国定忠治遺品館に行くと、忠治関係資料が有りますが、
全て、撮影禁止です。
その中に、下記の上の様な算盤が付いた。
たばこ入れが、有ります、実物は携帯電話位の大きさです。
5珠の上に天珠が2つあるのが特徴ですが、理由は下記の事情です。
江戸時代の乗算や除算の方法では、一時的に1桁に10以上溜まる場合もあったので、
江戸時代まではこの五珠に天弐つの形式が多く使われていた。
明治時代になって、銭、円の十進法になり
不要な天珠を1つ減らした天1珠・地5珠の五つ珠(いつつだま)になった。
江戸時代は、
金1両=銀60匁=銭4貫文(4000文)ですので、
(当時の金貨、銀貨、銭貨の三貨は変動相場制であり、江戸と大坂で毎日相場がたち、
取引が行われていた。現在の円・ドル相場と同様)
1両=銭4000文(4貫文)
1分=銭1000文(1貫文)
1朱=銭250文(0.25貫文)
銀貨(秤量貨幣、丁銀、豆板銀など、重さで取引するもの)
1両=銀60匁
1分=銀15匁
1朱=銀3匁7分5厘
銀1貫=銀1000匁=約17両
銀1匁=約67文
ちなみに「疋(ひき)」という単位も使っており
1疋=銭10文
1朱=25疋
1分=100疋
1両=400疋
ただ1両=4貫文は変動しており、例えば天保13年(1842)には
1両=6貫500文(6500文)まで下落しました。
また1000文(1貫文)を960文、100文を96文とする
「九六勘定」については諸説あります。
一文銭96枚(江戸時代以前は97枚とか、地域によっては 80枚とか色々・・・)を
麻や藁(わら)などの紐で括ったもので、これを百文として 使用していました
(このことを省百(しょうひゃく)、省銭(しょうせん)、九六百 (くろくびゃく)
、九六銭(くろくせん・くろくぜに)とか云います)。
何故、このような使われ方をしていたかというと、当時は、
金(両)、 銀、銭と三種類の通貨があり、それぞれの公定相場は
金一両 = 銀60匁(もんめ) = 銭4000文
また、金の下の単位はそれぞれ四分割して計算され
一両 = 四分
一分 = 四朱でした。
このため、商いの際、金と銀の交換の際にでる端数の計算が
スムーズに行えるよう、 四と六で割り切れる百以内の最大数をとり、
銭96枚を百文としていたようです。
江戸時代に銭100文持っていたとして、1 杯 16 文の
蕎麦そばを何杯食べられるか、そして、手元に何文残るかわかりますか?
普通に考えれば 100÷16 を計算して、「6 杯食べて 4 文あまる」という結論に
至ると思われますが、実は、ちょうど蕎麦 6 杯の値段となり手元には 1 文
も残りません。
「えっ?!」と思われるかもしれませんが、これが江戸時代の銭勘定かんじょうです。
そもそも、江戸時代には「九六銭」といって、銭 96 枚の穴に紙縒を通し(
これを「銭さし」といいます)、100 文とする慣例がありました。
すなわち銭 100 文といっても、実際には 1 文銭96 枚なのです。
どうしてこんな慣例が出来上がったのか、現在でも定かではありませんが、
96が 2 や 3、4、6、8など多くの数で割り切れることから、
計算の便利さを理由に成立したとも考えられています。ですので、
16 文の蕎麦が 6 杯で 1文銭96 枚、即ち 100 文なのです。
では、全ての場合において 1 文銭 96 枚で 100 文として通用したかと言えば、
そうではありません「丁銭」という計算方法もありました。
丁銭とは、銭 100 枚を 100 文として通用させる計算方法で「丁百」とも
いいます。例えば、金子借用しゃくよう証文しょうもんなど、
金銭貸借にかかわる古文書などで、「銭○貫かん△△文、但し丁銭」と
記したものが数多く見受けられますが、この場合、銭貨は 100 枚
で 100 文と数える計算方法であることを示しています。
もし、丁銭と記していなかったら九六銭で計算することになります。
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