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猿八座 渡部八太夫

古説経・古浄瑠璃の世界

忘れ去られた物語たち 22 説経天智天皇 ⑥終

2013年06月12日 16時03分10秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

天智天皇⑥終

 さて、そうこうしている内に、その夜も白々と明けて来ました。磯部の浦で、無事の再会

を喜んでいますと、沖合を、牢輿を乗せた舟が通って行きます。どうやら流人の舟のようで

すが、葛城が、不審に思って良く見て見れば、逆目の皇子の郎等で、稲瀬の七郎という者が

乗って居るのが見えます。ますます、怪しいと思った葛城の宮は、

「おーい、稲瀬ではないか。私は、葛城の宮だ。」

と、大声で呼ばわれば、

「おお、葛城の宮様でいらしゃいますか。これは、母上、斉明帝の牢輿です。逆目の皇子

の勅命によって、沖の嶋に流す所です。あなた様も、やがては、このようになってしまわれ

ますから、早く落ち延びてくだされ。」

と、返答するのでした。葛城の宮は、驚いて、

「なんと、母上がいらっしゃるのですか。少しの間、舟を泊め、名残を惜しませて下さい。」

と頼みますが、答えも無く、七郎は、舟を速めて遠ざかろうとしました。しかし、不思議に

も、沢山の白鷺が飛んできたかと思うと、百姓が脱ぎ置いた菅笠を咥えて、舟の舳先に飛ん

で行き、咥えた笠で扇ぎ始めたのでした。これが、鵲(かささぎ)の始まりということです。

さて、まったくご神託の通りの事が起こりました。舟は、忽ち港に吹き寄せらてしまったの

でした。行く手を遮られた守護の武士達は怒って、葛城の宮も生け捕って、一緒に流して

しまおうと、我先に上陸してきました。

 又もや、危機一髪という時、どこにいたのでしょうか。金輪の五郎が、忽然と現れ、稲瀬

の七郎めがけて突進してきました。軽々と七郎を掴み上げると、そのまま船縁に叩き付け、

木っ端微塵にしたのでした。その凄まじさにたじろいだ武士達は、逃げ惑って、海に飛び込

んだので、多くの者が溺れ死にました。金輪の五郎は、その隙に牢輿を破って、母斉明帝を

助け出したのでした。葛城の宮は、久しぶりに母上と対面して、そのお喜びは限りもありま

せん。

葛城の宮は、金輪の五郎に、

「やあ、金輪の五郎。逆目の皇子に討ち殺されたと聞いていたのに、不思議な事もあるものだ。」

と言えば、金輪の五郎は、

「確かに、逆目の皇子に首を刎ねられて、晒し首にされましたが、無念は、骨髄に浸透した

ので、金岡の身体を借りることができました。この上は、逆目の皇子を討ち滅ぼしてご覧

に入れましょう。」

と怪気炎を上げるのでした。

 この事件は、九月のことでしたが、折から、秋風が強くなったので、采女は、刈り終わっ

た稲藁を敷き詰めて、葛城の宮と母斉明帝を座らせようとしました。葛城の宮は、これを見て、

「やあ、勿体ない。稲葉は、世界の大本である。例え、このまま露に打たれても、稲藁の

上に座るなどということは、罰当たりである。」


忘れ去られた物語たち 22 説経天智天皇 ⑤

2013年06月12日 09時56分26秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

天智天皇⑤

 可哀想に花照姫は、一人寂しく泣きながら、まんじりともできません。あまりに悔しいの

で、夜中にとうとう、榊の前の寝屋の前まで来てしまいました。嫉ましくも、榊の前の囁き

声が聞こえてきます。花照姫は、

『私の肌は、葛城の宮にしか許さないのに、榊の前と契りを結ぶとは、なんと腹立たしいこ

とでしょう。もう、こうなる上は、今宵、忍び出て、磯部の海に身を投げ、この心の炎を

消す外は無い。』

と決心して、書き置きをすると、海に向かって彷徨い出たのでした。

 そうとも知らずに、葛城の宮は、望みもしない床の中で、花照姫のことばかりを思い詰め、

涙を流すばかりです。榊の前は、葛城の宮がふさぎ込んでいるので、榊の前が、様々口説き

ますが、葛城の宮は苦し紛れに、

「仰ることは分かりますが、私は大神宮(内宮)に百日の大願があるのです。それが終わる

までは、待っていただけないでしょうか。」

と言うのでした。榊の前は業を煮やして、

「さては、私を嫌っているのですね。そんなに嫌なら、焦がれ死んでも、生まれ変わり、

死に替わり、必ず思いを遂げますよ。」

と、寝屋から飛び出しました。妻戸(つまど)を開いて、別室に走り込むと、榊の前は、

書き置きがあるのに気が付きました。開いてみれば、花照姫の書き置きです。これまでの

経緯が書かれていました。これを読んで榊の前は、得心し、

『そうであるなら、宮様の心が、私に靡かないのも当たり前なこと。私の恋心が、花照姫

の命を奪ってしまった。どうしましょう。こうなったら、私も後を追う外は無い。』

と思い詰め、そのまま、花照姫の後を追って出るのでした。

 しばらくして、葛城の宮は、榊の前が居なくなったことに気が付きました。ほっとして、

寝屋から出てみると、書き置きがあります。取って見ると、花照姫の書き置きです。これは、

大変なことになったと、葛城の宮も磯部の海へと急行したのでした。

 葛城の宮が、海岸まで出て、あちらこちらを探し回っていると、とある柳の木に、小袖が

掛かっているのを見つけました。花照姫の小袖と、榊の前の小袖の二枚です。葛城の宮は、

「ああ、既に遅かったか。二人とも身投げをして死んでしまったのか。」

と、突然の惨事に、声を上げて泣く外はありません。騒ぎを聞きつけた采女もやってきました。

我が子の小袖を見るなり、泣き崩れておりましたが、小袖の端に、何かが書き留められています。

榊の前は、入水の前に、こう書き置きをしたのでした。

『此の度、私が縁組みをした、葛城の宮様は、勿体なくも、舒明天皇の第二の宮様です。

帝位をお継ぎになりましたが、逆目の皇子の悪逆によって、ここまで落ちられて来られたの

です。探索の目が厳しく、花照姫様と、兄妹であると仰っていましたが、本当は夫婦の間柄

です。私が、そうとも知らずに、祝言を挙げてしまったので、花照姫様は、それを怨んで

入水なされました。私も、後を追って償います。どうか、葛城の宮様を宜しくお守り下さい。』

これを読んで、采女は驚き、

「ええ、そんなこととは知りませんでした。大変失礼なことを致しました。それなら、そうと、

言って下されば、こんな可哀想な事にはならなかったのに。」

と涙に暮れました。葛城の宮は、

「こうなった上は、もうどうしようも無い。生きていても仕方ない。私も、姫の後を追います。」

と、駆け出すのを、采女が飛びついて止めるていると、正装の老人が三人、どこからともな

く現れて、

「待て、その二人の者共。私が、方便によって、助けることにする。それでは、会わせて

あげよう。」

と言うと、海から二人の姫を返したのでした。葛城の宮も采女も、走り寄って、喜びの涙

に咽びました。三人の翁は、

「我等は、天照神、春日神、住吉神の三社であるぞ。お前の行く末、百王百代に至るまで

守るであろう。」

と、新たな神託を残すと、忽ち姿を変じて、雲井遙かに昇って行くのでした。驚いた人々は、

空に向かって、三度礼拝し見送りました。まったく有り難いともなんとも、尽くす言葉も

ありません。

つづく


忘れ去られた物語たち 22 説経天智天皇 ④

2013年06月11日 14時51分04秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

天智天皇④

 さて一方、葛城の宮と花照姫は、九条(京都市南区)の辺りに潜んでおりましたが、逆目

の皇子の探索が厳しくなって、追い詰められて来ました。もう都には、居られないと思った

葛城の宮は、

「花照姫よ。もうこうなっては、いつまでも生き恥を曝しては居られない。お前と差し違え

て、この世の憂さを晴らすぞ。さあ、こちらへ。」

と言うと、姫君は、

「これは、勿体ないお言葉。こんなことを言っては、命が惜しいように聞こえるでしょうが、

お聞き下さい。先ず、よくお考え下さい。あなた様は、既に皇位に就かれておられるのですよ。

お命さえあるならば、必ず、返り咲くことができます。幸い、私の所縁の者が、伊勢の磯部

におります。(三重県志摩市)神野采女(かんのうねめ)と言う、大変頼もしい神職の方です。

この方を頼って、伊勢路へ落ち延びては如何でしょうか。」

と、涙ながらに訴えるのでした。この言葉に、葛城も思い留まり、伊勢路へと旅立つことに

なったのでした。

《以下道行き:省略》

(経路概略=滋賀県大津⇒石部⇒水口⇒地蔵院(三重県亀山)⇒鈴鹿峠⇒明星が茶屋(清めが茶屋)⇒宮川⇒外宮⇒内宮⇒朝熊山(あさまやま)⇒磯部)

