司馬遼太郎が「日本人は源義経において初めて人気者というものを持った」と言っているほど、義経は当時の日本で最も有名で人気のある二十九歳の青年武将だった。
義経が取った戦法は、まさに常識破りの天才的なゲリラ戦法の類で、平家が意表を衝かれて倒れてしまったのだ。もしも義経がいなかったら、日本は三国志時代の中国のようになっていたかもしれない。中央に天皇家があり、西国に平家、東国に源氏、奥州には藤原氏となっていた可能性がある。それほど義経が日本史に与えた影響は大きい。
一の谷の戦いでは、平家の背後から騎兵隊で責めて勝利。
屋島の戦いでは嵐の追い風を利用して出港した船が、三日かかる行程をわずか四時間で進んで背後から責める形をとり、平家は八島を放棄して撤退。
壇ノ浦の戦いでは、平家船の、当時ではルール違反とされていた《非戦闘員の船の操縦者》を殺していくことだった。そして、平家一族は次々と入水自殺して、源氏の完全勝利となる。
ところが義経は朝廷から勝手に官位を受けてしまい、頼朝は「幕府の屋台骨をゆるがすものだ」と激怒する。頼朝の推挙があって初めて朝廷の官職が受けられるという極めて変則的な形でなんとか幕府の権威を維持していたのに、こともあろうに後の将軍となる頼朝の弟が、その最も重要な幕府の生命線ともいうべきルールを破って勝手に朝廷から官職をもらってしまったからだ。頼朝の怒りはすざましいものであった。
義経を代官の座から引きずりおろし,与えていた平家の領地24か所を没収、命を狙って刺客を出したため、義経は遂に兄と戦う各語を決め後白河法皇に「お許しがなければ宮中で自殺する」とまで脅して「頼朝追討」の院宣を手にした。「錦の御旗」を手にした義経は勇躍して兵を募ったが、「武士による武士のための独立国建設」という大方針を実行しようとしている頼朝を追悼しようとする者は思った以上にいなかった。
ガッカリした義経は精鋭200騎を率いて「まずは都落ちするしかない」と九州に向けて出航したが、不運にも船団が嵐にあって壊滅し、選び抜かれたほとんどの仲間を失ってしまう。義経はわずかに残った4人の家来(加えて妊娠中のお静)を連れて逃亡生活を送るが、つぎつぎと仲間が捕えられて、ただ一人捕まらなかった義経は奥州藤原氏のところへ亡命するしかなかった。
ところが義経の不運は続き、受け入れた70歳前後の藤原秀衡が亡くなってしまう。
頼朝はここで、朝廷が犯した最大の失敗《頼朝追討》の院宣を出したことに対して「このオトシマエはどうつけてくれるんだ」といった態度で出ると、武力をもたない朝廷は震え上がって、「今こそ代わりにこれをやる」という絶好の「幕府を開く」権利を朝廷に認めさせた。
朝廷はここで嫡男泰衡に「謀反人義経を討て」と命じたため、泰衡は義経を殺して、その首を鎌倉に届けた。一方で頼朝は、朝廷の制止も聞かず、大軍を動員して藤原家を滅ぼしてしまう。
ここで朝廷はその行為を追認し、今度は泰衡追討の院宣を出す。
泰衡は逃げる途中で家来の裏切りによって殺された。裏切った家来は泰衡の首をもって頼朝のもとに名乗り出たが、頼朝は「主君を殺すとは不届至極」と、ただちに首をはねた。
泰衡の頸は八寸の釘で杭に打ちつけられた。頼朝の先祖が、源家にとって許すべからざる敵奥州藤原家にそうされたからであった。
実は、この首は中尊寺金色堂に現存する。本尊の下に、藤原三代のミイラ「清衡・基衡・秀衡」が安置され、泰衡の首もミイラで保存されている。滅ぼされた「罪人一族」の遺体がそのまま保存されるということなど、日本以外には絶対にありえない。なぜ頼朝がこんなに優しいのかと言えば、彼もまた祟りが怖いのだ。
頼朝はまさに《馬鹿ツキ男》であった。
伊豆に飛ばされて命拾いした。八重と離縁した。次の彼女が北条政子で、父親が「ミニ家康」と後に言われた北条時政であった。挟み撃ちに遭った時、平家を良く思わない武士に逃がされたこと。義経が平家をあっという間に滅ぼしてくれた。義経が敵方奥州藤原氏に走ったが、嫡男の泰衡がアッサリ殺してくれた。そのために奥州藤原氏の討伐がなんなくできた。朝廷は何度も引き起こした大失敗に、「その代わりに幕府を認めろ」の頼朝の開き直りに応えるしかなくなった。こうして、天下は「元流罪人」頼朝の下に統一された。源頼朝の一生は正に「人間万事塞翁が馬」である。
私たちは常に大なり小なりの苦しみを背負っていますが、それを人のせいにしないで反省し、前向きに努力して乗り越えれば、悪い結果にだけは決してならないはずなのです。
