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思考の7割と収入の3割を旅に注ぐ旅人の日々

一般的には遊び(趣味)と見下されがちな「旅」も、人生のなかでやるべき「仕事」である、という気概で旅する旅人の主張と報告。

「信じる」ことから始めよう

2006-03-31 20:30:12 | 普段の生活(日常)
2006年2月15日、香港旅でネイザン・ロードを散歩しているときに発見した、映画『ナルニア国物語』のポスター(携帯電話会社とのタイアップ広告?)。広東語なので何が書かれているのかはよくわからんが、とりあえず、ライオンと魔女が登場しますよ、くらいのことは書かれているのだろう。


ここ数年、各種媒体(フィクション)で「信じる」という言葉をよく見聞きする。で、2006年1~3月に僕個人的にそれが特に目立っていたなあ、と思った作品を振り返ってみる。

●『I believe』

2006年に入っていきなりヒットした絢香(ayaka)の『I believe』という曲で、サビの歌詞の「信じることで全てが始まる気がする」とあった。この曲は現役高校生にしては相当の歌唱力だな、という点がかなり高く評価されているが、まあたしかに上手い。歌詞自体は特に世間向けにひねったわけではなく、ふつうの高校生目線で感じたことを正直にしたためたものなんだな、というのもよくわかる。若い自分には可能性がある、何事も前向きに捉えて生きていこう、という意欲は買う。
この曲を主題歌として採用したテレビドラマ『輪舞曲(ロンド)』自体は観なかったのでよくわからんのだが、竹野内豊とチェ・ジウの掛け合わせによって日本と韓国の信頼関係を取り戻すひとつのきっかけというか可能性を提示した感じのドラマではないか、と勝手に推測する。それにも当てはまる曲かな。

それと、「あやか」つながりで言えば、2003~2004年にかけてヒットした『Jupiter』をカヴァーしていた平原綾香も、自分を信じてあげられないことが悲しいこと、と表現していた。他人を信じることは大事だが、それ以前に自分の生き方を肯定し、自分にウソをつくことなく生きていくことのほうがもっと重要、という気運が今時の若者にもそこそこはあるという表れなのだろう。まあ最近は不可解な犯罪が年々増えていて、しかもそれも低年齢化していたりするから、他人の存在をどこまで認めて受け入れられるかの線引きはひと昔前よりも難しくなっているからこそ、若いうちからより多くの人に「信じる」ことを訴えたくなる気持ちもまあわかる。「信じる」という言葉を盛り込んでいく傾向は今後も続くだろうな。

●映画『ナルニア国物語 第一章:ライオンと魔女』

今年公開してすぐさま大ヒットしている映画、『ナルニア国物語 第一章:ライオンと魔女』も、「信じる」ことが物語の基本になっていた。
アスランが掟を破った罰を受けるため、エドマンドの身代わりとして石舞台に行くシーンでは、これでたとえ自分が死んだとしても、ピーター、スーザン、エドマンド、ルーシィの4人が国を救ってくれる、そして伝説どおりに事が進めば自分は生き返ることができる、というふたつの確証があり、実現する可能性は未知数のそれらの伝説をアスランが信じ抜いたという、このシーンが映画の肝ではないか、と僕個人的には思う。
まあ子ども向けのおとぎ話だから、物語の筋はわかりやすい、旧来のマンガやアニメでもありがちな展開で、お子様の純真さを狙って夢や希望を持たせることとともに、他人を信じることの大切さを知らしめるようなベタな話の作り方は昔も今も、そして地域を問わず万国共通なんだな、ということは観ていて思った。これによって“浄化”された(幼い頃は持っていた清い心を失っていたが、取り戻した)大人はどれくらいいるのだろう?

ちなみに、僕は『ハリーポッター』や『ロード・オブ・ザ・リング』の類は苦手でこれまでも一度も観ておらず、『ナルニア~』もそんな感じなのかと敬遠していたのだが、先日、たまたまこれをぜひ観たかったという友人と観に行くことになってしまった。で、結果は、娯楽作品としてはまあまあかな、という感想。冬の厳しさとともにそれが融解して四季の移ろいがあることもきちんと見せていたところは評価できる(でも、この映画を四季のない極地や赤道付近の国の人たちが観たらどう思うのだろう? という疑問も浮かんだ)。
ただ、「信じる」という人としての基本的な事柄をお子様たちに伝えるためにかなりお金をかけすぎかな、とは思った。でもまあ、ディズニーの看板を背負っているのであればCGを駆使したりしてどうしてもそういう傾向になってしまうのは仕方ないことか。

●テレビドラマ『西遊記』

このドラマの初回から最終回まで全般的に、“なまか”(仲間)を信じる、という身近な人(と妖怪)の信頼関係をしきりに表現していた。この言葉は何回出てきたかね、というくらい、他人を「信じる」ことを特に意識した話になった。
三蔵法師一行は「師匠とその弟子」、「人間と妖怪」という上下関係ではなく、お互いに助け合いながら進むことによって、最終回では4人が肩を組んで天竺を後にして歩いていたように、最終的にその関係は皆ほぼ同等の「旅仲間」の括りになった。先のWBCのイチローと若手選手とのかかわり方の構図に似ている。上下関係を取っ払ってスクラムを組んで仲間になると力は倍増、いや3倍増4倍増するという感じかな。ひとりでいるだけは気付かないことも、複数人になったときに初めて気付く、ホントに大事なものが見つかる、というのはよくある話。でもまあこれは人によるか。僕個人的には、ひとりでいて、しかも一歩引いた目線で物事を見るときのほうが他人も含めた世間全体の良いところと悪いところは見つけやすかったりする。

それにしても、このドラマの見せ場であった、毎回後半の香取悟空の「よぉーーーく聞けーーー!!」から始まる、
「自分にウソをつくヤツは嫌い」
「ヒトの使命は生きること、生き続けること」
「頑張ったヤツが報われなきゃいけない」
のような人生訓は、この番組の主対象であろうお子様たちにはちゃんと伝わったのかなあ、というのが気になる。今回は従来の恋愛調の「月9(げつく、げっく)」ドラマとは毛色の異なる手法を仕掛けてきたが、実はこの『西遊記』という物語を再現するうえで必要不可欠な出演者陣の扮装(現代風に言うと“コスプレ”?)する様を見せたい、というよりは、これらの悪く言うと説教っぽいことをきちんと伝えたいがために、脚本ありきでこの企画は始まったのではないかと勝手に推測する。だから、深津“お師匠さん”の、香取悟空の、内村悟浄の、伊藤八戒の、現実ではいざ他人に面と向かって言うには赤面してしまうようなちょっと臭いセリフであっても、彼ら彼女らが代弁することによって素直に伝わり、それがグッときたというか反省した(従来の月9の視聴者層の)大人も結構いたのではないかと思う。僕も激しく首を縦に振って同感できるふしはあった。僕も元々、正直者がバカを見る世の中はおかしい、と思っているクチなので。
これを全国的一般的に影響力の特に強い媒体である東京キー局・フジテレビ社員の良心の総意と受け取ってよいのだろうか。

「信じる」は、ほかのドラマでは『氷壁』の中盤や『小早川伸木の恋』の最終回でも出てきたが、これらは男女の仲に関することで以上の3点とは意味合いが異なるが、まあこの世の中では何事においても、すべては自分と他人を「信じる」ことから始まるということの再確認にはなったね。
最近の世相を見ても、世界各地で犯罪やらテロやらが頻発し、世界的に身近な仲間内の枠から外れた他人を信じられなくなってきている風潮がある。堀江貴文、小嶋進、ボブ・デービッドソンのような??? な人たちも出現し、「オレが一番!」と言わんばかりに幅を利かせるようになってきてもいる。たしかに、こういう傾向は困ったものだな、こういう人たちとできるだけかかわりたくないな、とも思うが、現実世界ではそういう「逃げ」の姿勢だけでは生きてはいけないのが常で、どこかでそういう人たちとかかわらなければならないこともあり、ある程度は我慢しなきゃならんこともある。そういう「信じられない」人や物事のほうが主流になってきている部分も時折ある絶望的な現代であっても、それらを前向きに捉えて少しでも信じられるというか受け止められるような余裕のある、「生協の白石さん」のような懐の広い大人になれるように頑張ろう、ということを最近よく考えている。