 磯部の浦に着くと、姫君は、

「若宮様、あそこに見える館が、尋ねる先です。私が行って案内を乞うてきますので、お待

ち下さい。」

と、急いで門番に案内を乞うと、丁度その時、采女が娘の榊の前を連れて、庭に出てきた所

でした。この様子を目にした采女は、侍に、連れてくるようにと命じました。采女は、花照

姫を見ると、

「みれば、身分のあるお方にみえますが、何のご用でいらしたのですか。」

と、尋ねました。花照姫が、

「大変失礼ですが、こちらは、神野采女様のお屋敷ではありませんか。私は、都の左大臣

有澄の一人娘、花照姫と申します。」

と答えると、采女は驚いて、

「何、有澄の姫君ですか。お名前はお聞きしていましたが、これまで会うこともありません

でしたね。いったい、何のご用で、これまでいらしたのですか。」

と心配顔です。花照姫は、涙ながらに、これまでの次第を話し、葛城の身分を隠すために、

「そうして、兄上と共に、ここまで尋ねて来たのです。」

と言うのでした。采女は、更に驚いて、

「それでは、有澄殿は、無実の罪で流されたのですか。私は、まったく知りませんでした。

私を頼りにしてくれて、大変嬉しく思いますよ。」


忘れ去られた物語たち 22 説経天智天皇 ③

2013年06月10日 13時00分53秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

天智天皇③

 さて、粟津が原(滋賀県大津市)の辺りに、金岡丸重光という、絵師が住んでおりました。

一年前、宮中における美人揃えの絵合わせの時、逆目の皇子に脅されて、嘘の絵を描いた為、

盲となり、絵筆はもう捨てていました。今は、人の情けに縋り、夫婦諸共に、失意の内に暮らし

ておりましたが、無念の思いは消えず、毎日、粟津権現(大津市中庄)に通い、こう念じて

いるのでした。

「どうか、もう一度目が見えるようになり、舅の敵、逆目の皇子を討たせて下さい。」

 今日も、権現に参拝しようとした重光は、何か胸騒ぎを感じて、女房にこう言いました。

「今日も権現様に行ってくるが、なんとなくいつもより、心細く感じて名残が惜しい。門出

を祝う盃をくれ。」

女房は、言われるままに、銚子盃を出すと、盃を交わして、

「無事に参拝なされて、早くお帰り下さい。」

と、門外に送り出すのでした。重光は、竹の杖を頼りに、粟津権現へと向かいました。いつ

もの様に、祈誓を掛け、帰り道となりましたが、粟津が原に差し掛かった時には、もう日暮

れて黄昏時となってしまいました。鬱蒼とした森陰を歩いていると、土手の上の木の間から、

しわがれた声が聞こえて来ます。

「これこれ、そこを行く人に、話がある。」

重光は、不思議に思って、声のする方へ近付きました。重光は、

「このような、荒れ果てた野原で、私を呼ぶ声がするとは、おかしな事。この森に住む野干

の仕業か。盲人だからといって侮って、怪我するなよ。」

と、大声を上げました。重光には、見えませんでしたが、そこにあったのは、金輪の五郎の

獄門首だったのです。五郎の首は目を開いて、

「おお、ご不審はご尤も。私は、左大臣の後見で、金輪の五郎と言う者です。私は、逆目の

皇子の手に掛かって非業の死を遂げて、ここに晒し首となっております。その無念の思い

が骨髄に貫通し、魂魄は、この頭に懲り固まって、怒りに燃え盛っておるのです。そこで、

声を掛けたのは、あなたにお願いがあるからです。どうか頼まれてはくれませんか。」

と、言うのです。金岡は暫く考え込んでいましたが、やがて、からからと打ち笑って、

「さてさて、いよいよ、狐が狸に間違いなし。そもそも、獄門の晒し首が、これまで物を

言った例しはないぞ。悪ふざけをして、怪我するな。」

と言い捨てて、行こうとすると、金輪の首は、尚も声を上げて、

「これこれ、暫くお待ち下さい。恨みの一念が宿っているのです。まったく虎狼野干の類い

ではありません。あなたは、絵の名人ですよね。一念を込めて描いた龍が、水を撒く様に、

一念の宿った晒し首が、物を言わないはずがないでしょう。」

と、言うのでした。重光は、尤もと思い直して、振り返り、


忘れ去られた物語たち 22 説経天智天皇 ②

2013年06月08日 22時58分33秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

天智天皇

 その頃、左大臣有澄は、葛城の宮の名代として、白鬚明神へ参詣しておりました。数々

の珍味、美味をお供えなされ、社人、楽人が、糸竹を演奏する中、国家鎮護の儀式を執り行

っています。神主右近の大夫(だいぶ)が、六根清浄の大祓を切り払い、中臣が、三種の大

祓を執り行い、滞りなく儀式が終わると、御神楽が奉納されました。ところが、すべての行

事が終わりますと、社殿の下から、不思議にも白髪の翁が現れて、お供え物をばくばくと食

べ始めたのです。人々は、

「おお、正しく、白鬚明神が顕れなさった。有り難や。」

と、地に平伏して三拝するのでした。しかし、左大臣有澄は、にやにやしながら、

「何を馬鹿な。神というものは、慈悲をその正体として、人々の尊敬を食とするものだぞ。

白鬚明神が顕れて、お供え物を食うはずがない。どうせ、狐、貉が化けてでたのに違いない。

誰かある。」

と、言うと、執権金輪の五郎輝元生年十八歳が、さっと駆け寄って、翁を取り押さえました。

金輪の五郎は、

「何者だ、正直に申せ。そうでなければ、首を刎ねるぞ。」

と、詰め寄ると、老人は、ぶるぶると震えながら、

「やや、お間違いなされるな。金輪殿。私を、見忘れなさったか。私は、絵師の金岡です。

この度、宮中における美人揃えの絵姿を、誓詞を持って描きましたが、逆目の皇子は、ご息

女、花照姫殿へ横恋慕いたし、叶わないことを嫉み、私に、醜く描くように脅かしてきました。

断れば、命が無かったので、花照姫を醜く描きましたが、誓詞の罰が当たり、倅は、忽ちに

めくらとなり、私は、このように五体が竦んでしまったのです。そして、獄屋に押し込まれて

おりましたが、この社殿の裏に捨てられ、倅も、行方知れずとなりました。もう三日の間、

何も食べておりません。神へのお供え物を勿体なくは、思いましたが、仕方なく食した次第。

お許し下さい。」

と、涙を流すのでした。これを聞いた左大臣有澄は、

「なんと、お前は金岡か。神は正しい心に宿るものだ。お前は、邪(よこしま)な者に従っ

たから天罰を受けても仕方ない。例えどれほど醜く描こうとも、花照姫の生まれ付いての

容姿が変わるわけでもない。さて、しかし、後日の証拠の為に、金岡は、神主右近の大夫に

預け置くぞ。」

と言うと、都へ向けて帰って行きました。

 さて、内裏では、斉明天皇が、美人揃えに出された、醜い絵に激怒なされておりました。

逆目の皇子は、しゃしゃり出て、

「左大臣有澄が、おのれの威勢をいいことに、あの様な醜い絵を、美人と偽って奏聞したこ

とは、上を軽んじ、行く末の逆心の現れと存じます。どうか世の中に正道をお示し下さい。


忘れ去られた物語たち 22 説経天智天皇 ①

2013年06月08日 10時02分59秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

「天智天皇」という浄瑠璃は、近松門左衛門三十七歳の作品であり、元禄二年に初演され、当時、大変な人気を集めたらしい。内容的にも奇想天外のストーリーで、確かに面白い。

その舞台は、様々な絡繰りを展開して、観客をあっと言わせたようである。これを、江戸の人々も見たかったのだろう。天満重太夫は、「天智天皇」を説経に焼き直して、江戸で演じた。元禄五年(1692年)のことである。(説経正本集第三(41))

