昨日出かけていったウィーン、オーストリアの王宮家具博物館。。。
マリア・テレジア、マリー・アントワネット、エリザベート(シシィ)などのゆかりの品があり、大変楽しめました。。。
風水でも言われていることですが、家具には元の持ち主(使い手)の「気」が多く残っていると言います。。。
華やかさの中にどこか悲しみが潜んでいるような美しい家具が沢山ありました。。。
ウィーンのリングの外にありますので、U3の地下鉄が便利です。。。Zieglergasse駅で降りてすぐです。。。
皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の命でそれまでウィーン市内をぐるりと囲んでいた城壁が撤去され、リングと呼ばれる環状線が作られ、
都市計画が行われました。。。
フランツ・ヨーゼフ1世は、毎日3時間ほどの睡眠で激務に当ったとのことで大変勤勉だったそうです。。。
前回ウィーンに来た時に、シェーンブルン宮殿へ行った時にもそのような説明を聞いたのですが「ハンガリーでは全く人気が無く
銅像なども壊された」という話とのギャップがかなりありました。。。
ハンガリー人のベテランツアーガイド、イレムさんに聞いた時も「彼が人気が無かったわけではない、共産党のしわざだよ・・・」
とのことでした。。。エリザベート皇妃のことを調べれば調べるほど、この妻を天使のように崇めたフランツ・ヨーゼフ1世の
優しさや慈悲深さも見えてきます。。。
放浪の旅を続けなかなかウィーンへ戻ってこないエリザベート皇妃を「天使のようなシシィ」と呼び、熱愛した皇帝。。。
シシィは今でこそウィーンの街のあちらこちらを飾る大輪の花のような存在ですが、当時はかなり不可思議な掴みどころの
無いかなり変わった女性という風に受け取られていたようです。。。
本来シシィの姉のヘレーネのお見合い相手だったはずのフランツ・ヨーゼフが一目ぼれをしたのは、その妹の15歳のシシィ
だったことから、この悲劇ともとれる物語が始まりました。。。
自由人だった父親の性格を受け継ぎのびのびと育ったシシィは、姑のゾフィー大公妃の厳格さに耐えられず、
生涯 様々な口実を作ってウィーンでの暮らしから逃避し続けました。。。
この姑のゾフィーはなんと、シシィの実の母の姉(伯母)だったのです。。。
一番印象に残った悲話は、シシィにとって一番最初の子供、娘のゾフィーが亡くなった時の話でした。。。
夫 フランツ・ヨーゼフの口添えの甲斐あって、姑ゾフィーの反対を押し切り、娘ふたりを連れてハンガリーへの長旅をした時、
娘ふたりともが酷い嘔吐と下痢に襲われ、急遽ウィーンに戻ったのだそうです。。。
次女は回復したものの、必死の看病もむなしく長女のゾフィーは命を落としてしまいました。。。
自分の不注意で娘を死なせてしまった哀しみのどん底へと突き落とされたシシィ。。。
そして、このような出来事がシシィとゾフィー大公妃との間にさらなる深い溝を作ってしまったのでは、と思います。。。
私も7歳のムスメがまだ赤ちゃんだった頃、嘔吐と下痢を繰り返した時に、夜中何度もナースへ電話をしアドバイスを
もらった時のことを思い出しました。。。「スポーツドリンクを大匙一杯づつ、10分置きに飲ませてください」というような
アドバイスで、赤ちゃんの脱水症状は大変危険な状態に短時間で陥り易いことを知りました。。。
華やかな歴史を持つハプスブルグのプリンセスの暮らしには、いくつもの悲しい物語が潜んでいたのです。。。
ほとんど性教育も受けずに興し入れした16歳のシシィが、その後拒食症になりかけたのも性に対しての不安が摂食障害に
繋がったのかもしれません。。。
子育てを自分ですることをほとんど許されない環境や、その後は長男の世継ぎであった皇太子ルドルフの死までも。。。
ルドルフの死は自殺となっていますが、多くの暗殺説もありました。。。
一度自らが選んだ道を、なんとか試行錯誤しながら必死で貫き生きた 芯の強い女性だったのだと思います。。。
フランツ・ヨーゼフ1世との婚約が決まった後に「貴方が皇帝でなければよかったのに・・・」というような詩を書き残していた
シシィ。。。
「ああ、 決して離れてはならなかったあの小道
あの道こそ 私を自由へと導いたはずなのに
ああ、虚栄という名の大通りへ足を踏みはずし
決して 自分の道を失ってはならなかったのに」
結婚式の前に書いたこの詩からも、彼女の心のざわめきが手に取るように分かりました。。。