花粉症率60%

2006-03-17 06:25:31 | 普段の生活(日常)
先週、神奈川県鎌倉市においての祖母の葬儀で久々に親戚一同勢揃いしたのだが、同様に僕の家族5人も全員揃った。これは近年では3、4年に1回あるかどうかというくらいに珍しいことで、常にバラバラの生活時間のなかでそれぞれ異なる仕事をしている影響で全員揃わないことのほうが当たり前の藤本家にとっては、全員がひとつの場所に揃うことがなんとなくヘンというか恥ずかしい気分であった。
で、葬儀の合間の待ち時間に家族の者と話をすると(両親や兄と喋ることも普段はあまりないことで、これも非常に珍しいこと)、そのさいに僕とともに兄ふたりも花粉症持ちであることが判明した。ただ、両親はその被害には遭っておらず、ふつうに暮らしている。最近の世間一般ではスギ花粉症を患っている人は5人に1、2人ほどの割合だそうで(実際に医者に診断してもらって判明した人と自覚症状がある人を合わせた割合)、そうなると花粉症率は20~40%ということになるが、僕の家族の場合は5人中3人が患っていて、つまり花粉症率は60%ということになる。他所に比べるとえらく高い割合だ。
ウチの兄弟は「だんご3兄弟」ならぬ「花粉症3兄弟」ということで、これは客観的に見るとちょっと恥ずかしいことだな。

“老後”の圏内に入ったことで、テレビ『おもいッきりテレビ』や『ためしてガッテン』や『発掘! あるある大事典Ⅱ』の信奉者になり、最近は半ば健康オタクとも言える(花粉症ではない)母によると、そうなる原因は最近の若者は呼吸法が悪いからだ、と指摘している。
たしかにそれも一理あるが、しかしやはり最大の原因は、数十年前から山間部で元々あるケヤキやブナのような広葉樹をバンバン伐採して、そこに針葉樹であるスギを植えまくって自然を人工的に管理しようとしたから、という国の林業政策の行きすぎというか人間が自然を掌握しようという驕りによるという単純な理由のほうが大きいはずだ。それは関東地方で言えば東京都の奥多摩や埼玉県の秩父のほうの山をよく登りに行く僕としては、そこらへんで植林・枝打ち・伐採が繰り返されているスギ林をしょっちゅう見ているので、余計にそう感じる。しかも昨年の花粉の飛散量はここ数年で最も多く、それを吸うことによって一度抗体ができてしまった“花粉症予備軍”の人が今年になって発症する、ということが多いようだ。

まあひと昔ふた昔前の状況では針葉樹の植林による木材の確保が日本が成長するうえで必要不可欠な政策だから、ということで行なわれたことはなんとなくはわかるが、近年は国産材よりも安価な輸入材が幅を利かせることによって国内林業が廃れている様子を、登山や徒歩旅で全国の山間部を歩きながら、伐採した木が運び出されることなくずっと放置されているような状況を垣間見ると、どう考えてもやりすぎだよな、とつい憤ってしまう。そんなずさんな予測による政策によって(これに限らず、国策の予測はどれもヘタだよね)、現代に花粉症の流行というカタチで(20~40%の割合だけで単純計算すると)約2500~5000万人がそのしっぺ返しを受けているのだから、国は花粉症への医療的な保障を早急に、もっと大がかりに行なうべきだ、とこの時期は毎年思っているのだが、これに関して何か劇的な対処が行なわれた、ということは依然聞かないのよね。
花粉症持ちの人が「とにかく(花粉症の原因である)スギを伐採してくれ!」と林野庁を訴えたくなる気持ちになるのも無理はなく、やはり国家事業として扱うべき問題であるよ。地元住民も望んでいないダムや高速道路のような大規模公共事業なんかは直ちに止めて、スギを伐採して、それに転換される以前は植えられていた各種広葉樹の植林を進めるべきだ。これは広葉樹の落葉によって腐葉土ができて山の保水力が高まる、人工的なダムが不必要になるいわゆる“緑のダム”を形成することにもつながるのだから、一石二鳥の行為ではないか。スギを木材として考えた場合はそんなに悪いものではないが、やはり多すぎる。多すぎることによって人間も手が回らなくなっている現状は早急に改善していくべきである。
毎年2~3月に行なわれる確定申告の医療費控除では、各種疾病の「診療」や「治療」はその対象になるが、病気を未然に防ぐという意味での「予防」のための費用は対象外になる。花粉症は発症して以降のそれを緩和させるための薬物などによる治療も大事だが、それよりもその度合いを減らすための予防のほうが肝心だと思う。だから、花粉を防ぐためのマスクや目薬や花粉除去スプレーなんかのこまごました道具も今後は控除対象として認めていくべきだ。

ウチの3人兄弟のなかでは、花粉症の症状はやはりスギが乱立している山間部のほうに登山でよく行く僕が最もひどく(花粉症歴約6年、自覚症状のほう)、先週の葬儀が行なわれている最中も目はまともに開けていられない状態で、くしゃみを出さないように必死に我慢していた。今年の花粉の飛散量は例年よりも少ないが、それでもこれだけ症状が表れるから、厄介な現代病だよな。以前、何かのテレビ番組で花粉症歴二十数年? というラサール石井が、
「目玉をくり抜いて、それを水で丸洗いしたいくらいだ」
という表現でこの時期の花粉症による目のかゆみの辛さを訴えていたが、僕も同感で、この時期は花粉症のせいで何をやるにもやる気が半減して物事が理想どおりに進まなくなる。それに出不精にもなる。呼吸法だとか食事・薬物による体質改善だとか、ひと昔前の体育会系的な「気合と根性」という感じの精神鍛錬で、一朝一夕で治せるものではない。

だから最近は僕個人的には、現代社会において花粉症を患う人はアニメ『機動戦士ガンダム』シリーズで言うところの「ニュータイプ」(人類の革新)ではないか、と勝手にこじつけて解釈している。他人のみならず動物・植物を含めた地球環境のなかでの生きとし生けるもの全体を、特に植物の場合はスギ林などの生態や息吹に対しても誤解や偏見を持たずに敏感に反応して、理解して、交感している、という点では、花粉症持ちの人というのはそうでない人よりも自分以外の他者の心情を察することに長けている人ではないか、と思っている。
そう考えると政治でも経済でも文化でもなんでもよいが、あらゆる分野で日本全体を、ひいては世界というか地球全体を善い方向に導いていくかもしれない人々が現れた、という意味では、花粉症持ちの人の割合が高まることはそんなに悪いことではないのかもしれない。でも60%は高すぎるか。

覚悟はできていた葬儀

2006-03-10 00:00:23 | 普段の生活(日常)
2006年3月7日、湘南モノレールの西鎌倉駅。鎌倉の親戚宅に行く場合は、JR大船駅経由でここか、またはJR藤沢駅経由で江ノ島電鉄(通称“江ノ電”)の腰越駅を利用している。僕にとっては通い慣れた、地元・埼玉県以外では特に思い入れの深い交通手段なのだ(本文とはあまり関係ありません)。


先週4日の深夜、母方の祖母が亡くなった。で、7日から8日にかけて葬儀があり、神奈川県鎌倉市の親戚宅のほうに行っていた。家族・親戚のみの20人ほどで執り行なわれた。

祖母は享年93歳で、僕の親戚のなかではおそらく最も長生きした人ではないかと思う。
祖母についての特に印象的なことは、僕が小さい頃から宅に訪問するたびに、高齢なのにもかかわらず、毎日タバコをスパスパ吸っていたことだ。不健康の象徴のような喫煙を続けていたのになぜかいつも元気だったんだよな。
僕は基本的にタバコを吸う人はあまり好きではないのだが(宮崎駿とビートたけしと志村けんは除く)、この祖母に限っては喫煙行為が僕にとっては昔から当たり前の光景だったのでそんなに気にはならなかった。
祖母の娘たち(僕の母や叔母)のあいだでは、身体の線は細くて特別強いわけではないからそんなに長生きはしないだろう、という見方をしていたようだが、数十年前(戦中?)まで住んでいた東京都内からそこよりは比較的自然環境の良い鎌倉に引っ越してきたことが長生きにつながったのだろう。

2、3年ほど前から特別養護老人ホームや病院のお世話になっていて、僕もそれなりに最期への覚悟はできており、今回の寺(仏式)や火葬場でも泣くことはないだろうと思っていたが、いざ出棺の段になっていとこが祖母との最後の別れを惜しんで泣いている様子を見ると、ついもらい泣きしてしまった(まあこの時期はいつも花粉症に悩まされていて、特に目にくる僕としては8日の19度近くまで上昇した気温で花粉もかなり飛んでいただろうから、それで終始涙目になっていたこともあるけど)。一青窈のような繊細な女性でなくても、僕のようなブ男でももらい泣きをすることってあるんだなあ、と自分で自分に驚いたりもした。

