断章、特に経済的なテーマ

暇つぶしに、徒然思うこと。
あと、書き癖をつけようということで。
とりあえず、日銀で公表されている資料を題材に。

MMTは日本で流行るべきではない。またはMoney in Motion の紹介(全然関係ない)

2019-06-16 12:01:51 | MMT & SFC
おいらにあんまりMMTを日本で積極的に普及させようという姿勢のないことが
何やら問題なのだそうだ。

いや、最初このブログを始めた時、MMTに興味を示してくれる日本人なんか
ほとんどいなかったわけで、そうした中でも数人の方が
好意的に評価してくださって、そのおかげて、まあ、おいらとしても
断続的にではあるものの、こうやって書きたいことを書き続けてこれたわけなんで、
それを今になって、おいらが積極的に普及させる姿勢でなかった、といわれてもなあ。。。。


というか、このブログ自体、当初はMMTプロパーというより、
いろんな政府貨幣論を扱ってみよう、という趣旨だったんで、
とくにMMTを普及させようなんて姿勢を示さなかったのは、当然といえば当然のことなんで。。。。
ただまあ、MMTが面白かった、というより、むしろMMT以外があんまり面白くなかったので
MMT専用ブログになっちゃった、というだけの話なんで、、、、、


まあ、正直を言うなら、おいらは現在日本で流行しているMMTに対しては
余り好感を持っていない。以前からMMTが日本で流行るとしたら
こういう形になるだろう、というより、こういう形にしかならないだろう、
と思っており、そして、それはおいらが求める方向性ではない、と考えていたんで、
だからまあ、おいらがMMTを具体的な政治プロセスに載せるような形で
広めようとしなかったのは当然といえば当然の話なんで。。。。。。


勿論、政府貨幣論を取り扱ってみようと考えた時
まず最初にMMTが出てきた、というのは、全くの偶然というわけではない。
個人史的な話になってしまうが、
おいら自身は、もともとMMTというよりレイの議論に興味があった。
レイについて知ったのは、もうはっきり覚えていないけれど、
多分、ネルEdward Nell とドゥルプラスGhislain Deleplace の
Money in Motion 1996 Macmillan
ではなかったか、と思う。



本書は、アングロ・サクソン系のポストケインジアンPK派と
ラテン系のケインジアングループとくに、サーキュレーショニストCT派
とが、最初に大規模な共同研究を行った成果である――
というより、実際には、双方の研究者たちが、それぞれの主張の代表的なものについて論文を提供し、
それを一冊にまとめた、という体のものである。要するに、
今後の共同研究のための地ならしのための共同作業、
とでもいうほうが実態に即しているかもしれない。
その点は目次に明らかで、
最初に第一部として、ドゥルプラス&ネルによるイントロダクション、
その後、第二部のAとして、まずはデヴィットソン、ミンスキー、ムーアがそれぞれ
自説を要約した論文を提供しており、
第二部のBとして、シュミットBernard Schmitt、グラツイアー二Augusto Graziani、
アラン・パルゲAlain Parguez、そして、これはCT派というよりアンテルバンシオン派の
代表的論客として日本では知られているジャン・カルトゥリエJean Cartelier
によって執筆された論文が、それぞれ掲載されている。
シュミットはディジョンは、グラツイアーニはナポリ派、パルゲはパリ派の
それぞれの創設者という位置づけである。

要するに、この第二部ではアングロサクソン圏およびラテン圏で独自に展開された
非主流派ケインジアンの代表的なグループの理論的中核となったものが
それを創り出した本人たちの論文という形で紹介されている。
そして、第三部ではその後の展開として、Aでは(あまりCTについて知識のない
英語圏の読者向けにか)CTの歴史、Bでは主流派との対立点、CでPKとCTの
アプローチの違いといった形で論文が並ぶ。ここにはネルやドゥルプラスのほか、
ペリー・メアリングやディムスキー、セカレッチア、リチャード・アレナといった
名前がみられる。日本ではアンテルバンシオン派の創設者と紹介されていた
カルロ・ベネッティCarlo Benetti の論文は、ここに収められている。

