そういえば、宮沢賢治は、農学校の教師をしていたなあ。
宮沢賢治の年譜によると
大正10年(1921)12月に稗貫(ひえぬき)農学校の教師となる。
大正11年 妹トシ死亡(24歳)
大正15年(1926)花巻農学校を退職。自炊生活を始める。
羅須地人協会を設立。
昭和3年(1928) 病に倒れる。
昭和6年 病が治り、東北砕石工場の技師に招かれる
9月、上京し、再び発病
昭和8年 9月21日永眠(37歳)
生徒の証言がありました。
「先生と初めて会ったのは、私は花巻の稗貫郡立稗貫農学校1年生、15歳でした。別の先生の欠員を埋めるのに来られたんですが、詰襟に丸刈りで風采が上がらない。『校長先生の紹介にあずかった宮沢です』としか言わない。
みんな『養蚕所を改良した教室しかない貧弱な学校だから、こんな先生しか来ないんだ』とがっかりしたんです。ところが、先生は45分の授業を30分で終わらせ、自分で作った童話を読んで聞かせるのです。当時、私らは童話なんて言葉をしらなかったが、それがとても素敵でね・・・『ああ、きょうも先生の話を聞けるんだ』と思いました。・・・」(照井謹二郎 東京新聞平成12年12月7日)
年譜には、この年に、「注文の多い料理店」「月夜のでんしんばしら」「どんぐりと山猫」「鹿踊りのはじまり」などを創作とあります。
大正11年(1922年)2月 宮沢賢治作詩、川村悟郎作曲「精神歌」出来る。
その年の11月27日、妹トシ死去。「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」を書く。
その宮沢賢治作詞の「精神歌」のはじまりは
日は君臨しかがやきは
白金の雨そそぎたり
われらは黒き土に俯し
まことの草のたねまけり
歌詞の一番を引用してみました。
ちなみに、ひらがなの箇所はみなカタカナです。
(宮沢賢治文庫全集4 文語詩未定稿より)
農学校の年譜は
1921年4月稗貫郡立稗貫農学校と改称する。
5月開校式挙行
12月宮沢賢治、稗貫農学校教諭となる。
1923年3月新校舎落成式
4月岩手県立花巻農学校と改称する。
1929年12月校歌を制定す。(作詞:土井晩翠、作曲:片山頴太郎)
とあります。
農学校の正式の校歌が出来るまえまでは、
賢治の「精神歌」が、ごく自然に生徒によって
「農学校歌」として歌われていたのでしょうね。
宮沢賢治の年譜によると
大正10年(1921)12月に稗貫(ひえぬき)農学校の教師となる。
大正11年 妹トシ死亡(24歳)
大正15年(1926)花巻農学校を退職。自炊生活を始める。
羅須地人協会を設立。
昭和3年(1928) 病に倒れる。
昭和6年 病が治り、東北砕石工場の技師に招かれる
9月、上京し、再び発病
昭和8年 9月21日永眠(37歳)
生徒の証言がありました。
「先生と初めて会ったのは、私は花巻の稗貫郡立稗貫農学校1年生、15歳でした。別の先生の欠員を埋めるのに来られたんですが、詰襟に丸刈りで風采が上がらない。『校長先生の紹介にあずかった宮沢です』としか言わない。
みんな『養蚕所を改良した教室しかない貧弱な学校だから、こんな先生しか来ないんだ』とがっかりしたんです。ところが、先生は45分の授業を30分で終わらせ、自分で作った童話を読んで聞かせるのです。当時、私らは童話なんて言葉をしらなかったが、それがとても素敵でね・・・『ああ、きょうも先生の話を聞けるんだ』と思いました。・・・」(照井謹二郎 東京新聞平成12年12月7日)
年譜には、この年に、「注文の多い料理店」「月夜のでんしんばしら」「どんぐりと山猫」「鹿踊りのはじまり」などを創作とあります。
大正11年(1922年)2月 宮沢賢治作詩、川村悟郎作曲「精神歌」出来る。
その年の11月27日、妹トシ死去。「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」を書く。
その宮沢賢治作詞の「精神歌」のはじまりは
日は君臨しかがやきは
白金の雨そそぎたり
われらは黒き土に俯し
まことの草のたねまけり
歌詞の一番を引用してみました。
ちなみに、ひらがなの箇所はみなカタカナです。
(宮沢賢治文庫全集4 文語詩未定稿より)
農学校の年譜は
1921年4月稗貫郡立稗貫農学校と改称する。
5月開校式挙行
12月宮沢賢治、稗貫農学校教諭となる。
1923年3月新校舎落成式
4月岩手県立花巻農学校と改称する。
1929年12月校歌を制定す。(作詞:土井晩翠、作曲:片山頴太郎)
とあります。
農学校の正式の校歌が出来るまえまでは、
賢治の「精神歌」が、ごく自然に生徒によって
「農学校歌」として歌われていたのでしょうね。