猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 24 説経小敦盛③

2013年07月16日 17時04分04秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

こあつもり③

 その頃、敦盛の御台様は、御室の御所(仁和寺)におりましたが、夫の敦盛が西国において、

討たれたと聞いて、天に憧れ、地に伏して、悶え焦がれて、悲しみに沈んでおりました。

涙ながらに、口説く有様は、労しい限りです。

「私も、夫と一緒に、同じ黄泉路を越えて行こうとは思いますが、今、七ヶ月半の身重で、

自害をするのなら、更に罪が深くなってしまいます。赤子を産んでから、どうにでもするこ

とにいたしましょう。」

と決心して、月日を過ごされたのでした。あっという間に七ヶ月が過ぎ、お産の時を迎え

ました。誕生したのは、玉の様な若君でした。御台様は、

「生まれた時から、果報も少なく可哀想に。夫の敦盛が生きていたなら、どんなに喜んで

下さったでしょうか。母一人を頼りに生まれてくるのなら、どうして腹の中で、湯にでも水

にでもなってしまわなかったのですか。そうしたのなら、こんな辛い思いをしないで済んだのに。」

と、声も惜しまずに泣くのでした。御台様は、更に、

「この若を、夫の形見として、どの様な岩木の陰にでも隠して、育てて行きたいとは思いますが、

今の世の中は、平家が衰え、源氏が栄える世の中。平家の者と知られれば切腹は免れず、

幼き者であれば、刺し殺され、体内の嬰児ですら捜し出して殺すと聞く。源氏の武士の手に

掛かって殺され、再び辛い思いをするくらいなら、いっそ、どこかに捨ててしまおう。」

と思い切り、形見の品を調えると、まだ生後七日も経たない若を乳母に抱かせ、一条下がり

松へと急ぐのでした。御台様は、やがて松の下に若君を捨てて、泣く泣く帰って行ったのでした。

※《一条下がり松:一条戻り橋近く。京都市上京区松之下町》という説と《一乗寺下がり松:

京都市左京区下り松町》又、《知恩寺(百万遍):京都市左京区田中門前町》の三説がある。地理的には後に不整合を生じるが、ここでは、一条下がり松として読む。

さて、翌朝になりました。近所の人々は、捨て子を見て、

「きっと、この子は、平家の討ち漏らされの子供に違い無い。身の置き所が無くて、捨てら

れたのだろう。拾ってあげたいのは山々だが、拾えば、こっちの身も危ない。」

と、さわる者もありません。

 その頃、黒谷の法然上人は、賀茂神社にお参りをされましたが、その帰りに、下がり松

をお通りになりました。(地理的には不整合な記述)すると、不思議な事に、松の根元から、

赤ん坊の泣き声が聞こえます。法然上人が立ち寄って見て見ると、まだ生後半月も立たない

赤ん坊に形見の品々を添えて、置き去りにされています。法然上人は、

「これはきっと、平家の討ち漏らされの子供であるな。身の置き所が無く、捨てられたに違

い無い。愚僧が拾ったからといって、まさか罪科に問われる事もあるまい。」

と言うと、若君を拾い上げて、弟子達に抱かせると、新黒谷(金戒光明寺:京都市左京区黒谷町)へ

と戻って行かれたのでした。

法然上人は、門前から貰い乳をして、若君を大切に養育されました。御台様は、このこと

を聞き付けて、

「一体、どんな人が拾っていったのか心配していましたが、法然上人が拾って下さったのな

ら、心配もなく、嬉しい限りです。」

と、喜びの涙が止めども無く溢れて来るのでした。そうして、月日はあっという間に過ぎ、

若君はもう三歳になりました。ある時、熊谷の蓮生坊は、この若君を膝の上に抱だき上げて、

「なんとも、不思議なことがあるものだ。この若君は、私が西国において、討ち取った敦盛

の面影にそっくりだ。」

と、若君の遅れの髪を掻き撫でては、わっと泣き、又抱き上げては、敦盛のことを思い出し、

醒め醒めと泣くのでした。兎にも角にも、蓮生坊の心の内は、哀れともなんとも、申し様

もありません。

つづく

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忘れ去られた物語たち 24 説経小敦盛 ②

2013年07月16日 15時08分37秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

こあつもり

 無冠の大夫敦盛を討った熊谷直実は、東山黒谷の法然上人を師匠と頼み、出家をなされました。

その名を、蓮生坊と申します。蓮生は、敦盛のお骨を、高野山に埋葬するため、法然上人に

暇乞いをすると、黒谷から旅立って行ったのでした。その心掛けは、大変殊勝です。

(以下道行き)

東を見れば敷島や

歌の中山、清閑寺(京都市東山区)

鳥野辺に立つ夕煙(京都市東山区)

よその哀れも今は早

我が身の上と思われて

心細さは、限り無し

とても、かくても

徒し(あだし)身を

思い捨つれば、さしもげに

浮き世の闇も晴れ行きて

心も清き、清水寺

田村丸のご建立

大同二年(807年)の御草創

万(よろず)の仏の願いよりも

千年の誓いは頼もしや

枯れたる木にも、花は咲くと

誤りなくば、敦盛の

頓証菩提と、回向して

東寺西寺、四ツ塚や(京都市南区)

年は旧(ふ)れども、老いもせぬ

むつだが原(不明)は、これとかや

山崎千軒、宝寺(宝積寺)

関戸の院(京都府乙訓郡大山崎町)を早や過ぎて

彼処をみれば、鳩の峰(京都府八幡市)

男山(石清水八幡宮)にも、なりしかば

南無や八幡大菩薩

ご神体は、応神天皇

本地は、釈尊の御再誕

さてこそ、八正道を象り(かたどり)

正八幡とは、承る

二世安楽の御誓い

浮き世に望みのあらざれば

後の世、助け給われと

心の内に観念し

交野原(かたのはら)を通るにぞ(大阪府交野市)

禁野の雉は、子を思う

鵜殿(うどの)に繁き、籬垣の(大阪府高槻市)

宿を過ぎれば、糸田の原(大阪府吹田市垂水付近)

窪津の王子、伏し拝み(大阪市中央区天満橋付近)

天王寺へぞ参りける

聖徳太子の御願所 -->