断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

e-tax の話(その2)

2012-11-24 22:03:30 | 日銀ウオッチ
先日、e-tax の話を書きかけて、
そのまま、寝てしまって中途半端なところで
終わってしまっていたのを
思い出した。

続きを、少しだけ。

さて、そんなわけで、e-tax を導入するわけだが、
これが、単にソフトを国税局からダウンロードすればいいわけではないのである。
なんでも、申告に際しては、代表者の
「住民基本台帳カード(住基カード)」をパソコンから読み込んで
登録する必要があるのだ。
で、どうやって、その、「住基カード」を
パソコンに読み込ませるのか、ということだが、
これが、「カードリーダー」という特別なハードが
必要になるのである。
もちろん、そんなもん、国税局が無料で配布しているわけではない。
かつての民主党政権下(まだ、
「かつての」は、早すぎるのか。)で行われたETC装置の補助金(あれ、
自民党時代だっけ? 民主党では、高速道路無料化が
公約、じゃなくて、マニュフェストに記載されていたわけだから。。。)
みたいな感じで、せめて何か補助金でも出せばよさそうなもんだが
(それもっちょっとおかしな気がしないでもないが)、
いずれにせよ、税務署の役人どもに楽をさせるため、
こちらが出費しなければならないのである。
税理士のところでやってもらえば済む話を、
わざわざ金を払ってこちらでやることにしなければならないんだから、
いい面の皮である。
さらに言えば、
これによってカードリーダー製造元に入る利益は
どのくらいになるのだろう。
我々のように申告以外には使い道のない需要によって生産量が増えることにより
製造単価はどのくらい安くなり、
他に、主体的な目的で購入する人たちにとっては
どの程度の経済的便益がもたらされることになるのだろう。
ん、まあ、そんなことはどうだっていい。

納税制度というのは、信用貨幣経済にとって
本質的な役割を果たしている、という立場がある。
クナップやマイケル・インによる貨幣法定説である。
これを現在によみがえらせようというのが
L. Randall Wray あたりのミンスキー一派の残党連中だ。
もっともおいらは、
ミンスキーやWrayの議論に大いに依存してはいても
完全に彼らに共感しているわけではない。

「貨幣法的学説」というのは、
「法定」という定義上、貨幣と法律あるいは国家の結びつきを
特に強調するものである。
ここで「国家」といい「政府」と書かないのには
おいらなりの理由がある。
これは、単純に政府(単に行政府としての政府を指すだけでなく
立法府としての国会、司法までも含む)が法律を定め、執行すれば、
それで事が済む、というわけではないからである。
これは、当然のことながら経済的、それ以外にも
軍事・警察的(国家により行使される暴力装置)、
イデオロギー的な結びつきを必要とする。
貨幣経済が、社会の広範な生産関係(別に
マルクス的な意味での「生産関係」ではなく、
日本語で単純に「生産に係わる諸関係」という、
曖昧かつ不明瞭な意味(定義というよりイメージ)で
ここでは用いている)を包摂するに至るには、
国家の役割が欠かせない、ということである。
そして、その中で租税の果たす役割は
決して小さくなかった。。。の、ではないかな、と。

率直に言えば、「貨幣法定学説」という
言葉そのものが、気にいらん。
なんだか、これだと、立法府(場合によっては
行政府)が、「これが貨幣だ」といえば
自動的にそれが貨幣になってしまうようなイメージを
与えかねない。というか、おいらなら、
そういうイメージを抱くね。
「金が貨幣だ」「銀が貨幣だ」「銅が貨幣だ」
「貝殻が貨幣だ」「タバコが貨幣だ」。。。
と、政府が言えば、それで事が済むのか。
んなわきゃない。実は、話は逆ではないか。
「これが貨幣だ」といえるとしたら、
それを言える主体こそ、国家なのである。
実は、日本にしろヨーロッパにしろ中国にしろ、
私鋳貨幣というものは、昔は存在していた。
しかし、これらは「貨幣」ではない。
むしろ、ほとんどの場合、今日でいう商業手形に
類するものである。
こうした私造鋳貨は、多くの場合、国家によって
「貨幣の偽造」として、
取り締まりの対象として扱われていたが、
今日では、それが、むしろ、国家貨幣の下位貨幣として、
流通の不可欠の一環として、
盛んに用いられている。もちろんその形態は
もはや鋳貨としての実態を持っておらず
商業手形や、「銀行預金」として存在しているわけだが。
(今日では、銀行預金のみは、普通は貨幣の一部として
認知されているし、多くの場合法律的にもそのように
扱われている。つまり、日本国の新憲法下で
賃金給与の支払いが銀行預金口座への振込で行われることが
可能になったのは、70年代のことであり、
これによって銀行預金(普通預金)そのものはほとんど現金通貨と
同じように機能することとなったが、
近年になってクレジットカードやデビットカード、
電子マネーの改善や普及によって、
実際に紙幣と同じように使える傾向が
ますます強くなっている。
が、それこそが、e-tax にも関わる
重要なポイントなのである。)
そして、私造貨幣が、政府貨幣の下位貨幣として
流通が可能になること、
これは、「自由主義経済」すなわち「市場メカニズム」の
核になる社会的合意である。
私鋳貨幣が、政府貨幣と地位を争う、
取り締まりの対象となるものとして、発行されている限り、
自由主義経済、純然たる市場経済はありえない。
私造鋳貨が政府貨幣の下位貨幣として、
政府貨幣と共存できる場合に、
つまり、貨幣、取引の清算手段としての債務を発行できる主体は
いくらでも発行することができる環境、
ただし、それが制度上、常に政府貨幣の下位貨幣としてのみ
発行できる環境が、再生産されている状況、
これが、近代貨幣制度であり、
これがなければ、自由主義経済と近代貨幣制度が、
社会全体にわたって発達する経済は成立しない。
(歴史的に言えば、私造鋳貨や特定の物的交換のみによって
決済される掛売買市場が、地域的に継続して存在していたことは
ヨーロッパでも日本でも知られている。
この場合、各市場は市場ごとに、排他的な存在として
成立していたため、特定の市場で用いられている
「貨幣」が、社会全体を包摂することには
つながらなかった。)