人間は生まれれば遅かれ早かれ必ず死を迎える、と巷でよく言われることを再び思い出しながら、今後の生への意識を持ち直す機会になった。
登山での転倒・滑落や徒歩および自転車旅での軽い交通事故などで生傷や骨折が絶えない僕としては、やはり最大の親孝行は親よりも先に逝かないことなのかな、と最近よく思う。生命の危険を伴う身体を張ったそんな行為に長年首を突っ込み続けていると、若くして亡くなった、しかも親よりも先に逝ってしまった人の話を聞くことがどうしても多くなってしまうが、まあとにかく、現世を生きているうちは自分でそれを放棄したりせずに懸命に生きるべきで、それが生き残っている者の責務である、と再確認した。

30年近く色々とお世話になった祖母に感謝しながら見送り、今後も僕の身近で亡くなった方たちに恥じない生き方をしていこう、と鎌倉の青空の下で誓った。

池袋・東京芸術劇場で舞台『OHダディー!』を観た

2006-03-01 09:04:10 | 普段の生活(日常)
池袋西口公園そばにある、東京芸術劇場。このへんで数年前に長瀬智也(TOKIO)が「ブクロ(池袋)最高ォーーーーー!!!」などと深夜に叫んでいたが、普段の日中は地元の住民や半住民の方々、そして近所の学校に通う児童・生徒や立教大生の憩いの場になっている。写真は2006年4月28日撮影、つまり後付け。


昨夜のことになるが、東京都豊島区西池袋の東京芸術劇場で舞台『OHダディー!』を観た。
(有)オン・タイム企画製作、福田陽一郎演出、川平慈英(かびら・じぇい)主演のミュージカル。ほかの出演者は、堀内敬子、平澤智、藤浦功一、花山佳子、高嶺ふぶき、佐藤輝。
これも2月上旬の下北沢・本多劇場と同様に、かねてから東京芸術劇場で舞台演劇を観てみたかったので、行ってみた。ここにある大・中・小のみっつのホールのうち大ホールは以前ある催しで一度入ったことはあるが、この公演で使う馬蹄形で演劇向きの中ホールに入ったのは初めて。
それに、「いいんです!」の決めゼリフでテレビ番組やCMでもお馴染みの川平の舞台出演ぶりもまだ観たことがなかったので、それも楽しみだった。

この公演は、この劇場で1999年から始まった「ミュージカル月間」の演目のひとつで、『OHダディー!』自体は2005年に続き2回目だそうで、開演中もそこかしこで笑いが起こるテンポのよいミュージカルであった。
ただ、僕は歌って踊るミュージカルがタモリと同様に苦手で、ふたりの演者が顔を10cmか15cmくらいまで近づけてハモるような場面は首筋がかゆくなるような感覚に陥るのだが(今回も終盤で川平と堀内でそういう場面があった)、川平についてはテレビ番組で舞台俳優らしい大げさな身振り手振りで出演していたという予備知識があったため、そういうお約束事もやるんだろうなあと事前に予測できて心の準備もできたため、拒絶反応はそんなに表れずにそこそこは楽しめた。
今回の主演というか目玉である川平の一挙一動を見ると、テレビで観るのと同様の相変わらずのテンションの高さで、そんなに大声を出し続けていたら血管が切れるんではないか? と思わず心配してしまうくらいの演技が終始見られた。
劇中ではサッカーボールを扱う場面もあり、読売クラブユース(現在のサッカーJ1・東京ヴェルディ1969の前身のクラブチーム)出身の元サッカー小僧である川平の本領? もおおいに発揮され、片足リフティングやまたぎフェイントのような、「あ、これはサッカーを相当やっていたな」と一目でわかる技を舞台上で披露していたりもした。
また、数分間タップダンスを見せる場面もあり、「ミュージカルは演技、歌、踊りがすべて含まれた総合芸術である」とよく言われる言葉も納得である。

客層の年代はは平日だからなのかやや高めで、(見た目では)僕よりも年上の人が大半だった。年代を問わず笑いを取れるのは良いことだ。まあミュージカルってふつうはそういうものか。
これも特にけなしようはなかったな。強いて言えば、出演者のマイクの音量がやや大きかったかな、と思ったことくらい。まあでも会場の広さを考えると、歌が大事な舞台だから仕方ないか。あ、そういえば、僕はこれで2月は演劇鑑賞を2回したことになり(今回も招待券のプレゼントに当選したのでほぼ無料)、すでに1年分観たことになる。まあ良い機会が訪れれば観られるだけ観ようとは思っている。

僕としては苦手なミュージカルであったが意外と楽しめて、そこそこは満足したが、なかでも今回最大の発見は、実は劇場でも主演の川平でもなく、その相手役?(妹役?)だった堀内敬子(けいこ)である。
堀内は今年大ヒットしている脚本家・三谷幸喜が監督した映画『THE有頂天ホテル』の23人の豪華主演陣にも含まれていたが、実はその大半の役者の出演作は(主にテレビドラマと映画でだが)観ていてそこそこは知っていたが、映画が3、4本撮れそうなその面子のなかに堀内の名前を初めて見つけたときは正直、??? と頭のなかに疑問符が付いた。で、プロフィールを見たりして調べてみると、ミュージカル王国・劇団四季出身で、『美女と野獣』や『キャッツ』などで主要な役で出演していたくらいの舞台演劇の逸材であることがわかり、なるほどね、と納得した。
この映画ではウェイターの丹下(これも川平慈英)からしつこく求愛され、客室係の同僚であるハナ(松たか子)と愚痴をこぼしながら働く、歌手を諦めたベルボーイの憲二(香取慎吾)から譲り受けたギターを背負った(抜けているんだかいないんだかよくわからない)睦子を映画初出演ながら好演していたが、各場面の豪華出演者とのやりとりでも特に違和感なく溶け込んでいた。
それを観たうえで考えると、本業の舞台のほうはどうなのだろう? と今回の『OHダディー!』でも川平の相手役として出演していたのでやや気になっていたのだが、やはり歌は上手く、声量もその音域の広さも申し分なく、川平の高いテンションの演技にもきちんと対応できていて、「オォッ! やるな~」と関心した。身長はそんなに高くないし、かわいらしい、というかめんこい感じの外見なのに、そこから湧き出てくるあの力強さはなんだ!? と驚いた。劇団四季で鍛えられただけのことはある。ふつうに歌手としてやっていくだけでもいけるのではないか、とも思った。自分が脚本を担当する作品に舞台役者をよく使う三谷幸喜が目を付けるのもわかるな、と今回の舞台を観て再び納得した。やはりミュージカルが最も得意なのだろうか。
今回の堀内は僕にとってはまさに目からウロコの発見で、舞台演劇に表から裏から生業として深く携わっていたり、雑誌『演劇ぶっく』を愛読していたりするような演劇通の人たちからすると「気付くのが遅いんだよ!」と叱られそうだが、たしかに遅かった。今まで知らなくて申し訳ない、という気分である。今後は特に注目していきたい役者である。
2月は上旬の辺見えみりと今回の堀内と、良い発見が続いたのは幸せなことだ。

御用だ!? 初めての縦長の警察手帳

2006-02-09 23:58:48 | 普段の生活(日常)
今日の夕方、JR武蔵野線の北朝霞駅の改札を出て、駅前をのほほんと歩いていると、背後から3人の男がバババッと僕の目の前に現れた。
なんだ? と僕が驚いていると、男たちは、
「ちょっといいですか~」
と言いながら胸のあたりから何かをスッと取り出す動作をした。
それを見て一瞬、ナイフか何かを出してきて攻撃されるのか? と危機感を覚え、とっさに身構えながら反撃の方法を考えたが、男たちが出してきたのは縦長の警察手帳だった。
なんでも、今追いかけている被疑者が赤色の上着を着ていたとかで、ちょうど今日は赤色のジャンパーを着ていた僕が職務質問の対象として目を付けられたということだ。

