【1区】
逢沢一郎 12万7千<自・前>
菅源太郎 06万1千<民・新>
植本完治 01万2千<共・新>
福島捷美 00万9千<社・新>
総選挙で党の存亡をかけた戦いを迫られている社民党、岡山で5年ぶりに小選挙区に公認候補を擁立した。
03総選挙、04参院選はともに公認候補を立てられずに不戦敗だった。
比例票は、岡山2区に公認を立てた00総選挙で7万を得たが、03は3万にまで落ち込んだ。
他県でも比例票は激減し、比例中国ブロックの議席を失った。
党の存在意義を問われかねないだけに、責任をとる格好で、岡山社民の幹事長・福島捷美が1区から出馬した。
元県議の福島は、3区に属する備前市日生町が地盤ではあったが、平沼と戦うよりは、無党派層への働きかけができる岡山市内の方が有利と判断し、1区から出馬を選択した。
まや1区の民主党候補は菅源太郎であるため、民主支持層の取り込みもできるとの計算があったものと思われる。
社民党にとって、存亡をかけた選挙であった。
【2区】
津村啓介 8万8千<民・前>
萩原誠司 8万6千<自・新>
尾崎宏子 1万4千<共・新>
郵政法案反対の自民前職・熊代昭彦が公認を得られずに出馬を断念、代わって岡山市長の萩原誠司が小泉首相の要請を受けて立候補する異例の事態となった。
萩原には、任期途中で市長を辞職したことへの批判があった。
萩原は出遅れを取り戻そうと、「比例は公明」で公明との連携に懸命だった。
市長時代に築いた公明との関係を基礎に、自公の枠組みで勝負という形を取った
津村は、萩原が市長として築いてきた組織や知名度に危機感を強める。
地方議員や企業の支援は萩原陣営より圧倒的に少ない。
初当選以来、ミニ集会を重ねた津村の自力が問われる選挙になった。
岡山市…自民114(35)民主104(31)公明57(17)共産23(7.5)社民17(5)国民15(4.5)
【3区】
平沼赳夫 10万0千<無・前>
阿部俊子 05万9千<自・新>
中村徹夫 03万6千<民・新>
中嶋義晴 00万8千<共・新>
瀬戸内沿岸から中国山地までつながる3区は県内最大の選挙区だ。
これまで圧倒的な強さを誇ってきた平沼赳夫は、郵政法案反対のため今回は自民公認を得られず、自民・阿部俊子が対立候補として乗り込んできた。
阿部は比例中国ブロックの名簿順位は1位だが、公選法の規定で3区での得票が有効投票の1割以上なければ比例での復活当選もない。
地元に縁もゆかりもない阿部は「自民公認」を強調、自民支持者を取り込むと同時に、「比例は公明」で公明支持層の取り込みも行った。
平沼が創価学会批判の急先鋒だったこともあり、公明への浸透は成功した。
また、党本部からの支持で、自民党県議が陣営に加わり、急速に支持を広げた。
一方、平沼も、自民党県連の支援を受けた。
平沼は危機感を感じ、他選挙区の応援は3日だけ、あとは地元に張り付いた。
自民党幹部として、ほとんど地元をあけていた前回とは様相をことにした。
平沼は必死であった。
当初、100名以上いたはずの「優勢懇話会」の同志は、採決時には40名を割っていた。
盟友の古賀・高村両名も「退席」で「反対」には回らなかった。
綿貫を旗頭にしながら、「郵政懇話会」での議論をリードしてきたのは、他ならぬ古賀誠であった。
小派閥のころから苦楽を共にしてきた子飼いの中堅若手からも「造反」が出る。
そして、覚悟はしていたという解散総選挙に突入する。
兼ねて、約束のあった「石原新党構想」、結成なら今だと長年の盟友石原のもとを訪ねる。
しかし、石原の返事はつれないものであった。
石原の息子2人が自民党公認で選挙戦に出る。
石原に自民党へ反抗する気などない。
郵政政局の最中、平沼が繰り返した「真正自民党」構想は頓挫する。
平沼が途方に暮れる中、盟友中の盟友・亀井静香が「国民新党」を立ち上げ。
綿貫は「西郷の気持ち」で党首を引き受ける。
しかし、その時すでに、小泉自民党の勝利は確実な体勢であり、追い出された同志の苦戦が伝えられていた。
自民党を出るわけにはいかない。
亀井の誘いを蹴り、平沼は無所属での出馬を決意する。
しかし、平沼は弟分ともいえる反対派議員の応援に出かけながら、それ以外は選挙区に張り付く厳しい選挙戦になった。
本来なら、応援に出かける時間すらなかった。
「生長の家」出身の平沼は、創価学会・公明批判の急先鋒であった。
なんの地盤もない落下傘候補が、公明党、そして中央からの指示で動いた議員の精力的な動きで、平沼の地盤を崩しにかかったのである。
