和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

とぼとぼとのろのろとふらふらと。

2021-03-17 | 地震
あと2年で、2023年。
そうすれば、関東大震災から100年目をむかえます。
もうすこし、関東大震災関連を続けます。

窪田空穂歌集「鏡葉」に
「火のなき方へと、人列なしてゆく」とあり、
そのあとに二首。ここには、はじまりの一首を引用。

とぼとぼとのろのろとふらふらと
    来る人らひとみ据わりてただにけはしき

この「のろのろ」という言葉は、
被災した清水幾太郎氏の文にもありました。
まずは、清水幾太郎著「私の読書と人生」から引用。

「大震災で本は全部焼けてしまった。・・・・
しかし私は大震災の時に、
人生という大きな書物の重い頁を繰ったのである。
父は40歳を越えたばかりであったが、
あの衝撃で一度に老人になってしまった。
私は17歳、一挙に大人になった。
私が引きずって来た子供の生活は、9月1日の正午に終り、
その瞬間から、私は今日と変わらぬ大人になった。・・・」
( p382「清水幾太郎著作集6」)

震災から30年ほど過ぎた、1954年。
清水幾太郎氏は「婦人公論7月号」に
「大震災は私を変えた」という文を載せます。
ここに、「ノロノロと流れて行きます」という箇所があるのでした。
30年の歳月を経過し、言葉が刻まれて、その文を残してくれました。
この機会ですので、長めに引用しておきます。


「妹と弟とは小学校へ預けたのですが、
生きていてくれるのか、死んでしまったのか、
それが判らないのです。私たちは泥沼を渡って、
東京府下の亀戸へ入り、天神川に面した空地に立っていました。
川一つ距てて、本所の町々が燃えています。小学校の方も燃えています。
同じ空地にいる人たちの中には、小学校では子供がみんな焼け死んだ、
と言う人もあり、先生に引率されて無事に逃げた、と言う人もあって、
どれが本当か判りません。

何を聞いても、私という人間がハッキリした悲しみを感じるというより、
自分自身が摑みどころのない大きな悲しみに化けているような工合で、
何か言おうとすると、だらしなく涙が出てしまいます。
 ・・・・・・・・・

私たちは、間もなく、動き出しました。
亀戸の町は、いつか、暗くなっています。広くもない往来を埋めて、
手に手に荷物を持った群集がノロノロと流れて行きます。・・・

ただ流れて行くのです。私は群集の中に完全に溶け込んでしまいました。
誰も何も言いません。黙っていても、お互いに一切を知り尽くしている
のです。黙ったまま、身体を寄せ合っているのです。無気力な、暗い、
しかし、どこか甘いところのある気分が私たちを浸しています。

我を張った個人というものの輪郭は失われて、
すべての人間が巨大な一匹の獣になってしまったようです。

群集の中に融け込んでからも、私は、時々、妹と弟との名を呼びました。
いくら、呼んでも、反応はありません。けれども、私が呼ぶと、
群集の流れの中から、同じ肉親を呼ぶ声がひとしきり起って来ます。
それも無駄だと判ると、再び以前の沈黙が戻って来ます。

沈黙が暫く続くと、どこからともなく、
ウォーという呻くような声が群集の流れから出て来ます。
この声を聞くと、私も、思わず、ウォーと言ってしまうのです。
言うまいとしても、身体の奥から出てしまうのです。

言語を知らぬ野獣が、こうして、その苦しみを現わしているのです。
私たちは、ウォーという呻きを発しながら、
ノロノロと、暗い町を進んで行きました。

その晩は、東武線の線路で寝ました。寝たというより、
真赤な東京の空を眺めて夜を明かしたというべきでしょう。

その間にも、頻繁に揺り返しが来ます。揺り返しの度に、
線路に寝ている人たちの間から、悲しみと恐れとに満ちた叫びが出て来ます。
原っぱの真中にいるのですから、いくら揺れても、危険はないのですし、
失う品物も何一つないのですが、それでも、大変な悲鳴が起るのです。」
   (p298~299「清水幾太郎著作集10」私の心の遍歴)










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