落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

顕現後第2主日説教 新しいイスラエル

2006-01-11 19:59:00 | 説教
2006年 顕現後第2主日 (2006.1.15)
新しいイスラエル   ヨハネ1:43-51
1. 弟子の選択
ルカによる福音書を除いて、三つの福音書は主イエスの最初の活動として、弟子たちを選んだ記事を述べている。このことは非常に注目すべきことである。主イエスの生涯において、最も重要なことは「説教」でもなく、「癒し」でもなく、弟子集団の形成であった、ということであろう。この弟子集団が「新しい神の民」であり、イエスの死後教会へと発展したのである。主イエスの説教も、癒しの業も、結局この「新しい神の民」の形成のための活動であり、主イエスにとって弟子を集めるということは単に自分の賛同者を集め、自分の活動の手助けをしてもらうということ以上の意味を持っていた。
福音書には主イエスが弟子たちをどのようにして選び、招き、訓練したのかということが割合詳しく述べられている。本日の福音書の直前では、アンデレとペトロが呼び掛けられている情景が述べられ、本日の個所ではフィリポとフィリポの友人ナタナエルが弟子に召される出来事が記されている。
2. この週の福音書に、何故、ヨハネ福音書が読まれるのか
さて、そこで少し疑問に思うことは、なぜアンデレやペトロへの呼びかけの記事よりも、フィリポとナタナエルとの出会いの記事の方を先に取り上げたのか、ということである。もっとも、これは福音書記者には関係ないことである。フィリポとナタナエルが弟子になったいきさつについての記事はヨハネだけが取り上げているのであるが、そのヨハネでさえ、アンデレやペトロの記事の方が先にある。もっとも、それは弟子間における長上の順序といえばそれまでであるが、教会の礼拝における福音書の選び方の順序としては疑問が残る。わたし自身の推測は、ナタナエルとイエスとの会話の内容が重要な鍵であると思っている。この点が本日の主題である。
3. ナタナエルの弟子入り
ナタナエルが主イエスの弟子になるに至った、主イエスとナタナエルとの会話は興味深い。まず、ナタナエルに主イエスを紹介したのは友人のフィリポである。このフィリポ自身はアンデレとペトロと同郷ということもあり、彼らから主イエスを紹介されたものと思われる。フィリポはナタナエルに「わたしたちは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った。それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」、と紹介する。この紹介の言葉も意味深長である。この紹介の仕方で、フィリポとナタナエルのそれまでの関心事が想像される。勉強仲間というか、共に聖書を学び、共に「メシヤ=救い主」を求め、新しい世界を望んできたのであろう。要するに、彼らは旧約聖書の世界の中で真面目に生きていた。フィリポの紹介の言葉に対して、ナタナエルはすぐに「ナザレから何か良いものがでるだろうか」と反論している。この言葉は「ナザレ」という地域に対する「偏見・差別」である。この言葉の中に、彼らの「勉強・探求」の本質が示されている。真面目ではあるが、視野が狭く、固定観念にとらわれている。それに対して、フィリポは「来て、見なさい」と言う。「偏見・差別」は現実をはっきりと見ないところから生まれる。ナタナエルのような人物には現実を見せるしかない。
自分に近づいて来るナタナエルを見て、主イエスは「見なさい」という。ここの部分における「見る」という言葉あるいは行為は注目すべきである。ナタナエルはフィリポからイエスを「見なさい」と言われる。主イエスもナタナエルを「見なさい」という。出会いというものはお互いをしっかりと「見る」ことから始まる。見ればわかる。彼の姿・態度を見れば、彼の人となりが見える。主イエスは言う。「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない」。この主イエスの言葉は皮肉でも、冗談でもない。まさに、ナタナエルは旧約聖書の中で生きている「まことのイスラエル人」の典型である、と主イエスは見た。しかし、その理由はわからない。真面目なナタナエルは直ちに質問する。「どうして、わたしを知っておられるのですか」。この質問も鋭い。それに対する主イエスの言葉は謎に満ちている。「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、いちじくの木の下にいるのを見た」。ここには当時に人たちにしかわからない隠語が隠されているのかも知れない。ともかく、ここで主イエスが言おうとしていることは、ナタナエルのことをフィリポから紹介される前から知っていた、ということであろう。イエスはナタナエルの何を知っていたのか。何時知ったのか。そんなことは問題ではない。要するに、ナタナエルのような人物は数は多くはないにしても「典型的イスラエル人」なのだ。しかも、良質のイスラエル人である。ひょっとすると、主イエスはナタナエルの中に「自分と同じもの」を見たのかも知れない。