そして身分証明書の提示を求められたのだが、僕は普段はそういうものは携行しておらず、しかもクルマやオートバイにも乗らないので身分証明として一般的な運転免許も持っていないので、困った。
「そんなもの持ってないっすよ」
と僕が言い返しながら少し考えたすえに、名前がわかるものとして試しにキャッシュカードを出してみた。
すると男たちはそれに刻まれた僕の名前を10秒ほど確認してから、
「ご協力ありがとうございました」
と言いながらススッと引き揚げていった。一応、そんなものでも効き目はあったようだ。
これまでに、旅先で鉄道駅や公園で野宿しているときに怪しまれて職務質問を受けたのは3回あるが、普段の生活のなかで受けたのは今回が初めて。しかも、数年前に横型から縦型に切り替わった警察手帳の実物を見たのも初めてだった。刑事ドラマではよく観るシーンで、マンガ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』の面々も当然それに切り替わっているが、だが、まさかこれを僕が実際に、しかも何の前触れもなくいきなり受けるとは驚きだった(まあ捜査するうえでは突発的になるのは当たり前か)。緊張はしたが、まあ結果的にはなんとも貴重な体験で面白かった。

交通事故やこういうことがいつかどこかであるかもしれないから、何か僕の身元を証明するものを持つべきなんだよな、といつも思ってはいるのだが、しかしさすがに健康保険証やパスポートを毎日持ち歩くのはおかしいよね。学生でも会社員でもなく、ほぼ無職もんの僕としてはこのような場合の身分証明についてはいつも頭を悩ませている。
もしそのとき名前がわかるものを何も持っていなかったら、やはり警察に連行されていかれたのかな? そのときは少し時間に余裕があったので、その後の展開(任意同行?)を体験してみても面白かったかもしれない。

下北沢のスターの手型

2006-02-08 23:17:17 | 普段の生活(日常)
2006年2月6日、下北沢・本多劇場地下にある「星々の手型」の展示会場。ちなみに、展示左端上段は高倉健のもの。


一昨日、下北沢・本多劇場に舞台を観に行ったことは書いたが、その直前に面白いものを見つけた。
劇場の地下駐車場の一角に、本多劇場グループ代表の本多一夫氏所有の「星々の手型・有名スター41人の手型」という展示があったのだ。
このスターの手型とサイン入りの41枚の石板は、以前は別の場所で展示・保管されていたものを本多氏が譲り受け、2005年8月からここで展示しているようだ。
名前を見ると、石原裕次郎、岡田茉莉子、勝新太郎、佐久間良子、高倉健、フランキー堺、星由里子、三船敏郎、吉永小百合、若尾文子などなど、昭和時代に活躍した、そして平成に移り変わった現在も活躍している豪華メンバーの手型がずらっと揃っていた。
他にも、そんな銀幕を飾った俳優陣に混じって、王貞治と長嶋茂雄のものもあった。
石板に手型と併せて刻んだ日付を見るとそのほとんどが1964年3月29日になっていたのだが、これはどういうことなんだろう? 何かの催しでみんなが集合したさいにまとめて採取したのだろうか。
石原裕次郎や三船敏郎のものはほかでも見かける機会はあるだろうが、僕個人的にはそれよりはあまり見かける機会は多くないと思われる佐田啓二や水の江瀧子のものが特に気になった。
駐車場と言っても劇場北側の歩行者用の地上への階段のそばにあり、入場無料。10時から19時まで。また観に行こうかな。
本多劇場のそばにいくつかある小劇場でも一度は舞台を観てみたいものだ。ただやはり、下北沢はたまに来るくらいでいいかも。原宿のような若めのノリのこの街の雰囲気はやや苦手なのよね。自分でもまだ若いつもりなんだけど。

下北沢・本多劇場にて、舞台『夫婦犯罪』を観てきた

2006-02-06 23:27:45 | 普段の生活(日常)
2006年2月6日、下北沢・本多劇場の東側の入口付近。この辺りを出歩いている人を見るとやはり、僕と同年代かやや年下の若者が多い。


先程、東京都世田谷区下北沢の本多劇場にて、舞台『夫婦犯罪』を観た。
実は、2週間ほど前の朝日新聞でこの舞台の招待券プレゼントをやっていて、応募したら運良く当選してしまったので、行くことになった。
映画を観るために映画館にはそこそこ行くのだが、演劇は年に1回観に行くかどうかというくらいなので、結構久しぶり。しかも前々から、演劇や芸術関連の催しが古くから盛んな下北沢の本多劇場で一度舞台を観てみたかったと思っていたので、まさに絶好のタイミングであった。

出演は、片桐はいり、辺見えみり、春風亭昇太の三名で、三人芝居。片桐と昇太が夫婦役で、昇太の義理の妹役の辺見が彼らの犯罪の片棒を担ぐのか? という感じの話。題目だけ見るとおどろおどろしい印象を受けるが、実際は片桐のどこまでが台本通りなのだ? というくらいの面白おかしいセリフや仕草によって観客は終始笑いが絶えなかった。もちろん締めるところは締めているが、基本的にコメディー調。そのけん引役を担っていたのが片桐。彼女を一度舞台で観てみたかったので、良かった。
昇太については、本業の落語以外にも現代劇に出演するということは今回初めて知ったのだが、芝居もなかなかやる。歌舞伎界の中村獅童のように、落語界でも本業から離れた個人活動が盛んになってきているのかね。落語には疎いのでそのへんはよくわからんけど。3月下旬に同じ本多劇場で本業のほうの独演会をやるそうな。
で、辺見だが、先月に木村祐一(キム兄)と結婚して新婚ホヤホヤなのに新婚旅行に行けないのはこの舞台があるからなのだということがわかった。僕個人的には以前から『スーパージョッキー』や『ワンダフル』などのテレビのバラエティ番組の司会進行ぶりを観ていて、彼女の滑舌の良さは絶対に舞台向きだな、としきりに思っていたのだが、3年ほど前からテレビのみならず舞台演劇のほうにも力を入れているようで、今回初めて生で観て、オォッ、と感心した。今後は舞台俳優として注目していこうと思う。一応、僕と同年代(同じ辰年)なので、常に気にはなっている芸能人のひとりである。

僕個人的には色々な見所があり、これを無料(厳密に言うとハガキ代50円)で観られたのはなんだか申し訳ないな、という感じ(招待なので最後列の座席になったけど)。ふつうに一般前売券4500円(当日券5000円)を支払って観たとしても納得のいく舞台であった。
本多劇場では2月12日まで。その後は2月15日から3月14日まで、北は宮城県仙台市から南は熊本県八代市まで地方巡業するようだ。「トム・プロジェクト」というところがプロデュースしておるよ。
テレビ番組を観ているさいの画面に向かってのひとりツッコミのみならず、お金を払って映画や舞台を観たさいに何らかの不備があった場合は基本的にけちょんけちょんにけなす用意はあるのだが、今回に関してはツッコミ所がなかった。唯一挙げるとすれば、観客のほうで芝居の進行中に携帯電話や荷物をガサゴソといじるのはうるさいからやめてほしいな、ということ。暗転のときにやるぶんにはまだいいけど。
というわけで、ホントに面白いので、おすすめ。

昼間部か夜間部か、大卒か否かなんて、関係ないねッ!

2006-02-06 22:30:27 | 普段の生活(日常)
前項の補足。
前項は学生としての現役当時のことだったが、その後の進路の事例。
僕の場合は自己紹介でも前項でも触れたが、大学卒業後はあえて定職に就かずに(正社員や職員にはならずに)旅を重視する生活になっている。最近流行の言葉で言うと、“フリーター”や“下流”ということになるか。まあこれはおそらく大学の昼間部のほうを卒業していたとしても、10数年早く生まれてバブル期に学生をやっていたとしても、結局は同じ道を辿ったとは思う。
まあ夜間部であっても4年生になれば(最近は3年生からか)一般的な大学のように多くの学生が就職活動で慌しくなり(最近は「就活(しゅうかつ)」と略して呼ぶんだってね)、それなりにみんな勤め先を決めていたりした。まあ僕も少しはその流れに加わって出版社に絞ってそういう活動をしたこともあったが、その当時は色々な理由で企業に属して働くということにあまり魅力を感じなかったため、結局は卒業時はほぼ無職という感じになり、現在に至っているのだが。

ただ、夜間部であってもなかには僕のような中途半端な人よりも数段上昇志向のある人もいた。なかでも僕が所属していたワンゲルで特に気が合ったある先輩の好例を挙げておこう。
その人は現在は某大手住宅メーカーに勤めているのだが(誰でも一度はテレビや新聞の広告を見ているはず、というくらい有名)、ワンゲルに所属していた当時は軽めのキャンプやハイキングや釣りができればいいや、という感じのいわゆる“山屋”な人ではなかったので、ふつうに就職活動をしてふつうに4年間で卒業して、その後も同じ会社に勤続している。ちなみに僕がいたワンゲルの仲間内では、ふつうに4年間で卒業することのほうが珍しく、大概の人が登山にハマりすぎて休学か留年を経験している。僕も同様。

