落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第15主日(特定16)説教 天の国の鍵

2008-08-20 11:23:09 | 説教
2008年 聖霊降臨後第15主日(特定16) 2008.8.24
天の国の鍵 マタイ 16:13-20

1. 「教会」という言葉
この個所を考える場合に、まず最初に目を留めて置かねばならない点は、ここで「教会」という言葉が用いられているということである。ご承知のように、教会が歴史の上で登場したのはペンテコステ以後のことである。時間的経過からいうと、イエスの十字架と復活の後、分解した弟子たちの集団が復活のイエスの顕現という出来事を経験し、再結集した時から始まる。
つまり、本日のテキストの場面では教会というものは、この地上には影も形も存在していない。強いていうなら、イエスを中心とするごく少数の集団があったのみである。それは教会というにはあまりにもみすぼらしく、力無く、魅力がなく、貧しい集団にすぎない。ただ、彼らに注目すべき点があるとしたら、イエスという謎めいた人物が指導者であったというにすぎない。ひょっとすると、当時の権力者たちにとって、イエスという人物はいわゆる要注意人物であったかもしれないが、ただそれだけのことであった。
恐らく、このシーンにおいて教会という言葉が用いられているのは、考証学的見地からは、時代錯誤であったと思われるが、マタイはそんなことは承知の上であえて「教会」という言葉を用いる。教会というものを形成し、教会の中で生きていた人々にとって、イエスを中心とするこのみすぼらしい集団を示す言葉は、教会という言葉以外に考えられなかったに違いない。現代では彼らのことを「教会」という言葉とは区別して「イエスの集団」というような言葉を用いる。
2. 教会とイエスの集団
それでは、このイエスの集団のことを教会と称するのは間違いであろうか。そうは言えない。たとえ、彼らは未だ教会という言葉を知らなくても、彼らには教会と呼ばれるに相応しい基本的な性格をすでに持っていたことは否定できない。それは何か。それは、ただ一つ彼らはイエスを「メシア、生ける神の子です」という告白をした、ということである。その集団が教会であるか否かを区別するただ一つの指標は、この告白があるか否かという点にある。そこに何人の信徒が集まっているか、どれほどの経済力があるか、牧師とその家族とを養うことが出来るのか、というようなことが教会の指標ではない。名称さえ、どうでもよい。たとえ、そこが聖書研究会と呼ばれようと、家庭集会と呼ばれようと、伝道所と呼ばれようと、イエスを「メシア、生ける神の子」と告白する人々が集まる所、そこが教会である。そしてその教会には、陰府の力も対抗できないという。
3. ペトロと教会
さて、ここで問題になる点は、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」(19節)と言われていることである。いわゆる教会の「岩」(基礎=土台)と権威とがペトロ個人に属するのか、どうかという議論である。この議論の重要性は、このテキストの解釈によってカトリック教会とプロテスタント教会とが別れるということにある。この点について考えねばならないことは、このテキストがカトリックとプロテスタントとを対立させたというのではなく、先ず教会についての基本的な考え方が対立して後、プロテスタント側がこのテキストについての新しい解釈を提出しなければならなかったということである。つまり、ペトロが教会の岩であるという伝統的な考え方に対して、プロテスタント側がペトロの個人的特権を否定するという形を取っているのである。プロテスタント教会がペトロの個人的特権を否定せざるを得なかった理由は、ローマの教皇権の否定という現実的必要から出てきたのであって、このテキストそのものの解釈としては少し無理があるように思う。やはり、このテキスト自体はペトロという個人との関係は否定しきれない。イエスはご自身の死後のこと、そこから生まれてくるであろう「教会」のこと、具体的には教会に集う信徒たちのことを使徒ペトロに委ねたのであり、しかもその委任は全的委任であったことは否定できないし、ペトロを中心にして教会が形成されたことも歴史的事実である。それを非常に美しく語っているのがヨハネ第24章の、有名な「わたしの羊を飼え」という出来事である。
4. 教会という集団
さて、わたしたちは今、教会という集団に属し、教会という場所で礼拝をし、教会という交わりの一員となっている。この教会と呼ばれているものは場所であったり、組織であったり、働きであったりする。それらの教会が教会である特徴は目に見えるもの、わたしたちが体験できるものである。ところが教会は、それに尽きない。教会には「目に見えないもの」がある。それは神との関係である。それが天の国の鍵と呼ばれるものである。教会には天の国の鍵が託されている。教会は天の国の鍵を持っている。教会に属しているということは、天の国への入国権、いわば天国へのビザを持っているということである。教会は天の国へのビザの発給所である。この点が、どうもはっきりと自覚されていないように思う。あまりにも教会がこの世のレベルの事柄にまきこまれてはいないだろうか。たとえ、どんなにみすぼらしくても、貧しくても、小さくても、教会が教会であるということは、そこが天の国のビザの発給所であることには違いはない。

最新の画像もっと見る