ナタナエルの方でも、イエスの中に「自分の理想」を見た。そこで、主イエスに対して「あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です」と叫ぶ。聖書には「叫ぶ」とは書いていないが、ナタナエルの発言はおそらく「叫び」に近かったであろう。しかし、冷静に考えてみると、「典型的イスラエル人」が、目の前にいる一人の男を「神の子です」と叫ぶはずはない。そもそも、主イエスが十字架に掛けられた根本的理由は、人々がイエスのことを「神の子」としたことによる。おそらく、この言葉はイエスを「神の子」ということに異常なこだわりを持つヨハネの勇み足かも知れない。重要な点はナタナエルがイエスのことを「イスラエルの王」であると言った言葉である。
4. もっと偉大なこと
ともかく、ここまでの会話は、「イスラエル」という言葉を軸にした、古い文脈の中での会話である。従って、ここでのナタナエルとイエスとの関係はイスラエル共同体内部における主従関係の成立である。それに対して、イエスは「こんな事ぐらいで驚いているのか。これは序の口である」と言い、言葉を継いで、「はっきり言っておく。天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、あなたがたは見ることになる」と述べられた。この言葉も謎に満ちている。何を意味しているのかよくわからない。が、この「天使たちが昇り降りする」という言葉から一つの情景を思い出す。この言葉は、イサクの子ヤコブが双子の兄エサウとの確執から、故郷に居られなくなり、旅に出る(創世記28:10)。たった一人の寂しい旅立ちであった。目的地は一応母リベカの実家、兄ラバンの家ではあるが、いわばこの「逃避行」は先行きはまったく不透明である。ヤコブが石を枕に野宿をしているとき、夢を見る。その夢の中で「先端が天まで達する階段が地に向かって伸びており、しかも、神の御使いたちがそれを上ったり下ったりしていた」(創世記28:12)。これはヤコブにとって神との出会いの経験であった。神はここにも居られる。神はある特定の場所でなければあうことが出来ないわけではない。誰もが、こんなところには神は居ないと思われるところでも、天と地を繋ぐ「階段」はある。ナタナエルの言葉を返して言うならば「ナザレ」にも神はおられる。
このいわゆる「ヤコブの階段(ラダー)」の伝説は、イスラエル人なら誰でも知っているはずである。ところが、イスラエルの古い伝統にしがみついている人たちには忘れられていた、いわばイスラエルの原点である。そもそも、「イスラエル」という名前は先祖ヤコブに付けられた新しい名前である。このように見てくると、ここでイエスによって語られている「もっと偉大なこと」とは、新しいイスラエルの誕生である。ナタナエルは確かに本物のイスラエルである。しかし、古い時代に属するイスラエルである。ここで主イエスはナタナエルに「新しいイスラエル」(1コリント10:18「肉のイスラエル」、ガラテヤ6:16「神のイスラエル」)へと呼びかけておられる。
5. 新しいイスラエルとしての教会
さて、わたしたちは「新しいイスラエル」である。教会は単なる人間の集団ではない。仲良しクラブではない。主イエスによって選ばれ、召され、一つにされた「共同体」である。単なる「善男善女」の組織ではない。むしろ選ばれたのは、最初の弟子たちがそうであったように「大した人間ではない者たち」であろう。しかし、ただ一つ他の人間集団と異なる点は、わたしたちの交わりの「真っ直中に」主イエスがおられるということである。そして、主イエスによって、主イエスを通して神が「わたしたちの間に」おられる。主イエスがなされた最も偉大なことは、この人間集団をお作りになったということである。

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