平沼自らが握手をして歩くという徹底した地上戦で、大差で当選を果たす。
しかし、選挙戦そのものは、総裁候補のそれではなかった。
自分の家であった派閥は、新しい主の下で再出発している。
平沼の苦闘は選挙後も長く続くことになる。
津山市…自民19(35)民主16(30)公明9(17)国民4(7.5)共産3(5.5)社民3(5)
【4区】
柚木道義 10万2千<民・新>
橋本 岳 09万6千<自・新>
東 毅 01万7千<共・新>
4区は、橋本龍太郎元首相から地盤を継いだ次男の橋本岳と、03総選挙で竜太郎氏に敗北した柚木道義が接戦を繰り広げた。
橋本は、「龍太郎の後継」の後継を前面に出しての選挙戦となった。
父の龍太郎に加え、小渕優子、久間章生らが続々応援に駆けつけた。
さらには、叔父の橋本大二郎・高知県知事も応援に駆けつけた。
元首相の1億円献金問題に加え「世襲」批判と、逆風の中の短期決戦であった。
頼みの綱はやはり、14期連続当選の父の組織と人脈だ。
「比例は公明党」で、公明票の取り込み図った。
柚木は、「政権交代」に加え、「世襲批判」を看板に選挙戦を戦った。
今回、菅直人・民主党前代表も2回来援し、また前回齟齬のあった連合岡山との連携もうまくいった。
「大物の倅」というだけで、当選できる時代ではない。
世襲議員は、確かに多いものの、ただ御輿に乗っかるだけで勝てるほど甘いものではない。
世襲でもいいが、その代わり能力のアピールが重要になってくる。
能力なき世襲候補が、楽々当選という時代ではない。
保守王国ではあっても、選挙区の私物化である安易な世襲は批判の的になる。
国民の意識は、大きく変わっているのだということがはっきりとした選挙であった。
もちろん、民主も他人事ではない。
倉敷市…自民78(34)民主74(32)公明42(18.5)共産14(6.5)国民10(4.5)社民10(4.5)
【5区】
村田吉隆 11万5千<自・前>
花咲宏基 06万8千<民・新>
堀 良道 01万0千<共・新>
全国が優勢の喧騒に包まれる中、5区では、村田吉隆と加藤勝信の間で、激しい公認争いが繰り広げられた。
加藤は00、03衆院選で比例区単独候補として立候補した。
「2・3回連続で比例の議員は、比例名簿に登載しない」というのが自民党の原則である。
これを基にづき、加藤は「小選挙区で立候補できる番」と、5区での公認を申請したのだ。
しかし、村田は小選挙区を譲らなかった。
小選挙区と比例区に交代で立候補するコスタリカ方式採用などの配慮を申し入れたが、党本部は5区での村田の公認を決めただけであった。
加藤は、村田との間でコスタリカ方式成立を期待した。
だが、村田はコスタリカを拒否した。
民主新顔・花咲は、自民対決のよる埋没を警戒していた。
所属する旧橋本派の額賀福志郎は、「比例上位、次回以降は今後調整」の線で村田の所属する宏池会の古賀誠や、自民党総務局長・二階との間で協議を持った。
協議が不調に終わり、加藤は、一旦は、無所属での出馬を決断した。
この決断を受けて、自民党県連は「自主応援」と決めた。
しかし、その後、「上位登載」の条件提示を受け、加藤勝信は自民の党内調整に応じ、比例区に回った。
これにより、選挙前の自民党の内乱は終結した。
加藤の伯父は加藤六月元農林水産大臣である。
六月は安倍晋太郎の信任の一番厚い政治家とされ、三塚・森・塩川と並んで、森派四天王と呼ばれた程の大物である。
安倍の死後、三塚と六月との間で後継をめぐる「三六戦争」が勃発した。
旧中川派の支持などで三塚優勢となり、森・塩川も三塚に付く中、六月は一敗地にまみれ、清和会を追われる事となった。
この「三六戦争」で、三塚側の急先鋒だったのが小泉純一郎である。
小泉こそが、六月を清和会から追放した張本人である。
六月の清和会総会への出席を実力で阻止、六月の追放を声高に唱えた。
その後、三塚清和会が竹下登に傾倒していくのと同時に、六月は小沢一郎に傾倒していく。
前置きが長くなったが、加藤に比例上位の確約がなされたのは、公示日前日である。
自民分裂という事態を省みず、自民党党中央が、加藤をここまで追い込んだのは何故だろうか?
加藤は六月の後継であり、さらに橋本の紹介で平成研へ入会している。
小泉の支持があったのだと考えるのは、裏読みのしすぎであろうか?
笠岡市…自民12(39)民主9(29.5)公明5(16)共産2(6)国民2(6)社民1(3.5)