その先輩と現在もたまに酒席で一緒になるのだが、就職活動当時はⅡ部(夜間部)の学生であることを伏せて試験や面接を受けていたという話を聞いた。で、実際に一度会社に入ってしまうと、もうそんなことは関係なく、その後は個々人の適性ややる気次第でいかようにも活躍できるのだ、というようなことを入社当時からよく言っていた。
その後も社内では着々と成果を挙げているようで、現在はなかなかの役職にも就いているらしい。そしてそうなると当然、複数人の部下を持つことになるのだが、その人たちってのが僕らの大学よりも世間一般では高学歴とされる大学出身(例えば早稲田大学とか)の人がよく配属されてくるんだって。でもその先輩に言わせると、お勉強はできても、社会的な、特に対人関係においての常識というか良識がなっておらず(横文字にすると「ルール」ではなく「マナー」の話)、そこでの仕事を続けていくにはそんな体たらくでは厳しいのではないか、という憂いを度々述べ申していた。やはり学歴よりも視野の広さや想像力や適応力のほうが重要なんだね、ということはその先輩からそういう話を聞くたびに思うのであった。

そんな話を聞いているとそれと同時に、世間の流れに乗って、というか強迫観念に従って正社員になればいいってもんぢゃないのではないか、とも思う。最近は新卒で企業に入社した人のうち約3割の人が、せっかく厳しい競争をくぐり抜けて入ったその会社を入社2、3年以内で辞めるそうだが、そうなるのはやはりやる気はあっても自分の適性をきちんと客観視できなかったのが最大の原因ではないか。また、学業や友人との遊びに専念するあまりに世間一般の良識をわきまえる機会が少なく、実社会に出ても学生感覚で他人と接するようになってしまうのだろう。

僕も学生時分から現在までアルバイトで他大学の学生やその出身者と一緒によく働いているが、そういうことはするもんぢゃないだろう? きちんと話を聞いていたのだろうか? と思わざるを得ない言動や行動をよく目の当たりにする。長くなるので詳しくは書かないが事例を短めに挙げると、指示待ちでしか動けないという姿勢や、雇用者(上司)への言葉遣いや、勤務中の大事なところで携帯電話をいじっていることや、休憩中のタバコの吸い方とその処理の仕方や、頼まれた作業を完遂せずに途中で放棄して責任逃れをすることなど、思わず首をかしげたくなることを見ることによってしょっちゅう落胆する。僕はそんなことはせず、たとえ短期間のやっつけ仕事的な単純労働であっても、「ここで手抜きしたらこれを直接受け取るお客さんはどう思うかなあ」とか「こんなことをしたらこの会社は悪く見られるだろうなあ」などということを常に想像しながら、常に緊張感と責任感を持って、自分のできる範囲内のことでは自分の能力を最大限に発揮して作業に従事している。まあこれはどこで働く場合でも当たり前のことだけど。

僕と関わったことのある人たちの大学名を知っているだけ挙げると、早稲田・慶應義塾・法政・明治・駒澤・国学院・東洋・一橋・埼玉・東京都立など、東京近郊でよく働いていたこともあって結構な有名大学出身者が多かったのだが、それでも(僕から見ると)ひとりの人間としての良識のなさが目立ち、多くの人とかかわる必要のある社会の現場にはやや不適格かも、とつい思ってしまうような人が多かった。
実際の労働の現場ではそこで他の労働者と協調しながら、顧客への影響を想像しながら、その作業の流れに臨機応変に適応していくことが肝心で、そうなると出身大学が昼間部か夜間部かなんて、それこそ大卒か否かなどと学歴自体も問題ではなくなる。そんなことは、基本的にはあまり他人とは群れたがらない一匹狼的な万年アルバイト風情の僕であっても、これまでの旅や職場体験で多くの人とかかわってきたことによって、ふつうに理解できていることなのだが。こんな体たらくの状態を自分で客観的に把握しておらずに、世間の流れに乗っかって無理矢理に自分の立場を正社員に格上げしている自信過剰な人が最近多いように思う。だからこのブログの序盤にも挙げた「日常腹立ち度チェック」のような傍若無人な愚行が目立ち、気になるのだ。

最近は僕のような、年収が年齢×10万円よりも下回る金額しかない“下流”にあえて留まって満足している人を“ダウナー系”、先の事例で挙げたワンゲルの先輩のような昇進・昇給に意欲的で常に上昇志向のある人を“アッパー系”と呼ぶのだそうだが(年収は年齢×30~40万円、いやそれ以上か?)、まあべつにどう呼ばれようがそういった他人の言い分は無視はしないけれども話半分に聞き流しておいて、(旅にも絡んでくる)自分のやりたいこととやるべきことをきっちりこなしていきたいな、とは思う。
それを考えると、いち企業に属して働くとなると僕のやりたいと思っていることがやりにくくなるため、大学を卒業して7年経過した現在も正社員や職員として働くつもりはないのだが。とはいえ、働く意欲はそこそこはあるので“ニート”ではないのだが、最近は世間一般では安定感を得て比較的安全な立場にある正社員側の一方的な論理で“ニート”と一緒くたにされているのが困るんだよなあ。

世間一般ではアルバイトや“フリーター”よりも真っ当な身分と見られ、“格差社会”とかいう言葉を比較的安心できる立場からのある種の優越感によって? 上から目線で発信する側にある、おそらく有名大学を卒業して入社した正社員や入庁した職員の人たちのなかにも、(ほんの一部ではあるが)そこで働いている最中にも突拍子もないアホなことをする人はいるよね。飲酒運転・買春・家庭内暴力・殺人・詐欺・ストーカー行為・贈収賄・談合・痴漢・放火などなど。最近目立つのは天下りや耐震強度偽装や粉飾決算か。数え上げればキリがない。そういう事件を聞くたびに、「(人と人のあいだに生きる)人間としてどうあるべきか」ということを学歴や役職を問わず、今一度より厳しい罰を設けたうえで見直すべきだ、といちいち思ってしまうよ。
僕は世の中には各地に多くの人が暮らしているという事実を、旅を通じて見てきているためにいつも実感しているつもりなので、常にそういうことは自分の主観のみならず客観的にもよく考えているけど。僕が世間の人々を見渡すと、そういう「お金では買えない」人生経験が足りないように思う。

大学を卒業しているか否かにかかわらず、「アルバイトや“フリーター”のままでは人生経験が足りない。社会人ではない」としたり顔で言う輩がいるが、それはウソだ。雇用形態がどうであれ、自分の立ち位置や役割を常に確認しながら、他人のことを想いやりながら行動し、労働の対価としての賃金の額の大小問わず他人とかかわる場数を相当数踏んでいれば、「社会人」と呼べるはずだ。そう考えると、正社員・職員であっても上記のような犯罪やそれに近い行為を平然とやっている輩はどう見ても「社会人」とは呼べないんですけど。そんな不埒な悪行三昧には見向きもせずに、目的意識や明確な目標を持ちながら真っ当に生きているアルバイト風情の人間のほうが世間的には評価されるべきだと思うんだけどなあ。

大学は昼間部か夜間部かというこのネタの本線から雇用形態の話にまでちょっと話が脱線してしまったが、まあとにかく、この項の題名のようなことを、それこそテレビドラマ『あぶない刑事(デカ)』シリーズの大下勇次(柴田恭兵)のような口調で、大学夜間部をバカにされるたびに彼よりは控えめにだが空に向かって「関係ないねッ!」と叫ぶのであった。
雇用形態はたとえアルバイトであっても実際に労働の現場に出るとホントに、大学は昼間部か夜間部か、いやそれ以前に学歴云々にこだわっている場合ではないんよな。

受験の時期ですが、大学進学のさいは「夜間部」という選択は?