第四部のタイトルは内生的貨幣供給論である。
ランディ・レイが登場するのはこの部のA、「制度との関係」であるが、B「内生貨幣:
アコモデーションとストラクチャー」にはポリンPollin、パレーPalley、ラヴォワLavoie
の名前が連なる。

で、第五部になると、突然、アグリエッタやM.H. ウォルフソンといった名前が登場する。
第六部は「政策」であり、ここにはクリーゲル、ルソー、エプスタイン、といった名前が
連なる。

要するに一つの問題意識に基づいて書物が編集された、というよりは
総花的に非主流派の貨幣論を集めた、という感じで
これまで疎遠であったアングロサクソンPKとCTやアンテルバンシオン派、レギュラシオン派を
含めて(と、それにしてはレギュラシオン派のGuttmannやオルレアンなどの
名前がみられないのはさみしいが)、むしろ、今後の共同研究の便にするためのもの、といった
感じである。

そんなわけだから、ムーアやミンスキー、デヴィットソンといった大御所の論文には
これといって新しいものは書かれておらず、まあ、昔からの主張を手短に要約したものだなあ、
というだけであるが、
若い世代の人たちはそれなりに力を入れて書いており、この新しい(かもしれない)可能性を
何かしら取り入れようとしている努力の跡が見受けられる――もっとも、
人によりけりで、ラヴォアなどはPK派とCT派の連携というテーマ自体に
すでに慣れ親しんでいるせいか、まとまりのいい論文になっているが、裏を返せば
つまらない。まあ、なんつうか、こういうところでスラスラッと若い人(このころはまだ
ラヴォワもレイもまだ30代?)が完成度の高いまとまりのいい論文を書いてしまう
というのは、何か、こう、、、なんちゅうのかな、もっとこう、破たんしててもいいから
暴れてくれよ、というのが学者ならざる読者の無責任な期待である。
これを読んだ頃は、おいらだってまだCT派については何一つ知らず、
グラツィアーニの論文を読んだときには、こんな考え方があったのか、と
仰天したものンである。(シュミットの論文は、はっきり言って、
何がなんだかさっぱりわからなかった。。。。意味が分からない、とか
数学がわからない、とかいうんじゃなくって、全く文意をつかめなかった。
グラツィアーニやパルゲの論文から、言葉の意味を類推することで、
なんとなくわかったような気になってもみたものの、
やっぱりわからなかった。。。。。今はチェンチーニやロッシなどのわかりやすいものが
あるので、多少は分かるが、初期のディジョン派(チェンチーニにしても、ロンドン大学時代のもの)は
さっぱりわからない。)

こうした中で、レイの論文ではPK派の、とりわけストラクチャリズムとCT派を
結びつきを意識しながら(当然、債務構造の問題を意識しながら)、
政府貨幣までを論じるというもので、非常に魅力を感じたわけだ。
この論文は、後のUnderstanding Modern Money に比べると、ずいぶんとごたついた
印象を受けるものであり、あまり洗練されていない気もしたのだが、
内容的には非常に衝撃を受け、それでCT派と同時にWrayも読んでみたい、と思うようになり、
で、Money and credit in capitalist economies 1990 EEなども一通り
目を通したりした。このころ、まだインターネットもブロードバンドではなく
(1分10円だったかな?取られた)、
PDFで論文が配信される、ということもなかったのだが、
レヴィ―インスティテュートで発行されていた多くのWPは、インターネットで
注文すると、無料で郵送してくれた。おかげでずいぶん無料で
レイのWPのハードコピーを入手した記憶がある。



レイのUnderstanding Modern Money 1998 EEが
出版されたのは、そんな折だった。
まだアマゾンもなかった(あるいはあったかもしれないけれど、おいらは知らなかった)ので
本屋に注文したりもしたんだけれど、洋書って、なかなか届かないんだよね。。。。
結局、本書を入手したのは、アマゾンという便利なものがある、と知り
ブロードバンドが我が家にも導入され、そして、どうやら本屋に注文しても
洋書は届かないのだなあ、、、ということになった後の話である。
最初に同書を読んだときには、それまでのイメージとあまりにも違ったため、
ずいぶん戸惑ったことを覚えている。ただしそう思えたのは
本書の想定する読者層が従来とは違って、一般向けだったせいもあったかもしれない。

