落ち穂拾い<キリスト教の説教と講釈>

刈り入れをする人たちの後について麦束の間で落ち穂を拾い集めさせてください。(ルツ記2章7節)

顕現後第5主日説教 主はわたしの命の砦  詩27

2011-02-02 15:38:38 | 説教
S11E05 Ps027(S) 顕現後第5主日 2011.2.6
主はわたしの命の砦  詩27

1. 詩27の構成
この詩の大きな特徴は前半と後半とのトーンの違いである。1節から9節までの部分では神を信頼することが美しい言葉で語られており、10節以下の部分では困難な状況における嘆願の祈りとなっている。これらの部分を全然別な詩人による独立した詩であるという主張もあり得るほどであるが、両者が相互に補い合うことによって神を信頼する信仰の次元がより一層深まるのである。
2. 神に対する信頼と賛美の詩(1-9節)
この部分については特に注釈は不要であろう。詩そのものを繰り返し読んで味わって欲しい。2節、3節を読むと詩人のおかれている状況は決して平和ではない。敵が軍勢を敷いて襲いかかってくるような状況の中でも詩人の心は穏やかである。これこそが神を信じる者の力であろう。そのような状況の中で「わたしは主に一つのことを願い求める」と祈る。それ以外のことを求めない。それは神殿で「主の麗しさを見ること」だけである。ここまで神を信じる者の祈りと賛美である。
3. 嘆願の祈り(10-11節)
ところが10節に入ると雰囲気はガラリと変わる。10節の「わたしをあわれみ、答えてください」という願いは切実である。ここでは神への叫びに対する「応答」を求めている。つまり詩人は神とのコミュニケイションが途絶えた状況におかれている。9節までの美しい関係が切れている。神の顔が見えない。11節の言葉はかなりややこしい。おそらく、こういうことを言おうとしているのであろう。詩人は今、神の顔が見えなくなっている。そういう状況で、詩人はかつて神が「わたしの顔を求めよ」と言われた言葉を思い出し、「神よ、あなたの顔を慕い求めます」と信仰を決意する。この詩27では「主の麗しさを仰ぎ見る」(6節)、「あなたの顔を慕い求める」(11節)、「神の美しさを仰ぎ見る」(12節)と同じような言葉が3回繰り返されている。信仰とは神を仰ぎ見ることである。
4. 祈祷書の詩編の問題点
実は、11節と12節との間に、非常に重要なことがある。とくにそれが問題になるのは祈祷書訳の詩編を読む聖公会の信徒だけの問題であろう。祈祷書訳の詩27では11節と12節の間に新共同訳での9節から12節までが省略されている。その部分は次の通りである。節番号は新共同訳による。
≪9 御顔を隠すことなく、怒ることなく、あなたの僕を退けないでください。あなたはわたしの助け。救いの神よ、わたしを離れないでください、捨てないでください。10 父母はわたしを見捨てようとも、主は必ず、わたしを引き寄せてくださいます。11 主よ、あなたの道を示し、平らな道に導いてください。わたしを陥れようとする者がいるのです。12 貪欲な敵にわたしを渡さないでください。偽りの証人、不法を言い広める者が、わたしに逆らって立ちました。≫
祈祷書の詩編を翻訳し編集した人たちが何故この部分を省いたのか、その理由は不明である。確かにここの部分では調子が変わる。ここには「御顔を隠す神」、「見捨てる神」という思想が背景にあり、詩人の心は揺れ動いている。彼は「貪欲な敵」、「偽りの証人」、「不法を言い広める者」から追い詰められ、両親からさえも捨てられようとしている。つまり、ここの部分は詩人の不信仰な姿がさらけ出されている。神だけが頼りであるが、その神が顔を隠し、離れようとしている。その神に必死にすがる詩人の姿がある。その意味では他の部分で描かれている神と詩人との関係とかなり隔たりがある。しかし、この部分を抜いたしまったら詩27は平凡な信仰的な詩に過ぎなくなってしまう。現実の信仰とはそんなに単純で美しいものであろうか。信仰とは「み顔を隠す神」、「見えない神」に向かって必死にすがる所から「神の美しさを仰ぎ見る」姿ではなかろうか。「神に生きる人びとの中で、神の美しさを仰ぎ見る」(12節)という言葉の背後にはこのような厳しさがある。そうでなければ、13節の「主を待ち望め、心を強くして主を待ち望め」というメッセージも形式的なお行儀のいいお説教になってしまう。まるで十字架のないキリスト教のようである。
5. 信仰の回復(12-13節)
この詩を締めくくる最後の部分(12-13節)の祈祷書訳では、先ず「わたしは固く信じます」という言葉が述べられ、その信じる目的語がそれに続く。「わたしは堅く信じます。神に生きる人びとの中で、神の美しさを仰ぎ見ることを」。面白いことに新共同訳でも同様に訳している。「わたしは信じます。命あるものの地で主の恵みを見ることを」。ところがヘブライ語原文を直訳すると「もしわたしが信じなかったならば、生きている者たちの中で、主の善を見ることを」とあり、中途半端な文章である。この節についてヘブル語聖書対訳シリーズ(ミルトス)の注解者は「この『もし』は現実の事実に反した仮定を表す」と語り、「詩人が絶句しているので難解な個所、マソラ本文に傍点が付いている」と言う。詩人は「信じる」と断言できない自己を知っている。「信じる」と言い切れるならば事柄は簡単である。むしろ、それを言い切れないところに詩人の真実がある。
12節の苦悩を受けて、13節の「主を待ち望め、心を強くして主を待ち望め」という言葉は意味を持つ。今は「信じられない」。だからこそ「待ち望む」。「心を強くして待ち望む」。この節を新共同訳では原文に忠実に、「主を待ち望め、雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望め」と翻訳している。私はこの言葉からイエスの最後の言葉を思い起こす。「なんじら世にありては艱難あり、されど雄々しかれ。我すでに世に勝てり」(ヨハネ16:33、文語訳))
1節から9節までで高らかに歌った神との美しい関係が現実のものとなる日を待ち望む。

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