貨幣が、政府による発行以外に認められていないとすれば、
それは「自由」経済ではない。他方で、
貨幣を誰でも自由に発行できるとすれば、
あるいは、価値尺度を勝手に決めることになれば、
めいめいにもはや合理的な交換はできず、
持続可能な市場経済は不可能だ。
だから、誰でも能力さえあれば自由に貨幣(決済手段)を発行できる一方で、
まず第一に、唯一の価値尺度としての法廷貨幣の機能が
損なわれてはならない。ついで、
誰でも恣意的に貨幣を発行することで
合理的な取引が妨げられてはならない。
(スミスやフィッシャーの100%準備貨幣制度の提案というのは、
結局のところ、私的貨幣も含めた貨幣制度の
一元化、ということに帰着するように思う。しかし、
それは、自由市場経済・貨幣経済と矛盾するのではないだろうか。)

だから、一方で、私的な手形や
預金による貸し付けが自由にできる体制を作り出しながら、
私的貨幣が最終的に政府貨幣に対する交換可能性を
保証されることによってのみ、
決済手段としての体裁を整えることができる、
そうした装置が必要になる。

そのためには、国家は
国家自身に対する支払いを国家自身の発行する
債務証書によってのみ行える、と
法律により、国民に義務付け、そして、
この国家に対する支払いを怠った場合には
国家の暴力装置による制裁が行われることを
明確にする。こうすることによって、
誰しも、政府発行の貨幣を必要とする、
こうしたシステムを作り出すことが可能になるのである。

このシステムは、いわゆる「信用貨幣」とは
だいぶ違う。「信用」などという得体のしれないものによって
経済主体は、貨幣を使用するわけではない。
経済主体が、生まれながらにして、国家に対して
債務を持っている、それゆえ、国家に対する債務を
常に清算し続けなければならない、
そして、その清算のために、政府の負債として発行される
貨幣が必要とされるのである。そして、
この生まれながらに背負わされてしまっている負債を
拒否するときには、暴力装置による
懲罰が行われた。

近代国家が確立するプロセスで
近代国家の条件としての
近代財政システムの確立、そのための
貨幣納税制度の導入、これは、
日本やそれ以外の国々でも、
特に農民や漁民の大きな抵抗にあった。
なんせ、それまでは、
いくら小作料が多くても
働いて、豊作や豊漁になれば、
増えた収穫は自分のものになった。
しかし、貨幣地代となると、
そうはいかない。穀物を自分で貨幣に交換して
その中から納税しなければならなくなる。
豊作になれば、穀物価格が下がる。
流通・保存システムが発達していない社会では
(発達・保存システムが発達しても
部分的に緩和されるだけかもしれないが)、
努力して働けば働いただけ、
下手をすれば、貧困になりかねない。
だから、豊作になり、穀物価格が低下すれば、
必然的に暴動が発生することになるわけ。
だから、これを鎮圧し、おとなしく租税を
貨幣で納付させることが
貨幣経済浸透の上で
最重要課題であったわけだ。

貨幣が、取引の便宜のために発生したことは、
とりあえず、是認できるとしても、
それが、常に取引に参加する経済主体の間で
合意を持って、合意だけを
つまり信用できる経済主体に
決済手段の発行をゆだねるという形だけで
発達したわけではないことは、
私造貨幣が常に取締りの対象であり続けたことや
貨幣地代や貨幣租税制度の導入に際し
大きな抵抗を経験しなければならなかったことから
簡単に理解できる。こうした問題を解決しなければ
貨幣制度・市場経済が社会全体を包摂するところまで
発展することはなかったであろうけれど、
他方で、
貨幣制度・市場経済の発展こそが
これら難問を解決する唯一の道筋だったわけだ。


結局のところ、
国家による管理支配は、
全面的自由市場経済(「全面的」というのは、
自由市場経済が、社会全体を包摂しようとする
傾向のことを指す)と矛盾するし、
全面的自由市場は、唯一の貨幣を必要とするし、
唯一の貨幣は、それぞれの経済主体が発行する
負債を決済手段として使えるようになる、
という意味で合理的な市場メカニズムと矛盾するし、
自由な決済手段(貨幣)の発行は
国家による管理支配と矛盾する。
これらの矛盾の結節点にあるのが、
貨幣租税制度と貨幣賃金制度である。

マルクスは、資本=賃労働を資本制経済の
姿として把握したが、
その背後に存在する貨幣制度については、
単純に交換関係(商品関係)から、論理的に導出できるものとして
話を進めてしまった。これは、信用貨幣論の導入に先立ち、
金商品貨幣論で貨幣理論を推し進めることができる、と考えたためであるが、
そのため、国家の存在は、単純な階級支配の道具に
集約される傾向がどうしても強くなってしまったと思う。

(「e-tax の話、その3」へ続く、、、、かな。。)



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