山川草一郎ブログ

保守系無党派・山川草一郎の時事評論です。主に日本外交論、二大政党制論、メディア論などを扱ってます。

「参加型」の時代

2005年08月29日 | 政局ウォッチ
郵政民営化法案を自民党内の多数決で国会に提出し、その法案が参院で否決されるや衆院解散に踏み切った小泉純一郎首相。その政治手法に対して「民主主義を壊す暴挙」と声高に批判する人たちがいる。確かに全会一致が原則だった自民党総務会の慣例には反しているし、党内の混乱をきっかけに議会を解散した判断には「危うさ」が付きまとう。

一方で、党総務会の全会一致原則が、赤坂や銀座での連日連夜の根回し、裏工作という自民党の悪しき慣習を生んだのも事実だ。ポストの誘惑や脅しも含むありとあらゆる説得工作によって、本番では粛々と政府法案が決定されたのだ。

そうした「料亭政治」は永田町の知恵ではあったが、国民・有権者には見えない場所で政策決定が行われることにより、一般国民の政治離れを招いた。

今回の郵政政局でも、首相に近い森喜朗氏や安倍晋三氏、青木幹雄氏らが反対派の説得に動いた。多くの国民は法案が総務会にかけられる頃には、既に全会一致の段取りが固まっているのだろうと考えた。自分たちの見えないところで結果が決まっているのが、従来の永田町政治だったからだ。

ところが結果は違った。最後まで反対派の抵抗は変わらず、執行部は前例のない「多数決」によって総務会を強行突破し、法案を国会に提出したのである。

国会審議でも同じ光景を目にすることになった。どんな対立法案でも、衆参両院での採決直前には、賛否議員数の「票読み」がまとまっているのが従来の国対政治だった。しかし、今回は最後の最後まで票が読めず、一発勝負の本会議採決は国民の注目を集めた。

このような政治は、今までの政治とは全く違うものだ。スリリングと言ったら叱られるかも知れないが、根回しの効かない多数決の政治は、「分かりやすさ」という意味で、新しい時代の政治の在り方を提示していると思う。

霞が関で生まれた法律が、夜の赤坂で利権団体や選挙区の事情によって捻じ曲げられ、平河町の全会一致で決定される。永田町は平河町の決定を追認するだけ―。

郵政民営化反対派の議員が「壊された」と主張する「民主的ルール」とは実は、そうした永田町の、いや平河町の「村の掟」に過ぎなかったのではないか。

ブラックボックスの中でお膳立てされた全会一致よりも、衆人環視の下でのガチンコ多数決勝負の方が、国民にとっては分かりやすい。確かに美しい光景ではないかも知れないが、民主主義とは本来そういうものだ。

「民営化には賛成だが、小泉執行部の強引な政治手法は許してはならない」―。反対派議員の中には、そんな「義憤」を理由に同僚に造反を呼びかけた人も多かった。全会一致原則は、利権団体や選挙区の事情を抱える議員たちにとっての生命線だろうが、国家の制度を大きく変えようとする時には、どうしても障害になる。

参院で法案が否決されても、国民の多くが郵政民営化を支持していると首相が思うのなら、衆議院を解散して国民の判断を仰ぐことは一つの判断だ。有権者にとって必ずしも悪いことではない。法案に反対した議員の選挙区に、賛成派候補を立てて競わせるのも、従来の政治の常識から言えば乱暴だが、分かりやすさという点では首尾一貫している。

9月11日の投票は(そうした政治手法も含めて)現政権に「賛成か、反対か」を問う一発勝負となるだろう。「政治判断の丸投げ」と言えなくもないが、世論調査を見る限り、多くの国民が判断に関わることを望んでいるように見える。

「結果の見えない政治」は混乱を招くが、「プロセスの見えない政治」よりは、遥かにマシだ。

「新党の幹事長になった気分」と武部勤自民党幹事長が自画自賛するように、反対派議員の選挙区に送り込まれる「刺客」の顔ぶれは、小泉自民党が目指す新しい政治路線を明確に指し示している。

その路線を「勝ち組の政治」と批判的に呼ぶ人もいるが、その指摘は正しい。刺客に選ばれた新人候補の多くは、「努力すれば成功できる社会」を体現した人たちだ。(中には、ただのタレントもいるが)

少子高齢化の時代に経済・社会のダイナミズムを取り戻そうとするなら、努力が報われる自由競争を担保しなくてはならない。新たな勝者を認めるには、既存の既得権を打破することが必要だ。