天智天皇 

思無邪(しむじゃ)の三字は、神を拝む心の大本であり、怖不敬(ふふけい)の三字は、

祭典を行うに当たって尤も重要な心掛けである。神を祀る時には、神がそこに居ると思って、

勤めなければならない。

 さて、斉明天皇という方は、舒明天皇のお后様でしたが、十全の位に就かれ、一天四海

の浪も静まり、家の戸を閉める必要も無い程の泰平の世を治められたのです。斉明天皇には、

皇子が二人おりました。第一の皇子を「逆目の皇子」(架空)と言い、その背丈は一丈あま

り(約3m)で、色は浅黒く、その目は逆様についていたと言うことです。そのお姿は、夜

叉の様で、その性格も、生まれつき放逸でありましたから、父舒明天皇の勘気に触れて、

二条の館に蟄居させられておりましたが、母斉明天皇の嘆願によって、舒明天皇の崩御の折

に、恩赦を受けて、参内できるようになりました。

 第二の皇子は、「葛城の宮」(中大兄皇子)と言い、そのお姿は、大変艶やかで、慈悲第一

のお心をお持ちでしたので、次期天皇の位は、葛城の宮が継ぐことになっていました。諸卿

は皆、葛城の宮を尊敬して、仕えていたのでした。

 時の摂政は、左大臣の有澄と右大臣の是澄(架空)が勤め、民の事を考えて天下の政を

行っておりました。

それは、天智元年(662年)のことでありました。斉明天皇は、諸卿を集めて、次の様

に宣旨を下されました。

「今月十六日、葛城の宮へ、位を譲ります。そこで、眉目(みめ)貌(かたち)の美しい

姫があれば、后にしたいと思います。」

右大臣是澄は、

「これは、大変有り難い宣旨です。左大臣有澄の姫こそ、三国一の美女と聞いております。」

と答えました。しかし、その時、逆目の皇子は進み出で、

「確かに、それはそうかもしれませんが、広く姫探しをしては如何でしょうか。姫の絵を

描かせて、これを見比べ、一番の美人を后とするべきです。丁度、金岡という老人の絵師

がおりますが、この者は、いずれの奥へも出入りを許され、姫達の姿も良く知っております。

金岡親子に絵を描かせるようにお申し付け下さい。」

と言うのでした。斉明天皇は、尤もであると思い、金岡を内裏に召し、諸卿の姫を絵に写す

ように命じたのでした。吉田の少将が、熊野誓詞を取り出すと、金岡親子は、贔屓をしない

という誓いを立てさせられました。それから、親子は姫達の絵を見たままに描いたのでした。

一方、左大臣有澄は、天下安全の祈願の為、その頃、白鬚明神(滋賀県高島市)に参詣しておりました。

 さて、逆目の皇子は、家来達を集めて、こう話しました。


忘れ去られた物語たち 21 説経毘沙門之本地⑥終

2013年05月29日 09時16分25秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

毘沙門の本地 ⑥終

地蔵菩薩の導きに従って、金色太子は、見も知らぬ山道を、ひたすら走り続けますが、やが

て日は暮れ、夜になってしまいました。まだ月も出ず、道は真っ暗になってしまったので、

ある岩陰で休むことにしました。やがて、十五夜の満月が昇り、辺りを照らし始めますと、

その由旬(ゆじゅん)の光は、まるで昼のような明るさです。犍陟駒から飛び降りた金色太

子は、七曜(しちよう:北斗七星)に向かって、尋ねました。

「地蔵菩薩の教えによって、ここまで辿り着きました。つついの浄土へ行く道を、教えて下さい。」

すると、貪狼星(どんろうぼし)(大熊座αドーブェ)は、こう答えました。

「この道を、更に遙かに進みなさい。すると、天の河という大河があり。その河の辺

に、女が一人いるであろう。その女に詳しく聞いて見なさい。旅人よ。」

金色太子は、喜んで、更に犍陟駒を進ませました。そして、とうとう、天の河までやって来

たのでした。貪狼星の教えの通り、女が一人居るのが見えます。急いで近付くと、太子は、

「つついの浄土への道を教えて下さい。」

と、尋ねました。女は、しげしげと金色太子を見ると、

「不思議なことですね。あなたは、有漏の身で浄土を目指しているのですか。」

と怪訝な顔です。太子は、

「はいそうです。私は、クル国の姫宮と一夜の契を込めましたが、死んでしまいました。そ

して、つついの浄土を尋ねよとのお告げを受けて、ここまで、やって来たのです。どうか、

哀れと思って、お教え下さい。」

と、太子は涙ぐみました。女は、これを聞くと、

「恋路と聞くならば、一層辛さが増しますね。私は、七夕の星の精です。この河を隔てて年

に一度、恋しき人と、一夜を契ることができますが、もし、一滴でも雨が降るのなら、洪水

が、私の涙も押し流し、逢うこともできずに、空しく帰るのです。さぞや、あなたも、焦が

れ果てていらっしゃるのでしょうね。そのやるせなさを十分に分かっていますから、教えて

あげましょう。この河を渡れば、男が一人、通ることでしょう。それこそ、私の恋人、七夕

です。七夕に会って、詳しくお尋ねなさい。」

と、言い残すと、やがて去って行きました。金色太子は、犍陟駒を励まして、天の河を渡り

切りました。対岸に渡り着きますと、犬を連れた男が河の辺に立っているのが見えました。

太子は、駆け寄って、つついの浄土への道を尋ねました。男は、

「この道を、遙かに進んで行きなさい。きっと沢山の僧達が居る所に着くでしょう。そこで、

詳しくお聞き下さい。」

と答えました。それは、川上に向かう道でした。金色太子は、犍陟駒を更に進め、野を横切

り、山を越えて、先を急ぎました。すると、教えの通り、僧が沢山居る所にやってきたのでした。

太子は、馬から飛んで下りると、つついの浄土への道を尋ねました。輿の中に居る僧が、


忘れ去られた物語たち 21 説経毘沙門之本地⑤

2013年05月28日 13時21分54秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

毘沙門の本地 ⑤

 さて、金色太子は、摩耶国を滅ぼした後、犍陟駒に鞭を当てて、急いでクル国を目指し

ました。ようやくクル国に到着した太子は、駒を乗り捨てると、王宮に駆け込みました。

ところが、大様もお后様も、金色太子に抱きついて、声を上げて泣くばかりです。金色太子

は、呆れ果てて、

「一体、どうしたというのですか。」

と尋ねると、お后様は涙をぬぐって、

「姫は、あなたに焦がれて、昨日、息を引き取ったのです。一夜を待てずに、短い生涯を閉

じてしまいました。どうして、もっと早く帰らなかったのですか。」

と喚き叫ぶのでした。金色太子は、夢か現かと驚いて、

「せめて、最期の時に間に合ったなら、こんな悔しい思いは、しなかったものを。たった一

夜のすれ違いで、あの世に行ってしまうとは、これはいったい、どんな因果の結果であろうか。」

と、人目も恥じずに、泣き崩れました。王様は、太子を慰めて、

「そんなに嘆くものではない。死んでしまったものは、もう仕方が無い。お前は、ここに

留まって、我々を慰めておくれ。姫宮がいなくなっても、我々の心は変わらないぞよ。お前

も疲れたことであろう。暫く、休息なされなさい。」

と言うのでした。哀れな金色太子は、それから、持仏堂に籠もりました。花を供え、香を焚

いて、悲しみの中に沈んで、こう口説くのでした。

「姫よ、冥途黄泉に行って、私を恨まないで下さい。私の心は昔と、少しも変わってはいません。

どうか、今一度現れて、私をそちらの国に連れて行ってください。」

その夜、冥土にいらっしゃる姫君は、金色太子の枕元にお立ちになりました。

「ああ、懐かしい金色太子様。私こそ、あなたの姫宮ですよ。苔の生(こけのう)での睦言

