和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

宮沢です。

2013-11-14 | 地域
そういえば、宮沢賢治は、農学校の教師をしていたなあ。

宮沢賢治の年譜によると

大正10年(1921)12月に稗貫(ひえぬき)農学校の教師となる。
大正11年    妹トシ死亡(24歳)
大正15年(1926)花巻農学校を退職。自炊生活を始める。
        羅須地人協会を設立。
昭和3年(1928) 病に倒れる。
昭和6年    病が治り、東北砕石工場の技師に招かれる
        9月、上京し、再び発病
昭和8年    9月21日永眠(37歳)


生徒の証言がありました。

「先生と初めて会ったのは、私は花巻の稗貫郡立稗貫農学校1年生、15歳でした。別の先生の欠員を埋めるのに来られたんですが、詰襟に丸刈りで風采が上がらない。『校長先生の紹介にあずかった宮沢です』としか言わない。
みんな『養蚕所を改良した教室しかない貧弱な学校だから、こんな先生しか来ないんだ』とがっかりしたんです。ところが、先生は45分の授業を30分で終わらせ、自分で作った童話を読んで聞かせるのです。当時、私らは童話なんて言葉をしらなかったが、それがとても素敵でね・・・『ああ、きょうも先生の話を聞けるんだ』と思いました。・・・」(照井謹二郎 東京新聞平成12年12月7日)

年譜には、この年に、「注文の多い料理店」「月夜のでんしんばしら」「どんぐりと山猫」「鹿踊りのはじまり」などを創作とあります。


大正11年(1922年)2月 宮沢賢治作詩、川村悟郎作曲「精神歌」出来る。
その年の11月27日、妹トシ死去。「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」を書く。

 その宮沢賢治作詞の「精神歌」のはじまりは

 日は君臨しかがやきは
 白金の雨そそぎたり
 われらは黒き土に俯し
 まことの草のたねまけり

歌詞の一番を引用してみました。
ちなみに、ひらがなの箇所はみなカタカナです。
(宮沢賢治文庫全集4 文語詩未定稿より)


農学校の年譜は

1921年4月稗貫郡立稗貫農学校と改称する。
5月開校式挙行
12月宮沢賢治、稗貫農学校教諭となる。
1923年3月新校舎落成式
4月岩手県立花巻農学校と改称する。
1929年12月校歌を制定す。(作詞:土井晩翠、作曲:片山頴太郎)

とあります。
農学校の正式の校歌が出来るまえまでは、
賢治の「精神歌」が、ごく自然に生徒によって
「農学校歌」として歌われていたのでしょうね。
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写真集「館山」。

2013-11-13 | 地震
国書刊行会の君塚文雄編「ふるさとの想い出 写真集(明治・大正・昭和)館山」を借りてくる。昭和56年発行のもの。
p7に、関東大地震前年の大正11年8月発行の「北条館山市街図」が載っていて、興味深い。
というか、私の場合は、関東大震災の興味から、見ているわけです。

p14には、「震災前の安房北条駅前通り」
の写真が二枚。
p80には、「大正8年開通当時の安房北条駅」と
     「初列車 機関車は8600型」だろうとあり
その機関車側面の記念写真。
p107には、「安房北条駅前通りの惨状」
p108には、「安房北条駅機関車の惨状」

p20~21は、「式部山から見た船形町」
      「崖ノ観音から眺めた船形の西町」
p22~23は、「崖ノ観音からの船形町の眺望」
p109には、「焼失した船形町中心部の惨状」

p48には、「安房高女の長須賀時代の校舎全景」明治43年新築落成
p54には、「関東大震災前の北条小学校全景」
p61には、「鶴ヶ谷八幡神社」大震災で倒壊前の社殿。
p72には、「北下台公園から鷹ノ島を望む」
     関東大地震で約1㍍半隆起する前は、
     公園のすぐ下まで海であった。

p110には、「倒壊した鶴ヶ谷八幡神社の拝殿」
     「倒壊した県立安房高女の校舎」
p111には、「倒壊した北条小学校校舎」


うん。興味深い。
写真集の最後には、
君塚文雄氏による解説文が7頁にわたってありました。
写真脇に添えられた文ともども、味読できありがたい。
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もう一冊。