2006-02-06 21:38:40 | 普段の生活(日常)
先日、自己紹介の学歴のところで、僕が通っていた(四年制の)大学は一般的な昼間部ではなく夜間主コース(以下、夜間主)のほうに通っていたことを追記したため、さらに補足する。つまり注釈の続き。それに、旧来のⅡ部・第二部も含めた大学夜間部の事情については、この経験者としてほかにも物申したいことがいくつかある。

どこの大学でも本来、昼間部に加えて夜間部に通う学生というのはふつうは日中に働いて夜間に学ぶ、というのが基本だから、(家庭の方針で)大学の学費を自分で支払うために日中はアルバイトしていた僕も昼間部の講義を受講する時間はなかったので、結局は6~8限しか受講できず、その範囲の講義のみの単位取得で卒業できたのだが。だから、そういった労働の必要がなく勉学により励みたい人が受講するものなのかもしれない。
また、このように講義の選択肢が増え、しかも夜間主限定の新たな講義も年を追うごとに増えたということで、夜間主はⅡ部よりも年間の学費も上がった。Ⅱ部は年間約40万円だったのが、夜間主では約60~70万円だった。なぜ金額に幅があるのかというと、夜間主のみの新しい講義が始まったり、夜間主の学生が受講できる昼間部の講義数が年々増えて、そのぶんスライド式に金額が上昇していったということ。現在は金額は固定されているらしい。また昼間部は学科にもよるがおおむね約100~120万円だったように思う。この金額は他大学でもほぼ同じだと思う。

だから、僕が入学した1994年組と前年に入学した1993年組では、前者が夜間主、後者がⅡ部、という制度の境目があるだけで年間の学費は20万円以上の開きがあった。それで受講できる講義が当時はまったく同じだったため、やや不公平だな、一年目くらいは同額でもいいんじゃないの? と思っていた。まあ現在は完全に夜間主に切り替わっているため、僕が学生をやっていたⅡ部と夜間主の学生が混在していた頃よりは学生もそういう混乱はなく、夜間主という仕組みも安定期に入っているのだろうけど。

世間一般では、受験関連の雑誌や予備校独自の偏差値の分布なんかを見てみても、同じ大学の同じ学部・学科であっても昼間部と夜間部で2~10ポイントほどの開きがあり、夜間部出の学生というのは昼間部の学生よりも学力は下に見られてバカにされる傾向がある(僕も過去にアルバイト先や旅先で夜間部の話を出したさい、そういう雑言を浴びたことが数回ある)。僕はその風潮に腹が立つ。
まあ僕の家庭の場合は、両親ともにフリー(個人事業主)で働いていた(現在も働いている)が、旅にもよく出るために世帯所得は低く、私立大学への進学となると家計がやや苦しく、さらには社会通念を実感するため、という意味合いもあって、家庭の方針で大学の学費は自分で稼いで支払っていたのだが、僕のところよりもさらに家庭の経済状況が厳しかったり、親元から離れて働きながら大学に通わなければならない事情があったりする人や、日中は企業などに勤めながらでも夜間に学びたい人もいるはずだ(僕のいた地理学科では約40人のうち4人が社会人だった)。大学の学費を両親に出してもらって(さらには小遣いも貰って?)、そうやって親のすねをかじりまくっている多くの学生(※1)よりも真っ当な生き方をしている人を見下す風潮が許せない。最近は社会人を対象とした大学院の夜間の講義がよく開設されるようになり、夜間にも学べる環境は整いつつあるようだが、それでもその風潮はあまり改善されていないように思う。

自己紹介の項の注釈でも触れたが、昼間部の講義のコマ数(1週間計34コマ程度?)よりも夜間部のコマ数(1週間計18コマ程度?)は少ないため、夜間部はほぼ毎日コマがぎっしり埋まることになる。例えば昼間部のように1限と4限のみを履修している日はその2コマのあいだの2限と3限の時間が空いて暇になる、というような虫食い状態がほとんどなく、昼間部の学生よりも事前に綿密に計画を立てて学習する必要がある。しかも夜間部の学生の大半は日中は何らかの理由によって働く必要もある。すなわち、基本的に夜間部の学生は昼間部の学生よりも目的意識も学習意欲も高い、はずだ。だから卒業後の進路で活躍するさいにも意識の高い人も多いように思う。コマとコマのあいだの暇を持て余す時間が多くなる昼間部の学生よりもむしろ夜間部で学業と労働をきちんと両立させている学生のほうが、社会的にはより評価されるべき立場にあるはずだ。だから偏差値や時間枠だけで夜間部の学生をバカにする風潮が許せん(※2)。

とはいえ、僕のように進路選択当初から夜間部を狙っていた人のほかに、目標にしていた昼間部の学部・学科の受験に失敗したが、どうしてもそこに入りたいがために夜間部でも同じ学科を開設しているようであれば夜間部のほうも受験し直して合格して入学した、という学生もいたが。そのなかには、元々は家庭的に学費の心配をしなくてよい家庭環境で、夜間部に入学しても日中は働かずに遊び呆けていられる人もいて(上京して仕送りは貰うけれどもひとり暮らしをするために、もしくは自分が遊ぶぶんだけの資金はアルバイトで稼いでいたのだろうが)、僕のような当初から夜間部志望の学生との学習意欲や金銭感覚のズレはあった、という人もいたけどね。
当時、学内で学生の意識調査を実施したさい、自分で学費を稼いで支払っていた学生は社会人学生も含めて全体の1割強しかいなかったのだが、最近の学生はどうなんだろう?

で、自己紹介になぜ「夜間主」と追記したのかというと、一応、より正確に記したほうがよいかな、ということ。ただ、普段の生活で履歴書などに学歴を書く必要がある場合は、夜間主とわざわざ書くのが面倒だし、それを厳密に書くと履歴書の記入欄の一行で収まりきらないので、あえて書かないようにしている。しかしこう記すとこれは経歴詐称じゃないの? というツッコミが来そうだが、僕は同じ大学内のことなのだから詐称にはならないと思っている。なぜか。
おそらく昼夜開講制の大学では共通することだとは思うが、また僕が通っていた大学の事例で記すが、夜間部に開設されている講義と昼間部の講義が同じものの場合、担当教授もほぼ共通している。もちろん3、4年次によくあるゼミとその担当教授も同じ。内容も当然同じものになる。つまり、ただ単に開設している時間が昼か夜かの違いしかなく、学ぶことは昼も夜も同じことだったから。
まあ、ウチの教授陣の立場を考えると、昼間部と夜間部両方の学生の面倒を見なければならないため、(夜間部のない)昼間部のみの一般的な大学の教授よりは負担が大きくて何かと大変だったのだろうけど。そうやって昼夜掛け持ちしている教授の講義を受講したさいには、
「今日は昼(昼間部)ではこんなことがあったよ。疲れたな~」
というようなぼやきも度々聞いたりもした。その節はお世話になりました。
また他にも、昼間部には開設されておらず夜間部限定の講義というのもあった(まあこれは担当講師が日中はふつうに働いていたから、ということだが)。その逆もあるか。

そして、卒業式の日に学位をいただくさい、たまたま昼間部の学生の学位をチラッとだが見る機会があり、それを見てみると、(学籍番号以外は)夜間部の僕との違いは特にはなかった。結局、昼間部も夜間部も学んだ内容はまったく同じだという確証を得た。
だから、そういう夜間部のある大学の事情を熟知したうえでその大学を卒業した立場で改めて考えると、受験雑誌や予備校で昼間部と夜間部の偏差値の差があるのはおかしい、と思う。
ただ単に昼間部と夜間部の人気の違い、つまり競争率が高いか低いかの違いしかないのではないか。だから、実際には前者と同じことを学んでいる後者の学生が「夜間」という注釈が付くだけで前者よりも見下されることが腹立たしいのだ。
そんなわけで今後、大学進学を考えるさいにもしある程度の目標が定まっていて、しかも日中に働こうという意欲もある人は、夜間部という選択肢もアリではないかと思う。ひょっとしたら、一般的な昼間部の同年代の学生よりも数段幅広い人生経験を積んでいる人との出会いもあるかもしれん。それに日中も昼間部の学生よりも時間の制約が少なくて働きやすいし。
決して一般的な風潮のようにバカな人ばかりで構成されているわけではないですぞ。昼か夜かの違いは時間だけ。要は自分のやる気次第でどうにでもなる。

最後に一点。受験期なので一応、そのさいの禁句は記さないように気をつけたが、1か所だけどうしても必要だった。申し訳ない。まあとにかく、昼間部でも夜間部でもどちらでも、大学でもそうでなくても、これからどこかを受験する方には自分の信念を大事にして自分の決めた進路に突き進んでほしい、と毎年この時期は願っている。


