赤い椅子

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熊野古道大辺路  Ⅵ 2日目

2008-01-22 22:05:22 | ノンジャンル
1月17日、朝7時45分、ホテル出発。風もなく気持ちよく晴れた空だ。
那智駅からしばらくは国道で車が多くて危ないため狗子川(くじ川)まで
バスで行く。8時到着。ストレッチをして出発。
源助茶屋の跡だという古い石垣が歴史を感じる道だ。



国道を横切りすぐに大狗子峠に差し掛かる。
しばらくして越える小狗子峠・・・名前に似合わず此方の峠の方が少しきつい。
山道から国道に出、JR 紀勢線と並んで歩く。
国道沿いにある佐野王子まで約1時間。
















しばらく国道42号線を歩き、黒潮公園に入る。
あちこちの歌碑があるが難しい字が並んでいる。万葉歌碑だったみたい!

JR三輪崎を越え緩やかな坂を上ると、孫八地蔵という
可愛い地蔵さんが赤い涎掛けで立っている。
孫八さんを供養しているのか孫八さんが寄進したのか・・・
語り部さんにも分からないらしい。



JRの高架下をくぐって坂道にたどり着く。
これが世界遺産となった海辺の熊野古道高野坂(こやのさか)である。
苔むした石畳が残っている。歴史の古さ、深さをしみじみ感じる道だ。
距離は1.5キロほどだ。

















上皇や貴族たちの熊野詣が盛んになってきた平安時代後期、
本宮大社から速玉大社・阿須賀神社・浜王子を通り、王子ヶ浜・高野坂・
三輪崎・佐野王子を過ぎて那智山へ向かうル-トが出来上がったようです。

さすが南紀、アザミの花が咲いていました。



高野坂を三輪崎側から上り詰めた辺りで振り替えると眺めが最高にいい。
昔の記録にも、難行苦行の熊野詣の途上で、この高野坂の高台から
大パノラマをかなたに展望した旅人は、思わず「ああ、ここは日本の南極だ」
と叫んだとあり、ここまで来た喜びと感動が表わされている。
熊野の海は今も昔も変わらずやさしく穏やかだ。
日に輝ききらめいていて丸い地平線が見渡せ気持ちが大らかになる。
この王子ヶ浜は新しい道が作られるまでの熊野古道である。
波打ち際に打寄せる波の音を耳にそぞろ歩いて30分で王子神社に到着。
















熊野九十九王子のひとつで浜王子とも呼ばれている。
平安時代後期の上皇や貴族たちの熊野詣では、本宮大社から熊野川を下って
速玉大社へ、そのあと阿須賀神社、浜王子を通り、高野坂、三輪崎、
佐野王子を過ぎて那智山に向かったらしい。

街中の果物屋さんできれいな新鮮なポンカンを見つけたが、
またあるかもしれない・・・と思いついに残念ながら買いそびれた。

町の中に急に中国風の立派な楼門が見える。徐福公園だという。



ここで昼食のお弁当を貰い食べる。春のような日差しの中で・・・

園内にははるか昔、中国から渡ってきたとされる伝説の人物、
徐福の墓があります。

徐福の伝承は今から約2200年前、中国は秦の時代、
始皇帝は東方海上にあるという蓬莱の島から、不老不死の霊薬を持ち帰れと
家来の徐福に命じます。そこで徐福は数百隻の船に数千人の男女、
金銀財宝を積みこみます。そして東方を目指して船出し、
新宮の地に渡来するのです。 彼は新宮で天台烏薬という薬木を発見しますが、
再び中国に帰ることはありませんでした。
この地に永住し、農耕、漁業、捕鯨、織物、紙すきなどの技術を
人々に伝えたといわれます。

公園内の池の鯉
















熊野川河口にほど近い阿須賀神社は、背後にある円錐形の山、蓬莱山を
ご神体とした自然崇拝が起源と考えられ、一説には熊野で最古の神社ともいわれる。



境内からは弥生時代の竪穴式住居が発掘され、また熊野の奥深い歴史を
目の前にした。















阿須賀神社のすぐ裏には熊野川がある。
大きな広い河口は海のようだ。対岸は三重県だそうだ。
新宮の町を20分くらい歩いて熊野速玉大社まで行く。
赤い大きな鳥居をくぐると、八咫烏(やたがらす)神社がある。
八咫烏は熊野権現の使い。三本足の烏です。
日本サッカー協会のシンボルマークでお馴染みですね。
熊野古道歩きではよくお目にかかりました(^_-)-☆



熊野速玉大社は平安時代後期から熊野十二社大権現とも呼ばれている
昭和26年(1951)の再建で、彩色、建造物の配置など、皇族貴族の熊野詣が
最も盛んだった時代の威容が再現されているそうです。



境内には歴代の上皇などが熊野詣をした回数を書いた碑がありました。















白河上皇9回。
鳥羽上皇21回。
後白河上皇34回。
鎌倉時代に入って、御鳥羽上皇が28回。
・・・と頻繁に行われた熊野御幸も、熊野を浄土の地と信仰してのことで
願うは極楽往生。皆さん極楽往生できたのかしら?

1時45分、速玉大社からバスに乗り45分ほどで本宮へ。

明治22年(1889年)8月の水害時まで熊野本宮大社は熊野川・音無川・
岩田川の3つの川の合流点にある「大斎原(おおゆのはら)」と呼ばれる
中洲にあったそうです。
社殿が流されるほど大水害を引き起こした原因は、熊野川上流の十津川で
明治に入ってからの急激な森林伐採だといわれます。
社殿のほとんどが流出し、森林破壊に対するつけを払わされた形となりました。

2年後の明治24年3月に流出を免れた上四社を現在ある高台に遷座。
流出した社は元の「大斎原」の2基の石祠に祀られているそうです。

鳥居をくぐり、杉木立のなかの石段へ。
石段の両脇には「熊野大権現」と書かれた奉納幟が立ちならんでいます。
129段の石段を今日はこれで最期・・・と思って頑張って昇る。

















3時帰路に。大辺路の最終回は中国秦の時代、弥生時代、平安後期以後
鎌倉時代の上皇の頃、信長、秀吉・・・様々な時代の様々な人たちの
歩んできた後を辿り、訪ねて歩く道でした。大辺路134キロ・・・頑張りました!


さすが南の海辺、スミレの花や梅が咲き道ばたには土筆も見付かったという。
3月からは伊勢路に入る・・・また違う歴史、出会いを訪ねて歩きたい。



コメント (4)
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