2013-11-12 | 地域
「安房震災誌」の復刻版は、
本自体がしっかりとした作りで、
辞書のようにして、調べたり、
パラパラとめくるのに最適。

うん。そんなことを思っていたら、
もう一冊、手元に置きたくなりました。
これは、自分用(笑)。
ということで、
また、古本を注文することに。

内容に惚れました。
そうすると、つぎには、
よく、復刻版を出してくださいました。
ということになる。
大正15年の初版なら、
こうは、無造作に、
しかも手軽に読めなかっただろうなあ。
やっぱり、復刻というのは必要ですね。
ということになる。
さ~て、
「安房震災誌」を読む。
ということで、
いつのまにか、
それが、もう一冊注文しよう
ということになった一日でした。

この熱に、浮かされているうちに、
何とか、書いてまとめておかなくては。

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各町村の報告を。

2013-11-11 | 地震
「安房震災誌」の総説(p5~6)に

「終りに一言付記しておきたいことは、
本編各章に掲ぐる編纂の資料は、
各町村の被害状況を、
郡長から、各町村長に嘱託して・・・・
出来得る限り各町村の報告を尊重して、
その趣旨はひとつも変更したところはない。
したがって地震そのものの大小よりも、
地震を感受したその土地の人々の主観が、
報告書中に幾分反射されているところが
全くないでもなかったが・・・
却って当時各地方人のその感受さを、
そのまま表現したものとも見られ、
且つ後日の参考ともなることであろう。」

この編集方針のために、最初は、
読みづらくはあるのですが、
いざ、腰を据えて読み始めると、
これがかえって、「後日の参考」として、
現在のわれわれへと、
手渡された松明(たいまつ)なのだと、
そんなふうに、読み取れるのでした。

序文を依頼された山下謙一氏の文のなかに、

「文章亦精錬当時の光景紙背に徹し同情の念
湧出読了に堪えぬものがある。・・・」

と、あります。
当時の同時代にあっては、
直接の当事者でなくとも、
「同情の念湧出」として伝わります。
東日本大震災ののちに、「安房震災誌」を読む価値が、
まさに、ここにあるのだと思えてくるのでした。
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大震災と組閣。

2013-11-10 | 地震
昨日は、
夕飯を食べたあとに、
電話がある。
飲み会の日にちを、
すっかり勘違いしてた。
あわてて、でかけることに。
11時過ぎに帰ってくる。

さてっと、
産経新聞2013年11月10日。
うん。本日の新聞に
「子供たちに伝えたい日本人の近現代史」がありました。
32回目のようです。
この回は、関東大震災にふれております。
その最後の方をすこし引用。

「・・・(関東大震災)9日前の8月23日、
海軍出身の首相、加藤友三郎が急死した。
5日後、同じ海軍出身の長老、山本権兵衛に
2度目の組閣の大命がくだったが、
人事をめぐるゴタゴタが続く。
山本内閣が正式に発足するのは
地震発生から24時間以上過ぎた
9月2日午後だった。
むろんこの間も外相の内田康哉が
臨時首相として、
内務相の水野錬太郎らとともに指揮をとったものの、
混乱を大きくしたことは間違いない。
・・・」
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新刊文庫。

2013-11-09 | Weblog
磯田道史氏の本は、買うようにしております。
ということで、
新刊「江戸の備忘録」(文春文庫)が
今日とどく。
まだ、未読。
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握飯。

2013-11-08 | 地震
大正15年発行の「安房震災誌」に
握飯の箇所があるのでした。


「 9月2日3日と、瀧田村と丸村から
焚出の握飯が沢山郡役所の庭に運ばれた。
すると救護に熱狂せる光田鹿太郎氏は、
握飯をうんと背負ひ込んで、
北條、館山の罹災者の集合地へ持ち廻って、
之を飢へた人々に分与したのであった。
又別に貼札をして、握飯を供給することを報じた。
兎角するうちに肝心な握飯が暑気の為めに腐敗しだした。
郡役所の庭にあったのも矢張り同然で、
臭気鼻をつくといったありさまである。
そこで郡長始め郡当局は、腐敗物を食した為めに
疾病でも醸されては一大事だと気付いたので、
甚だ遺憾千萬ではあったが、
その日の握飯の残り部分は、配給を停止したのであった。
ところが、われ鍋や、破れザルなどをさげた
力ない姿の罹災民が押しかけて来て、
腐ったむすびがあるそうですが、
それを戴かして貰ひたい。と、いふのであった。
それは、多くは子供や、子供を連れた女房連であった。
その力なきせがみ方が如何にも気の毒で堪らなかった。
郡当局も、此の光景を見せ付けられては、
流石に断らうとして、断はり兼ねたのであった。
そこで、郡当局は、斯うした面々に向って
『よく洗って更らに煮直してたべて下さい』と
条件付きで、寄贈品の握飯を分配してやった。
何という窮乏のさまであろう。何という悲哀であろう。
こうした米の欠乏は、大震動と殆ど同時に来た悲劇である。」(p260~261)
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萬斛の同情を以て。