そんなわけで、おいらとしてはちょっと肩透かしを食った感じだったんだけれど、
逆に、レイ入門としてはいいのかな、と思って、
先輩である某大学教授に、翻訳したいんだけれど扱ってくれる出版社のありやなしや
と、訊いてみた。その答えは、
「お前ね、そういう話はさ、まず最初に翻訳したものを持ってきて、
それで、「これを出版してくれる会社はないですか?」と、そう聞くんだよ。
翻訳がありもしないのにね、これを出してくれって、そんな話、
乗る出版社があるわけないでしょ?」という、まあ、世間的に見て
余りにも当然の回答であった。。。。で、そういわれたんだったら、
じゃあ、わかりました、やります、と自分で翻訳して持ってゆく、というのが
人間として当然の矜持であるわけだが、
それができるようなら、きっともうちょっと出世していたんだろうなあ。。。。。
(もしかしたら、今頃時ならぬ印税でウハウハだったかもしれない。。。。仕事なんか
やめちゃってさあ、左うちわで生活するの。。。。。そこまでは無理か。。。)


さて、そんな話の流れなので、
ブログで政府貨幣の話をしようとした時、最初に
MMT(というより、レイ)の議論を扱おうと思ったのはごく自然な成り行きだった。
ただしなんで政府貨幣論を扱おうと思ったか、というと
これはまた全然別の話で、今回は関係ないので、またの機会にでも。


こうしてブログのネタ集めでMMT関連を読み漁っているうち、
やっぱり、これは日本では、あまり普及しない方がいいなあ、、、と思うようになった
(というより、レイのUnder,,,を読んでいた時から
訳してみたい、という気持ちの反面、やめたほうがいいのかなあ、、という
気持ちもあった)。
今回は割愛するけれど、
おいらの場合、政府と貨幣の結びつきの問題というのは、貨幣の主体の差異化機能(これは
ドゥルプラスの本に大きく触発されている面もあるんだけれど、もともとマルクスの資本論を読んでいた時に
思い浮かんだ課題で、要するに、資本がG-W…W' -G' という価値の姿態変換として表象されるとしたら
労働者あるいは家計もそれに対応するA-G-W-Aという形態で表象されることになるのでは?
そして、そのように表象されることが資本制経済における社会統合の前提と
なっているのでは?という問題意識に由来するんだけど)との関連で、国家(政府)と
貨幣の関係はどのようなものか、という発想に関わっていて、
あんまり景気を良くする、とか経済成長を政府が刺激する、という話ではない。
むしろ、レイがそのようなことを言っていたら、その段階でMMTとはおさらばしていたことだろう。
MMTがおいらにとって魅力的に映るのは
人間社会が成立するうえで、自由が抑圧によって成立している、という事実と
その抑圧が過剰抑圧になるか、解放の手段になるか、といったいにしえのマルクーゼ的議論に
関わっているからだ。確かフォーステーターはレーヴェをMMTの先行者の一人に数え上げていたが
フランクフルターとMMTの間には、表に現れない理論的結びつきがあるのかもしれない、
などと、勝手に夢想している。(フランクフルターといったってウィットフォーゲルあたりとは
あんまり連携ないことを願いたいが。。。)