義経が取った戦法は、まさに常識破りの天才的なゲリラ戦法の類で、平家が意表を衝かれて倒れてしまったのだ。もしも義経がいなかったら、日本は三国志時代の中国のようになっていたかもしれない。中央に天皇家があり、西国に平家、東国に源氏、奥州には藤原氏となっていた可能性がある。それほど義経が日本史に与えた影響は大きい。
一の谷の戦いでは、平家の背後から騎兵隊で責めて勝利。
屋島の戦いでは嵐の追い風を利用して出港した船が、三日かかる行程をわずか四時間で進んで背後から責める形をとり、平家は八島を放棄して撤退。
壇ノ浦の戦いでは、平家船の、当時ではルール違反とされていた《非戦闘員の船の操縦者》を殺していくことだった。そして、平家一族は次々と入水自殺して、源氏の完全勝利となる。
ところが義経は朝廷から勝手に官位を受けてしまい、頼朝は「幕府の屋台骨をゆるがすものだ」と激怒する。頼朝の推挙があって初めて朝廷の官職が受けられるという極めて変則的な形でなんとか幕府の権威を維持していたのに、こともあろうに後の将軍となる頼朝の弟が、その最も重要な幕府の生命線ともいうべきルールを破って勝手に朝廷から官職をもらってしまったからだ。頼朝の怒りはすざましいものであった。
義経を代官の座から引きずりおろし,与えていた平家の領地24か所を没収、命を狙って刺客を出したため、義経は遂に兄と戦う各語を決め後白河法皇に「お許しがなければ宮中で自殺する」とまで脅して「頼朝追討」の院宣を手にした。「錦の御旗」を手にした義経は勇躍して兵を募ったが、「武士による武士のための独立国建設」という大方針を実行しようとしている頼朝を追悼しようとする者は思った以上にいなかった。
ガッカリした義経は精鋭200騎を率いて「まずは都落ちするしかない」と九州に向けて出航したが、不運にも船団が嵐にあって壊滅し、選び抜かれたほとんどの仲間を失ってしまう。義経はわずかに残った4人の家来(加えて妊娠中のお静)を連れて逃亡生活を送るが、つぎつぎと仲間が捕えられて、ただ一人捕まらなかった義経は奥州藤原氏のところへ亡命するしかなかった。
ところが義経の不運は続き、受け入れた70歳前後の藤原秀衡が亡くなってしまう。
頼朝はここで、朝廷が犯した最大の失敗《頼朝追討》の院宣を出したことに対して「このオトシマエはどうつけてくれるんだ」といった態度で出ると、武力をもたない朝廷は震え上がって、「今こそ代わりにこれをやる」という絶好の「幕府を開く」権利を朝廷に認めさせた。
朝廷はここで嫡男泰衡に「謀反人義経を討て」と命じたため、泰衡は義経を殺して、その首を鎌倉に届けた。一方で頼朝は、朝廷の制止も聞かず、大軍を動員して藤原家を滅ぼしてしまう。
ここで朝廷はその行為を追認し、今度は泰衡追討の院宣を出す。
泰衡は逃げる途中で家来の裏切りによって殺された。裏切った家来は泰衡の首をもって頼朝のもとに名乗り出たが、頼朝は「主君を殺すとは不届至極」と、ただちに首をはねた。
泰衡の頸は八寸の釘で杭に打ちつけられた。頼朝の先祖が、源家にとって許すべからざる敵奥州藤原家にそうされたからであった。
実は、この首は中尊寺金色堂に現存する。本尊の下に、藤原三代のミイラ「清衡・基衡・秀衡」が安置され、泰衡の首もミイラで保存されている。滅ぼされた「罪人一族」の遺体がそのまま保存されるということなど、日本以外には絶対にありえない。なぜ頼朝がこんなに優しいのかと言えば、彼もまた祟りが怖いのだ。
頼朝はまさに《馬鹿ツキ男》であった。
伊豆に飛ばされて命拾いした。八重と離縁した。次の彼女が北条政子で、父親が「ミニ家康」と後に言われた北条時政であった。挟み撃ちに遭った時、平家を良く思わない武士に逃がされたこと。義経が平家をあっという間に滅ぼしてくれた。義経が敵方奥州藤原氏に走ったが、嫡男の泰衡がアッサリ殺してくれた。そのために奥州藤原氏の討伐がなんなくできた。朝廷は何度も引き起こした大失敗に、「その代わりに幕府を認めろ」の頼朝の開き直りに応えるしかなくなった。こうして、天下は「元流罪人」頼朝の下に統一された。源頼朝の一生は正に「人間万事塞翁が馬」である。
私たちは常に大なり小なりの苦しみを背負っていますが、それを人のせいにしないで反省し、前向きに努力して乗り越えれば、悪い結果にだけは決してならないはずなのです。
健気に前を向く
素直に前を向いていこうと思います。
このお話、知れて良かったです。
ありがとうございます。
本当に歴史でもあったのですね。
男の人が歴史が好きなのは
こんなところからなのでしょうか。
主人と、歴史の話ができました。
ありがとうございます。