落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

聖霊降臨後第13主日(特定15)説教 祈りの家

2005-08-06 16:24:17 | 説教
2005年 聖霊降臨後第13主日(特定15) (2005.8.14)
祈りの家   イザヤ書 56:1-7
1. 神殿が祈りの家であること
本日の旧約聖書のテキストの中で、「わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる」という言葉が目を引く。この言葉が語ろうとしているポイントは、二つある。一つは神殿はすべての人に開かれた場所であるということ、もう一つは祈りの家ということである。「誰でも、異邦人でも、宦官でも神殿に連なり、祭壇で献げ物を献げる人はすべて、それを受け入れる」。これは決してユダヤ人だけの神殿ではない。もちろん、一部の特権階級の人々のためのものでもない。また、ここはすべての人が神と向かい合い、神に捧げものをする場所であり、いかなる人間もここで金儲けをする場所ではない。ここはまさに祈りをする場所である。
2. 宮清め事件
さて、この言葉をめぐって、主イエスが大立ち回りをされた事件が福音書に記録されている。例の「宮清め」事件である。(マルコ11:15以下)ここには暴力的な主イエスの姿が描かれている。この事件については、4つの福音書がすべて語っており、しかもこのことが主イエスが十字架刑になる直接的原因とされているので、かなり信憑性は高いと思われる。主イエスがこの様な行為に至った根拠として、ヨハネを除く共観福音書はすべてイザヤ書の56章7節をあげている。
主イエスの目には当時の神殿が「強盗の巣」に見えたらしい。「強盗の巣」とは一部の特権的な人々が利益を生む場所という意味である。本来、すべての民にとっての祈りの家であるべき神殿が、一部の人々の利益を生む市場になってしまっている。
3. 主イエスの行動の目的
それで、主イエスは信じられないような行動を取られた。暴力的に神殿を粛正しようとされた、という。果たして主イエスの行動の目的は神殿の粛正だったのだろうか。一応、そのように見えるし、主イエスの行動を「宮清め」という伝統はそれを支持している。本当にそうなんだろうか。神殿が神殿としての本来の姿を回復すれば、主イエスは目的を達成したことになるのだろうか。まさか、神殿の庭に並べられていた売店を壊したくらいでは神殿の本体が、ということは神殿当局者たちの組織が粛正されるとは思えないし、主イエスだってそのことぐらいは承知していただろう。むしろ、この行動により主イエスは逮捕され厳罰に処せられるのが落ちではなかろうか。
ところが、その後、物語は意外な展開をする。この出来事の後、神殿当局者たちは主イエスの殺害を決定しながらも、主イエスに対して手出しができない。福音書はその理由として当局が民衆を「恐れている」(11:18,32、12:12)という点が強調されている。むしろ、この事件はこの方に注目して理解しなければならないのではなかろうか。
4. 教会こそ祈りの家
つまり、それが主イエスの行動の目的であったのか、どうかということは抜きにして、結果として、主イエスの神殿に対する暴力行為によって意外なことが明らかになってきた。当時、ユダヤ人たちにとって権力の固まりであると考えられていた神殿当局者たちが主イエスに対して手出しができないということである。つまり、ここで露呈してきた事実は、もうすでに神殿の権威は崩壊してしまっているということである。民衆が神殿を恐れるよりも、神殿側の方が民衆を恐れている。神殿は神殿としての権威を失っている。民衆を恐れ、民衆への指導力を失った神殿に残っているのは、一部の人間の利益を産み出す観光地化した宗教施設に過ぎない。観光客を驚かす輝く神殿も、その堅固な石垣も宗教的権威を失った金儲けの材料に過ぎない。
そこで浮かび上がってくるエピソードは13章の神殿崩壊の予告問答である(1-2)。この場では触れられていないが、恐らくこの場面で主イエスが語られたであろう言葉が、後に開かれた最高法院でのでの証言として引用されている。「わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建てて見せる」(14:58)という主イエスの言葉が記録されている。明らかに、これは教会の設立ということを語った言葉である。つまり、真の祈りの家は教会において回復される。もはや、あの豪壮なエルサレムの神殿は「祈りの家」ではない。世界の各地に散らばって、みすぼらしい姿で活動している諸教会こそが、主イエスが予告した「祈りの家」である。

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