まあ、個人的な思い込みの話はともかくとして、
やはり日本でMMTが流行するとしたら、
「政府はいくら国債を発行しても破綻しない」ということが
一面的に強調されてのことであろう。そして、それが与党自民党に採用されることとなれば
再び自民党主導の土建国家となることであろう。その場合、土建国家とは、
環境生態系の再生産を優先しそのために金と人手をつぎ込むようなものではなく、
企業の利潤とその結果としてのカネと票を求めてのものとなり
再び経済成長やら景気やらが個人の生活に優先される
(「個人の生活が守られるためには、経済が成長していなければならない」)
という、MMTの基本的メッセージ(「景気に関わらず、
完全雇用を守ることができる。どのようなGDPとでも完全雇用は両立しうる」)
とは全く正反対の方向へと進むだろう、というかなり現実的な懸念があった。
これは明らかにおいらの考えている方向性ではないが、
そういう方向でしか流行することはないであろう、と。
で、ついでながら現在の日本の精神状況を考えると
土建国家など再興できない(土木や製造業の現場で働くことに
意欲を持っている若い人が、いったいどれだけいるのだろう?給料さえあげれば
若い人たちは土木や製造の現場に参入してくるのだろうか?土木に
充分な人員を割けるだけの、若い世代の層がいるのだろうか?)、そんなところで
MMTで日本復活!なんてやって、ほんとうに景気がよくなるもんだろうか、とも
感じている。

何べんでも強調するが、MMTはそれ自体としては、実際の経済問題を何一つ解決しない。
ただ、財政破綻というようなありもしない(あるいは、大いにあり得るが
それは財政引き締めなどによって解決しはしない)問題にかかわずらって
本当の解決すべき問題に向き合う機会を逸してしまうという愚を避けることができる、
というだけの話である。年金問題が、単に財源がない、というだけのことであれば
MMTによって解決できるだろう。だが金を発行して年金を給付したところで
高齢者に対するサービスを提供する労働者がどこにいるのか、
高齢者が消費する資材をだれが提供するのか、
こうした問題を解決することは全くできない。
ただし、「財源がない」ということを理由に、実際に高齢者に提供する
財・サービスを生産する労働者が不足する、という現実的問題から目をそらすことを
避けることができるだけだ。
MMTが年金問題を解決できるのは、こうした労働者層が十分に存在している場合だけだ。
そしてそれがない場合、MMTを採用することにメリットは、
解決すべき問題を明るみにだし、自己欺瞞――
労働者の再生産ができなくなっている社会経済状況から目をそらし
年金財政の破たん問題というありもしない問題にせ金を転嫁する、
という政治的目的によって導かれている――に陥る愚を避けることができる
というだけのことである。ところがまるで
一部の自称MMTerの間では、財政問題という問題設定が否定されれば
それだけであらゆる経済問題が解決し
そして「インフレになるまでは」政府が経済成長を主導し
それによって「日はまた昇る」「世界がうらやむ日本になる」といわれているようだが、
それはこれまた自己欺瞞という点では
財政破綻派と択ぶ所はない。そして
再び「利益誘導」による集票活動が活発になることだろう。
だがそれによって再び農業や土建業が再生することは、それだけでは難しいだろうし
製造業も雇用の受け皿になることはないだろう。
ソフトウエア開発など新たな成長部門も登場しているが、こうした産業部門では
今後もブラック企業が幅を利かせ、事態に変化はないことだろう。
あるいは政府支出が巨額になり一部の資産価格が急上昇するようなことになれば
局所的に資産バブルが発生し所得資産の格差は拡大し、
そしてそれはレイたちが最も回避しようとしている金融危機の発生に
繋がるかもしれない。