2013-11-07 | 地域
大正15年発行の「安房震災誌」の最初は、
詔書が、そのはじまりにありました。
そこにこんな箇所があります。

「・・此ノ間交通機関途絶シ
為ニ流言蜚語盛ニ伝ハリ人心洶々トシテ
倍倍其ノ惨害ヲ大ナラシム
之ヲ安政当時ノ震災ニ較フレハ
寧ロ凄愴ナルヲ想知セシム
朕深ク戒慎シテ已マサルモ
惟フニ天災地変ハ人力ヲ以テ予防シ難ク
只速ニ人事ヲ盡クシテ民心ヲ安定スルノ一途アルノミ・・・・」

詔書は大正12年9月12日となっております。

これと時を同じくして、
「安房郡民に諭く」という諭告を
安房郡長 大橋高四郎の名で出しております。
その短文の最後は、

「 ・・・・・・・

  一、罹災者は此際勇鼓
    萬難を排し自ら恢復に努むべし

  一、幸に被害を免れたるものは
    自己の無事なるを感謝し
    萬斛の同情を以て
    被害者を援助すべし

 斯の如くにして一日も速に惨害の恢復を計り
 以て聖慮を安し奉らんことを切望に堪へず   」
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対談が非常に好き。

2013-11-06 | 前書・後書。
注文してあった古本が届く。


谷沢永一対談集「好きこそ物の上手なれ」(新都心文化センター・1987年)
ふるほん 上海ラヂオ(京都市北区)
300円+送料80円=380円

あとがきに
「月刊誌『バンガード』は、昭和55年1月に創刊された。この誌名の命名者は木場康治で、この雑誌は創刊号から彼によって編集されており・・・そして木場康治と私は、昭和25年の暮近くに出会って以来の、青春期から実に30年を越す親友なのである。・・
その彼が発案して『バンガード』誌上で始めたのが、今に続く連載対談『本音を語る』であり、その第一回は昭和57年6月号であった。
木場康治の誘いに応じたのは、彼への謂わゆる義理ではない。もともと私は以前から、対談が非常に好きなのである。その場を積極的に提供されたのだから、私としては何より嬉しく、感謝に堪えぬ次第、まず木場康治に厚く御礼を申さねばならない。
そもそも対談は、応じて下さった相手の方から、嘗てエッセイ等に書かれた内容よりも突込んで奥深く、その薀蓄を傾けていただけるという利点がある。
更には対話の運びの呼吸に乗って、思わぬ多方面な展開が十分に期待できる。従って今迄の私は対談を通じて、実に有益な視点を数多く教えられてきた。
特にこの『本音を語る』シリーズでは、編集部の菊池民恵さんはじめ人選に意を用いて、語るべき材料と経験と見識の豊富な、そして対談という形式に意欲をお持ちの、つまりザックバランな資質の方々をお招きし得たものだから、いずれも内容が豊富で分析角度の新鮮な、興味深い話題が次から次へと続いた。・・・」

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語り草となって。

2013-11-05 | 地震
昭和46年発行の「館山市史」をかりてくる。
全1094ページのうち、「関東大震災と館山」の箇所は
12ページほどでした。
そこに
「当時の安房郡長大橋高四郎氏を中心として、
郡役所職員、各町村首脳部が打って一丸となって、
県当局への連絡、各機関への通報請願等をなした努力は、
今でも感謝の語り草となっている。」(p565)

さてっと、
ここに登場している、
安房郡長・大橋高四郎氏の震災での活動の様子は、
子細に「安房震災誌」を読むと理解でき。
関東大震災の被害の大きさにひるまない
心強い指導のあり方が示されていて。
ここにこの人がいたのだ、と知る事ができ。
これからの災害の指揮への指針を示して。
ありがたいと思わせられるのでした。


ということで、
これから語ろうとする「安房震災誌」は、
大橋高四郎氏を中心に読み進めると、
俄然、人の活躍へと眼がいきます(笑)。
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一命が助かった。

