落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

復活節第5主日説教 新しい掟

2010-04-28 17:35:53 | 説教
2010年 復活節第5主日 2010.5.2
新しい掟  ヨハネ13:31~35

1. 最後の晩餐の席での出来事
本日のテキストはいわゆる「最後の晩餐」の席での出来事である。先ず、イエスが弟子たちの足を洗うという衝撃的な出来事が報告される。それからいよいよ食事が始まると、イエスが突然、この中にイエスを裏切る者がいると話しだし、席は混乱する。当然「犯人捜し」が始まる。事態がよく分からないうちにイスカリオテのユダが財布を持って部屋を出て行く。ユダが部屋から出て行った瞬間、人類の歴史は大きく動いた。その瞬間の大きさをその場に居合わせた弟子たちは少しも理解していなかった。その「瞬間」がどんなに大きな意味をもつかということをこの福音書の著者は、「サタンが彼の中に入った」(13:27)と表現する。
やがて食事が終わると、イエスは11人の弟子たちに話しをする。それが今日の箇所である。
2. 「新しい掟」?
ユダがでていくとイエスは11人の弟子に新しい掟を与えるという。その内容は「お互いに愛し合え」というものであった。ここでちょっと立ち止まって考えてほしい。「お互いに愛し合う」ということははたして「新しい掟」なのであろうか。
互いに愛し合うということは人類が始まって以来の基本的な掟ではないのだろうか。「掟」という言葉が当てはまらないほど自明ののことで、弱肉強食の自然界において人類はお互いに愛し合うという方法以外では生き延びることができない弱い存在であたし、今もそうである。現代でもそうであるし、イエスの時代でも同様であったであろう。一方でそれが事実であり真理であると同時に、人間は又争う存在でもある。いったん争い始めるととどまるところがなく、徹底的に相手をせん滅しないでは終わらないのが人類でもある。イエスを殺そうと目論んでいる連中も人間である。親もおり子もおる人間である。その人間が同時に殺人者にもなる。つまり、お互いに愛し合うという人間の基本的な掟は、同時に常に破られる掟でもある。
この「掟」に比べれば、「モーセの掟(十戒)」などはずっと新しい。つまり「新しさ」と言うことで言えば、イエスが与える「新しい掟」よりもユダヤ人が大切にする「モーセの掟」の方がはるかに新しい。つまり、イエスの掟は「モーセの掟」を超克する「より根源的な掟」である。あえて言い切ってしまうならば、モーセの掟は根源的な掟を実践するためのマニュアルのようなものである。ところが、モーセの掟がこの点を見失い、ただ単に「強制する掟」として人間を縛るものになってしまっている。イエスはこの点を指摘しているのである。この点が見逃されたら、ここでのイエスの言葉の意味は半減する。
3. イエスの掟の新しさ
しかし、イエスの掟には独自の「新しさ」があることも否定できない。それは「わたしがあなた方を愛したように」という新しい言葉が付けられた相互愛である。この場面で言うならば、お互いに足を洗い合う相互愛、これがイエスが与えてくださる「新しい掟」である。モーセの掟が兄弟の罪を告発するものに堕してしまってる現状に対する批判、「洗い合う」という実践を語る。別の個所で著者ヨハネはイエスの愛についてこう言っている。「『神を愛している』と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です」(1ヨハネ4:20~21)。また、ヨハネ福音書の15:12,13でも同じように「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネ15:12,13)と語られた。ここで言う「兄弟のために命を捨てる」ということも、「命の分かち合い」という実践によって具体化される。「命の分かち合い」とは「食の分かち合い」であり「職の分かち合い」でもある。
初代の教会は、そしてヨハネの時代の教会もこの相互愛の実践の場として成り立っている。その象徴的な行為が聖餐式である。聖餐式とはコミュにオン、命の分かち合いに他ならない。
4. 不思議に思うこと
ヨハネがこれほど重視する「新しい掟」あるいは「わたしの掟」ということについて、わたしが不思議に思うことはこのことについて他の福音書が全く何も語っていないということである。確かに、福音書には「敵を愛す」(5:43)、「隣人を自分のように愛しなさい」(19:19、22:39)ということは述べられている。しかし、「互いに愛し合う」ということは語られていない。
もちろん、「互いに愛し合う」という掟がイエスに源流があることには疑いはないが、それを自覚的に取り出し、これこそがキリスト者の新しい生き方を規定するものだとして言語化したのはヨハネの功績であろう。

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