アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

忠治の時代 1

2013年12月26日 | Weblog


国定忠治遺品館に行くと、忠治関係資料が有りますが、

全て、撮影禁止です。

その中に、下記の上の様な算盤が付いた。

たばこ入れが、有ります、実物は携帯電話位の大きさです。

5珠の上に天珠が2つあるのが特徴ですが、理由は下記の事情です。

 

江戸時代の乗算や除算の方法では、一時的に1桁に10以上溜まる場合もあったので、

江戸時代まではこの五珠に天弐つの形式が多く使われていた。

明治時代になって、銭、円の十進法になり

不要な天珠を1つ減らした天1珠・地5珠の五つ珠(いつつだま)になった。

江戸時代は、

金1両=銀60匁=銭4貫文(4000文)ですので、

(当時の金貨、銀貨、銭貨の三貨は変動相場制であり、江戸と大坂で毎日相場がたち、

             取引が行われていた。現在の円・ドル相場と同様)

1両=銭4000文(4貫文)

1分=銭1000文(1貫文)

1朱=銭250文(0.25貫文)

 

銀貨(秤量貨幣、丁銀、豆板銀など、重さで取引するもの)

1両=銀60匁

1分=銀15匁

1朱=銀3匁7分5厘

銀1貫=銀1000匁=約17両

銀1匁=約67文

 

ちなみに「疋(ひき)」という単位も使っており

1疋=銭10文

1朱=25疋

1分=100疋

1両=400疋

 

ただ1両=4貫文は変動しており、例えば天保13年(1842)には

1両=6貫500文(6500文)まで下落しました。

 

また1000文(1貫文)を960文、100文を96文とする

「九六勘定」については諸説あります。

一文銭96枚(江戸時代以前は97枚とか、地域によっては 80枚とか色々・・・)を

麻や藁(わら)などの紐で括ったもので、これを百文として 使用していました

(このことを省百(しょうひゃく)、省銭(しょうせん)、九六百 (くろくびゃく)

、九六銭(くろくせん・くろくぜに)とか云います)。

 何故、このような使われ方をしていたかというと、当時は、

金(両)、 銀、銭と三種類の通貨があり、それぞれの公定相場は

 金一両 = 銀60匁(もんめ) = 銭4000

 また、金の下の単位はそれぞれ四分割して計算され

一両 = 四分

一分 = 四朱でした。

このため、商いの際、金と銀の交換の際にでる端数の計算が

スムーズに行えるよう、 四と六で割り切れる百以内の最大数をとり、

96枚を百文としていたようです。

江戸時代に銭100文持っていたとして、1 16 文の

蕎麦そばを何杯食べられるか、そして、手元に何文残るかわかりますか?

普通に考えれば 100÷16 を計算して、「6 杯食べて 4 文あまる」という結論に

至ると思われますが、実は、ちょうど蕎麦 6 杯の値段となり手元には 1

も残りません。

「えっ?!」と思われるかもしれませんが、これが江戸時代の銭勘定かんじょうです。

そもそも、江戸時代には「九六銭」といって、銭 96 枚の穴に紙縒を通し(

これを「銭さし」といいます)、100 文とする慣例がありました。

すなわち銭 100 文といっても、実際には 1 文銭96 枚なのです。

どうしてこんな慣例が出来上がったのか、現在でも定かではありませんが、

96 2 3、4、6、8など多くの数で割り切れることから、

計算の便利さを理由に成立したとも考えられています。ですので、

16 文の蕎麦が 6 杯で 1文銭96 枚、即ち 100 文なのです。

では、全ての場合において 1 文銭 96 枚で 100 文として通用したかと言えば、

そうではありません「丁銭」という計算方法もありました。

丁銭とは、銭 100 枚を 100 文として通用させる計算方法で「丁百」とも

いいます。例えば、金子借用しゃくよう証文しょうもんなど、

金銭貸借にかかわる古文書などで、「銭○貫かん△△文、但し丁銭」と

記したものが数多く見受けられますが、この場合、銭貨は 100

100 文と数える計算方法であることを示しています。

もし、丁銭と記していなかったら九六銭で計算することになります。

 



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