長~い注釈

※1 実家からの通いで学費も両親などに出してもらう一般的な学生の(両親などの)すねかじり度を10、通学のために上京して仕送りに頼らずにひとり暮らしをしてなおかつ学費も自分で出している学生(新聞奨学生など)のすねかじり度を1とすると、実家からの通いではあるが自分のための生活費というか小遣いと学費は自分で捻出していた僕のそれは3か4あたりになるか。
また僕の場合、学生時代はサークル活動(ワンダーフォーゲル部。以下、ワンゲル)にもかなりの時間とお金を割いていたため、アルバイトで1年間に稼ぐ必要のある金額は100万円以上になっていた。ワンゲルでよくやっていた登山って、やっていた方はよくわかると思うが、登山道具を買い揃える費用(雪山登山もやるとなるとさらに出費がかさむ)や山を往復する交通費(特に路線バスやタクシーの運賃)などで結構お金がかかるのよね。しかも僕の所属していたところは「酒の一滴は血の一滴」という感じで団結を深めるためにお酒を飲みに行く機会がよくあり、居酒屋に行くための費用もかなり高くついた。山に行かない平日はほぼ毎週2、3回は講義後に、ときには講義をさぼってでも(僕は数回だけだが)大学のある東京都品川区西五反田界隈の居酒屋に飲みに行っていたな。ひどいときは平日6日間連続ですべて異なる居酒屋に行った、ということもあった。
そんな学業・アルバイト・ワンゲルの3足のわらじ状態だったため、学生時代はかなり濃い生き方をしていた。今思い出すと実は大変だったなあ、と感慨深くなるが、これまでの人生のなかでも最も充実していて輝いていた時期であった。夜間部ならではの出会いや愉悦もあった。まあその反動で、現在は定職に就かずに比較的時間の融通の利く生活になっているけど。

ちなみに、そんなに目が回る忙しい状態と出費が続いたため、実は僕は4年生に進級したさいに1年間休学している。理由は、特にワンゲルの活動にはまったために単純に4年生のときの学費を支払えなくなり、そのためのお金を稼ぐためのアルバイトに専念したため。現在は履歴書などにはもちろん大学に5年間在籍していた事実は書いているのだが、この空白の1年間を「留年」と同じ扱いにされることがよくあり、心外に思う。僕の場合は意図的に時間を止めた「休学」で、勉学を怠った結果による「留年」ではない。単位取得はきちんと4年間で済んでいる。「休学」と「留年」を混同しないで判断してもらいたいね、人それぞれ事情があるのですよ、と各種企業の人事・採用担当の方には一言物申しておきたい。
おそらく、そういう業務を担当している方々のなかで、自分で学費や生活費の工面をするような経験もなく就職して「社会人」になった方には、こんな切迫した家庭環境とそれによる金銭感覚はわかりにくいのだろうけど。
さらに余談だが、ワンゲルの(Ⅱ部時代の)先輩のなかには僕なんかよりも数段激しく登山に情熱を注いだ結果、大学を卒業するのに7、8年かかっていた人もいた。まあ良く言えばそれだけ大学を愛していた、ということか。

※2 これは大学のみならず、もっと間口の広い高校の定時制でも言えることだ。テレビドラマなどで定時制高校の生徒を描く場合、ふつうの学生よりもちよっとバカっぽい、かなりの問題児というかお騒がせ者ばかり、という描き方をするが、僕はこれはおかしいと思っている。
脚本・演出も含めた制作者側の人間にはあえて夜間に学ぶ人への認識がその程度しかないということが表れてしまっている。
そういう人たちの大半は、自分の学生時代には大学の学費の支払いや日々の生活の経済面を心配するようなことはなく、ただ単に自宅と大学を往復するだけでアルバイトや奉仕活動などで社会経験をそんなに積むこともなく、ふつうに大学を卒業して世間の流れに乗って(しかも現在の主力の年代は就職活動が学生主導で比較的やりやすかったバブル期に)テレビ局に入社したクチだろうから、自分の行動範囲外の様々な地域の社会事情をあまり知らずに「社会人」になったため、こんな安易な発想をするに至ったのだろう。まあこれはいわゆる“テレビ屋”の人に限ったことではないけど。

フジテレビのドラマ『白線流し』の大河内渉(長瀬智也)のような純情青年を描ける良い例もあるが、それ以外のものを観ると定時制生徒の扱いはおおむねダメだね。話にならんことが多いよ。“テレビ屋”の人たちはもっと多くの人々と「取材」ではない、金銭の授受が絡まない、うわべだけではない裸の心の付き合いをするべきである。東京都内にある民放キー局各局から近い距離にある六本木や銀座で、深夜に、さらには日付が変わって明け方になっても若い女子とばかり遊び呆けて浪費している場合ではないと、思うよー。
まあこれは、“テレビ屋”の全員が全員こんなことをしているわけではないことはわかっているが、例えばとんねるずの番組でよく表れている出演者と裏方の公私混同ぶりを頻繁に観てしまうと、そういう印象がどうしても植え付けられてしまうのよね。

灯油が高い!

2006-01-29 20:48:45 | 普段の生活(日常)
2006年1月18日、埼玉県白岡町のホームセンター内の灯油売り場。「カインズホーム」などの最近の郊外型ホームセンターはこのような専用の売り場が備わっているのね。クルマを所有していれば買い物のついでに給油できて便利ですな。


今更だけど、原油価格高騰ですねえ。
先週、久々に灯油を買いに行った。と言っても僕の家庭の場合、自己紹介にもあるようにクルマという便利な乗り物はないので、自転車(ママチャリ)の後部の荷台にポリタンクを積んでそれを100円ショップで販売しているような荷台用のゴムで縛って、1kmほど離れたガソリンスタンドまで走るのだが。

実は、家族の者がすべて忙しく働いていた4、5年前まではそのなかでも比較的時間のある僕がこの時期は自転車でよく買いに走らされていたのだが、最近はその人たちにも時間のゆとりができて、灯油の買い出しも任せていたため、僕自身はここ数年の灯油の価格変動はあまり気にしていなかった。だが、今回買いに行って、目玉が飛び出るくらいに驚いた。だって、当時18リットルで700円前後だったのが、今年はその2倍近い値段なのだから。
ニュースで報じていた、今月の東京都の灯油18リットルの平均価格は1396円だそうだが、僕が今回買いに行ったセルフ方式のガソリンスタンドは1350円だった。まあどちらにしても昔に比べたらかなり高いよ。今冬、大雪に見舞われた新潟県・長野県あたりの方々はもっと大変だろうなあ。

昨年あたりから、旅で飛行機やフェリーを利用するさいも、運賃に加えてまだ数百円程度ではあるけれども燃油サーチャージ(燃油特別付加運賃)も要求されるようになってきたし、この傾向は今後も続くのだろうか。普段クルマに乗っている家庭であれば日々のガソリン代の変動によってこういうことは常に気になるのだろうが、クルマはなく、比較的化石燃料の消費量の少ない僕の家庭のようなところでも最近の原油価格高騰の影響はかなり受けているのよね。それに、各種製造業や輸送業や漁業などでもレギュラーガソリンや軽油をかなり消費するため、それが食料品などの価格にも反映されてしまっているから、日常のあらゆる面で間接的に悪影響を受けているし。
20世紀後半の高度経済成長によって化石燃料をガブガブと消費してきたツケがそろそろ回ってきたという感じか。“ウォームビズ”ではないが、ガソリン・消費量を抑える努力はどの家庭でも必要ですな、と給油して18kgにまで重くなったポリタンクを運びながら改めて思った。とりあえず思うこととしては、クルマを所有して毎日のように乗り回している家庭の方々に、(たいした目的もなくクルマを趣味的に余計に走らせる)ドライブは控えていただきたい、ということ。

挨拶代わりの日常腹立ち度チェック30

2006-01-11 21:42:42 | 普段の生活(日常)

本ブログを今後進めていくうえでの「指針」という意味合いで、僕が旅でも普段の生活でも見られる周りの人の行動や道徳観念について考えていることを、僕が最近よく見かける以下の代表的な事例にまとめてみた。
僕もこういう「自分がされたくないこと」を他人にしないように気をつけないとな、と戒めつつ、以下のことをこのブログの(僕の)判断基準としたい。
これを読んだ方は以下の項目のなかで、いくつのことについて違和感を覚えるというか気になる(該当する)のかな? 僕のブログ序盤の挨拶代わりの以下のネタをどうぞ。