に、三年の間は待てとありましたから、明け暮れ待ち続けましたが、お出でにならないので、

心労が重なり、とうとう病となり、死んでしまいました。一夜を待てずに、空しくなった私

の心の内を、御察し下さい。しかし、これも成刧(じょうごう)ですから、仕方ありません。

今でも、私を恋しいと思ってくれるのなら、犍陟駒に打ち乗って、目を塞いで虚空に向かい、

つついの浄土(不明)をお尋ね下さい。そうすれば、必ずお逢いすることができるでしょう。

ここに留まって、お話をしていたのですが、時の太鼓が鳴っています。名残惜しくはありま

すが、これでお別れです。」

姫宮は、こう言うと悲しそうに消えて行きました。金色太子は、抱だき付こうと、かっぱと

起きましたが、もう既に姿は有りませんでした。太子は、声を上げて、

「ああ、なんと恨めしいことか。今一度、お姿を見せて下さい。」

と、そのままそこに倒れ伏して、只、ほうほうと泣くばかりです。落ちる涙を、振り払って

太子は、


忘れ去られた物語たち 21 説経毘沙門之本地④

2013年05月27日 11時17分47秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

毘沙門の本地 ④

 哀れなことに、姫宮は、金色太子のことを、片時も忘れず、明け暮れ太子の帰りを待ち続

けています。しかし、波濤を隔てる遠い国への旅ですから、便りもありません。余りの悲し

さに姫宮は、女房達を伴って、南面に出て空を見上げるばかりです。すると、どこからとも

なく、一群の渡り鳥が飛んで行くのが見えました。姫君は、つくづくとご覧になり、

「あれを、ご覧なさい。今、飛んで行く渡り鳥は、風に誘われて、万里の距離を、思うまま

に飛び回ります。なんと、恨めしいことに、私は女として生まれ、只、後宮の中で、心の

慰める事もないままに、物思いに沈む毎日を過ごす外ありません。ああ、あの鳥が羨ましい。

私も、摩耶国へ飛んで行き、恋しい人に逢うことができたなら、こんなに苦しむこともないのに。

ああ、懐かしの金色太子様。」

と嘆くのでした。女房達は、承り、

「仰ることは分かりますが、太子と交わされた兼ね言を信じて、今の苦しい時をお忍び下さい。」

と、励ますのでした。姫宮は、涙を抑えて、

「そうではありますが、交わした約束は、三年目には帰るということでした。もう四年目の

夏を迎えるというのに、太子はまだ、帰りません。最早、討たれて、お亡くなりになってし

まったのかもしれません。」

と言うと、法華経の転読をなされ、頓証菩提(とんしょうぼだい)と回向すると、虚空に

向かって礼拝するのでした。すると、俄に紫雲が棚引いて、異香が漂いました。若い男を

先立てて、菩薩の主従が、東を指して通って行ったのでした。姫君は、不思議に思って、

明王鏡(めいおうきょう)を取り出して見ると、若い男は、金色太子ではありませんか。

姫君は、驚いて、

「のうのう、皆の者、見てご覧なさい。ここに映っているのは、恋しき人の姿です。きっと

私を恋しく思って、鏡に映ったに違いありません。しかし、これは、後世へと飛んで行く

とのお知らせなのでしょうか。もし、そうであるなら、このお姿を消さないでおいて下さい。」

と、鏡を抱きしめましたが、やがて、その姿は、紫雲と共に消えて行きました。すると今度

は、鏡の裏に施してあった、鶴亀の彫り物が、外れ落ちると、天へと飛び去って行ってしま

ったのでした。これを見た姫君は、もう太子は死んでしまったのだと思い込み、天を仰ぎ、

地に伏して、消え入る様に泣くばかりです。女房達も、姫宮と共に悲しみに暮れて泣くほか

ありません。そうして、積もる思いは、とうとう姫宮を病に落として行ったのでした。王様

もお后様も、必死の看病に当たり医術を尽くしましたが、容体は重くなるばかりです。とう

とう、最期の時がやってきました。姫宮は、

「父母様、お聞き下さい。私は、重い病のため、これから冥途へと旅立ちます。私こそ、

後に残って、父母の菩提と弔うべきなのに、老少不定(ろうしょうふじょう)の現世ですか

ら、残念ながら、私が先に行くことをお許し下さい。逆縁とはなりますが、亡き後の弔い

を宜しくお願いいたします。名残惜しい、父母様。女房達よ、お暇申し上げます。ああ、

恋しい太子は、何処に居るのですか。」

と、言い残すと、十七歳の生涯を閉じたのでした。王様もお后様も、姫宮の死骸に取り付いて、

「これは、なんということか。百歳にも近い我々を残して、どうしろというのか。どうせ

行く道ならば、どうして一緒に連れて行ってくれないのだ。」

と、姫の顔に顔を押し当て、死骸を押し動かして、嘆き悲しむのでした。やがて、家臣達は、

「どんなに嘆かれても、姫宮はお帰りにはなりません。さあ、早く供養をしてあげましょう。」

と、集まって、姫宮の遺体を抱き上げると、野辺の送りをしたのでした。兎にも角にも、

姫君の御最期は、哀れと言うも、まったく言葉もありません。

つづく


忘れ去られた物語たち 21 説経毘沙門之本地③

2013年05月26日 18時12分40秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

毘沙門の本地 ③

 さて、次の日の朝、金色太子は、姫君に、

「私は、これから摩耶国に行って来ます。あなたは、本国に帰って、私をお待ち下さい。

摩耶国までの道のりは、三年かかりますが、犍陟駒(こんでいごま)で行くならば、一年

でゆくことができるでしょう。しかし、三年の間は、お待ち下さい。三年が過ぎてしまった

ら、最早、私は死んだと思って、後世を弔って下さい。名残は尽きませんが・・・。」

と言うのでした。姫君は、涙ながらに、

「たった一夜だけの契で、もうお出かけになってしまわれるのですか。なんと恨めしいこと

でしょう。故郷を出たその時は、父母に引き別れ、今又、あなた様に別れて、また物思い

が増えてしまいます。」

と言うと、互いに手と手を取り合って、嘆かれるのでした。姫宮は、涙をぬぐいながら、

「しかし、摩耶国は大国ですよ。あなた、一人で摩耶国に行って、大軍に勝つことができる

のですか。」

と聞きました。金色太子は、

「ご尤もな質問です。私の家の家宝には、金石縅(きんせきおどし)の大鎧と、金剛の兜

があります。これは、どんな矢も射通すことはできません。そして、大通連(だいとうれん)

という太刀があります。この太刀を一振りすれば、一度に、千人の敵の首を落とすことがで

きます。ですから、敵がどんなに多くとも、負けるということは無いのですよ。」

と言うと、別れの歌を詠みました。

『君故に 捨つる命は 惜しからず 何時の世にかは 巡り逢うべき』

姫の返歌は、こうでした。

『何時の世と 思う君こそ 儚けれ 月日は重ねて 巡り逢うべし』

別れの憂き涙に濡れる二人の様子は、誠に哀れな限りです。離れがたきを振り切って、太子

は、門外へと出ましたが、また立ち返って、走り寄るのでした。しかし、太子は、思い切り、

犍陟駒にまたがって、摩耶国へと旅だったのでした。哀れな姫君は、金色太子の後を見送っ

て、泣き崩れておりましたが、女房達が、姫君の手を取って、輿に乗せると、クル国へと帰

って行ったのでした。やがて、故郷に帰り着いた姫君は、金色太子の事を、有りの儘に、父

母に話すのでした。王様もお后様も喜んで、金色太子の帰りを待つこととなりました。

 さて、一方、金色太子も駒を急がせて、やがて、摩耶国に辿り着きました。摩耶国の様子

を窺ってみると、明後日にはクル国へ出兵との命令に、多くの軍兵が集結し、着到状(ちゃくとうじょう)