海外のMMTあるいはレイの言っていることがすべて正しい、ということはないだろう。
日本には日本の事情もある。だが
現在の日本におけるMMTの流行は、MMT自体に対する理解があまりにも表層的すぎる。
「インフレになったら政府支出を減らせばいい、日本は民主主義の国なのでそのような
決定はすぐにできる」
という言葉は、あまりにもインフレと民主主義という言葉の意味を
考えていなさすぎる。近代民主国家における民主主義とは
議論による利害の調整に大きな時間を必要とする。単純に多数決で
物事を決定することは許されない。だからこそ、大きな利害の対立を
解決しなければならない政府支出の削減には大きな時間をかけなければならないはずだ。
それを怠ったせいで、これまでも数々の悲劇が起こってきた。
少なくとも、MMTはこのようなバカげた主張をしていない。
おいらはこのような、短時間で国民の利害の対立を暴力的に解決することを
近代国家における民主主義とは断じてみなすことは出来ない。利害の調整には、
とりわけ一部の人に大きな損失をもたらすような調整に際しては
時間を十分にかけるべきだ。インフレになるから、などという理由で
そこを怠れば将来の社会統合に大きな禍根を残すことになるだろう。
上記の主張においては、「民主主義」という言葉は、まさに
民主主義を殺す口実として用いられている。このような流れとおいらは合流できない。
レイはどういっているか。政府投資は長期的に検討しなければならない。
それは一度決めたら引き返すことができないというような硬直的なものである必要はないが
しかし政府投資の額は、国内の平均的な総投資額に対して一定の相対的に大きな
比率を維持するべきであり、インフレになったからといってそれを
減らすべきではない。なぜなら
景気の動きに合わせてこうした投資を増減させようとしても
それはタイムラグのせいで決して思うようにいかないだろうし、
景気循環の動きをかえって激しくするだろう。敷衍して考えれば、これは
景気がよくなるときには将来、不良資産となるものが大量に生産され、景気が悪くなり政府が支出を
拡大するということは、こうした不良資産の清算を決定した人たちの責任を免責し
政府支出が十分でなければ、その負担を労働者たちに負わせることを意味する。
サブプライムローンの大量発生時を振り返り、
レイは次のように評価している。オーナーシップソサエティの掛け声のもと
サブプライムローンの拡大によって多くの低所得層が住宅を手に入れたかに見えた。
しかしそこで実際に起こっていたのは、オーナーシップソサエティではなく債務者化社会であり、
住宅を手に入れたと思っていたのは、一時的に借金をして借りていただけで、
そして住処をを返した(追われた)時、彼らには大量の債務が残されただけだった。
もし政府系金融機関の信用保証による住宅支援が廃止されていなければ
サブプライムローンをてこにしたバブルはこれほど拡大しなかっただろうが
(それは巨大金融機関がそれほど大きな利益を上げられなかったことを意味する)
住宅を手に入れた人たちがこれほど住処を失うこともなかったはずである。
(もちろん、一時的にでも住宅を手に入れることができる機会を
得られた人は減ったであろうが、彼らはその後返済不能の負債を負わされることも
無かった。)アメリカのMMTerたちが、Moslerのような証券投資マンも含めて
上からの景気刺激ではなく、下からの景気下支えを主張しているのには
このような背景がある。だからこそ、彼らは支出の「内容」にこだわり
「的を絞った支出」を主張している。
これは経済の急伸をむしろ抑制し、
企業の利益を、なるべく適切な水準に維持しよう(もちろん、それは
政府があれこれコントロールできることではなく、インフレやデフレの
発生を抑えることは出来ない)という考え方に結びつく。

このような「暗い」経済思想に、何人ほどの日本人が積極的に付き合おうというのだろうか。
恐らくは小数であろう。
MMTが日本で流行するとしたら、こうした「暗い」側面は換骨奪胎されてのことだろう。
しかし本当のことを言えば、MMTの理論的中核は、こうした「暗い」側面にこそあるのかもしれない。
資本制経済は格差の発生を必然とするし、政府の貨幣流通の背後には徴税を強制する暴力装置が
控えている。こうした中で、個人の人格成長と社会参加とが可能になる範囲を
少しでも広げようとするのがMMTの最終的な目標だと考えると、
とても今のような日本での動きと同調するわけにはいかないのである。

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1 コメント

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土建技術の重要性 (kazzt)
2022-01-03 12:39:40
すべての定住文化は土建技術から始まった。土建技術無しに農業も建築もあり得ないし、定住が無ければ、人類の人口増加も、知能の発達すらあり得なかった。(密集した生活が人間の知能の発達を促進させたことは文化人類学によってほぼ証明されている)人類の全ての文化(文字も経済学も当然MMTだって)の始まりは土建技術なのである。
この一番最初の文化を軽視することは正に人類が衰退に向かう事を意味する。
土建技術(インフラ)は更新され続けなければ社会の根幹が腐ってしまうのだ。
土建技術(インフラ)の本当の意味と重要性を今の若者たちは学ぶべきである。
決して人類の文化の根幹を軽視することは許されないのだ。
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