものからほど遠い。しかし、いずれにせよ、現代人の多くは「人の目」を気にして生きている。
3. 「人の目」
「人の目」を気にすること自体はそう悪いことではないが、問題は「神の目」が完全に無視されていることである。「神の目」などというと何か抹香臭い感じがするが、実は「神の目」から見えるものはその人の真相ということで、「神の目」を無視するということは自分自身の真の姿を見ようとしないということである。「人の目」から見える自分を自分自身だと思い込み、自分自身を見失ってしまうことを意味している。
しかし、「人の目」もそう単純ではない。「人の目」も外観だけを見ているわけではない。律法学者の外観だけを見て、単純に尊敬する人もいるかもしれないが、すべての人がそういうわけではない。「人の目」もしっかり見ることのできる人ならば、彼らの真相をはっきりと見ぬくことができる。もし、本当に「人の目」を気にするならば、そういう人の「目」を気にしなければならない。何か矛盾したような言い方になるが、こういう人たちの「目」を気にするということは、自分自身に正直になることである。そして、「見られて恥ずかしくない自分」を磨くこと。これ以外にない。
そこで最も重要なメッセージ。残念ながらわたしたちはどんなに自分を磨いても「見られて恥ずかしくない自分」になることはできない。ただ、わたしたちが「神の目」の前に立てること、自分の真相を見ぬくことのできる人の「目」にさらされても生きることができるのは、「赦しの福音」を信じるからである。