を、付ける有様は、目も驚かすばかりです。この様子を見て、金色太子は、馬に乗せた物の

具を下ろすと、鎧兜に身を固め、手棒という杖を突いて、王宮へと向かいました。王宮の

門番は、怪しんで、

「何者。」

と、押し留めましたが、太子は、怯みもせず、

「いや、怪しい者では無い。クル国の遣いである。国王に取り次ぎ願いたい。」

と言いました。やがて、青帝王に前に通ると、金色太子は、

「勅使に参りましたのは、クル国の姫君のことでございます。承りました所、クル国の姫君

を奪い取るとの企てがあると聞きました。クル国は、小国とは言えども、人々の心は、獰猛

ですので、とても敵うものではありません。そこで、無駄な企てをやめさせるために、これ

まで参った次第です。」

と言うのでした。居並ぶ役人は、せせら笑って、

「これほどの大国を動かす大王様を、お前一人で止めに来たと申すか。おこがましい。ええ、

ひったってえ。」

と言うなり、小腕取って引っ立てると、場外へと引きずり出しました。青帝王は、怒って、

「あのような、生意気な小童(こわっぱ)を、そのまま国に帰すのも、癪に障る。軍神の

血祭りに、切って捨てよ。」

と、命じました。兵士達が、どっとばかりに繰り出して、太子を取り囲みました。金色太子は、

「なんと、物々しい。それでは、物を見せてやろう。」

と、大勢の中へ切り込みました。しかし、あっという間に、多くの兵が討たれたので、驚い

た摩耶国軍は、援軍を集めました。何千もの兵が、金色太子めがけて、攻め寄せて来ます。

この時太子は、大通連の剣を抜きました。一振りすれば、千人の首が一度に落ちました。

これには、摩耶国の軍勢も敵わずに、皆散り散りに敗退したのでした。金色太子は、勝ち鬨

を上げると、再び犍陟駒に打ちまたがって、クル国を目指して、帰って行きました。この

金色太子の活躍は、鬼神にも勝ると、感心しない者は、ありませんでした。

つづく

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忘れ去られた物語たち 21 説経毘沙門之本地②

2013年05月25日 17時04分34秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

毘沙門の本地 

さて、ここに摩耶国という国がありました。帝の名を青帝王と言います。青帝王はある時、

家臣を集めて、こう言いました。

「我は、十全の王となって、思うに任せぬことも無いが、百にも近い歳となり、どうしても

止めることができないのは、老いの道である。聞く所に依ると、蓬莱の故宮には、不死の薬

があると聞く。その薬を、是非試してみたい。」

すると、ある臣下が、進み出て、

「それ迄には、及びません。クル国には、玉体女(ぎょくたいじょ)という言う姫宮がおられます。

この姫君を、一目見るならば、八十、九十になる老人も、忽ち若返るということです。急い

で、勅使を立てられ、迎えられては如何でしょうか。」

と、奏聞したのでした。青帝王は、それを聞くと、早速に勅使を立てることにしたのでした。

勅使に命ぜられたのは、侃郎(かんろう)という兵士でした。急ぎに急いで、二年と三ヶ月。

侃郎は、クル国に到着しました。侃郎は、参内すると、青帝王の金札(きんさつ)をクル王

に差し出しました。クル王は、金札を見るなり、

「いやいや、只一人の娘ですから、差し上げるなどといこはできません。」

と、断りました。侃郎は、面目を失って、帰国すると、青帝王に結果を奏聞しました。これ

を聞いた青帝は、怒って、

「金札を贈ったにもかかわらず、その返礼も無く、違背するとは言語道断。急ぎ、軍兵を送

り、奪い取ってこい。」

と命じたのでした。そこで、侃郎が総大将となって、二十万騎の兵を集めることになったのでした。

摩耶国が攻めてくるという知らせは、クル国にも伝わりました。王様と、お后様は、どうし

たものかと、泣くばかりです。姫宮は、これを聞いて、

「かの摩耶国という国は、この国よりも大国で、文明も進んでいると聞きます。程なく、

押し寄せて参りましょう。父母様が、私を惜しむお気持ちは分かりますが、そうなったなら、

返って、恨みとなるでしょう。名残惜しいことではありますが、戦争にならぬ内に、早く私

を、摩耶国に送って下さい。決して、恨みになど思いませんから。」

と、涙ながらに言うのでした。王様もお后様も、思い惑って、言葉もありません。只、涙に

暮れておりますと、臣下の一人が進み出て、

「姫宮を送らなければ、摩耶国が攻め入ってくることは明らかです。どうか、姫君を摩耶国

へお送り下さい。」

と、進言すると、とうとう王様も諦めて、姫を摩耶国へ送ることにしました。付き従う

お供の卿相や、華やかに着飾った女官は数知れず、大行列で、姫君を送り出したのでした。

 さて、姫君の一行が進んで行くと、七日目に苔の生(場所不明)という所にやってきました。

都に比べ様も無い、鄙びた所です。葦の野原の八重葎は、宿覆い尽くすばかりです。月の

光が漏れてくるような寝床に、気は滅入るばかりです。あまりにも寂しいので、姫宮は、女

官達を集めて、管弦を奏でさせますが、古里の父母を恋しく思い出して、管弦の音色も耳に

入らない様子です。月が昇った空を、遙かに眺めて、心細くなるばかりです。姫宮は、

『旅寝の憂さは、変わるけれども、月は、いつもと変わらず、澄み渡って出てくるのですね。』

と、思いつつ、一首の歌を詠みました。

「旅の空 月も隈無く 出でぬれば いとど心は 澄み上がるかな」

そして、涙を流すのでした。女房達も共に、涙に暮れて、伏し沈んでおりますと、どうした

ことでしょう。突然、異香があたりに立ち込め、紫雲がひと叢棚引いたかと思うと、二十歳

程の若者が、颯爽と現れ、姫君の旅宿に舞い降りて来たのでした。その若者は、

「如何に、姫宮。聞いて下さい。私は、ここより西の維縵国(ゆいまんこく)の王子、金色

太子(こんじきたいし)と言う者です。私の父の大王は、齢百歳。母の后は、九十三歳の老

