アラ還のズボラ菜園日記  

何と無く自分を偉い人様に 思いていたが 子供なりかかな?

真説 国定忠治 平成弐拾八年 其の壱

2016年08月16日 | 近世の歴史の裏側

忠治の妾徳の玉村宿出店を拒んだのは誰か?

玉村宿は例幣使の一宿場であるが、実際の支配行政上新田村と下新田村のニか村に、分かれていた。上新田村は九百二十石余の村高で、岩鼻陣屋支配の御料 下新田村は六十三石余の大名大岡主膳正の領分、四百八十二石余の旗本井上左太夫の知行所で、百六十二石余の旗本山田十太夫の知行所の三つに分給されていた。従ってそれぞれに名主他村役人が置かれた。しかし玉村宿はこの二か村を一つとして宿駅を構成し「本陣を臨時に置く」問屋が任命されて人馬その他の交通運輸に当たった地方支配は二つの村とはいえ、実態は街道に沿った

人家が密集する両側町となって宿が発展した為、村とは表向きで実態は宿場町の機能の方が強くなっていった。                

宿が村の上位にあり宿役人が村役人を兼務するのが実情であった。

玉村宿を動かしていたのは何者なのか? 徳の送籍願いを受けた清兵衛は下新田村の名主で

上新田村を含めた玉村宿の役人に諮(はか)らねば決められない。

玉村宿役人の筆頭といえば 問屋と年寄を兼ね かつ上新田村村名主も務める井田金七である。

井田家は万治元年(一六五八年)に 上新田村に属する玉村宿四丁目の四十戸から問屋役を、十三両の祝金で譲渡されて以来 問屋、年寄、名主を世襲して来た玉村宿きっての名望家であった。

天保八年(一八七四年)の「上新田村宗門改帳」によれば名主、問屋兼年寄の役を務めて田畑十三町六反五畝十一歩を所持する超特大の地主である。

傍ら酒造業その他諸商いも営む豪農商とも言える。

金七の家は大家族から成っている 金七(四十歳)と弟【二十八歳】 叔父(五十二歳)叔父(四十四歳iの四家族で小計二十二人(男十二人)、(女十人)で構成されている。

他に下男二十人 下女六人を雇傭し馬五疋を所有している。十三町六反余の田畑と、四十八人の人的資源といい 玉村宿最大最強の顔役とみなしても間違いでは無い。 

徳へ向けられた火札の背後には、恐らく井田金七の意向が働いていたと考えられる。

金七にしてみれば 福島村の年寄に過ぎない渡辺三右衛門が改革組合大惣代に選任されてから、寄場玉村宿へ出入りし、関東取締出役の権威を笠に着て宿敵に口を出すことを苦々しく思っていたと思えられる。 

忠治一件を頂点に 玉村宿と組合村々との間には 負担の分担をめぐって根深い亀裂があった。

そこに忠治の妾であった五目牛村の徳が お上の仕置きに懲りずに、

大惣代渡辺三右衛門を色仕掛けで証し込んで玉村宿で一儲けしようと企んでいる。

金七の許に子飼いの者から次々と情報が人って来る。

金七には玉村宿の世襲の問屋年寄であるという自負がある。他所者と他村の新参者に玉村宿を攪乱を、させてなるものか 徳の店借は断固拒むべしと策を練つたに違いない。

誰か考えついたか?火札で先制攻撃をかけ 宿民の総意として宿役人が一致して他の人別送りを拒絶することで 結着をつける事にした。 

火札の第一発見者建其屋金、お為ごかしに注進した豆腐屋辺は金七の店子とも考えられる子飼いである 火札は実行され 宿内に他の店借の噂は広まり反対の気運は高まっていたである。

後は内諾した大津屋源助、立会人の日野屋代次郎 店受の沢屋助左衛門等、

三右衛門に近しい者たちである 彼らとて宿内で生きる以上、大札一件の推移に井田金七の影を見たでる。

宿役人合議の上の決定となれば致し方なしである。 

徳と三右衛門は敗れるべくして敗れたのである 他のマイナス条件をプラスに転換するにしては、三右衛門は玉村の宿政に直接干与出来る権限を有しておらず 所詮無理であった。

それにしても 徳の企業家として抜群の力量と それを実行する行動力は、幕末の一宿場の人間模様を見事に炙り出していた。 

この一件から四年後の安政三年(一八五六年)三右衛門と金七は関東取締出役関係の諸費用の負担をめぐって激突する。

この時、三右衛門は 仲介に上州の顔役中の顔役で、元は博徒の大親分の川俣村外三十九か村組合の大惣代大久保村名主高瀬仙右衛門を頼んで 他の店借を潰した井田金七と大黒屋清兵衛から、

一本取って仕返しを行ったのである。

                                                                                         つづく

 参考文献及び引用文献

平成9年発行 玉村町 町史別巻Ⅴ

三右衛門日記 (二)など