既得権は強者だけのものではない。弱者の既得権が自由競争を妨げる規制となっている例もある。新自由主義は、誰もが「勝ち組」になれると同時に、いつでも「負け組」に転落する可能性のある社会を目指す。勝敗を分けるのは「既得権」でなく「自助努力」である。

とはいえ、自民党がライブドアの堀江貴文社長に衆院選出馬を打診していると聞いた時には、率直に言って違和感を持った。ニッポン放送株をめぐるフジテレビとの騒動で、経済界は堀江氏の手法に批判的だったからだ。

財界は自民党の伝統的な支持基盤のひとつである。55年体制下では、資本・経営を代表する自民党と労働を代表する社会党が対峙した。社会党の役割は現在の民主党に継承されている。

資本と経営は本来、分離された存在のはずだが、戦後の日本型資本主義では、株式の持ち合いによって資本は経営に従属し、大企業や中小企業、農漁業の経営者は自民党を支持した。しかしながら、小泉政権が目指す新自由主義社会では、資本と経営は明確に分離され、資本と経営の従属関係は逆転する。

この流れは必然として、経営を代表する「古い自民党」と、資本を代表する「新しい自民党」との分裂を促すこととなった。

郵政民営化をめぐる自民党内の対立は、この分裂を象徴する現象だった。郵貯・簡保が握る巨大資金を資本主義のルールに委ねようとする「新しい自民党」に、特定郵便局長会という経営者組織の支援を受けた「古い自民党」が待ったをかけたのだ。

資本と経営の対立に、労働が加わったことは、政争の構図をさらに複雑にした。労使交渉で長年対立してきた特定郵便局長会と旧全逓(公社労組)が、団結して政府の民営化法案つぶしに動いたのである。

結果、経営サイドに支援された自民党と、労働サイドに後押しされた民主党の反対によって民営化法案は否決され、新旧自民党の路線対立は決定的となった。「新しい自民党」はより理念を明確にするため、資本を代表する候補者を、「古い自民党」議員の選挙区に送り込む。堀江社長はそのシンボル的存在となるはずだった。

堀江氏の経歴を見れば分かるが、彼は経営者というより、本質的に「資本家」である。「既得権の壁に挑戦する若きベンチャー企業家」と見るから民主党のイメージに重なるだけで、「企業は株主のもの」と豪語して憚らないその思想を冷静に考えてみれば、彼が小泉首相率いる「新しい自民党」に共感を抱いたのは、むしろ自然なことだった。

日本型資本主義社会では、企業の株式は、メーンバンクなどの関係企業が所有する。個人株主もいるにはいるが、どちらかといえば「脇役」であった。これに比べ、自社株を分割し、無数の個人株主に買ってもらうことで、時価総額を吊り上げてきたライブドアの手法は、明らかに「異端」だ。堀江氏の言うように、その思想においては、一人ひとりの個人株主こそが「主役」となる。

ネット時代の「参加型ジャーナリズム」にたとえるならば、堀江社長の思想は「参加型キャピタリズム」と呼べるかも知れない。

その発想は、実は小泉首相の考え方とよく似ている。古い自民党にとって「票」という株式を保有するのは、既得権を持つ業界団体だった。党総裁である小泉氏は、この伝統的構造を敢えて破壊し、「無党派」と呼ばれる既得権を持たない層に支持を訴えたのだ。

一人ひとりの声は小さくとも、有権者の大半を占める無党派の潜在的パワーは大きい。小泉首相の「新しい自民党」は、旧来の組織票を捨ててでも、この潜在的大票田を掘り起こすことに賭けた。成功すれば、ライブドアと同じように自民党の時価総額を高め、選挙でも勝利を収めることだろう。

ただし、個人株主の目は厳しい。もし「新しい自民党」の経営者が、株主の利益を損なうような動きを見せたら、すぐに株式を手放すだろう。そうなれば、自民党株は暴落し、政権の座から転がり落ちる。

一人ひとりの有権者が決定権を握る政治は、有権者にとっても責任重大である。もう政治家や官僚、マスコミのせいにして傍観することは許されない。

今回の解散総選挙は、いわば「参加型デモクラシー」の時代の幕開けだ。日本国の株主となった有権者は今、この国の経営方針を鋭い視線で見極めようとしている。(了)



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