人です。風の噂に、姫君の事を聞き、ここまで迎えに参りました。どうか、急いで維縵国

へお越し下さい。」

と、言うのでした。これを聞いた姫君は、

「私は、これより、南の国、摩耶国へ送られて行くのです。もし、あなたの国に行ったなら、

摩耶国は、我が国へ攻め込んで、戦争になってしまいます。ですから、あなたの国へ行くこ

はできません。お許し下さい。」

と言いました。金色太子は、これを聞いて、

「そういうことなら、私が、摩耶国へ行って、その軍勢を押し留め、その後、改めてお迎え

に参りましょう。姫は、恋しい父母の居る故郷へお帰りなさい。さて、例え戦に敗れて、

死んだとしても、今宵、新枕を並べることができるならば、露の命も惜しみません。姫宮。

如何に。」

と、口説くのでした。言われた姫も、まんざらでもなく、ぽっと紅くなって、

「賤が宿にて、お恥ずかしい次第ですが、こちらへどうぞ。」

と、寝殿に入られたのでした。そして、翠帳紅閨(すいちょうこうけい)の枕を並べて、

妹背の仲の契を交わしたのでした。兎にも角にも、この人々の心の内は、嬉しいとも何とも

申し様もありません。

つづく

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忘れ去られた物語たち 21 説経毘沙門之本地①

2013年05月25日 15時19分10秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

 

説経太夫の中で、称号を受領した者は、天満八太夫だけである。天満八太夫が石見掾を受領

したのは、萬治四年(1661年)のことであり、元禄の初めぐらいまで約30年間は、

江戸古説経の黄金期と言えるようだ。(説経正本集第3:天満八太夫雑考:信多純一)

 説経正本集第3(40)に収録された「毘沙門之本地」は、宝永八年(1711年)出版

と推定されているが、再版であることは明かなので、原刻は、その12年前の貞享四年(1

687年)であろうとされている。まだ、天満八太夫が元気な頃の説経であり、仏神の奇譚

を、絡繰りを駆使して見せたであろう、説経らしい舞台が目に浮かぶ。

 毘沙門の本地

 そもそも、京都の鞍馬寺にいらっしゃる毘沙門天王の由来を、詳しく尋ねてみますと、

天竺の傍にありましたクル国にまで遡ります。クル国の王様は、三皇五帝の後を継いで、国

を治めておりました。吹く風も、枝を鳴らさない程に、穏やかな国で、剣は箱の中にしまっ

たままだったということです。摂家、六位の公卿達は、昼夜に精勤して、国王を守護し、下

は、首陀(しゅだ:シュードラ)の人々まで、幸せに暮らしたというほどに、栄えていまし

た。しかし、そのような素晴らしい国王でさえ、八苦を逃れることはできないのです。

 国王は、もう百歳近い老体でしたが、跡継ぎが一人もおらず、そのお嘆きは、大変深い

ものでした。卿相雲客達が集まっては、いろいろ相談をしましたが、願いは叶いませんでした。

ある時、家臣の一人が、こう申し上げました。

「今も、昔も、王子が無い国は、滅んでしまいます。諸天の神々に、王子を授けて頂く様、

願を掛けては如何でしょうか。」

王様は、願を立てようと思い立って、内侍所(ないしどころ)に籠もらるると、大梵天王宮

を勧請になり、様々な祈祷を始めたのでした。

「南無帰命頂礼(なむきみょうちょうらい)大梵天。その昔、陰陽の二道に分けられてより

この方、夫婦、人倫の道あり。ですから、普天率土(ふてんそつど)の精よ、お願い致します。

凡そ、身分の上下を問わず、世継ぎを持たなければ、必ずその家は絶えてしまいます。これ

を悲しまない者があるでしょうか。どうか、神々の感応を戴き、一子をお与え下さい。」

と、王様は、深く祈るのでした。有り難いことに、梵天王は、これを不憫とお思いになられ、

紫雲に乗って、王様の枕元に立たれたのでした。梵天王は、

「如何に、大王。お聞きなさい。あなたの嘆きを不憫に思って、三界を飛行して、あなたの

子種を捜し回りましたが、残念ながら、あなたの子種はありませんでした。あなたに子種

が無いことには、理由があります。あなたは前世で、西の崑天山(こんてんさん:崑崙山脈カ)の

峰に棲む小鷹でした。沢山の鳥類を食べたので、その業因が積もって、子種が無いのです。

又、この国の王として生まれたことにも、理由があります。崑天山の山中には、弥陀経を

読誦する法師がおりましたので、そのお勤めの声を、毎日聞いていたのです。その聞法の

功徳によって、現世で、この国の王となったのですよ。過去の因果を知らずに、嘆くとは

不憫なことです。しかし、あなたは大願をお立てになったので、玉体の天女を一人、与える

ことにしましょう。」

と言って虚空を招くと、異香が漂い、花が降り始めました。すると、天人菩薩が、姫を抱い

て、天より降りて来たのでした。やがて、姫を内侍所に安置すると、梵天王達は、再び天へと

帰っていきました。王様とお后様が夢から覚めて、

「有り難い夢を見た。」

と、辺りを見て見ると、可愛らしい女の子が居たのでした。后が、駆け寄って抱き上げました。

「あなたは、我が子となったのですよ。なんという嬉しい契でしょう。元気に育って下さいね。」

と、その喜びは限りもありません。そして、不思議なことに、姫君の姿を見た途端、王様も

お后様も、もう九十歳を越える年齢であったというのに、三十代の若さに戻ったのでした。

国中の人々が喜んだのは、言うまでもありません。

 姫宮は、人間の子では無く、天の麗質を具えていましたので、その眉目と言い貌と言い、

言葉では尽くせぬ美しさです。やがて、その噂は広がって、近隣諸国の王子達は皆、姫宮に

恋い焦がれるようになったのでした。さて、クル国は、豊かに栄えて、千秋万歳の喜びは、

なかなか、言い尽くせるものではありません。

つづく

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忘れ去られた物語たち 20 説経念仏大道人崙山上人之由来 ⑦終