2013-11-04 | 前書・後書。
「安房震災誌」の序に、こんな箇所。

「・・・序を求められた。
就いて閲するに記事正確又凄絶、
加ふるに文章亦精錬当時の光景紙背に徹し
同情の念湧出読了に堪へぬものがある。・・・」

また前安房郡長・大橋高四郎の
「安房震災誌の初めに」には

「・・私などは一命が助かったのが、
真に奇蹟ともいふべきで、郡内の多くの死傷者に
対しては申しやうもないのである。
だが、一命が助かった。
それは無常の幸福であると共に
又大なる責任でもある。・・」

「・・今、編纂成りて当時を追憶すれば、
身はなほ大地震動の中にあるの感なきを得ない。・・」


ちなみに、「安房震災誌」は大正15年3月発行。
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兎にも角にも。

2013-11-03 | 地震
尋常高等小学校編纂という震災誌がありました。
関東大震災のあとに出たもので、あとがきにこうあります。

「・・これが被災後わずか十か月で発行されたことに、驚異と畏敬の念を禁じえない。原本は手書きのガリ版刷りで、印刷された和紙は二つ折りにして、こよりで綴じられている。そのコピーは館山市図書館に納められている。ただ、印刷が不明瞭の箇所が多く、通読は困難な故、改定版を出すことを思いたった。 ・・・・2012年新春 」

編集・発行人は田村シルト芳子。とあります。
町全体の動向を日々に印しておりますが、
ここでは、小学校について書かれている箇所を引用。

「校舎の倒壊及び校具の破損により、全く授業をなすこと能わず。而して家庭の被害の為、登校する児童、またほとんどなし。然れ共、そのままに過ぐべきにあらず、町民大多数も児童の集合授業開始を希望するに至りしかば、早くも九月十三日、震災各町村に先んじ、野外にて兎にも角にも授業を開始す。爾来、復興に努めつつ今日に至る。」(p10~11)

「職員は、震災の翌日より数里の遠方より出勤。まず死亡児童の家庭の慰問、負傷児童の見舞い、家庭訪問、これに費やす日数三日間、全壊校舎の取り片付け、運動場の整理、机、腰掛の応急修理、これに要する日数八日間。九月十三日初めて児童召集、露天教授の開始をなせり。船形公園、海辺の砂上の曳船の陰等、算術の声、読方の声、今なお記憶に新たにして、光景の眼前にちらつく心地す。
最も困難なるは、就学するに着るに着物なく、習うに教科書なしという次第にして、同情深き同胞の給与品、児童全部に教科書の配給、衣類を児童に着せしめ見送る教師、そぞろに感涙を催す。この情込めたる慰問品いかに、かの小さな児童の胸に響を与えしならん。・・・・」(p49)
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安房震災誌。

2013-11-02 | 地震
先週お金を振り込んであった
古本が、10月31日(木曜日)届く。

天牛境書店(堺市南区)
「安房震災誌」
5,000円+送料450円=5,450円

この本は、
地区地域福祉委員会で、
購入をお願いして、了承を得たもの。
その委員会よりお金がもらえます。
ということで、領収書も入れてもらう。

じっさいは、大正15年発行の非売品。
手に入れたのは、その昭和62年の復刻版。

装丁もしっかりして、
辞書をひくようにして、
手軽にページをひらけます。
ありがたい。
いちおう、私が預かり、
噛み砕いて、また委員会で
報告することに(笑)。

「それでは、いつ読むの
 といえば、今でしょ(笑)」

という地域シリーズ。
その第二弾となります。
ちなみに、
第一弾は「震災記念碑」でした。
第二弾が「安房震災誌」の予定。

この本は、
大正15年のよりも、
写真が鮮明で見やすい。
うん。使っている紙もいいし。
ページをめくるのが楽です。

ということで、
木・金曜と、この本を
パラパラと、めくっておりました。

「過去の地震と安房」の章には、
昔の日本の地震がたどられていて、
きちんと、貞観地震についても
順をおって、触れられておりました。

凡例には、こうあります。

「本書は記述の興味よりは、
事実の正確を期したので、
第一編に掲げたる諸材料の如きは、
文章も、諸表の様式も、
敢て統一の形式をとらず、
当時各町村が災害の現状そのものに
就て作成したままをなるべく
保存することに注意した。」

うん。各町村ごとに、
短いながら記述がことなり、
じっくり読むと、興味深い。
さてっと、とかく足下の記述で、
満足しがちですが、
地震は広範囲にわたります。
その地域地域での違いが、
比較して読めるので、
参考になるのでした。




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