●明らかな犯罪、より厳罰に処してほしい犯罪的行為をやっている人

1.歩きタバコをする人
2.吸い終わったタバコをそこらじゅうにポイポイ捨てる人
3.公衆トイレのなかで喫煙する人
4.看板や陳列物を、道路使用許可もなく歩道の中央部あたりまではみ出させている店
5.歩道上を、対向する歩行者の通る隙間がないくらいに複数人で横に広がって歩く人々
6.歩道上で警音を鳴らして歩行者を除けさせながら(脅かしながら)爆走する自転車
7.携帯電話の画面を見ながら、キー操作しながら走行しているクルマ・自転車
8.電車内で、優先席付近か否かにかかわらず携帯電話の電源を入れて、カチカチカチカチ……と延々とうるさく使用する人  
9.道路の横断歩道を青信号で横断中の歩行者めがけて、ブレーキを踏んでピタッと一時停止せずに右左折のためにゆるゆると進入し続けてくるクルマ
10.クルマを路肩に停車させているときに、比較的交通量のある側のサイドミラーを畳んでいないクルマ 

●法には触れないが、周り(他人)の空気を乱している明らかに迷惑な人

11.電車やバスの車内で、先に乗っている他の乗客を促してまでして複数人で隣同士の座席を取ろうとする人々
12.電車やバスの車内で、手持ち無沙汰という感じで理由もなく折りたたみ式携帯電話をカチカチとうるさく延々と開閉する人
13.電車内や図書館などの静寂であるべき公共の場で、ビニール製の買い物袋や紙袋をガサガサと延々といじっている人
14.電車が駅に停車したさい、降りる乗客がひと通り降りるよりも先に乗ってくる乗客
15.電車内などの公共の空間で化粧道具を広げて化粧する女性
16.スーパーマーケットやコンビニエンスストア(以下、コンビニ)で買うのをやめた商品を元の位置に戻さずに立ち去る人(特に生肉や魚介類や豆腐のような生もの)
17.各種行列に割り込んで入ってくる人
18.コンビニや書店で、書籍・雑誌を定位置に戻さずに方々に乱雑に放っていく人
19.店のレジで、携帯電話で通話しながら会計を済ませようとする客
20.コンビニなどの店前で、複数人で理由もなく床に座ってたむろする子ども

●他人は気にならないかもしれないが、僕個人的にはとても不愉快な行為をやっている人

21.鉄道駅や商店街や祭事などの雑踏や行列のなかで、背後からグイグイとわざと身体を押しつけてくる人
22.都市部の大きな鉄道駅や街なかで、直進歩行している歩行者の斜め前方や後方から割って入ってきてわざとぶつかっていく、明らかな進路妨害の歩行者
23.書店で、平積みの書籍・雑誌の上に荷物を置く人(特に床面が汚れている鞄)
24.飲食店やDPE店などで、客が大事に持っていた注文伝票や引換券を客の目の前でクシャクシャと丸めて下に捨てる店員
25.エスカレーターを駆け上がったり駆け下がったりする人
26.飲食店のカウンター席で、食べるさいに隣の客の腕に肘をガシガシとぶつけて食べる脇の甘い客
27.(回転率が命の)カウンター席のみの飲食店で昼間の混雑時に、片手で延々と携帯電話をいじったり新聞・雑誌を読んだりしながらゆっくりものを食べている客
28.歌番組『ミュージックステーション』で、(芸能界においてはかなりの経験のある)司会のタモリとの歌う前後のトークで、芸能界の先輩相手に足を組みながら話す若手歌手
29.手紙やメールで送信者の引用をやたらと多用して、自分の言葉をあまり使っていない人
30.寺社仏閣・御嶽などの霊験あらたかな場所や室内、そして目上の人の前で被っている帽子を取らない(脱帽しない)人


以上のことを(無意識のうちに)平気でやっているかどうか、自分以外の周りの人や物事にどのくらい気を配れるかどうかを、僕が他人と接するさいにその人が精神的に大人なのか子どもなのか、「社会人」と呼べるか否かを見極める基準にしている。まあこれはほんの一例で、現代社会を生きていくうえでもっと気にしたほうがいいんじゃないの? という事象について、今後も積極的に触れていく予定。
ちなみに、僕はこの30項目の行為や態度すべてに虫唾が走るとまではいかないが、他人の良識がいちいち気になってしまう。初対面の方と接するさいも、例えば食事においての食べる格好(特に脇と肘の位置)や、会社や各種施設でのエレベーターの乗り方(乗る人の順序)や、クルマの運転の仕方(ハンドルの持ち方やアクセル・ブレーキの踏み込み方)などを見て、「ふーん。こういう人なんだ」と他人の行動をついつい見てしまう。他人からの視線を意識したパッと見や喋りの巧さもある程度は大事なのだろうが、僕はそういううわべの良さよりはその人の内面を如実に表す仕草のほうが気になる。
男子の僕がこのくらい気になるのだから、一般的には繊細と言われる女子はもっと気に病んでいることがあるのだろうな、とよく思う。でもこれって神経質すぎるのだろうか? 他の方はこのうちどのくらいの項目が気になっている(該当する)のだろうか? 

僕個人的には、僕のようにこの30項目すべてとまではいかなくても、最低でもこのうち10項目以上のことについては直感的に違和感を覚えるというか腹を立てるようでないと、多くの人と接する社会で生きるうえで「社会人」とは呼べない、もしくは自分でそう名乗るべきではない、また今後生活するうえで他人とのかかわり方や所作などの何らかのことを矯正というか改善する必要がある人ではないか、と思っている。
正社員や公務員でも“フリーター”や“ニート”でも、家庭持ちでも独身でも、有名でも無名でも、現代社会での立場や育ってきた生活環境がどうであれ、教育の現場では「(ゆとり教育で)一人一人の個性を尊重しましょう」と声高に叫ばれる現在でも、細木数子や黒板五郎(テレビドラマ『北の国から』シリーズ)や坂本金八(テレビドラマ『3年B組金八先生』シリーズ)ではないが、人としての道徳観念ほぼ同じであるべきだ、性善説で世の中は回っていくべきだ、と僕は思っている。

上記の30項目のようなことに感情的になってしまうのは大人気ない、なんでそんなに上からの目線でものを言っているの? 外国ではそんなことをいちいち気にしている人なんかいないよ、と思う人もいるかもしれない。だがそんな言い分には、他人に余計に迷惑をかけていることに気づく能力が備わっていないほうが幼稚だ、(客観的に見て)間違った行為を肯定しようとするほうが偉そうでわがままなことだ、「日本の常識は世界の非常識」で外国であれば仕方がないことであっても、ここは日本でこの国らしい文化や所作もあるのだ、そんなことを言い出すんだったら外国に移住すればよいのでは? と反論したい。
僕としてはこのような感覚を大事しながら、本ブログを進めていくことにする。これまでも、うぬぼれた状態で上から目線で物事を指摘したとは一度も思っていないのだが、扱う問題が問題だけにやや感情的になるとそう思われてしまうのも仕方がない、という覚悟で今後は基本的にはこの日本国での事象を中心に自己主張することにする。

で、上の写真の説明だが、これは上記に挙げた30項目のうち、2に関連するもの。
2005年11月の東京都江東区のりんかい線・国際展示場駅そばのベンチを写したもので、ポイ捨てではないがベンチの隙間にタバコの吸い殻がいくつかねじ込んであった。
おそらく、この200mほど奥にある東京ビッグサイトに展示会の出展か商談か何かの用件で訪れたサラリーマン風情の男が残していったものと推測するが(もし女であれば大概は口をつけたところに口紅の跡が残っているから)、もしそうだったら、こんなことをする輩はどう考えても「社会人」とは言えないよね。しかも、この写真では写っていないが、このベンチの左前方10mほどのところにちゃんとした吸い殻入れ(とゴミ箱)があるのよね。なんでそれが間近にあるのにこういうタバコの捨て方をするのかね。理解不能である。あとからここに来てこのベンチに座る人がその様子を見て不快に思うことを想像できないのかね。
この写真の撮影後、写真の題材として取り上げておいて放ったままにしておくのもヘンなので、僕がこの吸い殻たちを携帯していたボールペンを使ってほじくり出してその吸い殻入れに片付けたのだが、こういうのを見ると無性に腹が立つ。これは東京のような都会に限らず、全国的によく見かける光景で、旅先でも方々に捨てられたタバコを見て落胆することはよくある。
とにかく、こういった愚行を減らすためにも、早急のタバコ税増税を切望する。