2013年05月15日 23時16分05秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ろんざん上人⑦終

法論の奇特を得た、崙山上人は、いよいよ尊敬を集めるようになりましたが、ある時

玉若殿を近づけて、こう言うのでした。

「愚僧はこれから、諸国修行の旅に出る。再び関東へと下り、師匠にもお目に掛かりたい。」

そして、再び修行の旅を始めたのでした。

 これはさて置き、その頃。下総の国には、神崎陣内(こうざきじんない)という者が

ありました。元々西国の出身でしたが、行方不明になった主人を探し回っている内に、

身を成り崩して、今は追い剥ぎとなってしまったのでした。ある時陣内は、牛久保の弥

太郎という悪友と、いつもの様に悪巧みの相談をしました。

「おい、弥太郎。今夜も、いつも原に出て、通り掛かる奴を追い剥ぎして、少し酒代を

稼ぐとしよう。」

二人は、枸橘ヶ原(からたちがはら)と言う所に陣取ると、誰かが通り掛かるのを、今

か今かと、待ち受けました。そこに通り掛かったのは、崙山上人でした。二人の盗賊は、

ぬっと飛び出ると、左右に崙山上人を挟んで、

「やあ、御坊。ちょっと待て。長浪人にて尾羽を枯らした我等に、少しばかり酒手代(さかてしろ)

を恵んでもらおうか。」

と、睨め付けました。崙山は、

「おお、それは、お困りですね。しかし、愚僧は貧僧で蓄えも、着替えもありませんので、

お許し下さい。」

と言いました。盗賊は、怒って、

「なんとも、ふてぶてしい法師だな。その肩の油単(ゆたん)包みはなんだ。それを、よこせ。」

というなり、無理矢理に奪い取って、その上、袈裟も衣も剥ぎ取ろうと襲いかかって

きたのです。崙山は、抵抗もしませんでしたが、こう言いました。

「さてさて、あなた方は、破戒無慙(はかいむざん)の人達ですね。よっく聞きなさい。

水は方円の器物に従い、人は善悪の友に寄って決まるのです。あなた方は、悪業が深く、

善悪を弁えずに、今生で悪事を重ねていますが、死んで冥途に行ったならば、大変恐ろ

しい猛火の中に堕罪するのですよ。苦しみを受けるその時になって、後悔しても既に遅

いのです。愚僧をどうしようと構いませんが、あなた方の後世を思うと、不憫でなりません。」

これを聞いた盗賊は、更に怒って言いました。

「このくそ坊主。未来と言っても、何処に見てきた者がいるのか。地獄も極楽も、釈迦

とかいう似非者が、勝手に作った作り話よ。悪を作って地獄に落ちるか、お前のように、

三衣を纏って仏になるか。その証拠を見せてやる。」

そして、崙山上人を高手小手に縛り上げると、傍にあった松の木に吊し上げたのでした。

二人の盗賊は、

「おい、坊主よ。どうした。仏とやらは救いに来ないのか。それじゃあ、売僧(まいす)

をお勧めになる法師様に、暇を取らせてあげましょうか。」

と、言うなり太刀を抜き放ち、崙山上人に切りつけました。すると、その途端に、その

太刀は、ばらばらに砕け散ってしまったのでした。驚いた盗賊が目にしたものは、光を

放つ十一面観世音でした。腰を抜かした盗賊は、その場に平伏してわなわなと震えています。

崙山は何気ない様子で、盗賊の後ろに佇んでいました。盗賊達は飛び上がって驚くと、

「さてもさても、御僧は仏でありましたか。有り難や、有り難や。そうとも知らず、

縛り上げましたこと、何卒お許し下さい。この奇特を見る上は、どうか、我々を、弟子

にして下さい。」

と言うのでした。崙山上人は、

「おお、それは殊勝なこと。方々よ。例え十悪五逆の者であっても、一念仏心を起こす

時は、諸佛も感応するものです。それでは、出家なさい。」


忘れ去られた物語たち 20 説経念仏大道人崙山上人之由来 ⑥

2013年05月14日 21時46分30秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ろんざん上人⑥

 その頃の天皇は、第109代太上皇帝(明正天皇)でした。帝は、先帝の菩提を篤く

弔う為に、日本の名僧を集めるようにとのお触れを出したのでした。そんな折り、宮中

に百色の冥鳥が飛んで来て、

『ぶっぽうめいしそう』

と鳴いて飛び去ったのでした。帝は、不思議に思って、陰陽の博士に占わせました。

陰陽の博士、阿倍の望月は、参内すると、暫く考えてこう言いました。

「これは、宮中より、東の方向に、ろうれつという名の者がおり、この者は、文殊菩薩

の化身であるから、法要に呼び出すようにとのお告げです。かつて、弘法大師、性空上

人、法然や親鸞が世に出る時も、この鳥が舞い降りております。その鳴き声を文字に表

すならば、「仏の法、明かなり、使いの僧」となります。この僧をお召しになり、追善

法要を致すのがよかろうと存じます。」

帝は、この占いに従って、ろうれつを召し出したのでした。やがて、ろうれつは参内し

ましたが、そこには、嘗て、霊巌寺に於いて、ろうれつを殺そうとした「かい月」も

来ていました。帝の宣旨を受けると、かい月は、憎々しげに、ろうれつの前に出て、

「おぬしは、このような大事の御法事に、何の心得も無いままに来たのであろう。どの

ような有り難い法要をするつもりか。」

と、言い寄りました。ろうれつは、

「お前は、知らないのか。往生極楽の回向の外に、秘術などは無いのだよ。」

かい月は、これを聞くと、

「それでは、どんな回向をするのか。」

と問い詰めました。ろうれつは、

「それ、回向には四種あり。第一に「ぢきしゅつ回向」(不明)第二に「くんほつ回向」(不明)

