さて、和泉の国にいらっしゃいます緑の前は、
「一体どのような前世の因縁なのでしょうか。母上様には先立たれ、父上様だけを只一人、
頼りにしてきたのに、都へ行ったままお帰りになりません。それどころか、辛い宣旨が下り、
蝦夷などという所の逆臣を退治するために、御出陣なされてしまわれました。狄という者
達は、大変、獰猛であると聞きます。もし、お命が危うくなるならば、私は、どうしたらい
いのでしょうか。ああ、私は、便りも来ない捨て小舟に乗って、大海原に彷徨っているよう
な気持ちです。」
と、自らの運命を恨んで泣くのでした。乳母の忍は、この様子を見て、
「これはまあ、仕方の無いことを仰います。母上様はとても帰らぬ死出の旅。御回向をしっ
かりなされませ。父上様は、本より武略に優れた御大将。狄などに負ける様なことはございません。
つまらないことで、お心を悩ませることはおやめください。丁度今は、住吉の花盛りと聞きます。
お花見をして、心を晴らしましょう。」
と、花見を勧めたので、早速に花見をすることになりました。
忍や小桜、その外の女房達がお供をして、住吉へ出掛けると、幕を張り巡らせて、姫を慰
める酒宴が始まりました。緑の前は、満開の桜を打ち眺めて、
「あら、美しい春の野辺ですねえ。目を離すこともできない程、見事な桜花です。唯々、
色を争うように咲き乱れる糸桜。涙に濡れて湿っぽい袖を乾かしてくれるような緋桜(ひざくら)
の色は、もっと鮮やかですね。きっと東国の果では、江戸桜が父を慰めることでしょう。
若木の花は盛んですが、老い木の姥桜も風情があります。そんな中でも、楊貴妃桜の花の色
には、誰もが皆、深く心を動かされるでしょう。又、あそこに可愛らしく見えているのは、
稚児桜ですね。」
と、久しぶりの笑顔で、打ち笑い、楽しげに幕の中へと入って行ったのでした。
ところで、姫君の世話を任されていた長尾の玄蕃定春の一子、長尾の左門春近は、以前か
ら、女房の小桜と心を通わせていましたが、人目を憚って、中々逢うこともできないでいました。
春近は、この花見を機会にして、ちょっとの間でも、小桜と話ができないかと、幕の外から、
様子を窺っております。
緑の前は、花の心を歌に読んで短冊に書き込むと、小桜に、花に付けるようにと言いました。
小桜が幕の外に出て、とある小枝に、短冊を結びつけるところを、左門は見落としませんでした。
さっと走り寄ると、春近は、
「なんと、つれない心根でしょうか。あなたに逢うために、朝からずっと、待っているのに。
知らん顔をなされるのですか。恨めしや。」
と、言い寄りました。小桜は、
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