第三に「往相回向」第四に「そんそう回向」(還相回向カ)。この中で、最も助かり易い

回向は、「ぢきしゅつ回向」である。」

と、答えます。聞いたかい月は、

「その回向では、どのような経を読むのか。」

と更に問い詰めました。ろうれつは、

「おうおう、何ということだ。六字の名号の外に、唱えるべき文言などありはしない。

六字の名号こそが、第一の回向である。」

と言い切りましたが、かい月は食い下がって、

「すべての諸経は、釈迦一代のお示しであるのに、念仏とは何事だ。」

と、怒鳴りました。ろうれつは、少しも騒がず、からからと笑うと、

「よっく聞けよ。六字の名号の「阿」の字一字に、十万の三世の諸佛。「弥」の字には、

一切の諸菩薩が。「蛇」の字には、八万諸正経が封じ込まれているのだぞ。どうだ、どうだ。」

と説くのでした。しかし、かい月は、しつこくも、

「やあ、ろうれつ。この生道心め。念仏の六字ぐらい知ってるおるわい。諸々の諸経を

広めた釈迦如来は、一切の事物の父母ではないか。阿弥陀仏ばかりを頼んでいたのでは、

成仏などできっこあるまい。」

とたたみ掛けます。ろうれつは呆れて、

「お前は、くだらないこと言うな。私は、釈迦を捨てる等と言った覚えは無い。六字の

名号には、釈迦諸菩薩も籠もっているのだ。大乗の心は、三神一仏を崇め申し上げるのだ。

三神とは、弥陀、釈迦、大日であり、この三仏を一仏と見るのだから、お前のように、

阿弥陀仏を遠ざけては、釈迦をも遠ざけることになるではないか。さあ、今からは、強

情なことはやめにして、愚僧の教えに従いなさい。」

と、諭すのでした。すると、弁舌盛んなかい月も、とうとう言葉に詰まって、

「ええ、お前のような悪僧は、仏法の外道だ。その首、捻切ってやる。」

と、ろうれつに飛びかかりましたが、その場の公家大臣が、取り押さえました。

ろうれつが、

「如何に、かい月。このような大事の御法事に当たって、埒もない言い争いは、慎みなさい。

先ずは、御法事をしっかり勤め、それからは、好きなようにしなさい。諸佛の目の前に、

大仏法に悪を為すような外道を、どうして諸佛が許し置くことがあろうか。よっく観念

しなさい。」

と言うと、突然、御殿が振動し、黒雲が辺りを覆いました。すると、金色の名号が、燦

然と顕れたのでした。今度は、その名号が、忽ち六色の悪鬼に化身すると、かい月に向かって、

「如何に、かい月。お前は、道者を嫉む悪人。今現在、六道の苦しみを見せてやる。」

と、その場で地獄の猛火を吹きかけました。猛火に包まれたかい月は、苦しみの余り、

「この悪い口の為に、あなたを誹ってしまいました。どうぞ、お助けを。」

と、血の涙を流して謝るのでした。ろうれつは、哀れに思って、

「只、南無阿弥陀仏えお唱えなさい。」

と諭しました。かい月が、必死に南無阿弥陀仏を唱えると、どうでしょう。猛火は忽ち

に消え去り、悪鬼は元の六字に戻って、再び燦然と輝くのでした。やがて六字の名号が

消え去ると、今度は、かい月が、無碍光如来に変じて、光明を放ち始めたのでした。

かい月が仏になったと、皆一同に驚き、帝、ろうれつを初めとして、皆、礼拝をされた

のでした。帝は、ろうれつの働きに感心して、

「この度の奇特の勤めは、大変ご苦労でした。今より、あなたの名を、崙山上人と改め

なさい。寺を建立してあげましょう。」

と、有り難いお言葉を下されました。そこに、稲垣與一が参内して、崙山上人の出自や

玉若殿の事等を奏聞しますと、帝は叡覧なされて、玉若も参内させました。そして、

玉若を日向の三郎元義と名付けて、大和の国に七万町をお与えになったのでした。

こうして、人々は、老母を伴って、大和の国に帰ることとなりました。かの崙山の

有様は、前代未聞の知識の誉れであると、有り難いとの何とも、申し様も無い次第です。

つづく


忘れ去られた物語たち 20 説経念仏大道人崙山上人之由来 ⑤

2013年05月14日 17時32分42秒 | 忘れ去られた物語シリーズ

ろんざん上人⑤

さて、江戸の霊巌寺で修行を積まれたろうれつ(金国)は、今はもう大知識となっていました。

一切経を全て習得して、御釈迦様の教説をそらんじていましたから、人々から、仏の化

身であると尊敬されていました。

 ある時、ろうれつは、こう考えました。

『天地開闢よりこの方の、日本に伝わる一切経を読破し、ひたすら六波羅蜜の修行を

行い、悟りの境地に達したけれども、とどのつまりは、名号である。伊弉冉尊(いざなみのみこと)

も天照大神も、本地と言えば阿弥陀如来であることは疑い。末世の衆生は、下地下根であり、

座禅を通して悟りに達することは難しい。この有り難い念仏を、人々が軽んじていることは、

残念なことである。十万の三世仏、一切の諸菩薩が、八万ものお経に書き表されているが、

それでも、文字には書き尽くすことはできず、言葉で言い尽くすこともできない。そう

であるからこそ、仏の知恵は、この六字に詰め込まれたのだ。私が出家をしたのは、人々

を助けるためであった。これよりは、日本中を修行して回り、人々を利益しなければ

ならぬな。」

 そうして、ろうれつは、雄誉上人から授けられた御名号を襟に掛け、全国行脚の旅へ

と出掛けたのでした。先ず都に向けて旅立ったろうれつは、やがて小田原までやってきました。

もう日暮れ近くのことでした。入相の鐘が鳴るのを聞いてろうれつは、夕日を拝みなが

ら一首を詠みました。

「月も日 東に出でて 西に行き 弥陀の浄土へ 入相の鐘」

やがて、日はとっぷりと暮れました。ふと、気が付くと、遙かの向こうに、灯火の光が

ちらちらと見えます。ろうれつが立ち寄って、編み戸の隙間から中を覗いてみますと、

八歳ほどの子供が、仏前に手を合わせて、念仏をしています。これを見たろうれつは、

『さても殊勝な子供じゃな。年端も行かぬのに、有り難きお念仏。何やら子細もありげ

だが、外に人の姿も見えない。これは、ひょっとして、愚僧の修行を試す、仏神の現れ

であろうか。むう、まあそれはどうあれ、このような尊い子供を見捨てて通るというの

も如何なことか。もう日も暮れてしまったことだし、今宵はここに宿を借りて、旅の疲

れを癒やすことといたそう。』

と、思案して、庵の戸を叩きました。

「もし、私は旅の僧であるが、日に行き暮れてしまった。一夜の宿をお貸しくだされ。」

玉若殿は、これを聞くと急いで立ち上がり、戸を開けて、

「何、旅の御僧ですか。主は留守をしておりますが、お坊様であるなら、どうぞお入り下さい。」

と招きました。ろうれつは、これを聞いて、

「さてさて、あなたは、まだ子供なのに、殊勝なお志。子供ながら、只人とは思えません。

しかしならが、主もいらっしゃらない所へ、如何に法師といえども、宿を乞う訳には

行きません。お志は有り難いとは存じますが、別の宿を探すことにいたしましょう。」

と行って立ち去ろうとしました。しかし、玉若は、ろうれつの袖に縋り付いて、

「仰ることは道理ではありますが、少しも苦しいことはありません。殊に私は、最近

母を失い、孤児となりました。祖母がおりますが、今日は乳母を連れて、母の墓参りに

出掛け、まだ戻りません。丁度、物寂しく感じていた所に、あなた様が宿を乞われたので、

嬉しく思っております。丁度、明日は、母上様の初七日ですから、外の宿を借りる等と

言わずに、今夜はここにお泊まり下さい。どうかお願いいたします。お坊様。」

と言って、袂を離しません。ろうれつは、その心に感心して、

「そういうことであれば、一夜の宿をお借りいたしましょう。」

と言って、奥の間に入ったのでした。

 ろうれつは、この子が、我が子であるとも知らず、先ず持仏堂にお参りなされてから、